I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

B29の迎撃兵器

当時の日本は高度1万m以上を悠々と飛行するB29の空爆に悩まされていた。B29の迎撃に従来機を用いると,1万mに達するまで40分から50分もかかり,また1万mという高空では満足な戦闘もできなかったからだ。そのため,迎撃用に新型ターボチャージャーを積んだ戦闘機の開発が進み,B29を撃墜するケースも出てきた。しかしターボエンジンを搭載する戦闘機の数が少なく,撃墜率も1.5〜2%に過ぎなかった。
 いっぽう,ロケットエンジン戦闘機ならば,計画時点で最高速度900km時,わずか3分半で1万m以上の上空に到達できる。ただし,全重量の半分以上を占める満タンの液体燃料すべてを消費したとしても,上空での戦闘時間はわずか数分に過ぎない。それでもB29の迎撃兵器としては期待の星だったのである。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.135

大名屋敷の東京

文京区本郷の東京大学は,ほぼそっくりそのまま加賀前田家の大名屋敷に立つ。前田家は百万石だから屋敷も広かったのだろうが,新宿御苑は信州高遠内藤家3万3千石の屋敷跡で,3万石でもたいしたものだ。
 ひと口に三百諸侯と呼ばれる大名は,江戸に上・中・下の三つの屋敷をおいていた。さらに,抱え屋敷という別邸を持つ大名もいたため,江戸のまちは大名屋敷だらけになった。大名屋敷には,池のある大きな庭があった。つまり,大名屋敷だらけの江戸のまちは,庭園だらけのまちでもあった。大阪や横浜などと比べ,東京の中心部に緑が多いのは,この遺産にほかならない。
 明治維新後,広い敷地面積を持った大名屋敷は官庁街や民間のビル,住宅などに姿を変え,東京の発展を支えた。大学や公園として使われたものも東京大学や新宿御苑だけでなく,枚挙に暇がない。
 大名屋敷は官や軍の用地に使われたり,大きな施設ができるなど,まとまった土地利用がなされていた場合,都市改造の格好のネタ地にもなった。
 代表例は,長州毛利家の屋敷から陸軍用地,防衛庁・自衛隊用地を経て,今の姿に至った六本木の東京ミッドタウンだろう。同じ六本木の六本木ヒルズは,周辺の密集市街地を含めた再開発だが,中心のテレビ朝日は,元をたどれば長府毛利家の屋敷跡。だから六本木ヒルズには毛利庭園がある。
 きりがないので詳しい話は省くが,赤坂サカスも,汐留シオサイトも大名屋敷の跡。港区に富の集中が進んだ背景として,都心での生活に適合すべく高い機能を備えたこれらの施設が果たした役割は大きい。とするなら,今日の港区の繁栄は,江戸から続くハードの集積の上に立っていることになる。

池田利道 (2015). 23区格差 中央公論新社 pp.258-259

核家族はすでに

第1回の『国勢調査』が行われたのは1920(大正9)年にさかのぼる。
 その結果を見て,衝撃が走った。わが国の家族形態の基本と考えられていた,多世代が同居する直系家族家庭が3割にとどまる一方で,核家族が54%と過半数を占めたからだ。核家族化の進展というと,戦後高度成長期のできごとのように考えがちだが,実はわが国は,大正時代から核家族化していたのである。

池田利道 (2015). 23区格差 中央公論新社 pp.130

情報の消失

いまから2600年ほど前,ユカタン半島と中米にいたマヤ人は紙にかなり近いものにヒエログリフを記していた。マヤの本は古写本(コーディス)と呼ばれ,チャールズ・ガレンカンプによれば,植物の繊維を叩きつぶしたものを天然ゴムで固め,両面を白い石灰で覆った1枚の長い「紙」でできたものだったという。植物や鉱物の顔料で複雑なヒエログリフを記すと,その「紙」を折りたたみ,木か革の表装で挟んだ。ガレンカンプは,16世紀半ば,スペインの侵略者たちがマヤの図書館を気まぐれに破壊しつくし,後世の学者たちにとって宝物ともなったであろう貴重な情報源が理不尽に失われてしまったと指摘し,フランシスコ会修道僧ディエコ・デ・ランダに「異端審問の精神は赤々と燃えあがった」と皮肉な調子で記している。マヤの人々が頑として改宗を拒むのに激怒したデ・ランダは,マニの町にあった図書館の「異端の」コーディスを,町の広場で公開焚書するよう命じたのだった。

ギルバート・ワルドバウアー 屋代通子(訳) (2012). 虫と文明:蛍のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード 築地書館 pp.132

ピトケアン諸島

毎晩グリニッジ標準時の午前零時ごろ,太陽はケイマン諸島で沈み,午前1時を過ぎてようやく,イギリス領インド洋地域で再び昇る。この1時間,太陽の光が当たっているイギリスの領土は,南太平洋に浮かぶ小さなピトケアン諸島だけになる。
 ピトケアン諸島の人口はたった数十名だ。彼らは英国海軍艦船バウンティ号の反乱兵たちの子孫だ。2004年,島司を含む成人男性の島民の3分の1が未成年者への性的虐待で有罪になったことで,ピトケアン諸島は世界の注目を集めた。

ランドール・マンロー 吉田三知世(訳) (2015). ホワット・イフ?:野球のボールを高速で投げたらどうなるか 早川書房 pp.332

社会の変化

知識人の本質的価値が,批判的不服従派としての役割にあることはまちがいないし,知識人は社会の意見を代弁し,擁護するだけの存在になるよう迫られているわけでもない。だがアメリカの知識人はもはやみずからの国を,逃げ出さねばならない文化的砂漠だとは考えなくなった。ある作家が述べたように,アメリカとヨーロッパを比較するさい,「青年のような気後れ」を感じることもたしかになくなった。いまや知識人は,2,30年前よりずっとアメリカでくつろいだ気持ちになれている。彼らは,アメリカの現実と折り合いをつけたのだ。ある人物は「われわれが目撃しているのは,アメリカのインテリゲンチャのブルジョワ化とでもいうべき過程である」と述べている。変わったのは知識人ばかりではない。国も良い方向に変わった。アメリカは文化的に成熟し,もはやヨーロッパの庇護を受けることはなくなった。富裕層や権力者は知識人と芸術家を認めるようになり,敬意まで払うようになった。その結果アメリカは,知的・芸術的活動の場としてかなり満足できるところとなり,こうした活動が政党に報われる場となった。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.344-345

脱出の連続

こうしたことはすべて驚くに当たらない。アメリカに定住した人びとは男女とも,なによりも抑圧的で退廃的という理由でヨーロッパ文明を否定した人びとであり,もっとも顕著なアメリカ的素質を,当時の粗雑な社会形態にではなく,自然と原始的な世界のなかに見出した人びとである。文明から理想郷(アルカディア)への脱出,ヨーロッパから自然への脱出は,そのまま東部から西部への脱出,定住世界から辺境への脱出というかたちでくり返されてきた。アメリカ精神は何度となく,組織化された社会の侵食に苛立ちをみせてきた。一度捨て去ったものを再度押しつけようとするように思えたからである。文明を総体として否定することはできないが,依然としてそこにはなにか有害なものがあると信じられていた。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.44

生類憐れみの令

信仰心の厚い桂昌院は江戸市中に大きな神社仏閣を建てさせた。神田橋の護持院はそのひとつであり,祈祷僧の隆光が桂昌院の帰依を得て護持院大僧正に任じられ,関東真言宗の大本山として威勢を示した。
 隆光は世継ぎが生まれる霊力のあるところをみせねばならない。だが,いくら祈祷をくり返しても側室たちに懐妊の徴がみられない。窮余の末,桂昌院と綱吉に吹き込んだのが『生類憐れみの令』の発令である。
 『憐みの令』そのものは「君主の仁慈は鳥獣にまでおよぶ」という儒教の理想を実現しようとしたもので,そこに内在する自然を尊重し動物を愛護する思想は現代人にとってもかえりみる価値はありそうだ。だが綱吉の顔色ばかりうかがう役人たちは,法の精神を理解せず運用方法をゆがめた。町民たちは犬や猫に石を投げただけで牢屋に放りこまれ,ときには島流しの憂き目に遭った。庶民は悪法を憎み,綱吉を「犬公方」とののしった。

篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.85-86

家光の精神不安

権力者の病いが世間に知れるのを幕閣は極端に恐れた。しかも現代とちがってなおりにくいうつ病(気分障害)である。御三家はもちろん全国の大名たちにこの病いを知られれば,いかなる不祥事がおこるかわからない。将軍家の絶対権力を確立するために幕閣は家光の精神不安をひたかくしにした。側近たちは家光の気を引き立てようと,猿楽,能狂言,弓術,馬術,あるいは鷹狩などさまざまな気散じを催した。講談の「寛永三馬術」や「寛永御前試合」などはこのような史実をもとに生まれたのであろう。

篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.65

家康のサプリメント

今川義元の日常生活をつぶさにみてきた家康はグルメ肥満の義元を反面教師として美食をさけ,ふだんは玄米食に大豆みそを中心とする粗食に徹した。サプリメントとして用いたのは精力剤の八味地黄丸である。地黄や茯苓,牡丹皮などを配合し,中年の精力減退,インポテンツ,前立腺肥大,膀胱炎など多方面に効能のある妙薬で,四百年経ったいまでも町の薬局で売っている。60を過ぎた家康が3人の男子をもうけ御三家を創立できたのも,このようなサプリメントのおかげであろう。

篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.27-28

元気な爺さん

家康は信玄,謙信,秀吉ら多くの戦国武将が壮途半ばで病にたおれるのを見聞きした。そこから最後に勝利をつかむのは長寿者であると健康を保つ重要性をみぬき,暴飲・暴食・過淫をさけ,ひらすら養生にはげんだ。『徳川実紀』にはその健康管理ぶりがことこまかに記されている。
 家康は幼少よりからだをうごかすことを好み,連日のように刀術,槍術,弓術,馬術,鉄砲,水練(水泳)などのスポーツ活動に身を入れた。駿府では人質屋敷からひと走りの安倍川へいって泳いだ。小・中・高校と静岡で育ったわたしは流れの速い安倍川で泳ぐなといいきかされたが,そこで泳いだ家康の腕前は相当なものだったと思う。慶長十五年(1610)年,古希を前にした69歳の時も駿府の瀬名川へ川釣りに出かけて川泳ぎをした記録があるから,ずいぶん元気なじいさんだった。

篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.25-26

ロンブローゾ

司法の場で骨相学の影響が弱まり始めたころに,イタリア人医師チェーザレ・ロンブローゾが,凶悪な犯罪は引き起こされるのであって,自由意志で選ばれるのではないという考えを提唱した。彼は連続強姦殺人犯を検死解剖したとき,頭蓋骨の内側,後方の正中部の,小脳があったと思われる箇所に異常な陥没があることを発見した。この窪みは「下等な類人猿や,齧歯類,鳥類」に見られるものと似ているとロンブローゾは記している。1876年にロンブローゾは『犯罪人論(Criminal Man)』を出版し,その中で,生涯にわたって暴力的な犯罪者には未開人への先祖返りが起こっているという考えを示した。「理論倫理学には,こうした病的な脳は素通りしてしまう。大理石の上にこぼれた油が染み込まずにそのまま流れていくのと同じように」と書いている。こうした生来の犯罪者は万人の安全のために永久に隔離される必要があるのに対して,生物学的により進化している他の犯罪者は教育して更生させるべきだと彼は言う。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.169-170

骨相学と脳科学

人間の行動についての,脳に関連した主要な理論はいくつもあるが,最初期のものの一つが骨相学だ。骨相学は,1800年代にヨーロッパとアメリカ全土に広まった。高い評価を得ていたドイツの解剖学者フランツ・ヨーゼフ・ガルが開発した骨相学は,脳機能と人間行動の科学の構築を試みた。ガルは,心は完全に脳内部にあると信じていた。骨相学者は,機知や好奇心の強さ,情け深さといった何十もの特性を反映しているという触れ込みの頭蓋骨の凹凸を検査することで性格を「読んだ」。よく発達した器官は,頭蓋骨の当該領域を内側から押し,外表面を隆起させるとガルは考えた。対照的に,頭蓋骨の窪みは,とりわけ脆弱な器官の証で,そうした機関は正常な大きさに成長しそこないはしたものの,筋肉と同じで,鍛えれば発達させられるという。当時の人々は自分の生まれつきの才能を知り,自分の脳に最適の種類の仕事や人生の伴侶に関する助言を受けるために,繰り返し骨相学者に診てもらった。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.41

X線

脳画像法の起源をはるかにたどっていくと,最初期の祖先として,1895年にドイツの物理学者ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンが発明したX線技術に行き着く。今や有名な,最初のX線写真には,彼の妻の左手の骨が写っており,5本の指の4本目には太い結婚指輪がはまっている。それまで隠されていたものを可視化するというレントゲンの変換に,大西洋の両側で人々は熱狂した。シカゴとニューヨークとパリのデパートに,硬貨投入式のX線装置が設置され,客が自分の手の骨格の解剖学的構造をわが目で見られるようになった。自分の骨を目にして気絶する人もときおり出た。パリの医師イポリット=フェルディナン・バラデュックは,X線を使って自分の考えや感情を写真に撮れるとさえ主張した。彼はでき上がった写真を「プシコン(心の画像)」と呼んだ。もちろんX線は脳が相手では役に立たず,ましてや心が写せるはずもない。頭蓋骨が厚すぎて,簡単には透過できないからだ。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.33

証明されていない

さて,以上の3例をみてもわかるように,現在,耳塚・鼻塚と伝承されている史跡には,考古学的に耳塚・鼻塚と証明されているものは一例もなく,いずれも文献的にも戦国期まで遡ることができないものばかりであった。また場合によっては,民族調査の結果,近代以降に耳塚としての伝承が創出されたと思しきものすらあり,やはり現時点では,これらの伝承から史実を導き出すのには慎重にならざるをえない。もちろん,私自身,まだ全国すべての耳塚・鼻塚の調査を行ったわけではない。だから,同じ耳塚。鼻塚でも,ここで検討素材としたもの以外については,なんらかの戦国の史実を反映している可能性も依然として皆無ではない。文献的に遡るのは無理だとしても,今後,考古学調査の進展などによって解明が進むこともありえるだろう。安易に虚構と決めつけることなく,それらの真偽の検討は今後の課題としたいが,とりあえず現時点では,多くの伝承をそのまま鵜呑みにすることはできないことを指摘しておきたい。

清水隆志 (2015). 耳鼻削ぎの日本史 洋泉社 pp.198-199

逆効果

実際,戦略的にみても,真剣に朝鮮半島を征服して,その地の人民を永続的に支配しようと考えるならば,その彼らに対して耳鼻削ぎを行うというのは明らかに逆効果である。むしろ朝鮮民族に憎悪と敵意を植えつけ,敵側に走らせる軽率な行為だったといわざるをえない。耳鼻削ぎの<文化>を共有しない人々の目に,それがどれほど冷酷非情な行為に映るかという想像力を欠いたまま,耳鼻削ぎの<文化>は海を越えて持ち出されてしまったのである。

清水隆志 (2015). 耳鼻削ぎの日本史 洋泉社 pp.138

朝鮮出兵と鼻削ぎ

ここまで彼らが秀吉の指示に忠実に従い,空前の規模で鼻削ぎを行っていたのには訳があった。戦国時代の日本の戦場では,戦闘地域の住人を兵士が拉致して売り飛ばす「人取り」が一般的に行われていた。侵攻してきた大名の立場からすれば,そうした行為は占領地域の荒廃につながるので,決して歓迎できることではなかったが,一方で兵士たちはそうした「人取り」や掠奪目当てで従軍しているところがあったため,むげに禁ずることもできなかった。それは朝鮮出兵でも同じであって,この出兵で多くの朝鮮人陶工が日本軍によって拉致され,のちに彼らがそのまま日本に定住し,有田焼・薩摩焼・唐津焼の始祖となったという話は有名だった。
 首級のかわりに鼻験をせよという秀吉の指示は,そうした当時の戦場の現実を踏まえ,じつに念の入ったものだった。秀吉は,集めた鼻験が枡一杯分になった者から「生擒せしむるを許す」,つまり住民の生け捕りを認めたのである(『乱中雑録』丁酉七月,『看羊録』)。実際,加藤清正はそれに従い,配下の兵士に1人につき鼻験3つを集めてくるようにとのノルマを課している(『清正高麗陣覚書』)。秀吉は彼らの物欲を解放する交換条件として,鼻験進上のノルマを課したのである。当然,このノルマを果たそうとする者のなかには,さきほどのように,平気で数合わせのために女・子どもといった非戦闘員を襲う者もあっただろう。あるいは,これもすでに述べたように,生きた朝鮮人から鼻だけを削いで数合わせをしようとする者まで現れていた。その結果,戦後の朝鮮では「その後,数十年間,本国の路上に鼻無き者,はなはだ多し」という異常事態が出現していた(『乱中雑録』丁酉七月)。

清水隆志 (2015). 耳鼻削ぎの日本史 洋泉社 pp.135-136

首の代用

まず明らかなのは,鼻や耳はあくまで首の代用品であり,基本的には戦功の証拠は首のほうが望ましいということだろう。それは《事例2》の剣使役・中山修理介が鼻をもって戦功認定することを原則的に禁じていたことからもうかがえるし,《事例6》で森長可の首を手に入れた本多八蔵が森の眉間に弾痕があったため,しかたなく鼻を削いだことからもうかがえる。また,《事例9》で浅野長継からの添状では耳鼻のことに言及しても,肝心の秀吉書状では耳鼻についてはふれていないことや,《事例11》で伊達政宗が一揆の衆の鼻を南部家に届けるさいに首ではないことについて文句を言われることを警戒しているのも同様だろう。耳や鼻は,あくまで首を本陣に持参できないときの代用品だったのである。

清水隆志 (2015). 耳鼻削ぎの日本史 洋泉社 pp.115-116

なぜ課されるのか

ではあらためて,なぜ中世において女性には耳鼻削ぎが課せられるのか?この問いに対する答えは,ここまで来れば,読者にはほぼみえてきたのではないだろうか。つまり,女性が耳鼻削ぎにされる理由については,当時の社会に広まっていた2つの通念が基礎にあった。1つは,中世社会では耳鼻を削ぐことが死刑に準じるものだとして,死一等を減じた場合,その者は耳鼻削ぎにするのがふさわしいとする通念。そして,もう1つは,女性の殺害を忌避し,女性の刑罰は軽減されるべきだという通念。この2つの通念があわさって,日本中世社会においては,罪を犯した女性は耳鼻削ぎに処されていた(処されるべきと考えられていた)のである。

清水隆志 (2015). 耳鼻削ぎの日本史 洋泉社 pp.70-71

女性に対する刑罰

こうなれば,断言しよう。日本中世社会において,耳鼻削ぎは女性に対する刑罰だったのである。一般に中世社会では一般に中世社会では罰刑法定主義が未確立で,特定の罰が特定の罪に対応するということはほとんどない。ところが,これまでの事例からも明らかなように,当時の社会では耳鼻削ぎ刑だけは女性に対する刑罰という認識が浸透していたのだ。

清水隆志 (2015). 耳鼻削ぎの日本史 洋泉社 pp.48-49

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