I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「マスメディア」の記事一覧

報道のバイアス

イスラムについて不正確で偏見に満ちた情報を流布する欧米諸国のジャーナリストや知識人。そして,欧米の支援を背景に持つ強圧的な政府に擦り寄るムスリム諸国のイスラム指導者たち。彼らこそ反イスラム感情を市民の間に醸成する原因と私は考えます。イスラム・フォビアwp煽っている点ではムスリム諸国も同じ問題を抱えているのです。
 「イスラムは危ない」と漠然と信じている人は日本に限らず世界中にいます。その状況では,あらゆるデマや嘘や誇張が,流布,拡散する可能性は低くありません。イスラム世界を考えるとき,欧米から発信される報道のバイアスを意識する必要があります。

内藤正典 (2015). イスラム戦争:中東崩壊と欧米の敗北 集英社 pp.86-87

「双子の大半は超能力者」?

お昼時のテレビ番組のプロデューサーは,超能力があると自称する双子に弱いらしく,わたしにもよく,そんな双子を紹介してくれないか,と頼んでくる。しかし,実のところわたしたちが調べた一卵性双生児の66パーセントは,自分には超能力はない,と断言した。当然ながら,このようなメディアから見て「つまらない」双子がテレビに登場して,「双子の大半は超能力者だ」という見方に異を唱えるようなことはないのだ。また,超能力心理学者と広告業者は,人間が(潜在意識や無自覚の刺激に導かれて)無意識の選択をすることを知っている。たとえば,自分とよく似た名前の友人を選びがちで,子どもや犬の名前にも何らかのこだわりがある。また,商品を選ぶ際にも,どこか馴染み深く思える商品を選びがちだ。

ティム・スペクター 野中香方子(訳) (2014). 双子の遺伝子:「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける ダイヤモンド社 pp.21

基準値の○倍

ここからいえることは,「基準値の○○倍!」とメディアなどで頻出する表現から判断できることは,ほとんど何もない,ということである。同じ水中亜鉛濃度の基準であっても,何の基準値かによって意味がまったく異なり,基準値を超えたときに何が起こるかもまったく異なる。また,排水中の亜鉛濃度が1mg/Lだった場合に「排水基準の2分の1」と表現すべきところを「環境基準の30倍」と表現すれば,悪意を持った不安誘導と捉えられかねない。
 基準値の根拠を知ることは,このような場合の判断材料として非常に有効だろう。

村上道夫・永井孝志・小野恭子・岸本充生 (2014). 基準値のからくり:安全はこうして数字になった 講談社 pp.215

データの加工

続いて巧妙な方法の反論も出てきた。わたしたちの論文掲載から2週間後のこと,ショック療法を支持していた英エコノミスト誌が論説で「間違いはあったが,それはロシアの改革が速すぎたことではなく,遅すぎたことだ」とし,わたしたちの研究結果を否定した。しかもこの論説の執筆者たちはデータを巧みに扱って,ロシアの“死亡危機”を消してみせた。5年移動平均をとることで(5年というのも効果を考えて選んでいる)1990年代の平均寿命の推移を平滑化し,極端な低下(つまり死亡率の急上昇)などなかったかのようにしてしまった。移動平均を意図的に使えばこうして簡単に嘘がつけるのだが,学生が期末論文でこんな手を使ったら学長に呼び出される。1930年代のスターリンはペンを走らせるだけで何百万人も死に追いやったが,英エコノミスト誌はマウスをクリックするだけで何百万人もの死者をよみがえらせた。

デヴィッド・スタックラー,サンジェイ・バス 橘 明美・臼井美子(訳) (2014). 経済政策で人は死ぬか?:公衆衛生学から見た不況対策 草思社 pp.83-84

「かわいそうな学生」報道

メディアはかわいそうな話が大好きだ。何社も落ちて疲れている学生の光景ばかりを取り上げる。「就活かわいそう報道」は,実際の就活は多様化しているのに,型にはまった部分だけ取り出して,その型を再生産し,学生を萎縮させているというのが事実ではないだろうか。

常見陽平 (2013). 「就社志向」の研究:なぜ若者は会社にしがみつくのか 角川書店 pp.150-151

公平・公正

 私が,今回の未履修問題で一番笑ってしまったのは,未履修の対応策を協議する際に,マスコミも,文科省や教育委員会などの行政側も,政治家たちも,「不公平」を口にしたことだ。甘い措置をしたら世界史を履修した生徒が「損をする」。不心得者が「得をする」。そうしたことがないようにすべきだ。それが「公平・公正」だ。
 しかし,こうした「損・得」で考える思考こそ,学歴社会の中で「ゆがんだ」学習をしてきた人間の発想だろう。本来は「得」をしたのは世界史を学習できた高校生ではないのか。また,ここにある「公平・公正」の考えこそ,横並びでしかものを考えられない人たちの古い価値観なのだ。みなが高校に進学することを「公平」だと単純に信じられている人たちなのだろう。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.40

それは違う

 一体,マスコミは何を問題にしていたのだろうか。
 彼らは未履修問題を「悪]として報じていた。なぜか。それが学習指導要領に「違反」するからだ。さらには,違反した理由がけしからん,と言うのだ。それは受験指導のためだったからだ。進学校は,進学実績を上げるために奔走し,教員と生徒が一丸となって受験対策に邁進している。そのために,健全な教育がゆがめられている。こうした背景には依然として学歴社会が影を落としており,ゆがんだ受験指導がある。
 これが彼らのイメージなのだろう。しかし,これがまるで違うのだ。
 第1に,大学はすでに全入であり,一部を除けば入ることは簡単なのだ。慥かに東大などの難関校はあるが,今回の未履修で問題になった中で,そうした大学を対象とする進学校は一部でしかない。むしろ問題は,大学受験が多様化などで簡単になりすぎており,それがかえって高校教育の細分化,断片化をもたらしていることなのだ。
 第2に,「教員と生徒が一丸となって受験対策に邁進する」ような高校はいまや日本のどこにも存在しないだろう。高校生はもっとあっけらかんとしており,上位大学への執着は弱い。できるだけ「安全」に,負担を小さく,少しランクを落としてでも,しんどい思いを早く終わりにしたい。そうした高校生に手を焼いているのが実情なのだ。
 第3に,「学歴社会」の重圧など今の高校生は感じていない。多くの場合は無目的で浮遊している。東大を目指している層でも,この点では変わらない。
 マスコミはいまだに,「受験勉強」か「健全な教育」か,「詰め込み」か「ゆとり」か,といった対立軸でしか語れないでいる。もはやこうした古い図式では,今の状況をとらえられないのである。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.37-38

こんなもの

 1995年,右ヒジに違和感を感じて戦列を離れていた頃——。
 中傷の記事は跡を絶たなかった。英語を話せる彼は外国人選手と頻繁に食事に出掛けるだけで「どうせメジャーに行くための英会話の練習だ」と,穿って見られてしまう。投げなければ「仮病だ」と書かれ,挙げ句の果てには手術の直後,「執刀時間が短すぎたのはメスだけ入れて,移植したふりをしただけじゃないのか」などという報道までもがなされた。いったい何のために,そんなことまでする必要があるというのだろうか。ブルペンで140キロを投げれば,本当に手術したのならそんなに出るはずはないという疑惑までもが大真面目に取り上げられ,世の中に出回った。根拠がないにもほどがあるこれらの記事には,さすがの桑田も怒りを通り越して悲しみさえ感じていた。
 女性問題でも桑田は何度か写真週刊誌に掲載されている。しかし,こういった記事も虚実相半ばしていた。この類の記事の中には,よくここまで調べたなというものも確かにある。しかし,いい加減な取材をもとに推測ばかりの記事が書かれているケースも少なくない。例えば1998年の春季キャンプ。ある写真週刊誌で桑田は深夜,宮崎の街を女性と腕を組んで歩き,2人,タクシーで夜の街に消えたと報じられた。女性の目を隠した写真が掲載されているのだが,これは誰が見ても真紀婦人なのだ。いい気分で酔っ払った夫を介抱すれば,腕くらいは組むだろうし,一緒にタクシーにも乗る。この程度の取材で世の中に流れている情報は,枚挙にいとまがないのだ。

石田雄太 (2007). 桑田真澄:ピッチャーズ・バイブル 集英社 pp.258-259

スキャンダル

 ところがそんな桑田を,暴露本というスキャンダルが直撃した。運動具メーカーのある社員が,「ボクは桑田のためにこれだけのことをしてきたのに,アイツはこんなにひどいことをしたんだよ」という,グチをこぼした子供の泣き言がそのまま本になったような,醜悪な1冊だった。そんな本の中の一節が,またまた騒動を生んでしまったのだから,世の中よくわからない。登板日漏洩疑惑,というヤツだ。しかし,これも中身を読めばわかることだが,そんな大袈裟な名前を付けてわざわざ事件っぽくするほどのことではない。知り合いに,明日投げますよ,と言うことが統一契約書の模範行為に抵触するというのなら,新聞記者が明日の先発を関係者から取材して予想することは,模範行為の抵触を誘発していることになる。これも詭弁だとは思うが,それくらいのことなのだ。本にも「明日投げるの,がんばって」と会話を交わした人が,たまたま昔,賭博で有罪判決を受けた「危ない人」と付き合いがあったと書かれているだけで,それがいつしか,「桑田が賭博のために登板日を意図的に漏洩して金銭を受け取ってたりしてね……」という仮定の話にまでエスカレートしてしまっているのだ。しかも情報源は,子供の泣き言のような,あの一個人の書いた1冊だけ。NHKまでが張り切って取材に出向き,「巨人軍の桑田真澄投手が登板日を漏洩していたのではないかとされる問題で」とかなんとか言って,わざわざ夜のニュースで報じるに至っては,当時NHKで現場に携わっていた取材者の1人として,これがジャーナリズムだというのなら,ジャーナリストになれなくて結構,とまで思わされた出来事だった。しかも,そんなことで1千万の罰金だ,1ヵ月の謹慎だと世の中向けに処分を下す球団,事実関係の調査もできないコミッショナー,情報を垂れ流すだけで一方通行の無責任なマスコミ,どれもが正義の味方のような顔をして,弱冠21歳の桑田真澄1人を悪者に仕立て上げたのだ。

石田雄太 (2007). 桑田真澄:ピッチャーズ・バイブル 集英社 pp.255-256

放っておけ

 自分の言いたいことを,相手に考える余裕を与えずに見せちゃうと,一方的な押しつけになる。でも,ある程度の“間”を与えれば,あるレベルの人は考えるから。それで「説明が少ない」とか言うバカは放っておけばいい。そういうやつは,さっきも言ったけど,ハリウッドのエンタテインメントだけ観ていればいいんだよ。

ビートたけし (2012). 間抜けの構造 新潮社 pp.139

ふわっとした感じ

 「編集」には専門の職人さんがいるんだけど,その技術はなかなかすごいもんだよ。例えば,景気よく銃を発砲するシーンがあるとする。「ドン!」と火を噴いた瞬間に,一瞬だけ“白味”を入れる。白味というのはなにも映っていないコマのことで,それを1コマだけ入れるの。そうすると,画面がちょっと「フワッ」となるんだよね。1/24秒で一瞬のことだから,普通に劇場で見ている分には気づくはずがないんだけど,それがあるのとないのとでは,感覚としては大違いになる。

ビートたけし (2012). 間抜けの構造 新潮社 pp.128

2つあります

 討論が上手くなる方法はまだあって,ちょっと長めにしゃべりたいと思ったら,「私の言いたいことは2つあるんですよ」とやる。「3つあります」というと,「おまえ3つもしゃべるのか!」となるから,2つがいい。ひどいやつは,「私の言いたいことは5つあるんです」とか言って,「多いよ!」って突っ込まれる。
 「最後に1つだけ言わせて」というやつも嫌われる。そう言うやつに限って,1つで終わった試しがない。
 「私の言いたいことは2つだけあるんですよ。1つめは〜」とやるんだけど,その1つめは,すごく短くするの。「1つめは,政府の見解には断固反対です」とか。そうやって,「あ,こいつの話はすぐに終わるな」と周りを油断させておいてから,「2つめ」に,自分が本当に言いたいことを長めに主張する。
 討論を聞いていて,「まあまあこの人うまいな」と思わせるのは,だいたいそういうやり方の人だね。

ビートたけし (2012). 間抜けの構造 新潮社 pp.91-92

呼吸するタイミング

 上手い人は,相手が呼吸するタイミングで入ってくるよね。その呼吸の間合いを読むのが上手い。ある人が「僕はね,そういうことはね,」と言って息をすった瞬間に,「いやあ,だけどさ」と入ってこられると,「ウッ」となって,話をとられる。そうやって相手がしゃべるのをつぶす。
 テレビで人気あるキャスターとかアナウンサーは,このあたりの間合いを熟知していて,息継ぎのタイミングをちゃんと研究しているから,みんな上手い。下手な人は,「もっと僕にもしゃべらせてくださいよ」なんて情けないこと言うから,「ちょっとあんたは黙っておいて!」とやられちゃう。呼吸と“間”というのは,だから密接につながっている。

ビートたけし (2012). 間抜けの構造 新潮社 pp.89-90

漫才のスピード

 おいらのときは,漫才のスピードをそれまでの倍にした。B&Bとツービートでジャンジャンジャンジャン速くした。それまでに漫才をしていた人たちの倍は速くしゃべって,そこに何倍もギャグを詰め込んだ。
 今の漫才もどんどんスピードが速くなっているけれど,おいらのときと決定的に違うのは,コンビ2人ともスピードが速いということかな。
 おいらと洋七がバリバリやってたときは,速いのはおいらたちだけで,相方は合間に手拍子入れるぐらいの感覚。なんてったって,きよしさんと洋八は,「紳助竜介」の竜介を加えて「うなずきトリオ」だから。
 おいらがバーっとしゃべって,相方が「ああ,そうです,そうです」とか「なるほど。それで」と言うだけだから,漫才を2倍速くしたといっても,2人して速いわけではなくて,片方が速いだけ。
 それが今の漫才は,ボケとツッコミの両方が速い。コンビが同じ速さでもって掛け合いをしている。そういう意味では,おいらのときよりも漫才自体が速くなっていると言えるし,それができるということは,掛け合いの技術が上がっているということでもあるんだろうね。
 なんでそうなったか。
 思うに,ツッコミが笑いを取ろうとし始めたからじゃないかな。それまでは,ボケが笑いを取って,ツッコミはそのリアクションだったりフォローだったりしたわけだろう。それがどんどん変化して,ボケとツッコミの両方で笑いを取ろうとし始めた。そのあたりが,今の漫才の最大の特徴と言える。

ビートたけし (2012). 間抜けの構造 新潮社 pp.58-59

猟奇性の付与

 むしろ1980年代後半の日本で注目すべきことは,ここまで見てきたような海外の虐待事件を報じる女性週刊誌上で,それまでの「子殺し」や「子捨て」報道とは質的に異なる「猟奇的な児童虐待」という問題の捉え方が定着し,それが広く共有されるようになった点にある。そしてこのようなオカルト的な児童虐待の語り口が,従来から日本にも存在した古典的な「子捨て」「子殺し」事件を報じる誌面にも適用されていくことになった。

佐藤雅浩 (2009). 児童虐待とオカルト—1980年代女性週刊誌における猟奇的虐待報道について— 吉田司雄(編著) オカルトの惑星—1980年代,もう一つの世界地図— 青弓社 pp.183-207

88年から89年

 ここで注意したいのは,前の「女性自身」の記事の見出しに「幼児虐待」という文字が使用され,「チャイルド・アビュウズ」とルビが振られている点である。現在の感覚では何ということはない見出しだが,実は「幼児虐待」「児童虐待」という単語がこの種の大衆誌に使用され始めるのがこの1988年から89年であり,それまでは「子殺し」「子捨て」「子いじめ」「せっかん」などさまざまな言葉で呼ばれていた現象が,ある1つの用語=問題系へと集約されていくのである。事実,前記の記事以外にも,この時期には「幼児虐待!ひどい!ストロー1本で土の中に埋められた坊や」(「女性セブン」1988年11月24日号),「告発幼児虐待!!園児が泣いている!」(「週刊女性」1989年6月6日号),「児童虐待・恐るべき実態!パパ,ママ,殺さないで!!」 (「週刊女性」1989年8月1日号)など,「幼児/児童」と「虐待」という言葉を並置した見出しが量産されている。

佐藤雅浩 (2009). 児童虐待とオカルト—1980年代女性週刊誌における猟奇的虐待報道について— 吉田司雄(編著) オカルトの惑星—1980年代,もう一つの世界地図— 青弓社 pp.183-207

誰が

 福知山線の脱線事故において,事故調査委員会は,運転士がこの日勤教育を恐れて運転中に言い訳を考えていたり,速度超過をしたと指摘している。
 現在の過密輸送ダイヤではミスを犯さないことの方が難しい。まして鉄道員が減らされている現状では,乗務員1人1人の責任が非常に重くなってきている。
 ラッシュ時に多数の乗客がノロノロと乗車すれば遅延が発生するし,それが過密ダイヤなら尚更である。本来なら「安全のため」という一言で,ある程度の遅延や利用客の苦情は押しのけることができるはずだ。しかし,現在の鉄道事情にがんじがらめになった運転士は「安全のため」という言葉よりも,ミスを取り返すことを優先した。そうして事故が発生したのではないだろうか。
 考えてみてほしい。そんな危険と隣り合わせの過密ダイヤを望んだのは誰か。運転士に重圧をかけるような体制にしたのは誰か。それは,利用者であり会社であり時代なのである。
 そして,表面上の報道しかしないメディアの責任も大きいと考えている。

大井 良 (2008). 鉄道噂の真相:現役鉄道員が明かす鉄道のタブー 彩図社 pp.248

タネ本

 この『思考は現実化する』を読むと,種々の「もどき本」のタネ本になっていることがわかる。メンターからの教え,目標の明確化,期限化,それを紙に書く,潜在意識,脳力,引き寄せ,などなどがそれで,「なーんだ。日本の多くのもどき作家たちはみんなこれを読んでパクっているのか」とわかって興ざめである。ちなみにこの本の原題は「Think and Grow Rich 考えて金持ちになる」である。たしかに「成功」を目指してはいるが,そのための方法は基本的に現実的かつ堅実で,普遍的かつ本質的な人間になることの重要性が強調されている。そのことが,この本が一定の価値を持っていることの理由である。

勢古浩爾 (2010). ビジネス書大バカ事典 三五館 pp.92

トリック

 もしわたしが,よし,大ベストセラーを書くぞと決心して,『だれでも必ず成功できる10のルールと幸運がやってくる15の法則とモテるための7つの習慣と頭がよくなる8つの秘訣とダイエット確実の20の方法』という本を書いたとする。わたしの経歴が経歴だからまったく説得力はないだろうが,それを別にしても,この本がタイトル一発でダメなことはあきらかではないか。ところがこれがバラバラになって各論の本になると,読者は「もしかして?」という気持ちになるのである。これが「もどき本」のトリックである。

勢古浩爾 (2010). ビジネス書大バカ事典 三五館 pp.35

パンチの利いた読者層

 では,そんなビジネス書「もどき」をいったいどんな人が読んでいるのか?これが謎だった。今でも謎である。数十万部も売れた「もどき本」はざらにあるのである。大前研一や論理的思考やドラッカーや生産管理や会計学やリストラクチュアリングなどのまともなビジネス書を読んでいた読者が「もどき本」に流れたとは到底考えられない。
 となると「もどき本」の読者は,元々そういう本を好むというか,そういう本しか好まないというか,ややパンチの利いた別種の読者層ということになる。すなわち手相や姓名判断や星座や血液型や宇宙の意志や前世や言霊やパワーストーンといった陣地や合理性を超えたものを信じる傾向にある他力本願の人。もしくは,なんのスキルも情熱もなく,長期間の地味な努力もしたくないが,自分の卑小さを押さえ込んだ大物感という気分を楽に満足させてくれるような一攫千金を夢想する人か。

勢古浩爾 (2010). ビジネス書大バカ事典 三五館 pp.17

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