I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

骨相学と脳科学

人間の行動についての,脳に関連した主要な理論はいくつもあるが,最初期のものの一つが骨相学だ。骨相学は,1800年代にヨーロッパとアメリカ全土に広まった。高い評価を得ていたドイツの解剖学者フランツ・ヨーゼフ・ガルが開発した骨相学は,脳機能と人間行動の科学の構築を試みた。ガルは,心は完全に脳内部にあると信じていた。骨相学者は,機知や好奇心の強さ,情け深さといった何十もの特性を反映しているという触れ込みの頭蓋骨の凹凸を検査することで性格を「読んだ」。よく発達した器官は,頭蓋骨の当該領域を内側から押し,外表面を隆起させるとガルは考えた。対照的に,頭蓋骨の窪みは,とりわけ脆弱な器官の証で,そうした機関は正常な大きさに成長しそこないはしたものの,筋肉と同じで,鍛えれば発達させられるという。当時の人々は自分の生まれつきの才能を知り,自分の脳に最適の種類の仕事や人生の伴侶に関する助言を受けるために,繰り返し骨相学者に診てもらった。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.41

X線

脳画像法の起源をはるかにたどっていくと,最初期の祖先として,1895年にドイツの物理学者ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンが発明したX線技術に行き着く。今や有名な,最初のX線写真には,彼の妻の左手の骨が写っており,5本の指の4本目には太い結婚指輪がはまっている。それまで隠されていたものを可視化するというレントゲンの変換に,大西洋の両側で人々は熱狂した。シカゴとニューヨークとパリのデパートに,硬貨投入式のX線装置が設置され,客が自分の手の骨格の解剖学的構造をわが目で見られるようになった。自分の骨を目にして気絶する人もときおり出た。パリの医師イポリット=フェルディナン・バラデュックは,X線を使って自分の考えや感情を写真に撮れるとさえ主張した。彼はでき上がった写真を「プシコン(心の画像)」と呼んだ。もちろんX線は脳が相手では役に立たず,ましてや心が写せるはずもない。頭蓋骨が厚すぎて,簡単には透過できないからだ。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.33

証明されていない

さて,以上の3例をみてもわかるように,現在,耳塚・鼻塚と伝承されている史跡には,考古学的に耳塚・鼻塚と証明されているものは一例もなく,いずれも文献的にも戦国期まで遡ることができないものばかりであった。また場合によっては,民族調査の結果,近代以降に耳塚としての伝承が創出されたと思しきものすらあり,やはり現時点では,これらの伝承から史実を導き出すのには慎重にならざるをえない。もちろん,私自身,まだ全国すべての耳塚・鼻塚の調査を行ったわけではない。だから,同じ耳塚。鼻塚でも,ここで検討素材としたもの以外については,なんらかの戦国の史実を反映している可能性も依然として皆無ではない。文献的に遡るのは無理だとしても,今後,考古学調査の進展などによって解明が進むこともありえるだろう。安易に虚構と決めつけることなく,それらの真偽の検討は今後の課題としたいが,とりあえず現時点では,多くの伝承をそのまま鵜呑みにすることはできないことを指摘しておきたい。

清水隆志 (2015). 耳鼻削ぎの日本史 洋泉社 pp.198-199

逆効果

実際,戦略的にみても,真剣に朝鮮半島を征服して,その地の人民を永続的に支配しようと考えるならば,その彼らに対して耳鼻削ぎを行うというのは明らかに逆効果である。むしろ朝鮮民族に憎悪と敵意を植えつけ,敵側に走らせる軽率な行為だったといわざるをえない。耳鼻削ぎの<文化>を共有しない人々の目に,それがどれほど冷酷非情な行為に映るかという想像力を欠いたまま,耳鼻削ぎの<文化>は海を越えて持ち出されてしまったのである。

清水隆志 (2015). 耳鼻削ぎの日本史 洋泉社 pp.138

朝鮮出兵と鼻削ぎ

ここまで彼らが秀吉の指示に忠実に従い,空前の規模で鼻削ぎを行っていたのには訳があった。戦国時代の日本の戦場では,戦闘地域の住人を兵士が拉致して売り飛ばす「人取り」が一般的に行われていた。侵攻してきた大名の立場からすれば,そうした行為は占領地域の荒廃につながるので,決して歓迎できることではなかったが,一方で兵士たちはそうした「人取り」や掠奪目当てで従軍しているところがあったため,むげに禁ずることもできなかった。それは朝鮮出兵でも同じであって,この出兵で多くの朝鮮人陶工が日本軍によって拉致され,のちに彼らがそのまま日本に定住し,有田焼・薩摩焼・唐津焼の始祖となったという話は有名だった。
 首級のかわりに鼻験をせよという秀吉の指示は,そうした当時の戦場の現実を踏まえ,じつに念の入ったものだった。秀吉は,集めた鼻験が枡一杯分になった者から「生擒せしむるを許す」,つまり住民の生け捕りを認めたのである(『乱中雑録』丁酉七月,『看羊録』)。実際,加藤清正はそれに従い,配下の兵士に1人につき鼻験3つを集めてくるようにとのノルマを課している(『清正高麗陣覚書』)。秀吉は彼らの物欲を解放する交換条件として,鼻験進上のノルマを課したのである。当然,このノルマを果たそうとする者のなかには,さきほどのように,平気で数合わせのために女・子どもといった非戦闘員を襲う者もあっただろう。あるいは,これもすでに述べたように,生きた朝鮮人から鼻だけを削いで数合わせをしようとする者まで現れていた。その結果,戦後の朝鮮では「その後,数十年間,本国の路上に鼻無き者,はなはだ多し」という異常事態が出現していた(『乱中雑録』丁酉七月)。

清水隆志 (2015). 耳鼻削ぎの日本史 洋泉社 pp.135-136

首の代用

まず明らかなのは,鼻や耳はあくまで首の代用品であり,基本的には戦功の証拠は首のほうが望ましいということだろう。それは《事例2》の剣使役・中山修理介が鼻をもって戦功認定することを原則的に禁じていたことからもうかがえるし,《事例6》で森長可の首を手に入れた本多八蔵が森の眉間に弾痕があったため,しかたなく鼻を削いだことからもうかがえる。また,《事例9》で浅野長継からの添状では耳鼻のことに言及しても,肝心の秀吉書状では耳鼻についてはふれていないことや,《事例11》で伊達政宗が一揆の衆の鼻を南部家に届けるさいに首ではないことについて文句を言われることを警戒しているのも同様だろう。耳や鼻は,あくまで首を本陣に持参できないときの代用品だったのである。

清水隆志 (2015). 耳鼻削ぎの日本史 洋泉社 pp.115-116

なぜ課されるのか

ではあらためて,なぜ中世において女性には耳鼻削ぎが課せられるのか?この問いに対する答えは,ここまで来れば,読者にはほぼみえてきたのではないだろうか。つまり,女性が耳鼻削ぎにされる理由については,当時の社会に広まっていた2つの通念が基礎にあった。1つは,中世社会では耳鼻を削ぐことが死刑に準じるものだとして,死一等を減じた場合,その者は耳鼻削ぎにするのがふさわしいとする通念。そして,もう1つは,女性の殺害を忌避し,女性の刑罰は軽減されるべきだという通念。この2つの通念があわさって,日本中世社会においては,罪を犯した女性は耳鼻削ぎに処されていた(処されるべきと考えられていた)のである。

清水隆志 (2015). 耳鼻削ぎの日本史 洋泉社 pp.70-71

女性に対する刑罰

こうなれば,断言しよう。日本中世社会において,耳鼻削ぎは女性に対する刑罰だったのである。一般に中世社会では一般に中世社会では罰刑法定主義が未確立で,特定の罰が特定の罪に対応するということはほとんどない。ところが,これまでの事例からも明らかなように,当時の社会では耳鼻削ぎ刑だけは女性に対する刑罰という認識が浸透していたのだ。

清水隆志 (2015). 耳鼻削ぎの日本史 洋泉社 pp.48-49

ダーウィンの顔

ダーウィンは,艦長がスイスの人相学者ヨハン・カスパル・ラヴァター(1741-1801)の影響を強く受けていたばかりに,あやうくビーグル号の航海をしそこねるところだった。ラヴァターの著作は,1772年に『人相学断章』の初版が出版されて以来広く読まれていた。この本はドイツ,フランス,イギリス,オランダで100年にわたって増刷され続けたうえ,母国スイスでは1940年になって2種類の現代版が出版され,さまざまな言語で総計151の版が刊行された。『エンサイクロペディア・ブリタニカ(大英百科事典)』の第8版にはこの本が社会に多大な影響をあたえたことが記されている。「顔から性格を判断する研究が流行しており,多くの地域で人々は顔をおおって通りを歩いている。」

レズリー・A・ゼブロウィッツ 羽田節子・中尾ゆかり(訳) (1999). 顔を読む:顔学への招待 大修館書店 pp.6

次男以下の貴族の生きる道

貴族の次男以下の男性に唯一残された選択肢は,財産を相続する立場にある女性と結婚することだった。当時は死産や幼児の死亡が多く,一家に男性の相続人が一切いないという状況がたびたび生まれた。そのような場合,女性が財産を相続したのである。こうした女性は,自分が望みさえすれば,財産をもたない男性と結婚しても差し支えなかった。そうなれば財産を持たない男性も,それを機に新たな家系を築くことができる。だが,相続権を持つ貴族の女性は,発情期のアフリカゾウのメスと同じくらい数が少ない。そこで,女性をめぐる熾烈な争いが起こった。
 貴族の息子たちは,7歳になるころにはほかの騎士の臣下となり,戦闘の訓練を始めた。戦闘に行く師に付き従ったり,鎖かたびらや鎧をまとって走ったり馬に乗ったりするなど,鍛錬に明け暮れた。そして14歳になるまでにナイト爵に叙されると,集団を作って旅をし,自分の勇敢さを証明する機会を求めてさまよった。こうした男性の主たる目的が,女性の気を引くことにあったことは疑いの余地がない。ライバルの男性を打ち負かし,貴族の女性の好意を勝ち得ることが何より重要だった。だがあいにく,大半の男性は目的を果たすことができなかった。相続権のある女性の好意を勝ち得られる男性は少なく,一般的には,30年も40年もライバルと戦い,集団のトップに上り詰めた男性に限られていた。

ダグラス・J・エムレン 山田美明(訳) (2015). 動物たちの武器:闘いは進化する エクスナレッジ pp.84-85

本質は…

ところで,戦時中の心理学者の言動や,戦後のその豹変ぶりを取り上げることに対して,批判的な人もいる。「あの時代は誰でもそうだったし,しかたがなかったのだ。それを問題にするのは大人げない」と。多分そのとおりなのだろう。私たちが問題にしたいのは,戦争という大事件がたまたま心理学者の「思想」の質を浮き彫りにさせたのにすぎないのであって,現在でもその本質はまったく変わっていないのではないか,ということである。現在の私たちにしても,国家の強権の発動のもとで,主体的な判断をし,行動がとれるか自信がない。それは,とりもなおさず,私たちもまた,彼らの息子である孫であることから,完全には抜け切れていないということである。これは少々,残念なことではないだろうか?

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.329-330

心理学と海軍

こうした大学の心理学研究室との関係がもっとも緊密であったものの1つに海軍がある。ここでも初めは,松本と田中寛一が顧問となり,指導を行なった。後には,田中と増田惟茂が嘱託となり研究を続け,東京に海軍技術研究所が設けられてからは,そこの一部門を心理学者が占めるようになった。海軍で当初要求されたのは,軍隊内における特殊な作業にいかにして実験心理学を応用すべきかということ,それに兵員などの適性選抜及び配置に関する研究であった。海軍は心理学的研究に対し,陸軍よりも熱心であったが,これは海軍の方がそれだけ専門分化が進み,技術的水準も高いものが要求されたということも一因であったろう。陸軍においても,航空関係やその他の専門性の高い部門で,心理学的実験の試みが盛んであったことも,そのことを裏書きしているようである。
 海軍の中でも,少佐安藤謐次郎は兵員及び工蔽工員に対する適材選抜を目的とするテストを作成し実施した。これは,いわゆる一般職業適性検査ではないが,特殊職業適性テストとしては初めてのものとされている。
 また淡路円次郎も海軍少年航空兵選抜のためのテストを作成したり,飛行機の操縦及び探索員の適性に関する研究を行なったりしている。
 陸軍においては,航空関係で隊員の選抜に精神検査及び実験的測定を行なっている。また軍医学校及び陸軍自動車学校では兵員の選抜や軍事的作業の練習に心理学を応用している。また,師団単位で兵員約4千人について,軍隊検査を施行し,入隊前の職業や教育程度と知能との相関関係について研究している。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.300-301

理性の結果

「そんなに理性や合理主義が正しいのであれば,キリスト教同士でなぜあれだけの殺し合いをして,20世紀にヨーロッパが2度も焦土と化したのだ?」
 また,イスラム世界では,アメリカが日本に原爆を投下したことはよく知られています。これも同じことで,ムスリムはこう問いかけます。
 「あれだけ多くの市民,とりわけ戦闘員でもない女性や子どもや高齢者を一網打尽に殺害する武器を作り,使うことが,理性の結果だというのか?」
 これらの問いに答えられる人は,どれだけいるでしょうか。

内藤正典 (2015). イスラム戦争:中東崩壊と欧米の敗北 集英社 pp.164

リバタリアン・パターナリズム

現代の時代において自制の欠如と思われるもののほとんどは,国家以前の時代の不確かな世界において祖先の神経系に組み込まれた割引率を,いまでも私たちが使っていることに原因があるのかもしれない。その時代,人間は今よりずっと若くして死に,いまのように貯蓄を運用して数年後にその利潤を得させてくれる機関も持っていなかった。経済学者たちの指摘によれば,人びとに好きなように任せておくと,まるで自分があと数年で死ぬと思っているかのように,退職後に備えての貯蓄をほとんどしないのだそうだ。この事実をもとに,リチャード・セイラーやキャス・サンスティーンといった行動経済学者は「リバタリアン・パターナリズム」を唱えている。これは,現在の私たちの価値と未来の私たちの価値との格差調整を,人びとの同意のもとに政府にやらせようという考え方だ。たとえば最適の退職貯蓄制度を,従業員が加入を表明しなくてはならない選択として用意するのではなく,従業員が脱退を表明しなくてはならないデフォルトとして用意する。あるいは売上税の負担を,最も健康に悪そうな食べ物になすりつけるといった方策である。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.398-399

セルフコントロールの成果

歴史上,最も際立っている暴力減少の1つは,ヨーロッパにおいて中世から現代までのあいだに殺人が30分の1にまで減ったことで,その功績はセルフコントロールにあると見られている。前にも述べたように,ノルベルト・エリアスの「文明化のプロセス」の理論によれば,国家統合と通商の発達は,インセンティブ構造を略奪から脱却させただけにとどまらない。これらは,節度と礼儀正しさを第二の天性にするセルフコントロールの倫理を植えつけたのだ。人びとは夕食の席で刃物を向け合ったり,互いの鼻をそぎ落としあったりするのを控えるようになると同時に,クローゼットで小便するのも,人前で性交するのも,夕食の席で放屁するのも,骨付き肉にしゃぶりついて,しゃぶったあとの骨を盛り皿に戻すのも控えるようになった。かつての名誉の文化では,男たちは侮辱に食ってかかることで尊敬を得ていたが,それも尊厳の文化に変わって,男たちは自分の衝動を制御できることで尊敬を得るようになった。先進国では1960年代,発展途上国では植民地の解放のあとなどに,暴力減少が反転する時期があったが,やはりそのときにはセルフコントロールの価値判断の反転がともなっていて,規律を重んじる老人よりも,衝動的な若者の勢いが勝っていたのだった。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.395

菜食主義と人道主義

しかし,菜食主義と人道主義が仲良く調和するどんな制度も,20世紀のナチ支配下での動物の扱いによって,壊滅的に粉砕された。ヒトラーとその腹心たちは,菜食主義者を自称していた。しかしそれは動物への哀れみからというよりも,異常なまでの純潔さの追求からであり,大地とふたたびつながろうとする汎神論的な切望からであり,ユダヤ教の人間中心主義と肉食の儀式に対する反発からであった。人間はここまで道徳観を使い分けられるものなのかと感心するが,ナチは言語道断の人体実験を行っておきながら,その一方で,それまでヨーロッパにあったどんな法よりも厳格な研究動物保護法を制定した。それらの法では,農場や映画のセットなどにおいても動物に人道的な扱いをすることが定められ,レストランでは調理をする前に魚を麻痺させること,ロブスターを即死させることが義務づけられた。動物の権利の歴史にこの奇妙な一章が差し挟まれて以来,菜食主義の唱道者は,自分たちの最も昔からの主張を引っ込めざるを得なくなった。肉食は人を攻撃的にし,肉食の節制は人を平和的にする,という言い分はもはや通用しなくなったのだ。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.156-157

子どもの理解の変化

子どもがどのように扱われたかが,どのような大人に成長するかを決定するのだという考えは,今日の一般的な社会通念だが,当時はとても新しい考え方だった。ロックの同時代人,および後継者の何人かは,人生の形成期というものを人々に思い出させるためにメタファーに頼った。ジョン・ミルトンは,「幼少期の人間は1日のうちの朝にたとえられる」と書いた。アレキサンダー・ポープは,この相関関係を因果関係にまで高め,「若枝が曲がれば木もそのように傾く」と書いた。そしてウィリアム・ワーズワースは,幼少期のたとえそのものをひっくり返して,「子どもは大人の父である」と詠った。こうした新しい理解は,人々に子どもの扱いの道徳的な意味,実際的な意味についての再考を求めた。子どもを叩くことはもはや悪魔祓いとは言えなくなり,もとは無作法な行動の頻度を減らすことを目的として設計された,行動修正の手法ですらなくなった。幼少期のしつけでどういう大人に育つかが決まるのだから,そのしつけの結果が,予見されるにせよされないにせよ,未来の文明のあり方を変えることになるのだと考えられた。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.105

体罰の歴史

容赦ない体罰は何世紀ものあいだ,普通に行われていた。ある調査によると,18世紀後半には,アメリカの子どもの100パーセントがステッキや鞭などのさまざまな道具で叩かれていた。そして子どもは法体系によっても罰される責任を有するとされていた。19世紀まで,イギリスの法は「7歳から14歳の子どもに悪意の確たる証拠」がある場合に死刑を認めていたし,死刑の最低年齢が18歳に引き上げられた1908年までは,10代の多くの子どもが放火や押し込みなどの微罪で吊るされつづけていた。20世紀の変わり目になっても,ドイツの子どもたちは「素直でないと,定期的に,猛烈に熱い鉄のストーブの前に座らされたり,寝台の支柱に何日も縛りつけられたり,冷たい水や雪のなかに投げ入れられたりして『強化』され,[また]親が食事や読書をしているあいだ,毎日何時間も強制的に壁に向かって丸太のうえで正座させられていた」。トイレトレーニングのあいだも多くの子どもたちは浣腸で苦しめられ,学校では「皮膚から湯気が出るまで叩かれた」。
 苛酷な扱いはヨーロッパに限ったことではない。子どもを叩くのは古代のエジプトやシュメール,バビロニア,ペルシア,ギリシア,ローマ,中国,メキシコのアステカ族の記録にも残っている。たとえばアステカ族の罰には,「イバラで突き刺したり,子どもの両手を縛って先のとがったアガーベの葉で突いたり,鞭で叩いたり,火にかけたコショウのうえに吊るして刺激臭のある煙を吸い込ませたりすることまで」含まれていた。デモースによれば,20世紀に入ってからでさえ,日本の子どもたちは「日常的な体罰として叩かれたり灸をすえられたり,定期的な浣腸で残酷な腸の訓練をさせられたり……蹴られたり,逆さ吊りにされたり,冷水を浴びせられたり,首を絞められたり,体に針を通されたり,指関節を外されたりしていた」(歴史家であると同時に精神分析学者でもあるデモースは,第二次世界大戦時の残虐行為を説明するための素材をたくさん持っていた)。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.99-100

子殺しの歴史

人類学者のライラ・ウィリアムソンによる各文化の調査から,子殺しは,あらゆる大陸のあらゆる種類の社会において行われてきたことがわかっている。これは非国家の狩猟採集集団や村落(その77パーセントは容認された子殺し習慣を持っている)に限らず,先進的な文明社会でも起こってきたことだ。近年まで,世界中の赤ん坊の10パーセントから15パーセントは生後すぐに殺され,一部の社会ではその数字が50パーセントにも達していた。歴史研究者のロイド・デモースの言葉を借りれば,「どんな国家も,もとをたどれば子どもを生贄にしていた。どんな宗教も,最初は子どもを切り刻んだり殺したりするところから始まった」のである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.74

将来の予想

私はこれまで予言をすることには慎重を期してきたが,女性への暴力は今後数十年のうちに全世界で減少する可能性が非常に高いと思う。この圧力は,上から下へも,下から上へも,かけられていくだろう。上の部分では,女性への暴力が世界に残っている最も火急の人権問題であるというコンセンサスが国際社会のなかで形成されてきている。女性に対する暴力撤廃の国際デー(11月25日)などの象徴的な取り組みをはじめ,国連やその加盟国のような公職の権威からの無数の宣言もなされている。そうした手段に強制力はないが,奴隷制や捕鯨や海賊行為や私掠船巡航や化学兵器やアパルトヘイトや大気圏内核実験に対する糾弾の歴史が,国際的に辱めを与える運動はいずれ長い年月のうちに効果を生むことを示している。国際女性開発基金の事務局長が言っていたように,「現在では,かつてないほどの国家的な計画や政策や法律が整備されており,政府間領域でも勢いが高まっている」のである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.72

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