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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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当然のように

歴史のなりゆきというのは,あとから振り返ったときにだけ,当然の帰結のように感じられるものだ。しかしそのなりゆきを目の前で見ていたアメリカ人たちが下した判断は,さまざまな要因の上に成り立っていた。個々の性格や,彼らが目撃したそれぞれに異なる現実の断片もあるし,またときには自分が見たいものだけを見ていたこともあっただろう。それが実際には,正反対の意味を持っていたとしてもだ。シュルツはアメリカとドイツがふたたび交戦状態にはいったあとで,レーダーが1919年に語った言葉を引き合いに出しつつ,ヒトラーの運動は,先の大戦の敗北によって誘発された憎悪がもたらした当然の帰結だという持論を展開してみせた。しかしその他多くのアメリカ人は,第一次世界大戦後の混乱期に自分たちが受けた温かいもてなしが忘れられず,あの戦いの犠牲が大きかった分だけ,ドイツ人にとってはそれが教訓になっているはずだという思いを捨て切れずにいた。<シカゴ・トリビューン>のライバル紙,<シカゴ・デイリー・ニューズ>のベルリン特派員であったエドガー・アンセル・マウラーによれば,1920年代には「ドイツにいたアメリカ人の多くが,大戦での敗北,屈辱,インフレ,内政の混乱によって,ヨーロッパの覇権を狙うのは愚かな行為だとドイツ国中が悟ったはずだと,心から信じていた」という。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.13-14
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カップルの心中

が,時代はまだまだ多くの同性愛者を死に追いやっていました。それは西洋だけのことでも,男性同性愛だけのことでもありません。たとえば日本においても,1873年(明治六年)〜1926年(大正十五年)の記録に残る限り,女性同士のカップルが28組も心中しています。互いが恋愛関係にあったとはっきりしているのは28組のみですが,はっきりしないケースも含めれば,実に121組・242名もの女性たちが,女性ふたりで手に手をとって心中しているのです。

牧村朝子 (2016). 同性愛は「病気」なの? 僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル 星海社 pp.83

スウェーデンの不妊手術合法化

スウェーデンでは1915年に婚姻法が改正され,知的障害者,精神病患者,そしててんかん患者の婚姻が禁止された。しかし,20年代に入って,議論はさらに断種法の制定へと拡大する。国会での約10年にわたる議論を経た後,スウェーデンの断種法(正式名「特定の精神病患者,精神薄弱者,その他の精神的無能力者の不妊化に関する法律」)は,「国家の家」(folkhem)を標語に,福祉国家の確立を訴えたハンソン社民党政権下で,1934年5月に制定された。
 この法律によって,精神病患者,知的障害者に対する不妊手術が合法化された。その第一条は「精神疾患,精神薄弱,その他の精神機能の障害によって,子どもを養育する能力がない場合,もしくはその遺伝的資質によって精神疾患ないし精神薄弱が次世代に伝達されると判断される場合,その者に対し不妊手術を実施できる」と定めている。その際,重要なのは,手術は,保健局の審査ないし医師の鑑定にもとづいてなされ,本人の同意は不要とされたことである。その理由は,この法律がそもそも不妊手術の対象としている人びとは,その障害ゆえに自己決定能力を期待できないとされたことにある。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 118-119

ナチスの優生政策

1933年の断種法は始まりにすぎず,ナチス政府は優生政策の射程を次々と広げていった。
 同年11月には「常習犯罪者取締法」が可決される。ここでターゲットにされたのは,いわゆる「精神病質者」(Psychopath)だった。この「疾患」を遺伝病として断種法に組み込むことは,当時としてもさすがにはばかられ,不妊手術の対象にはならなかった。一方,当時のドイツ刑法第51条は,犯罪者とされた者が心神喪失にある場合,例えば「精神病質者」と認定された場合には,その免責を規定していた。当時の少なからぬ精神科医や司法関係者は「精神病質者」を野放しにするなと政府に迫った。常習犯罪者取締法は,刑法第51条で免責される者を各施設で拘禁し,性犯罪者については去勢手術も認めるというものだったが,この法律によって拘禁された人びとに対しては,出所と引き換えに不妊手術を実施するケースもあった。
 1935年6月には「遺伝病子孫予防法」が改正される。ワイマール期に社民党の一部,急進派フェミニスト,そしてドイツ共産党(1918年に[独立]社民党より分岐)は,経済的理由を含めた妊娠中絶の合法化を強く求めたが,この時期には,妊婦の健康と生命が危ぶまれる場合の中絶が「緊急避難権」として認められるようになっただけだった。35年の「遺伝病子孫予防法」改正を通じて,ナチス政府は,こうした母体保護の中絶と同時に,さらに優生学的理由による中絶を合法化し,33年の断種法で列挙された疾患のいずれかに該当する女性が妊娠している場合,その中絶を認めるようにした。その際の条件は,本人の同意を得ること,妊娠6ヵ月以内であること,妊娠女性の生命および健康を危険にさらす場合には禁止,の3つである。しかし,その実施に関する政令は,断種法と同様,本人に同意能力がない場合,「法定代理人もしくは保護者」の代理同意でよいとしていたため,必ずしも本人の同意が必要とされたわけではなかった。実施件数は約3万件と推定されている。
 1935年10月には「婚姻健康法」(正式名「ドイツ民族の遺伝的健康を守るための法律」)が制定される。この法律によって,結核や疾病,断種法に規定された「遺伝病」,あるいは精神障害などをもつ人々の婚姻が禁止され,また,婚姻に際しては,これらの病気や障害のないことを証明する「婚姻適性証明書」を前述の保健局からもらうことが,すべての者に義務化された。しかし,保健局はすでに手一杯の業務を抱え込んでいたため,すべてのカップルに検診のうえ証明証を発行することなど不可能だった。検診は当初「疑わしい」場合にのみ限定されたが,それも第二次大戦勃発後は実施されなくなった。
 その一方で,健康なドイツ人については,婚姻や出産に際する特別の貸付金制度や,多産の女性を讃える「母親十字勲章」制度を創設しながら,「産めよ,殖やせよ」の政策が推し進められ,避妊や中絶は以前よりもいっそう厳しく取り締まられるようになった。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 95-96

優生学と戦争反対

今日,少なからぬ人が,優生学は,戦争に向けた富国強兵政策の1つであると考え,またその視座から優生学を批判する。そういう事実がまったくなかったわけではないが,しかし,この見方は今世紀の優生学のかなりの部分を逆に見えなくさせる。前述のシャルマイヤーをはじめ,多くの優生学者たちは,戦争を「逆淘汰」(生物学的に「優秀」な者が減り,「劣等」な者が逆に増えること)の1つとして真っ向から批判したのである。
 プレッツは,優生政策を実現するうえで,ヒトラーに大きな期待をよせ,ナチスに接近していったが,同時に,戦争回避と平和の維持をもヒトラーに懇願していたのである。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 75-76

絶対移民制限法

1921年には,1910年国勢調査の人口構成比の3パーセント以下に移民を抑える移民法が成立していたが,ローリン報告はその成立後であった。そこで彼は,その基準年を,イタリアやポーランド移民が急増する以前の,まだノルディック系やチュートン系白人が優勢であった1890年国勢調査に戻すよう,議員を説得してまわった。このロビー活動は両院で成功し,クーリッジ大統領もこれにサインした。こうしてローリンは,断種法と移民制限法の双方の優生政策に,多大な影響を残したのである。
 このような事情で成立した1924年の絶対移民制限法によって,以後のアメリカへの移民は1890年国勢調査の出身国の人口構成比の2パーセント以内に制限されることになった。この国勢調査は定義上のフロンティア消滅が確認された(1平方マイルあたり人口1人以下の土地はなくなった)ことで有名だが,絶対移民制限法によって東欧・南欧からの移民は,事実上不可能になった。これよりはるか以前に中国移民は禁止されており,日本からの移民も,日本側が送りださないということで政治的決着がついていた。この移民制限法は,アメリカは建国以来,WASP(白人,アングロサクソン,清教徒)が築き上げてきた国であり,これ以外の移民は拒否すると言っているのと同じであった。1965年の移民国籍法に変わるまで,アメリカの移民政策には,人種差別的な性格がつきまとい続けたのである。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 43-44

1879年

心理学史という領域において,年号を暗記して何かを考えなければいけないことはほとんどないが,1879年という年は重要な年であるから覚えておいて損はない。この年はドイツの心理学者ウィルヘルム・ヴントがライプツィヒ大学に心理学実験室を設立した年,ということになる。実際には少し異なるのだが,意味合いとしては,心理学を学ぶ学生を組織的に訓練して卒業させることができるような制度が整った年,である。この——近代心理学の祖ともいえる——ヴントは極めて多作の人であった。しかし,その後,彼の心理学に関する著書はあまり顧みられていない。一方,思想としての心理学に関して現代でも読み継がれているのが,ジェームズの著作である。こうしたことから,今日の心理学史では,ヴントと並んでジェームズを心理学の父と呼ぶことになっている。

サトウタツヤ (2015). 心理学の名著30 筑摩書房 pp.21

木戸を突かれる

寄席演芸会の最後のピークとも言える東京オリンピックが開かれた昭和三十九年から大阪万博の催された昭和四十五年にかけて,おびただしい数の入門志願者があった。
 テレビは白黒からカラーに代わり,『笑点』『お笑いタッグマッチ』『お笑い七福神』『大正テレビ寄席』等々,いくつもの寄席番組が人気を博した。関西に,松鶴,米朝,小文枝,春団治の四天王はいたものの,まだ可朝,仁鶴,三枝のブームはこなかった。マスコミにおける演芸会のスターは,東京の落語家だった。団塊の世代と呼ばれる若者はそんな姿に憧れ,こぞってその門を叩いたのである。
 昭和四十五年一月,人形町末広がその幕を閉じた。談四楼は,客としてそれを見た。マスコミ人気と観客動員との間に,微妙なズレが生じていた。
 談四楼が落語家になった昭和四十五年三月,すでに高座のない二ツ目があふれていた。人形町末広の後を追うように,目黒名人会の灯が消えたのは昭和四十六年のことだった。六軒の定席が四軒に減り,二ツ目には高座がない。その傾向は,昭和五十年代に入って更に拍車がかかったようだ。
 「あ,もしもしお客様,入場料を……」と客に間違われる,いわゆる木戸を突かれるという現象があちこちで見られた。寄席の従業員が,滅多に会うことのない二ツ目の顔を,あるいは多過ぎる二ツ目の顔を,覚えないのである。

立川談四楼 (2008). シャレのち曇り(文庫版) ランダムハウス講談社 pp.184-185

B29の迎撃兵器

当時の日本は高度1万m以上を悠々と飛行するB29の空爆に悩まされていた。B29の迎撃に従来機を用いると,1万mに達するまで40分から50分もかかり,また1万mという高空では満足な戦闘もできなかったからだ。そのため,迎撃用に新型ターボチャージャーを積んだ戦闘機の開発が進み,B29を撃墜するケースも出てきた。しかしターボエンジンを搭載する戦闘機の数が少なく,撃墜率も1.5〜2%に過ぎなかった。
 いっぽう,ロケットエンジン戦闘機ならば,計画時点で最高速度900km時,わずか3分半で1万m以上の上空に到達できる。ただし,全重量の半分以上を占める満タンの液体燃料すべてを消費したとしても,上空での戦闘時間はわずか数分に過ぎない。それでもB29の迎撃兵器としては期待の星だったのである。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.135

大名屋敷の東京

文京区本郷の東京大学は,ほぼそっくりそのまま加賀前田家の大名屋敷に立つ。前田家は百万石だから屋敷も広かったのだろうが,新宿御苑は信州高遠内藤家3万3千石の屋敷跡で,3万石でもたいしたものだ。
 ひと口に三百諸侯と呼ばれる大名は,江戸に上・中・下の三つの屋敷をおいていた。さらに,抱え屋敷という別邸を持つ大名もいたため,江戸のまちは大名屋敷だらけになった。大名屋敷には,池のある大きな庭があった。つまり,大名屋敷だらけの江戸のまちは,庭園だらけのまちでもあった。大阪や横浜などと比べ,東京の中心部に緑が多いのは,この遺産にほかならない。
 明治維新後,広い敷地面積を持った大名屋敷は官庁街や民間のビル,住宅などに姿を変え,東京の発展を支えた。大学や公園として使われたものも東京大学や新宿御苑だけでなく,枚挙に暇がない。
 大名屋敷は官や軍の用地に使われたり,大きな施設ができるなど,まとまった土地利用がなされていた場合,都市改造の格好のネタ地にもなった。
 代表例は,長州毛利家の屋敷から陸軍用地,防衛庁・自衛隊用地を経て,今の姿に至った六本木の東京ミッドタウンだろう。同じ六本木の六本木ヒルズは,周辺の密集市街地を含めた再開発だが,中心のテレビ朝日は,元をたどれば長府毛利家の屋敷跡。だから六本木ヒルズには毛利庭園がある。
 きりがないので詳しい話は省くが,赤坂サカスも,汐留シオサイトも大名屋敷の跡。港区に富の集中が進んだ背景として,都心での生活に適合すべく高い機能を備えたこれらの施設が果たした役割は大きい。とするなら,今日の港区の繁栄は,江戸から続くハードの集積の上に立っていることになる。

池田利道 (2015). 23区格差 中央公論新社 pp.258-259

核家族はすでに

第1回の『国勢調査』が行われたのは1920(大正9)年にさかのぼる。
 その結果を見て,衝撃が走った。わが国の家族形態の基本と考えられていた,多世代が同居する直系家族家庭が3割にとどまる一方で,核家族が54%と過半数を占めたからだ。核家族化の進展というと,戦後高度成長期のできごとのように考えがちだが,実はわが国は,大正時代から核家族化していたのである。

池田利道 (2015). 23区格差 中央公論新社 pp.130

情報の消失

いまから2600年ほど前,ユカタン半島と中米にいたマヤ人は紙にかなり近いものにヒエログリフを記していた。マヤの本は古写本(コーディス)と呼ばれ,チャールズ・ガレンカンプによれば,植物の繊維を叩きつぶしたものを天然ゴムで固め,両面を白い石灰で覆った1枚の長い「紙」でできたものだったという。植物や鉱物の顔料で複雑なヒエログリフを記すと,その「紙」を折りたたみ,木か革の表装で挟んだ。ガレンカンプは,16世紀半ば,スペインの侵略者たちがマヤの図書館を気まぐれに破壊しつくし,後世の学者たちにとって宝物ともなったであろう貴重な情報源が理不尽に失われてしまったと指摘し,フランシスコ会修道僧ディエコ・デ・ランダに「異端審問の精神は赤々と燃えあがった」と皮肉な調子で記している。マヤの人々が頑として改宗を拒むのに激怒したデ・ランダは,マニの町にあった図書館の「異端の」コーディスを,町の広場で公開焚書するよう命じたのだった。

ギルバート・ワルドバウアー 屋代通子(訳) (2012). 虫と文明:蛍のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード 築地書館 pp.132

ピトケアン諸島

毎晩グリニッジ標準時の午前零時ごろ,太陽はケイマン諸島で沈み,午前1時を過ぎてようやく,イギリス領インド洋地域で再び昇る。この1時間,太陽の光が当たっているイギリスの領土は,南太平洋に浮かぶ小さなピトケアン諸島だけになる。
 ピトケアン諸島の人口はたった数十名だ。彼らは英国海軍艦船バウンティ号の反乱兵たちの子孫だ。2004年,島司を含む成人男性の島民の3分の1が未成年者への性的虐待で有罪になったことで,ピトケアン諸島は世界の注目を集めた。

ランドール・マンロー 吉田三知世(訳) (2015). ホワット・イフ?:野球のボールを高速で投げたらどうなるか 早川書房 pp.332

社会の変化

知識人の本質的価値が,批判的不服従派としての役割にあることはまちがいないし,知識人は社会の意見を代弁し,擁護するだけの存在になるよう迫られているわけでもない。だがアメリカの知識人はもはやみずからの国を,逃げ出さねばならない文化的砂漠だとは考えなくなった。ある作家が述べたように,アメリカとヨーロッパを比較するさい,「青年のような気後れ」を感じることもたしかになくなった。いまや知識人は,2,30年前よりずっとアメリカでくつろいだ気持ちになれている。彼らは,アメリカの現実と折り合いをつけたのだ。ある人物は「われわれが目撃しているのは,アメリカのインテリゲンチャのブルジョワ化とでもいうべき過程である」と述べている。変わったのは知識人ばかりではない。国も良い方向に変わった。アメリカは文化的に成熟し,もはやヨーロッパの庇護を受けることはなくなった。富裕層や権力者は知識人と芸術家を認めるようになり,敬意まで払うようになった。その結果アメリカは,知的・芸術的活動の場としてかなり満足できるところとなり,こうした活動が政党に報われる場となった。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.344-345

脱出の連続

こうしたことはすべて驚くに当たらない。アメリカに定住した人びとは男女とも,なによりも抑圧的で退廃的という理由でヨーロッパ文明を否定した人びとであり,もっとも顕著なアメリカ的素質を,当時の粗雑な社会形態にではなく,自然と原始的な世界のなかに見出した人びとである。文明から理想郷(アルカディア)への脱出,ヨーロッパから自然への脱出は,そのまま東部から西部への脱出,定住世界から辺境への脱出というかたちでくり返されてきた。アメリカ精神は何度となく,組織化された社会の侵食に苛立ちをみせてきた。一度捨て去ったものを再度押しつけようとするように思えたからである。文明を総体として否定することはできないが,依然としてそこにはなにか有害なものがあると信じられていた。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.44

生類憐れみの令

信仰心の厚い桂昌院は江戸市中に大きな神社仏閣を建てさせた。神田橋の護持院はそのひとつであり,祈祷僧の隆光が桂昌院の帰依を得て護持院大僧正に任じられ,関東真言宗の大本山として威勢を示した。
 隆光は世継ぎが生まれる霊力のあるところをみせねばならない。だが,いくら祈祷をくり返しても側室たちに懐妊の徴がみられない。窮余の末,桂昌院と綱吉に吹き込んだのが『生類憐れみの令』の発令である。
 『憐みの令』そのものは「君主の仁慈は鳥獣にまでおよぶ」という儒教の理想を実現しようとしたもので,そこに内在する自然を尊重し動物を愛護する思想は現代人にとってもかえりみる価値はありそうだ。だが綱吉の顔色ばかりうかがう役人たちは,法の精神を理解せず運用方法をゆがめた。町民たちは犬や猫に石を投げただけで牢屋に放りこまれ,ときには島流しの憂き目に遭った。庶民は悪法を憎み,綱吉を「犬公方」とののしった。

篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.85-86

家光の精神不安

権力者の病いが世間に知れるのを幕閣は極端に恐れた。しかも現代とちがってなおりにくいうつ病(気分障害)である。御三家はもちろん全国の大名たちにこの病いを知られれば,いかなる不祥事がおこるかわからない。将軍家の絶対権力を確立するために幕閣は家光の精神不安をひたかくしにした。側近たちは家光の気を引き立てようと,猿楽,能狂言,弓術,馬術,あるいは鷹狩などさまざまな気散じを催した。講談の「寛永三馬術」や「寛永御前試合」などはこのような史実をもとに生まれたのであろう。

篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.65

家康のサプリメント

今川義元の日常生活をつぶさにみてきた家康はグルメ肥満の義元を反面教師として美食をさけ,ふだんは玄米食に大豆みそを中心とする粗食に徹した。サプリメントとして用いたのは精力剤の八味地黄丸である。地黄や茯苓,牡丹皮などを配合し,中年の精力減退,インポテンツ,前立腺肥大,膀胱炎など多方面に効能のある妙薬で,四百年経ったいまでも町の薬局で売っている。60を過ぎた家康が3人の男子をもうけ御三家を創立できたのも,このようなサプリメントのおかげであろう。

篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.27-28

元気な爺さん

家康は信玄,謙信,秀吉ら多くの戦国武将が壮途半ばで病にたおれるのを見聞きした。そこから最後に勝利をつかむのは長寿者であると健康を保つ重要性をみぬき,暴飲・暴食・過淫をさけ,ひらすら養生にはげんだ。『徳川実紀』にはその健康管理ぶりがことこまかに記されている。
 家康は幼少よりからだをうごかすことを好み,連日のように刀術,槍術,弓術,馬術,鉄砲,水練(水泳)などのスポーツ活動に身を入れた。駿府では人質屋敷からひと走りの安倍川へいって泳いだ。小・中・高校と静岡で育ったわたしは流れの速い安倍川で泳ぐなといいきかされたが,そこで泳いだ家康の腕前は相当なものだったと思う。慶長十五年(1610)年,古希を前にした69歳の時も駿府の瀬名川へ川釣りに出かけて川泳ぎをした記録があるから,ずいぶん元気なじいさんだった。

篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.25-26

ロンブローゾ

司法の場で骨相学の影響が弱まり始めたころに,イタリア人医師チェーザレ・ロンブローゾが,凶悪な犯罪は引き起こされるのであって,自由意志で選ばれるのではないという考えを提唱した。彼は連続強姦殺人犯を検死解剖したとき,頭蓋骨の内側,後方の正中部の,小脳があったと思われる箇所に異常な陥没があることを発見した。この窪みは「下等な類人猿や,齧歯類,鳥類」に見られるものと似ているとロンブローゾは記している。1876年にロンブローゾは『犯罪人論(Criminal Man)』を出版し,その中で,生涯にわたって暴力的な犯罪者には未開人への先祖返りが起こっているという考えを示した。「理論倫理学には,こうした病的な脳は素通りしてしまう。大理石の上にこぼれた油が染み込まずにそのまま流れていくのと同じように」と書いている。こうした生来の犯罪者は万人の安全のために永久に隔離される必要があるのに対して,生物学的により進化している他の犯罪者は教育して更生させるべきだと彼は言う。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.169-170

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