I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

先祖崇拝=水田

 日本にも,ヨーロッパの村落共同体に似たものはあった。しかし,そこでは,個々の農家の独立性ははるかに高い。水田の場合は,地力を落とさないためには,休耕どころか,逆に,毎年連作する方が望ましい。そうしないと,雑草が繁茂して,水田はたちまち荒廃する。だから,水田の安定度は高く,はやくから個別占取の対象であった。比較的高い穀物生産力水準が維持できたのは,第一次的には,むかしから耕作を欠かさずにきた「ご先祖さま」の努力のおかげである。村落共同体は,水利灌漑,共同林野の利用など,いわば第二次的関係において,個別的な農民経営に介入するにすぎない。日本で家族意識や祖先崇拝が根づよく温存されたのは,一つには,そのせいではなかろうか。


 これに対して,もともと耕地の不安定なヨーロッパでは,日本とちがって,「これこそ先祖伝来の田畑」といった観念は,なかなかでてこない。そこでは,毎年穀物生産のつづけられることをだれかに感謝しなければならないとすれば,その相手は死んでしまった過去の祖先ではない。現在すぐ近くに居住し,たえず接触している村の仲間であった。「死んだ祖先」より「生きている村の仲間」の方がはるかにだいじであった。だから,ヨーロッパ人は,なかなか,日本人の「祖先との一体感」や「祖先崇拝」を理解できない。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 127-128


労働組合の形態

 たとえば,労働組合のあり方がそうである。現在では,労働組合の組織率自体は,日本と欧米諸国のあいだに大差はない。けれども,組合の形態や構成はずいぶんちがう。日本の労働組合は,ほとんどすべて,企業もしくは会社単位に結成される企業別組合である。特定の企業なり会社なりの従業員であることが組合加入の要件で,なにかの都合から企業や会社を退職すれば,同時に組合員ではなくなる。従業員イコール組合員である。


 このようなものは,欧米の概念からすれば,いわゆる「御用組合」で,ほんとうの労働組合ではない。欧米諸国の労働組合は,原則として,同職の労働者や同じ産業に所属するものの横断組織で,ある組合員がどの企業のどの会社の従業員であるかは,さしあたり問題でない。反対に,同じ企業,同じ会社につとめていても,職種がちがえば,別の組合に属している例はいくつもある。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 104


身分と学校の区別

 日本で義務教育といえば,金持の子も貧乏人の子も,同じ小学校に通うことだと理解されやすい。やがては上級学校にすすんで社会の指導者になる人物も,初等教育の段階では,かならず貧しい家の子と机をならべることを強制された。明治時代からそうである。


 ヨーロッパでは,とてもこのようにはいかない。上級学校(大学)にすすむ上層階級の子弟とそうでないものとは,はじめから別扱いであった。日本の高等学校にあたるパブリック・スクール(イギリス),リセ(フランス),ギムナジウム(ドイツ)などが小学校課程をもち,上層階級の子弟はそこに収容された。だから,ヨーロッパの義務教育では,もともと,これらの連中は勘定にはいっていない。義務教育とは,本来,ほっておけば文盲のまま一生を終わりかねない下層階級のために,無償の初等教育機関をつくってやり,そこに就学を強制することであった。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 101


断絶と連続

 こうなると,日本とヨーロッパの支配階級のあり方がちがうのは,根源的には,強烈な断絶論理があるかないかである。断絶論理のない日本では,支配・被支配関係はあまりはっきりしない。支配者とも被支配者ともつかないものが大量に存在し,そのような連中までが支配階級に格付けされる。いいかえれば,支配階級と非支配階級は,なだらかな曲線によって相互に移行するのである。


 これに対して,動物,非ヨーロッパ人,ユダヤ人を順次疎外していくヨーロッパの強烈な断然論理が,さいごに「ほんとうの人間」として残すのは,ごく少数の支配階級だけである。支配者と被支配者ははっきりした一線によって劃され,どちらともつかないあいまいな存在はない。支配階級はあくまで孤高の特権階級で,必要もないのに,ほかの連中をよせつけたりはしない。


 このことは,支配者の理想像を比較すれば,いちだんとあきらかになる。過去の日本で名君とたたえられた人物は,ほとんど例外なしに,質素な生活の実践者である。倹約であることを支配者の資質にかかげる政治論も多い。実際にはぜいたくのかぎりをつくした支配者も大勢いるが,そのような人物はけっして理想化されたりはしなかった。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 91-92


逆方向

 日本でも,もちろん,結婚にかんする親等制限はあった。しかし,伝統的にかなりゆるやかで,過去にさかのぼるほどそうである。神話時代には兄弟・姉妹の結婚の例があるし,鎌倉時代まで,異父母の兄弟・姉妹の結婚は可能であった。江戸時代になって,ようやく,「オジと姪」,「オバと甥」の結婚が禁止され,また養親子,婚姻関係も血縁関係に準じて扱われるようになった。


 これに対して,ヨーロッパの親等制限は,単にきびしいだけでなく,歴史的にみると,ちょうど日本の逆である。古い時代になるほどうるさくなる。9世紀から12世紀のころまでは,日本民法のやり方で計算すれば,14親等の間柄まで結婚できなかった。13世紀になって,やっと禁止範囲が8親等以内に縮小した。現在のカトリック教会法ではそれがさらにゆるやかになり,直系全部と6親等内の傍系血族,4親等内の傍系姻族だけが禁止の対象である(カトリック教会の親等計算方法は特殊なので,一般的な形で正確に日本民法にあわせることはできない。以上の親等数は,すべて概数である)。それでも,このゆるくなった現在さえ,日本よりはきつい。たとえば,従兄弟・従姉妹同志は,原則として結婚できないことになっている。


 現在のことはさておき,過去の14親等あるいは8親等という制限は,一口にいえばなんでもないようでも,実際はたいへんなことである。社会移動がすくなく,かぎられた地域から配偶者をえらばなければならない時代のことで,うっかりしていれば,たちまち制限にひっかかる。なにも知らないで結婚したところ,あとでその結婚が無効だとわかるような場合もおこりかねない。また,離婚したいと思って,相手の近親関係を綿密にしらべなおしたところ,首尾よく親等制限にかかった,という悪意ある場合も十分に予想できる。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 75-76


残酷の意味

 このような相違は,「残酷」という言葉の意味・内容が,日本人とヨーロッパ人とではまるでちがうからである。動物愛護というと,日本人は,ともすれば,動物を人間と同じように扱い,動物を絶対に殺さないことだ,と考えやすい。なかには菜食主義を動物愛護の極致だと主張したりする人もたくさんある。


 欧米諸国の動物愛護運動は,そうではない。そこでは動物を殺すこと自体はけっして残酷ではない。残酷なのは不必要な苦痛をあたえることである。たとえば,「国際動物愛護協会」(ISPA)の設立趣意書には,つぎのような一節がある。


 老齢,疾病,無能その他で役にたたなくなった家畜を遺棄してはならない。獣医のてきとうな治療にまかせるべきである。そして,休息の場を与えるか,それができなければ安楽死さすべきである。


 事実,ヨーロッパ人なら,飼犬などの面倒をみきれなくなると,あっさりと殺してしまう。しかし,日本人はちがう。殺すのは残酷だと考え,だれかが拾ってくれるのをあてにして,生かしたまま捨てる。その結果は野犬の増加である。ヨーロッパ人にはこれがわからないという。かれらにとって,飼犬を野犬にするぐらい残酷なことはないのである。ちなみに,欧米諸国の動物愛護団体は,動物を安楽死さすための獣医をかかえているのがふつうである。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 55-56


主従はない

 日本は無畜農業,ヨーロッパは有畜農業とする比較のやり方も,かならずしも実情を十分に説明するものではない。こうしたとらえ方は,日本人の立場では,ともすれば,穀物生産を農業の主体と考え,それが無畜であるか有畜であるかを論じることになりやすい。ところが,ヨーロッパでは。家畜飼育と穀物栽培のどちらが主で,どちらが従であるか,そう簡単には決められない。主食と副食の区別がないのと同じように,両者はむしろ対等関係にある。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 43-44


農業ではなく園芸

 明治以来,こうした日本農民の重労働を見て,欧米諸国の農学者は,よく,日本の水田耕作は農業(agriculture)でなくて園芸(gardening)であると指摘した。かれらの観念によれば,犁耕・施肥によって耕地をととのえてから種子をまき,あとは収穫までほっておくのが農業である。播種と収穫のあいだにやたらと手間がかかるのは,園芸だけである。かれらによれば,日本の水田耕作は,まさにそうした範疇に入るものであった。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 38-39


生産力のため

 徳川時代というと,すぐ五公五民とか六公四民といった調子で,ひどくしいたげられた農民の姿が浮かぶが,考えてみれば,その原因の一半は,水田のこうした異常な生産力の高さにある。いくら政治権力が暴虐でも,生産力の低いところでは,とても,収穫物の半分以上を横取りすることはできない。もし,そんなことを強行すれば,支配の対象となる農民が死にたえて,結局,とも倒れになるだけである。日本の農民は,生産力が高いがゆえにいじめられるという,妙なジレンマにおいこまれていたわけである。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 35-36


意思疎通

 何とも珍妙な対話である。当事者は真剣かもしれないが,お互いの意志はさっぱり疎通しない。ハリスの申し出を受けた日本側にしても,牛の乳は牛の仔が飲むものとばかり思っていたところ,人間が,しかも人間の大人がそれを飲むと聞いては,開いた口がふさがらない。いわんや,アメリカ政府の代表に,自分で牛乳をしぼってもよいといわれては,まともな返事のしようがない。また,家畜は小舎で飼うと決まっているのに,そこら辺の野山に放し飼いしてもよいか,とたずねられては,びっくり仰天せざるをえない。相手の身になって考えてやろうにも。相手の真意がすこしもわからない。


 その後もこのようなことがつづき,ハリスはすっかりまいったらしい。日記を見ると,身体の変調をさかんに訴え,強いられた粗食をなげいている。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 23


主食と副食

 したがって,日本とヨーロッパの肉食率を大きくへだてるのは,食生活パターンが,主食と副食を区別するか,しないかの一点につきる。日本人が主食観念に固着するかぎり,いくら表面上の洋風化がすすんでも,高い穀類・いも類依存率,したがって低い動物性食品依存率という状態は,そうかわらない。主食だけであるていど満足するから,結構,ままごと肉食でやっていけるのである。


 もちろん,主食の内容は無理に米飯でなくともよい。米飯をパンに切りかえても,パンを主食ないしはそれに準ずるものとして扱うかぎり,事態は同じである。ただ,主食としてみれば,両者の優劣ははっきりしている。水分のすくない,カサカサしたパンは,とても,米飯のような調子で,大量にのどを通すわけにはいかない。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 11-12


主食が不明瞭

 ところが,肉食率の高いヨーロッパでは,主食的なものがどれか,あまりはっきりしない。パンの役割は日本の米飯とまるでちがう。このことは,いわゆる西洋料理のコースのすすめ方をみてもわかる。パンを食べるのは,ポタージュ(スープ)がおわってから,肉・魚・チキン料理が出ているあいだだけである。サラダを食べはじめたら,残っているパンはもっていかれてしまう。あとで日本の漬物のかわりにチーズをつまむことがあるが,このときにもパンはない。全体からみれば,パンはいわばおそえものにすぎない。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 10-11


因子スコア

 一般に,因子分析を経て選定された尺度上での評定値から当該尺度の帰属因子に関する概括値を導く過程を因子スコア化と呼び,概括値自身を因子スコアと呼ぶ。要は,各尺度上での評定値から次元ごとの値を求めることに他ならないが,概括の仕方としてさまざまなものが提議されており因子スコアなる概念を用いて語り合っているうちにやがて互いが全く異なる内包を指していた点に気づくといった例も稀でない。特に頻繁に生ずるのは,(1) 因子分析の結果から或る因子の代理者として特定の複数尺度を選んだことに重点をおき,当該因子の代理者と見做された複数尺度上での評定値を単純に平均する因子スコア概念,(2) 各尺度上での評定値へ当該尺度に関する因子別負荷量を乗じていったん因子ごとに値を按分し,その後因子別に按分された値を累積していく因子スコア概念,の両者間での喰いちがいである。



岩下豊彦 (1983). SD法によるイメージの測定 川島書店 pp. 123-124


因子の回転

 ここで「なぜこうした回転が行なわれるか」についての問を想定するのが妥当というものであろうが,事柄は至極簡単なことに留まる。つまり,相関行列を数学的に共通性をもった因子へと分解するのが因子分析であり,その結果得られた因子と各尺度との関係に着目しながら因子のもつ意味を探ろうとするのが因子軸の回転なのである。因子分析があらゆる尺度間の相関関係を配慮に入れて数学的に因子へと分解していく過程であるのに対し,因子軸の回転は,因子分析結果で得られた因子と各尺度との関係の強弱(因子負荷量)を資料として因子の意味が鮮明になるようアクセント付けを行なう作業であるといってさしつかえなかろう。



岩下豊彦 (1983). SD法によるイメージの測定 川島書店 pp. 97-98


因子分析の起源

 因子分析は,スピアマンが知能の研究(Spearman, 1904)において,「複数のテストに共通する知能の一般因子<g-factor>の存在」を主張した際採られた数学的処理を起源とする。スピアマンによって報告された6つの相関行列は表2-3のようなものであり,各種テスト間で決して低いと判断し得ぬ相関を示していることに拠って,「(1)どのテストも何か共通した知的能力を幾分かずつ測定している,(2)それぞれのテストが共通の知的能力以外に当該テスト特有の知的能力を測定しているためこれらの相関係数が1.0にならない」との示唆を得,当該テストが他の共通した知的能力を測定している部分を一般因子,測定している程度を一般因子負荷量,また,当該テストが特有の知的能力を測定している部分を特殊因子,測定している程度を特殊因子負荷量と呼ぶと共に各々の負荷量を算出するに至ったのが,それに他ならない。仮にスピアマンが表2-8のような結果(おれは全く架空の値である)を得ていたとしたら,彼は「知能には2つの主要な共通因子がある」と結論づけたであろう。



岩下豊彦 (1983). SD法によるイメージの測定 川島書店 pp. 63


対極の置き方

 尤も,対極性に関しては,或る程度まで辞典に記載されている反意語などが参考になるので,とりあえずそうした資料を利用すればよい。「明るい」の反対が「暗い」であるといったことは,かなりの適切さを以て判断し得るといえよう。問題は,反意語が何とおりもある場合である。たとえば,「しみじみとした」の反対が「浮き浮きした」なのか,それとも「わくわくした」なのか,簡単には決められない。また,或る2つの形容語が仮に座標軸上の原点を中心として両側に位置づけられる関係にあるとしても,原点からの距離が相互に等しいかどうかという段になると,事は一層厄介となる。こうした場合,一体,どのような解決方法が考えられ得ようか。



岩下豊彦 (1983). SD法によるイメージの測定 川島書店 pp. 50


概念把握方法

 人が或る刺激の認識に伴って表象する概念を直接的に把握する手法は,それまでにも数多くあった。(1) 自由連想法,(2) 制限連想法,(3) 評定法,等々である。しかし,たとえば「オートバイについてどんなことを思い浮かべますか」と問う自由連想法は,オートバイをめぐるさまざまな先行経験の中から特にそれらが想起されるに至ったという意味での自発性と重要性とをもつ反応が得られる反面,同一対象をめぐる他者の反応結果と比較したり,同一人物における他の対象への反応結果と比較したりする場合の共通項が得がたいといった難点を抱え,たとえば「オートバイについてどんなことを思い浮かべるか,次の中から該当するものを選んでください」と問う制限連想法は,反応結果を相互比較する際の共通項が揃えられる反面,それぞれの選択肢がその者のオートバイに対する反応の可能性をどの程度網羅していたかに関し保証し得ないといった難点,および,選択された反応項目ごとに当人該当性の程度がちぐはぐとなる危険が伴うといった難点を抱え,たとえば「オートバイについての次の諸反応がそれぞれあなたにとってどの程度ぴったりしているか,各反応項目ごとに用意されている‘非常にそう思う’から’全くそう思わない’の7段階尺度上で判断してください」と問う評定法は,反応項目それぞれに対する当人該当性の程度を知り得る反面,反応項目の網羅性に関する保証の点で何ら改善がなされていない難点を抱えていた。SD法が或る対象をめぐる表象内容の測定法として広く普及をみたのは故なきことではない。SD法は,いったん,夥しい数の反応項目を用意したうえで因子分析に拠りそれらを整理し,次に,整理された各群から代表的な反応項目を選びそれぞれへの評定を求める場へ臨む,という2段構えの手続をとることで,“或る対象をめぐる連想反応の主要な範囲を網羅した項目を設け,そのうえで各反応項目についての当人該当性を調べる方法”を確立したのである。



岩下豊彦 (1983). SD法によるイメージの測定 川島書店 pp. 16-17


受験勉強の意義

 大学進学経験のない親にとって,大学受験や大学そのものは未知の世界であり,受験勉強を含めた大学進学のプロセスを自らの経験としては有していない可能性が高い。そこで,高校または大学を併設するなど,「その後の受験勉強をしないで済む」小学校を選択,合格すれば,その時点で将来の学歴が保証されると確信しているのだろう。つまり,同一学校法人内で小学校から大学まで進学できれば,父親はじめ家族が大学進学に求められる情報や経験を子どもに提供する必要がなくなり,父親の大学非進学経験が小学校受験以降の子どもの教育や進学においては無化されることになる。それとは対照的に,高学歴のホワイトカラー層に就く父親ほど,高校あるいは大学進学時の受験勉強の経験や受験学力の意義を是認する傾向が読みとれる。
小針 誠 (2015). <お受験>の歴史学:選択される私立小学校 選抜される親と子 講談社 pp. 208

縁故者の入学

 私立小学校が自発的結社である以上,その運営には,授業料負担能力など入学者や在学者の家庭背景に大きく異存せざるを得ない。それのみならず,入学者は私立小学校の教育理念の理解者または支持者であることが望ましい。それは,保護者自身が卒業生,学校関係者(教職員や卒業生など)であったり,兄弟が在校生・卒業生などと重なることも少なくない。そのような「縁故のある」子どもを入学させることは,子どもを取り巻く家庭背景・環境をあらかじめ想定できるばかりか,入学後にともすれば起こりうる退学や問題行動など,諸々のリスクを回避ないし軽減できるという点では,有効な選抜手段の一つであるともいえるのである。
小針 誠 (2015). <お受験>の歴史学:選択される私立小学校 選抜される親と子 講談社 pp. 172

入学準備教育

 私立(小)学校,中でも大正新教育運動を背景に誕生した新学校の多くは,知識の詰め込み主義や受験体制,学歴社会の問題を痛烈に批判し,その代わりにリベラルな教育を目指した。しかし,入学選抜考査の導入によって,入学選抜は幼児期にまで低年齢化し,考査で求められる知識や技能の詰め込みを子どもに強いることになった。私立小学校の多くは児童中心主義の新教育を理念として標榜・実践し,中等学校の入試に向けた知識の詰め込み教育を否定・批判する一方,小学校の入学選抜考査の導入・実施を通じて,幼児期の子どもに,入学準備教育という「詰め込み」を強いることになってしまった。さらに,それが学歴主義の強化につながった側面も否定できない。ここに新教育や新学校における逆説の一つを見いだすことができるのである。
小針 誠 (2015). <お受験>の歴史学:選択される私立小学校 選抜される親と子 講談社 pp. 130

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