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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「金融・経済」の記事一覧

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リッチな国へ

 1970年代初頭,大半の西側諸国は第1次石油ショックに見舞われた。これにつられてリン鉱石をはじめとする天然資源の相場価格も高騰した。1974年,リン鉱石事業により,ナウルの国家と国民には,およそ4億5000万オーストラリア・ドルの収益がもたらされた。小規模地主であっても,相場価格の上昇の恩恵を受け,年間数万ドルの収入があった。リン鉱石の販売のおかげで,太平洋に浮かぶ小さな島ナウルは,平均して年間9000万ドルから1億2000万ドルの可処分所得があった。ナウルは世界1リッチな国となったのである。1970年代にナウルのGDPは1人あたり2万ドル近くになり,アラビア半島の産油国と肩を並べるようにまでなった。

リュック・フォリエ 林昌宏(訳) (2011). ユートピアの崩壊 ナウル共和国:世界一裕福な島国が最貧国に転落するまで 新泉社 pp.62-63
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石鹸の巨大ビジネス化

 化粧石鹸と広告はいっしょに進化した。どちらも何世紀も前からあることはあったのだが,19世紀の終わりには巨大なビジネスとして経済の本流をなしていた。石鹸の場合は,細菌学という新しい学問のおかげで広まったのだが,病原菌の発見ということが一般消費者にまで浸透するのには何十年もかかった。じっさい,衛生学者や公衆衛生の専門家さえ,病気は腐っている物質や悪臭から広がるという昔ながらの考えに,驚くほどしがみついたのだ。ウィーンの医師イグナーツ・ゼンメルヴァイスは,分娩室に入る医師と研修医は妊婦を扱う前に手を洗うべきだと主張したが,おかげで産褥感染症による死亡が劇的に減少したにもかかわらず,物笑いの種になった。1865年にゼンメルヴァイスが死去したときも,まだこの単純だが画期的な意見は軽んじられていた。ゼンメルヴァイス,それにグラスゴーのジョゼフ・リスター[19世紀後半に外科手術用具の消毒を提唱]といった先駆者たちがやっと科学者たちに真剣に受け取ってもらえるのは,1870年代と80年代にドイツでローベルト・コッホが,フランスではルイ・パストゥールが,それぞれ細菌学を発展させてからになる。それでもまだ公衆衛生担当官や訪問看護師は,古い瘴気説を説き続けており,生ゴミや排水口や換気のことばかり気にしていた。20世紀のはじめまでには,細菌理論や接触感染理論が大勢を占めるようになった。これは革命的な概念だったのだが,サルファ剤や抗生物質が開発されるようになるのは,やっと1930年代や40年代になってからで,それまでは恐ろしい見通しでしかなかった。細菌と戦うほぼ唯一の方法といえば,洗い落とすことだった。体をきれいにする習慣がどんどん広まるようになり,人々が水だけでなく石鹸も使うようになりだすと,大西洋の両側の石鹸製造業者たちは,植物性のオイルから値段が手ごろで肌にやさしい製品を作り出そうと躍起になった。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.228-229

いずれは

 まず第1の日本国債を日本国民が購入しているから安心だという点ですが,確かに,為替リスクのない日本国民が日本国債を購入している以上,海外投資家に比べて,相対的にリスクに敏感に反応していないということは言えます。この点は,ギリシャや他のEU諸国と大いに違う点であることは正しい主張です。
 しかしながら,問題は,むしろ今後の話です。既に述べたように,高齢化で国内の家計金融資産が減少し,財政赤字が続いて債務が上昇してゆく中では,いずれ日本国民が購入できる限界を超え,海外投資家に国債購入を依存する状況になると思われます。95.4パーセントの国内保有率ということは,裏を返せば,日本国債は,海外投資家にとっては,ほとんど魅力がない資産であるということです。魅力を感じない海外投資家に購入を頼る時代になれば,それだけ金利も高くする必要がありますし,ちょっとしたリスクに敏感に反応される可能性も高いものと思われます。
 また,いくら日本国債の国内保有率が高いとはいっても,その6割以上は,銀行や保険会社,証券会社などの機関投資家であり,(愛国心のある?)個人投資家ではありません。機関投資家は,銀行であれば少しでも高い預金金利,保険会社や証券会社であれば少しでも高い収益率を求められて競争しているのですから,リスクを感じたときの行動変化は非常に早く,激しいものと思われます。つまり,日本国債のリスクに何らかの変化があれば,個人とは異なり,あっという間に売り抜けようとするはずですから,とても安心できる存在とは言えません。2010年度の「経済財政白書」も,国債の国内保有率と国債金利の間に何の関係もないことを報告しています。

鈴木 亘 (2010). 財政危機と社会保障 講談社 pp. 52-53

ハードランディング

 ひとたび国債の大暴落が起きれば,国債を大量に保有している銀行や証券会社の倒産が相次ぎ,ペイオフで守られている1000万円以上の銀行預金は失われることになるでしょう。もちろん,小口銀行を直接保有している国民も大打撃を受けることになります。また,国内の全ての銀行が深刻な経営危機を迎える状況になれば,法律改正によって,もはや,ペイオフすらも守られるかどうか,定かではないと言えます。
 さらに,現在のユーロ安同様,金融危機によって円安が急速に進みますから,輸入品の価格が上昇してインフレーションが起きます。このインフレによって,国債の価値はいっそう下落することになります。また,円安予想によってさらに海外の投資家が国債を投げ売りします。当然,これらの事態によって,国内の景気は急落して,ますます円安,国債価格下落が続くでしょう。このように,国債の大暴落によって,家計金融資産の大半が失われ,最終的に政府債務の解消が行なわれるというのが,最悪のハードランディングのシナリオです。
 もちろん,政府がもっと早い時期に「借金を返さない」とデフォルト宣言を行っても,国債は紙くず同然の価値になりますから,同様にハードランディングのシナリオと言えます。

鈴木 亘 (2010). 財政危機と社会保障 講談社 pp. 48

雇用を増やすには

 雇用基盤の縮小を食い止めることは簡単だ。労働力を節減するような技術を使わなければいいのである。果物輸送のために電車やトラックを使うことを禁止すれば,健全な肉体を持った男性をすべて運搬要員として雇うことができるだろう。あるいは,現代の農業技術を使うのをやめれば,私達はみな農民として雇用されるかもしれない(この方法に関しては,フィデル・カストロがよく知っている)。
 その通り,私たちは全員,食物を育てるという仕事を得るのである。だが,そうすると私たちが手に入れられるものは,食物だけになってしまう。考えてみよう。1910年には1355万5000人が農場で働いていたが,1970年までにその数は452万3000人に減少した。農業における雇用基盤の縮小を嘆くべきだろうか。いや,嘆くことはない。同じ期間で,1人の農民が供給できる食物の量が7人分から79人分に上昇した。その結果,その分の農場労働者が開放されて,他のものを生産するようになった——たとえば,先進の通信技術などだ。これこそが,先進社会における雇用の本当の目的なのである。単に人を忙しくさせておくことが目的なのではない。

マリリン・ヴォス・サヴァント 東方雅美(訳) (2002). 気がつかなかった数字の罠:論理思考力トレーニング法 中央経済社 pp.146

到達点は

 現在の「成功者」たちの到達点は,死ぬまで金の心配をすることなく,遊んで暮らすことである。いかにも凡庸ではないか。歴史上,贅の限りをつくした人間はいる。しかし欲望の限界は頭打ちだから,かれらがやったことといえば,大雑把にいえば,小さなものを大きくしたこと(狭いものを広くしたこと)と,モノを人より数多く所有しただけにすぎない。たったこれだけのことである。金は100倍になっても,胃袋が100倍の大きさになったわけではないのである。現在でも事情は変わらない。小さい家を大きく広くし,車1台を10台にしただけである。1泊2日の小旅行を30泊31日や半年間の海外旅行にしただけである。その差が大きいのだ,といおうというまいと,大差ない。満足度にも楽しさにも,大差はない。

勢古浩爾 (2010). ビジネス書大バカ事典 三五館 pp.296-297

人のためか

 銀行のいうことなどまったく当てにならない。いったい赤の他人である銀行が,どんな良心や思いやりや人助けから,赤の他人であるあなたの資産を増やしてあげましょうか,というのだろう(そんな銀行マンがいてほしいものだが)。ありうるはうがない。自分たちの成績アップのために決まっているのである。セミナーで高額配当をブチ上げる詐欺師,英会話勧誘,絵画販売も同様。だれもあなたの資産を増やし,英会話がうまくなってほしいと願い,絵画で心が豊かになってほしいなんて思っている人間はいないのである。
 ビジネス書「もどき」の著者たちもおなじであろう。本書の冒頭で,なぜビジネス書を読むのか?と問うた。おなじように今度は,なぜ成功者たちはビジネス書「もどき」を書くのか?と問うべきである。実際,かれらはなんの用があって,「もどき本」を書くのだろうか。あなたに「成功」してもらいたい,「金持ち」になってもらいたい,「脳力」がアップしてほしい,なんて思うわけがないのである。

勢古浩爾 (2010). ビジネス書大バカ事典 三五館 pp.285

必死

 大金を掴んだ人たちが口々にいうのは,嫌なやつにもう頭を下げなくていい,ということだ。生活のために嫌な上司や客,嫌な会社にもう尻尾を振らなくていい。金を稼ぐ苦労もしなくていい。毎日好きなことをして暮らせる「自由」が手に入るからだ。もう1つある。右のことの延長で,金のことを忘れていられる,ということである。もはや金の心配をしなくていいということは,なんと「自由」であることか。
 ところが,金があればあったで,心配があるようである。金が減り続けることである。だから,またかれらはいう。「成功」とは大金を掴むことではない。金の源泉が涸渇しないように,金が入ってくる仕組みを作って,自分が遊んでいても,金の流れが途切れないようにすること,つまり宝くじのような一過性のものではなく,金を持ち続けることが「成功」であると。かれらはかれらで,金の流れが止まることを心配しているのである。その流れが止まらないように,必死,のように見える。

勢古浩爾 (2010). ビジネス書大バカ事典 三五館 pp.112-113

韓国の回復

 国中が,逆ゴールドラッシュで大騒ぎになっていた。つい最近まで世界でも有数の裕福な国と思われていた韓国だが,このちょうど1か月前,財政破綻を回避するため,IMF(国際通貨基金)に580億ドルの緊急支援を要請するという屈辱的な状況に至った。財政の失敗,企業の過剰な借金,狡猾な海外の投機家による巨額のウォン売りなどによって屈辱を受けた韓国の国民は,ついに立ち上がった。プロ野球のスター選手はトロフィーを手放し,学校の教師たちは金の鍵を差し出した。企業のトップや,その他の民間人も,デパートや,混みあう教会の地下室や,銀行へ足を運び,金や銀を供出した。
 供出された金を溶かして,延べ棒に加工し,海外で売却すれば,ウォンの価値が高まり,IMFへの借金返済が加速されるはずだった。「金供出運動」が展開された48時間で,住宅商業銀行には4万人の国民から3900ポンド(1770キロ)以上の黄金が集まった。韓国の教会もこの運動に参加した。「400万人の信徒に金製品の寄付や売却を呼びかけています」と語ったのは韓国キリスト教会協議会のスポークスマンを務めるキム・ヨンジョ牧師だ。
 この運動で,3週間もしないうちに,150万人を超える一般国民から10億ドル以上に相当する金——約90トン——が集まった。それから3か月もしないうちに,新たに選出された大統領は,韓国の経済体制の総点検を開始し,まず,かつて急速な経済成長を可能にした立役者であった閉鎖的,重商業的な,日本とよく似た「発展モデル」の解体にとりかかった。そして,ここが日本とまったく異なる点だが,危機に直面した金大中新政権は,韓国が30年維持してきた政策をあっという間に転換したのである。外国人投資家の参入を促し,国民に対しては貯蓄よりも消費を奨励した。金大統領の対応はすばやかった。財閥として知られる大規模な同族会社の影響力を弱め,巨額の負債を抱えた企業には破産を宣告し廃業させた。また金政権は,破綻した銀行の試算を売却,再利用するいっぽう,企業が余剰労働者を解雇しやすくなるよう,労働法を改正するといった積極策を展開した。
 これらの驚くべき政策転換は,またたくまに劇的な成果をあげた。2002年,抜本的な改革を開始してからたった4年で,韓国はIMFへの債務を完済した。長年,政府の規制で抑制されていた国内消費は急拡大し,いまでは過剰貯蓄どころか,クレジットカードの過剰債務が大問題になっているほどだ。外国人投資家が韓国の銀行や企業の株式を大量に保有しており——株式市場の40パーセント以上——その結果,韓国企業はいやおうなく国際競争力を強化させられることになった。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.313-315

ヴィトンの行列

 ヴィトン製品をけなすつもりはない。ルイ・ヴィトンの製品は,顧客からかなり高い評価を受けている,一級品ばかりであることは疑いはない。しかし,どこにでもいるようなロワーミドルクラス(中流の下)の日本人たちは,なにゆえ,蒸し暑い夏の朝に,何時間も辛抱強く歩道に並ぶという屈辱的な行動をとるのか,たかがハンドバッグ1つを買うために。若い秘書,主婦,それにほとんど収入のない高校生までが,何日も前から路上に座りこみ,ほかの国ならエリートや上流人士専用の高級品か,でなければ,くだらなくてアホらしい無意味なものとしかみなされない物品を買いもとめようとする,その動機は何か。
 ほかにも,ちぐはぐな点がある。誇示的消費というのは,大金持ちが豊かさを自慢したり,周囲の者にそれとなく自分のステータスを知らせるためのものである。だが,フランスの女子相続人やイタリアの男爵夫人が,高価なハンドバッグを買うために恥を忍んで路上に行列を作るかというと,そんなことをするわけがない。それはとてもはしたないことだ。カルセル(引用者注:最高経営責任者)はOLやアルバイトのみすぼらしい行列に目をやりながら,そのことを認めた。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.223

有力企業の比率

 今日の日本にとって残念なのは,キヤノンやホンダといったアメリカ人がよく知っているブランド,すなわち欧米企業と競争するために独自の革新的な戦略を編みだした有力国際企業がGDPに貢献している割合はたったの10パーセントに過ぎないという事実である。残りの90パーセントは,規制によって高度に保護された国内市場だけで商売をする無名企業によるものだ。かつて日本が新たな産業をゼロから創出するのに役立った不可解なルールが,今では有望な新参参入者たちが低価格でサービスを提供したり,既存の業者に挑戦することを難しくしている。ある日本人起業家が北海道で,アメリカのジェットブルー航空のような格安航空会社(北海道国際航空 エアドゥ)を設立したが,日本政府の政策が原因となって,じきに経営破綻に追いこまれた。米大手玩具チェーン,トイザらスは,日本に大型店舗を展開しようとしたとき,店舗の規模を厳しく制限するという不可解なルールがあることを知った。エコノミストのリチャード・カッツはこう結論している。「産業政策が,勝者と敗者を分けるものだとすれば,日本低迷の本質的原因は,勝者を鼓舞する政策から敗者を保護する政策へと徐々に転換していったことにある」

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.162-163

擬似社会主義国家

 理解が進むにつれて,私には日本が活気に満ちた自由市場などではなく,じつのところは,厳格な統制下にある擬似社会主義国家のように見えてきた。政府の官僚たちは,生産システムの組織化については自分が一番よくわかっていると思いこみ,それに異論を唱える者たちを手ひどい目に遭わせるだけの権力を持っている。企業は原則的に保護されており,規制当局や主要取引銀行のいうことをきちんと守っていれば,倒産の心配はない。日本企業は,差別化に重点をおく戦略を考えたりせず,みんな1つにまとまって,同じようになろうとする。まるで盆栽のように。
 こうした画一的な状況は,流行に抵抗したい,あるいは,自分の創意を頼みとしたいと考える人々の意欲を削ぐものだ。彼らはいつも,ほんとうの主導権は自分にはないと感じている。マルクス主義の理想世界では,すべてのものが同じであり,それらを誰もが手に入れられることになっている。だから各自がその能力に応じて金を払えばいいのだ。だが日本では,一見,すべてのものが同じに見えるが,どれも法外な値段がついている。だから自分の情熱を追求するのに必要な自由を獲得することができるのは,ごく少数の人間だけだ。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.153-154

最小がよいのか

 経済は何でもありで,政府は最小限しか関わらないのがベストで,政府のルール設定も本当に最小にとどめるべきだと考える人々がいる。かれらとわれわれの根本的なちがいはここにある。そのちがいは,経済に対する見方がちがうために生じている。もし人々が完全に合理的であり,完全に経済的な動機だけで行動するなら,われわれだって政府は金融市場にほとんど口を出すなと思うだろうし,総需要水準を決めるときにすらあまり手を出すなと考えるだろう。
 だが実際には,こうしか各種のアニマルスピリットが,時に応じて経済をあっちに押しやりこっちに押しやる。政府が介入しないと,経済は雇用の大変動に苦しむことになる。そして金融市場だって,ときどき大混乱に陥ってしまうのだ。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.263

実際の上昇

 貨幣錯覚もまた,住宅がすばらしい投資だという印象の一部を構成しているようだ。われわれは,はるか昔の住宅購入価格を聞かされる。人々は,それが50年前のことでも,自分が家をいくらで買ったか忘れない。だが,それをはるか昔のほかのものの値段と比べたりはしない。だから今日でも「第二次世界大戦から帰還したとき,この家を1万2000ドルで買ったんだ」などという発言が聞かれる。これを聞くと家を買ってすさまじく儲かったような印象を受ける——だが当時に比べると,消費者物価そのものが10倍にもなっているのだ。この間の住宅価値は,実質では倍増したくらいかもしれない。つまりは年率1.5%ほどの価格上昇でしかない。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.230

文脈の重要性

 こうした結果を一般化してみると,貯蓄を決めるに当たっては,文脈や観点がきわめて重要になってくるのは明らかだ。心理的な枠組みを考えれば,学生たちやハーバード大学の助教授が何を考えているかも見当がつく。両者の貯蓄に対する反応は自分がどんな存在であるべきかという目下の見方を反映している。新任のハーバード大学助教授を考えよう。博士課程を(やっとのことで!)終えたので,当然ながら誇らしく思っている。しかも職場はハーバード大学——世界の大学の頂点だ。考えるのは何よりも,ハーバードに採用してくれた期待に応えることだ——はるか将来の,こともあろうに引退後の話を云々している書類書きなんかどうでもいい。学生たちも似たようなことを内心で考えている。かれらが考えているのは,世界に華々しく打って出ることだ。その時点での思考の枠組みだと,貯蓄率について考えるなどというのは何か変なのだ。キャリアが始まってもいないのに老後を考えるなんて不適切に思えるわけだ。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.184-185

インフレへの反応

 経済学者と一般人はまた,インフレについてどのくらい心配するかという点でも大いに意見が異なる。以下の分に賛成する一般人は86%だが,経済学者だとたった20%だ。「今後数十年で大学教育の費用が何倍になるといった予測を見ると,不安を感じる。こうしたインフレ予測を見ると,自分の所得はこういう費用ほどは上がらないんじゃないかと思う」。一般人と経済学者は「賃金が上がったら,その分だけ物価が上がった場合であっても仕事にやりがいを感じる」という文についての反応もちがう。経済学者の90%はこの文に賛成しないが,一般人だと反対するのは41%にとどまる。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.170-171

弱い相関の中で

 そして統計はまさにそうした関係を示している——しかもかなり強く。経済学は,弱い相関がやたらに出てくる分野だ。国民所得や雇用に関するいちばん優れた経済モデルでも,明日の所得は今日の所得にトレンド調整をかけたもの(つまり所得はトレンドに対して「ランダムウォーク」),といういい加減な予測に比べて,ほとんどましにならない。教育と経験を併せても,週給差を比較的わずかしか説明できないのも知っている。だがそれに対し,失業が増えると,辞職ははっきりと経る。辞職と失業の間の単純相関だけで,変動の4分の3が説明できてしまう。失業が1パーセントポイント上がると,従業員100人当たりの辞職数は1.26件減る。この辞職率の変化は,失業がまさに市場の捌ける(市場が均衡する)金額を超える賃金によって生じているのだとわかる。これはもちろん,効率賃金理論の予測とずばり対応している。この見方によれば,失業が上がれば労働の需給ギャップが増す。既存賃金で働いている人々は,自分がラッキーだと悟る。転職したら給料がどうなるかがわからないから,いまの仕事をなかなかやめようとは思わない。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.156

機会費用

 その他あらゆる商品の需要と同じく,この需要も収入だけでなく,商品の価格やコストにも左右されるはずだ。ここでのコストとは「そうした(無利息の)当座預金を持っているコスト」ということになる。経済学者の大少なお話によると,人々はときどき(無利息の)銀行預金が多すぎたり少なすぎたりしないか考えるのだという。持ちすぎだと思えば,証券とかその他のものを買って銀行預金を減らす。そして少なすぎたら,お金を借りたり支出を抑えたりして,残高を増やす。この検討の頻度は,お金を手元に持つコストに依存する。そのコストとは何か?無利息で銀行に入れるかわりに何か持っていたら稼げるはずのお金が,そしてそれがまさに利子率——お金を手元に置くことによる機会費用だ。利子率はお金を保有することの「値段」なのである。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.114

天才だと思う

 1920年代に起こったのはそういうことらしい。多くの人は本当に,自分たちの成功は自分が投資の天才だからだと信じていたようだ。それが単に,市場全体が上がっていたので何を買っても儲かっただけのことなのははっきりしていたはずなのだが。天才投資家の物語があっさり信じ込まれた。サミュエル・インスルは,当時の伝説の投資家だった。かれの会計士はのちにこう述べている。「銀行家たちは,雑貨屋が主婦にご用ききするみたいな感じで電話してきて,お金を押しつけようとしたんです。マッケンローさん,今日はいいレタスが入ってますぜ。インスルさん,今日は新鮮な緑のお金が入ってますぜ。1000万ドルかそこら投資なさりたい物件があるんじゃないですか?という感じで」。インスルが一見した成功をおさめたのは,多額の借入れによる投資のおかげだったので,大恐慌でそれが崩壊するとかれも破産した。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.98

資本主義の欠点

 だが資本主義の収穫には少なくとも1つ,欠点がある。それは人々の本当に必要とするものを自動的に作りだしてはくれないということだ。資本主義が作るのは,人々が必要だと思っているものだ。みんなが本物の薬に喜んでお金を出すなら,資本主義は本物の薬を作る。でもみんながガマの油に喜んでお金を出すなら,ガマの油を作る。実際,19世紀のアメリカではインチキ特許による製薬が一大産業となっていた。1つだけ例を挙げると,ジョン・D・ロックフェラーの父であるウィリアム・ロックフェラーは巡業詐欺師だった。かれは馬車で町に乗り込み,ビラをまき,呼び込み屋を雇って自分の到来を告げ,町の広場で自分の奇跡の治療について講演を行い,ホテルの部屋で顧客に謁見した。ロックフェラーの父親には詐欺の才能があったようだ。かれの息子はその遺伝子をもっと建設的なものへと向けた。その事業もまた毀誉褒貶激しいものではあったが。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.38

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