忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

朝鮮出兵と鼻削ぎ

ここまで彼らが秀吉の指示に忠実に従い,空前の規模で鼻削ぎを行っていたのには訳があった。戦国時代の日本の戦場では,戦闘地域の住人を兵士が拉致して売り飛ばす「人取り」が一般的に行われていた。侵攻してきた大名の立場からすれば,そうした行為は占領地域の荒廃につながるので,決して歓迎できることではなかったが,一方で兵士たちはそうした「人取り」や掠奪目当てで従軍しているところがあったため,むげに禁ずることもできなかった。それは朝鮮出兵でも同じであって,この出兵で多くの朝鮮人陶工が日本軍によって拉致され,のちに彼らがそのまま日本に定住し,有田焼・薩摩焼・唐津焼の始祖となったという話は有名だった。
 首級のかわりに鼻験をせよという秀吉の指示は,そうした当時の戦場の現実を踏まえ,じつに念の入ったものだった。秀吉は,集めた鼻験が枡一杯分になった者から「生擒せしむるを許す」,つまり住民の生け捕りを認めたのである(『乱中雑録』丁酉七月,『看羊録』)。実際,加藤清正はそれに従い,配下の兵士に1人につき鼻験3つを集めてくるようにとのノルマを課している(『清正高麗陣覚書』)。秀吉は彼らの物欲を解放する交換条件として,鼻験進上のノルマを課したのである。当然,このノルマを果たそうとする者のなかには,さきほどのように,平気で数合わせのために女・子どもといった非戦闘員を襲う者もあっただろう。あるいは,これもすでに述べたように,生きた朝鮮人から鼻だけを削いで数合わせをしようとする者まで現れていた。その結果,戦後の朝鮮では「その後,数十年間,本国の路上に鼻無き者,はなはだ多し」という異常事態が出現していた(『乱中雑録』丁酉七月)。

清水隆志 (2015). 耳鼻削ぎの日本史 洋泉社 pp.135-136
PR

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]