I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

ダーウィンの顔

ダーウィンは,艦長がスイスの人相学者ヨハン・カスパル・ラヴァター(1741-1801)の影響を強く受けていたばかりに,あやうくビーグル号の航海をしそこねるところだった。ラヴァターの著作は,1772年に『人相学断章』の初版が出版されて以来広く読まれていた。この本はドイツ,フランス,イギリス,オランダで100年にわたって増刷され続けたうえ,母国スイスでは1940年になって2種類の現代版が出版され,さまざまな言語で総計151の版が刊行された。『エンサイクロペディア・ブリタニカ(大英百科事典)』の第8版にはこの本が社会に多大な影響をあたえたことが記されている。「顔から性格を判断する研究が流行しており,多くの地域で人々は顔をおおって通りを歩いている。」

レズリー・A・ゼブロウィッツ 羽田節子・中尾ゆかり(訳) (1999). 顔を読む:顔学への招待 大修館書店 pp.6

次男以下の貴族の生きる道

貴族の次男以下の男性に唯一残された選択肢は,財産を相続する立場にある女性と結婚することだった。当時は死産や幼児の死亡が多く,一家に男性の相続人が一切いないという状況がたびたび生まれた。そのような場合,女性が財産を相続したのである。こうした女性は,自分が望みさえすれば,財産をもたない男性と結婚しても差し支えなかった。そうなれば財産を持たない男性も,それを機に新たな家系を築くことができる。だが,相続権を持つ貴族の女性は,発情期のアフリカゾウのメスと同じくらい数が少ない。そこで,女性をめぐる熾烈な争いが起こった。
 貴族の息子たちは,7歳になるころにはほかの騎士の臣下となり,戦闘の訓練を始めた。戦闘に行く師に付き従ったり,鎖かたびらや鎧をまとって走ったり馬に乗ったりするなど,鍛錬に明け暮れた。そして14歳になるまでにナイト爵に叙されると,集団を作って旅をし,自分の勇敢さを証明する機会を求めてさまよった。こうした男性の主たる目的が,女性の気を引くことにあったことは疑いの余地がない。ライバルの男性を打ち負かし,貴族の女性の好意を勝ち得ることが何より重要だった。だがあいにく,大半の男性は目的を果たすことができなかった。相続権のある女性の好意を勝ち得られる男性は少なく,一般的には,30年も40年もライバルと戦い,集団のトップに上り詰めた男性に限られていた。

ダグラス・J・エムレン 山田美明(訳) (2015). 動物たちの武器:闘いは進化する エクスナレッジ pp.84-85

本質は…

ところで,戦時中の心理学者の言動や,戦後のその豹変ぶりを取り上げることに対して,批判的な人もいる。「あの時代は誰でもそうだったし,しかたがなかったのだ。それを問題にするのは大人げない」と。多分そのとおりなのだろう。私たちが問題にしたいのは,戦争という大事件がたまたま心理学者の「思想」の質を浮き彫りにさせたのにすぎないのであって,現在でもその本質はまったく変わっていないのではないか,ということである。現在の私たちにしても,国家の強権の発動のもとで,主体的な判断をし,行動がとれるか自信がない。それは,とりもなおさず,私たちもまた,彼らの息子である孫であることから,完全には抜け切れていないということである。これは少々,残念なことではないだろうか?

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.329-330

心理学と海軍

こうした大学の心理学研究室との関係がもっとも緊密であったものの1つに海軍がある。ここでも初めは,松本と田中寛一が顧問となり,指導を行なった。後には,田中と増田惟茂が嘱託となり研究を続け,東京に海軍技術研究所が設けられてからは,そこの一部門を心理学者が占めるようになった。海軍で当初要求されたのは,軍隊内における特殊な作業にいかにして実験心理学を応用すべきかということ,それに兵員などの適性選抜及び配置に関する研究であった。海軍は心理学的研究に対し,陸軍よりも熱心であったが,これは海軍の方がそれだけ専門分化が進み,技術的水準も高いものが要求されたということも一因であったろう。陸軍においても,航空関係やその他の専門性の高い部門で,心理学的実験の試みが盛んであったことも,そのことを裏書きしているようである。
 海軍の中でも,少佐安藤謐次郎は兵員及び工蔽工員に対する適材選抜を目的とするテストを作成し実施した。これは,いわゆる一般職業適性検査ではないが,特殊職業適性テストとしては初めてのものとされている。
 また淡路円次郎も海軍少年航空兵選抜のためのテストを作成したり,飛行機の操縦及び探索員の適性に関する研究を行なったりしている。
 陸軍においては,航空関係で隊員の選抜に精神検査及び実験的測定を行なっている。また軍医学校及び陸軍自動車学校では兵員の選抜や軍事的作業の練習に心理学を応用している。また,師団単位で兵員約4千人について,軍隊検査を施行し,入隊前の職業や教育程度と知能との相関関係について研究している。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.300-301

理性の結果

「そんなに理性や合理主義が正しいのであれば,キリスト教同士でなぜあれだけの殺し合いをして,20世紀にヨーロッパが2度も焦土と化したのだ?」
 また,イスラム世界では,アメリカが日本に原爆を投下したことはよく知られています。これも同じことで,ムスリムはこう問いかけます。
 「あれだけ多くの市民,とりわけ戦闘員でもない女性や子どもや高齢者を一網打尽に殺害する武器を作り,使うことが,理性の結果だというのか?」
 これらの問いに答えられる人は,どれだけいるでしょうか。

内藤正典 (2015). イスラム戦争:中東崩壊と欧米の敗北 集英社 pp.164

リバタリアン・パターナリズム

現代の時代において自制の欠如と思われるもののほとんどは,国家以前の時代の不確かな世界において祖先の神経系に組み込まれた割引率を,いまでも私たちが使っていることに原因があるのかもしれない。その時代,人間は今よりずっと若くして死に,いまのように貯蓄を運用して数年後にその利潤を得させてくれる機関も持っていなかった。経済学者たちの指摘によれば,人びとに好きなように任せておくと,まるで自分があと数年で死ぬと思っているかのように,退職後に備えての貯蓄をほとんどしないのだそうだ。この事実をもとに,リチャード・セイラーやキャス・サンスティーンといった行動経済学者は「リバタリアン・パターナリズム」を唱えている。これは,現在の私たちの価値と未来の私たちの価値との格差調整を,人びとの同意のもとに政府にやらせようという考え方だ。たとえば最適の退職貯蓄制度を,従業員が加入を表明しなくてはならない選択として用意するのではなく,従業員が脱退を表明しなくてはならないデフォルトとして用意する。あるいは売上税の負担を,最も健康に悪そうな食べ物になすりつけるといった方策である。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.398-399

セルフコントロールの成果

歴史上,最も際立っている暴力減少の1つは,ヨーロッパにおいて中世から現代までのあいだに殺人が30分の1にまで減ったことで,その功績はセルフコントロールにあると見られている。前にも述べたように,ノルベルト・エリアスの「文明化のプロセス」の理論によれば,国家統合と通商の発達は,インセンティブ構造を略奪から脱却させただけにとどまらない。これらは,節度と礼儀正しさを第二の天性にするセルフコントロールの倫理を植えつけたのだ。人びとは夕食の席で刃物を向け合ったり,互いの鼻をそぎ落としあったりするのを控えるようになると同時に,クローゼットで小便するのも,人前で性交するのも,夕食の席で放屁するのも,骨付き肉にしゃぶりついて,しゃぶったあとの骨を盛り皿に戻すのも控えるようになった。かつての名誉の文化では,男たちは侮辱に食ってかかることで尊敬を得ていたが,それも尊厳の文化に変わって,男たちは自分の衝動を制御できることで尊敬を得るようになった。先進国では1960年代,発展途上国では植民地の解放のあとなどに,暴力減少が反転する時期があったが,やはりそのときにはセルフコントロールの価値判断の反転がともなっていて,規律を重んじる老人よりも,衝動的な若者の勢いが勝っていたのだった。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.395

菜食主義と人道主義

しかし,菜食主義と人道主義が仲良く調和するどんな制度も,20世紀のナチ支配下での動物の扱いによって,壊滅的に粉砕された。ヒトラーとその腹心たちは,菜食主義者を自称していた。しかしそれは動物への哀れみからというよりも,異常なまでの純潔さの追求からであり,大地とふたたびつながろうとする汎神論的な切望からであり,ユダヤ教の人間中心主義と肉食の儀式に対する反発からであった。人間はここまで道徳観を使い分けられるものなのかと感心するが,ナチは言語道断の人体実験を行っておきながら,その一方で,それまでヨーロッパにあったどんな法よりも厳格な研究動物保護法を制定した。それらの法では,農場や映画のセットなどにおいても動物に人道的な扱いをすることが定められ,レストランでは調理をする前に魚を麻痺させること,ロブスターを即死させることが義務づけられた。動物の権利の歴史にこの奇妙な一章が差し挟まれて以来,菜食主義の唱道者は,自分たちの最も昔からの主張を引っ込めざるを得なくなった。肉食は人を攻撃的にし,肉食の節制は人を平和的にする,という言い分はもはや通用しなくなったのだ。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.156-157

子どもの理解の変化

子どもがどのように扱われたかが,どのような大人に成長するかを決定するのだという考えは,今日の一般的な社会通念だが,当時はとても新しい考え方だった。ロックの同時代人,および後継者の何人かは,人生の形成期というものを人々に思い出させるためにメタファーに頼った。ジョン・ミルトンは,「幼少期の人間は1日のうちの朝にたとえられる」と書いた。アレキサンダー・ポープは,この相関関係を因果関係にまで高め,「若枝が曲がれば木もそのように傾く」と書いた。そしてウィリアム・ワーズワースは,幼少期のたとえそのものをひっくり返して,「子どもは大人の父である」と詠った。こうした新しい理解は,人々に子どもの扱いの道徳的な意味,実際的な意味についての再考を求めた。子どもを叩くことはもはや悪魔祓いとは言えなくなり,もとは無作法な行動の頻度を減らすことを目的として設計された,行動修正の手法ですらなくなった。幼少期のしつけでどういう大人に育つかが決まるのだから,そのしつけの結果が,予見されるにせよされないにせよ,未来の文明のあり方を変えることになるのだと考えられた。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.105

体罰の歴史

容赦ない体罰は何世紀ものあいだ,普通に行われていた。ある調査によると,18世紀後半には,アメリカの子どもの100パーセントがステッキや鞭などのさまざまな道具で叩かれていた。そして子どもは法体系によっても罰される責任を有するとされていた。19世紀まで,イギリスの法は「7歳から14歳の子どもに悪意の確たる証拠」がある場合に死刑を認めていたし,死刑の最低年齢が18歳に引き上げられた1908年までは,10代の多くの子どもが放火や押し込みなどの微罪で吊るされつづけていた。20世紀の変わり目になっても,ドイツの子どもたちは「素直でないと,定期的に,猛烈に熱い鉄のストーブの前に座らされたり,寝台の支柱に何日も縛りつけられたり,冷たい水や雪のなかに投げ入れられたりして『強化』され,[また]親が食事や読書をしているあいだ,毎日何時間も強制的に壁に向かって丸太のうえで正座させられていた」。トイレトレーニングのあいだも多くの子どもたちは浣腸で苦しめられ,学校では「皮膚から湯気が出るまで叩かれた」。
 苛酷な扱いはヨーロッパに限ったことではない。子どもを叩くのは古代のエジプトやシュメール,バビロニア,ペルシア,ギリシア,ローマ,中国,メキシコのアステカ族の記録にも残っている。たとえばアステカ族の罰には,「イバラで突き刺したり,子どもの両手を縛って先のとがったアガーベの葉で突いたり,鞭で叩いたり,火にかけたコショウのうえに吊るして刺激臭のある煙を吸い込ませたりすることまで」含まれていた。デモースによれば,20世紀に入ってからでさえ,日本の子どもたちは「日常的な体罰として叩かれたり灸をすえられたり,定期的な浣腸で残酷な腸の訓練をさせられたり……蹴られたり,逆さ吊りにされたり,冷水を浴びせられたり,首を絞められたり,体に針を通されたり,指関節を外されたりしていた」(歴史家であると同時に精神分析学者でもあるデモースは,第二次世界大戦時の残虐行為を説明するための素材をたくさん持っていた)。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.99-100

子殺しの歴史

人類学者のライラ・ウィリアムソンによる各文化の調査から,子殺しは,あらゆる大陸のあらゆる種類の社会において行われてきたことがわかっている。これは非国家の狩猟採集集団や村落(その77パーセントは容認された子殺し習慣を持っている)に限らず,先進的な文明社会でも起こってきたことだ。近年まで,世界中の赤ん坊の10パーセントから15パーセントは生後すぐに殺され,一部の社会ではその数字が50パーセントにも達していた。歴史研究者のロイド・デモースの言葉を借りれば,「どんな国家も,もとをたどれば子どもを生贄にしていた。どんな宗教も,最初は子どもを切り刻んだり殺したりするところから始まった」のである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.74

将来の予想

私はこれまで予言をすることには慎重を期してきたが,女性への暴力は今後数十年のうちに全世界で減少する可能性が非常に高いと思う。この圧力は,上から下へも,下から上へも,かけられていくだろう。上の部分では,女性への暴力が世界に残っている最も火急の人権問題であるというコンセンサスが国際社会のなかで形成されてきている。女性に対する暴力撤廃の国際デー(11月25日)などの象徴的な取り組みをはじめ,国連やその加盟国のような公職の権威からの無数の宣言もなされている。そうした手段に強制力はないが,奴隷制や捕鯨や海賊行為や私掠船巡航や化学兵器やアパルトヘイトや大気圏内核実験に対する糾弾の歴史が,国際的に辱めを与える運動はいずれ長い年月のうちに効果を生むことを示している。国際女性開発基金の事務局長が言っていたように,「現在では,かつてないほどの国家的な計画や政策や法律が整備されており,政府間領域でも勢いが高まっている」のである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.72

テロは今世紀の問題ではない

テロが21世紀の現象だと考える人がいたら,記憶力にいささか問題がある。1960〜70年代には政治的暴力の嵐が吹き荒れ,さまざまな軍隊や同盟,連合,旅団,分派,戦線などによる何百回もの爆撃,ハイジャック,狙撃が行われた。当時,アメリカでは黒人解放軍,ユダヤ防衛同盟,ウェザー・アンダーグラウンド(「ウェザーマン」とも呼ばれ,ボブ・ディランの曲の歌詞「風向きを知るのに予報官(ウェザーマン)はいらない」から命名された),プエルトリコ民族解放軍(FALN),シンバイオニーズ解放軍(SLA)などの過激派組織が活動していた。SLAは,70年代に起きた現実離れした事件の1つを起こしたことで知られる。1974年,SLAは新聞王の娘パティ・ハーストを誘拐し,洗脳された末にメンバーとなったパティは「タニヤ」という名を与えられ,銀行強盗にも加担した。7つの頭を持つコブラが描かれたSLAの旗を背に,ベレー帽に機関銃という戦闘姿でポーズをとる彼女の写真は,ニクソン大統領がホワイトハウスを去る際にヘリコプターから別れの挨拶する写真や,白いポリエステルのディスコスーツにドライヤーでセットしたヘアスタイルのビージーズの写真とともに,70年代を象徴する画像の1つとなった。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.602-603

20世紀の暴力という神話

またこのリストを見ると,19世紀は平和だったが,20世紀には組織的暴力が飛躍的にエスカレートしたという,これまでの一般通念が誤りであることがわかる。第1に,それが成り立つには,19世紀初頭に甚大な被害を出したナポレオン戦争を除外しなければならない。第2に,ナポレオン戦争後に一時的な平和が続いたのはヨーロッパだけの話であり,ほかの地域に目を向ければ,いたるところでヘモクリズムがあった。中国の太平天国の乱(おそらく史上最悪の内戦である宗教的反乱),アフリカの奴隷貿易,アジア・アフリカ・南太平洋における帝国主義戦争,そしてリスト入りしていない2つの大虐殺——アメリカの南北戦争(死者65万人),1816年から1827年にかけて100万から200万人の死者を出したズールー王国のヒトラー,シャカ王によるアフリカ南部征服など。まだ忘れている大陸があるだろうか。そう,南米大陸だ。南米大陸でも数多くの戦争が起こったが,なかでも死者40万人を出し,パラグアイの人口の60パーセント以上が失われた三国同盟戦争は,比率からいえば近代における最も破壊的な戦争である。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.360

ハンの人生の快楽

モンゴル帝国初代皇帝チンギス・ハンにとって,人生の快楽とは次のようなものだった。「男にとって最大の歓びは,敵を征服し駆逐することだ。彼らの馬に乗り,財産を奪い,彼らの愛する者が涙を流すのを見ること,彼らの妻や娘を抱くことだ」。それがただの大言壮語ではなかったことを,現代の遺伝学は証明している。今日,かつてのモンゴル帝国の版図に住む男性の8パーセントは,チンギス・ハンの時代にまで遡る同一のY染色体をもっており,このことは,それらの男性がチンギス・ハンやその息子たち,そして彼らに抱かれた多数の女性たちの子孫であることを示している可能性が高い。これに勝る手柄をあげるのはかなりむずかしそうだが,モンゴル帝国の再興を試みたテュルク人のティムール(別称タメルラン)は健闘している。ティムールは西アジアの都市を征服するたびに何万人もの捕虜を殺害し,記念として頭蓋骨で尖塔を立てた。あるシリア人は,1500個の頭蓋骨でできた塔を28も目撃したという。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.359-360

債務奴隷

奴隷制と近い関係にあるのが債務奴隷である。聖書の時代や古代以降,借りた金を返済できなかった者は奴隷にされたり,投獄されたり,処刑されたりしてきた。「厳格な」「苛酷な」という意味の形容詞 draconian の語源は古代ギリシアの立法官ドラコンだが,ドラコンは紀元前621年に債務返済不能になった者を奴隷とする法を制定した人物だ。『ヴェニスの商人』で,借金を期日までに返せなかったアントニオがシャイロックに肉を切り取られそうになるのもこの債務奴隷と関連する。16世紀には債務不履行に陥っても奴隷にされたり処刑されることはなくなったが,債務者監獄は大勢の人であふれていた。無一文であるにもかかわらず食べ物は有料の場合もあり,債務者たちは監獄の窓から通行人に物乞いをして何とか生き延びるしかなかった。19世紀初頭のアメリカでも,女性を含む何千人もの人びとが債務者監獄で悲惨な生活を送っていたが,その半数の借金は10ドルにも満たなかった。1830年代になると,債務奴隷に反対する改革運動が起こり,奴隷制廃止運動がそうだったように人びとの理性と感情の両方に訴えた。議会の委員会では,「たとえどんな場合であれ,債権者に債務者の身体を支配する権力を与えること」は正義の原則に反するとの見解が出された。委員会はこうも表明している。「もしあらゆる弾圧の犠牲者が,その破滅的運命に関わった妻や子,友人たちとともに1つの集合体としてわれわれの目の前にあらわれたとしたら,それは全人類が恐怖で身震いするほどの光景となるだろう」。債務奴隷は1820年から40年の間にほとんどすべての南北アメリカの国家で,1860年から70年の間にほとんどのヨーロッパの国家で廃止された。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.290-291

奴隷貿易

アフリカの奴隷貿易の残酷さは,人類史のなかでも際立っている。16世紀から19世紀にかけて,少なくとも150万人のアフリカ人が大西洋を航海する奴隷船で死亡した。奴隷たちは鎖でつながれ,息が詰まるような悪臭と汚物の充満する船倉に押し込められていた。ある記録によれば,「港に着くまで生き延びた者は言語を絶するほどの悲惨な姿を呈していた」という。さらにジャングルや砂漠を歩いて沿岸部や中東の奴隷市場に連れて行かれるまでの間にも,何百万人もの奴隷が死亡した。奴隷業者はさながら氷の売買のように奴隷を扱い,輸送の途中で商品の一部が失われることは織り込み済みだった。奴隷貿易では少なくとも1700万人,最大で5600万人ものアフリカ人が死亡したと考えられる。奴隷貿易は輸送中に奴隷の命を奪っただけでなく,途切れることなく奴隷を供給することによって,奴隷所有者が奴隷を死ぬまで酷使し,足りなくなれば新しい奴隷を補充できるようにした。たとえ比較的良好な健康状態を保つことができた場合でも,奴隷たちは鞭打たれての労働やレイプ,四肢切断,家族との離別,簡易死刑などの恐怖に怯えながら生活しなければならなかった。
 奴隷所有者が奴隷に対して個人的に親密な感情を抱くようになり,自らの意志で奴隷を解放することも少なくなかった。また中世ヨーロッパのように,奴隷制が農奴制や小作制度へと移行する場合もあった。奴隷を拘束状態に置いておくより税金を課した方が安上がりだったり,弱小の国家では奴隷所有者の財産権を行使できなかったりしたからだ。だが制度としての奴隷制に反対する大衆運動が起きたのは18世紀になってからであり,その後奴隷制は急速にほぼ消滅に近い状態へと追いやられた。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.286-287

拷問から収監へ

16世紀末までに,イングランドとオランダでは軽微な犯罪の罰として,拷問や四肢切断に代わって刑務所への収監が行われるようになった。だが,状況はさほど大きく改善されたわけではない。囚人は自分の食べ物や服,藁を自分で買わねばならず,もし本人にも家族にも払う能力がなければそれらは支給されない。また金を出さないと,内側にトゲの付いた鉄の首輪や,足を床に固定する鉄の棒を外してもらえないという慣行もあった。ネズミなどの害獣や害虫,暑さと寒さ,排泄物,腐った食べ物……これらは単に獄中生活を悲惨なものにしただけでなく,疫病を蔓延させ,刑務所を事実上の死の収容所にした。ろくに食べ物を与えられていない囚人たちが,起きている時間のほとんどを木のやすりがけや石割り,踏み車を踏むなどの労働を強制される刑務所も少なくなかった。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.275-276

文明化のプロセス

では最近の犯罪率低下は,どう説明できるのだろうか?多くの社会科学者が説明を試みているが,せいぜいそれには複数の原因があるという結論にとどまっている。しかもあまりにも多くのことが同時に起きたため,それらが具体的に何なのかは誰も明確にしていない。しかし私は2つの包括的な説明が可能だと考えている。第1に,リヴァイアサンがより大きく,賢明で効率的になったこと。第2に,1960年代のカウンターカルチャーが逆転させようとした文明化のプロセスが,ふたたび前向きに進みはじめたことだ。それどころか,文明化のプロセスは新しい段階に入ったように見える。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.231

失業より格差

数ある経済尺度のなかで,一般に犯罪と関係の深いのは失業より格差である。だが所得分配の不平等さの指標であるジニ係数は,犯罪率が低下した1990年から2000年までの間に上昇しており,犯罪が急増していた1968年には,反対に最低の数字を記録している。暴力犯罪の発生件数の変化を経済格差で説明することの問題は,それが異なる州や国の間での比較には有効である一方,1つの州や国のなかでの時間的変化には適合しないことだ。おそらく国や統治や文化のもつ固定的な特性にあり,それが格差と暴力の両方に影響を与えるのだと考えられる(たとえば貧富の差の大きい社会では,貧困地区に警察の保護が行き渡らないため,暴力事件の巣窟となる可能性があるなど)。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.227

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