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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「マスメディア」の記事一覧

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トリック

 もしわたしが,よし,大ベストセラーを書くぞと決心して,『だれでも必ず成功できる10のルールと幸運がやってくる15の法則とモテるための7つの習慣と頭がよくなる8つの秘訣とダイエット確実の20の方法』という本を書いたとする。わたしの経歴が経歴だからまったく説得力はないだろうが,それを別にしても,この本がタイトル一発でダメなことはあきらかではないか。ところがこれがバラバラになって各論の本になると,読者は「もしかして?」という気持ちになるのである。これが「もどき本」のトリックである。

勢古浩爾 (2010). ビジネス書大バカ事典 三五館 pp.35
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パンチの利いた読者層

 では,そんなビジネス書「もどき」をいったいどんな人が読んでいるのか?これが謎だった。今でも謎である。数十万部も売れた「もどき本」はざらにあるのである。大前研一や論理的思考やドラッカーや生産管理や会計学やリストラクチュアリングなどのまともなビジネス書を読んでいた読者が「もどき本」に流れたとは到底考えられない。
 となると「もどき本」の読者は,元々そういう本を好むというか,そういう本しか好まないというか,ややパンチの利いた別種の読者層ということになる。すなわち手相や姓名判断や星座や血液型や宇宙の意志や前世や言霊やパワーストーンといった陣地や合理性を超えたものを信じる傾向にある他力本願の人。もしくは,なんのスキルも情熱もなく,長期間の地味な努力もしたくないが,自分の卑小さを押さえ込んだ大物感という気分を楽に満足させてくれるような一攫千金を夢想する人か。

勢古浩爾 (2010). ビジネス書大バカ事典 三五館 pp.17

スクープは週刊誌へ

 ほんとうの「スクープ」を放つのは,たいていの場合,威勢をふるう「記者クラブ」に加入できない週刊誌である。じつはそうしたスクープは大新聞の記者から漏らされることが多い。自分のところの新聞では公表できないことがわかっているので,ライバルである「スキャンダル雑誌」に流すのである。
 こうした横並び体質にもかかわらず,日本の新聞は影響力が強く,広く読まれている。保守系の読売新聞やリベラルな朝日新聞のような大衆向け新聞の発行部数は,アメリカの大手新聞の8倍から10倍に達する。日本の人口はアメリカの半分にも満たないというのに,である。日本の新聞は地位が高く,割引をいっさい認めず,月に一度,丸一日新聞を印刷せず,輪転機と配達員を休ませる「新聞休刊日」を設けているくらいである。どうやら日本の新聞は,欧米ではおなじみの,独自の調査報道によって,弱きを助け,強きを挫き,一般市民の利益を守るために日夜戦いつづけるというジャーナリズムの伝統を,まったく理解していないようだ。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.178-179

手下になる

 日本人の記者たちは,取材対象である政治家や官僚とのあいだに,驚くほど親密な関係を築きあげる。閣僚や有力な政策決定者の取材を担当する記者たちは,毎朝,その人物の自宅前に詰めかけて,仕事に出かけるその人にあいさつをし,夜も同じように,その人が支援者や同僚たちとの宴会から帰ってくるのを待つ。これは一般に「夜討ち朝駆け」と呼ばれる習慣だが,夜討ちのときには,取材対象である人物が記者たちを家に招き入れてビールをふるまい,「オフレコ」の話をしてくれることがある。ある夜,私は豪腕で知られた当時の内閣官房長官,野中広務の官舎で,厳寒に並んだ靴を数えてみた。20足以上あった。記者たちは大挙して居間に上がりこみ,あるいは冷蔵庫にビールを取りにいった。この夜に何か重大な発言があったとしても,翌日の朝刊には何も載らないのがふつうだ。本来ジャーナリストは独立した分析者であるべきだ。だが日本では,取材対象との関係がそのように親密になりすぎ,やがてはその人物の陰の相談相手あるいは手下のようになってしまうのだ。日本には,公共の利益を守るために日夜戦いつづける独立した監視役はほとんどいない。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.177-178

悪名高い記者クラブ

 日本のマスコミには,悪名高い「記者クラブ」なるものが存在し,主要な中央省庁と一般市民とのあいだの情報流通を妨げている。大手新聞社と主要テレビ局の報道関係者で構成された強力な記者クラブは,それに所属していないジャーナリストを定例記者会見やブリーフィングから締めだす権限を握っている。情報は勝手に広めてはならないのだ。東京に赴任した最初の年,私は当時の菅直人厚生大臣の記者会見場から,襟首をつかまれて引きずり出された。会場に入る前に記者クラブの「キャップ」にきちんと許可を求めなかった,というのが理由だった。フリーランスのジャーナリストや私のような外国特派員は,ブリーフィングや記者会見を取材したいときには事前に特別の許可を求めなければならず,しかも,しばしば断られる。
 記者クラブのメンバーたちは,よく1か所に集まって,ニュースをどのように報道するかを話しあい,統一方針を決める。記者会見後,公表された事実をまとめたメモを持ち寄って,内容を決めてから編集局に記事を送る,というのが慣例化しているのである。ゆえに日本では,毎日どの新聞を開いてみても,事実上まったく同じ内容の記事が載っている。ある日本人記者は不満を漏らした。「私たちは,翌朝出る新聞がみんなそっくり同じになるように,一日中駆けずりまわっているんです」

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.176-177

何冊も

 ロズウェル事件の本は,1冊だけを読んでいても,その真実はわからない。その本だけの情報に躍らされると,たいてい,事実を見誤ってしまうのだ。昔の著書から順に内容を追っていき,重要人物による証言内容などがどうコロコロ変わっていくのか,著者が自信満々に書くことがどう二転三転していくかを見られれば,より深くロズウェル事件を楽しめるようになるだろう。

ASIOS・奥菜秀次・水野俊平 (2011). 検証 陰謀論はどこまで真実か パーセントで判定 文芸社 pp.315

重み付け

 多くの人はこのことを理解していない。2つの対立する見解を提示する記事を新聞で読んだ場合,両方とも有効な視点なのだろうとわれわれは推測し,一方を封じてしまうのは間違いだと思う。しかし,一方の意見を提示しているのはたった1人の「専門家」だけ,あるいはこの物語で見てきたように,せいぜい1人か2人ということも多い。地球温暖化に関しては,サイツ,シンガー,ニーレンバーグ,およびその他少数の人たちの見解が,IPCC全体の集合的な知恵と並置されたことを見てきた。IPCCは,国籍も気質も政治的信条もさまざまに異なる数千人の気候科学者の見解と研究を包含する組織だ。このことから,もう1つの重要なポイントが浮かび上がる。それは,現代の科学は集団によって推進される事業だということだ。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(下) 楽工社 pp.262

誰が要約するか

 もちろん,評価報告書を全部読んでくれると期待するのはバカげている。だから誰かが要約して伝える必要がある。ここにもう1つの困難が生じる。科学者は知識を生み出す能力を高度に磨き上げた専門家だが,広く一般の人々にどうやって伝えたらいいかという点でほとんど訓練を受けていない。豊富な資金を背景に決然と攻撃を仕掛けてくる人々から科学研究を守る方法については,なおさら訓練ができていない。自分にはそういう才能がなく,趣味にも合わないと思っている場合が多い。最近までほとんどの科学者は,研究内容を広く伝えることに時間を割こうとは特に思っていなかった。彼らは自分の「本当の」仕事は知識を生み出すことであって,知識を広めることではないと考え,この2つの活動は互いに相容れないと思っていることが多い。一般の人々に研究内容を伝えようとする同僚を鼻であしらい,「通俗化」にかまける者として軽んじる科学者もいる。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(下) 楽工社 pp.252

温暖化の両論併記

 2004年に本書の著者の1人は,地球温暖化が存在し人間の活動が原因であることについて,科学者たちの間に意見の一致があり,1990年代半ばからずっとそうだったことを示した。それでもこの時期,マスメディアは地球温暖化とその原因について,大きな議論があるかのように扱っていた。偶然ながら同じ2004年に発表された別の研究は,1988年から2002年にかけての地球温暖化に関するメディアの報道を分析していた。マックス・ボイコフとジュールズ・ボイコフによるこの研究で,気候科学者の大多数の見解と,地球温暖化否定派の主張に同等の時間を割いている「バランスのとれた」記事は,メディア報道の53パーセント近くを占めることが明らかになった。気候科学者の多数を占める正しい立場を提示する記事は35パーセントあったが,残りは否定派にスペースを与えていた。こうした「バランスのとれた」報道は一種の「情報の偏り」であり,理想的なバランスを追及するとジャーナリストは,本来受けるに値する以上の信憑性を少数意見に与えてしまうことになる,というのがこの論文の結論だ。
 科学の現状と主要なマスコミの科学の提示の仕方がこのように食い違っていることは,政府が地球温暖化に対して何もしないでいることの助けになった。1988年にガス・スペスは,実際に行動しようという勢いがあると思っていた。ところが1990年代半ばになると,この政策の勢いは衰えてしまった。雲散霧消したのだ。1997年7月,京都議定書が採択される3ヵ月前に,米国の上院議員ロバート・バードとチャールズ・ヘーゲルは,議定書の採択を阻止する決議を行なった。バードとヘーゲルの決議は97対0で上院を通過した。科学的には,地球温暖化は確定した事実だった。しかし政治的には葬られてしまった。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(下) 楽工社 pp.161-162

両論併記の問題

 本書の主役たちがどんな理屈や正当化を持ち出すかはともかく,われわれの物語にはもう1つの重要な要素がある。それは,どうしてマスメディアの多くが——それも『ワシントン・タイムズ』のような一見して右派の新聞と分かるものだけでなく,主流の媒体も含めて——彼らと共謀するようになり,こうした問題を科学論争として取り上げる必要を感じたかということだ。ジャーナリストたちは否定派の専門家から,同等の地位——同等の時間,同等のニュースのスペース——を認めるよう,常に圧力をかけられていた。『タイム』誌の環境問題の記者だったユージン・リンデンは,『変化の風』(Winds of Change)という著書の中でこう述べている。「メディアで働く人々は,科学上の控えめな態度を科学の不誠実さとみなし,自分たちの反対意見が報告書に盛り込まれないと編集者に怒りの手紙を送りつけるような専門家たちに追い回されるようになっていた」。明らかに編集者たちはこの圧力に屈し,米国における気候についての報道は,そのために懐疑派や否定派の側に偏向するようになった。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(下) 楽工社 pp.160

新聞上の言葉の変化

 北欧文化の伝統が変わったことは,わずかな数の学校銃乱射事件に表れただけではない。最近のある研究は,ノルウェーの主要な全国紙に現れる言葉を調査した。1984年から2005年までのあいだに,「共同/共通/共有」「義務/責任」「平等」といった集団志向の言葉は使用頻度が下がり,「私」「選択の自由」「権利/特権」といった個人主義を表わす言葉の使用頻度が上がった。かつては集団の重要性を重んじていた社会にまでナルシシズムの言語が広がっているのだ。この調査を実施した研究者らが説明しているとおり,この結果は文化が極端な個人主義へ向かって動いている確かな兆候である。

ジーン・M・ドゥエンギ/W・キース・キャンベル (2011). 自己愛過剰社会 河出書房新社 pp.314
(Twenge, J. M., & Campbell, W. K. (2009). The Narcissism Epidemic: Living in the Age of Entitlement. New York: Free Press.)

TVに合う現実

 テレビというメディアの存在,そのビジネスによって,現実が書き換えられていく。これはラーメンに限らず,1990年代以降,さまざまなところで起きている現象である。その代表がスポーツイベントである。東京オリンピックの時代から,人気のテレビコンテンツの一角だったバレーボールは,日本チームが世界で勝てなくなっていった90年代を機に,大きくテレビコンテンツとしての最適化が図られていく。
 まずは,ルールがテレビ的な理由で改正される。ラリーポイント制の導入により,試合時間が短縮されたのだ。会場では,日本チームを応援するDJが投入され,マイクを使ったワンサイドだけを応援するかけ声が響く。そして,開催地は,サッカーのワールドカップのように毎回変わるのではなく,毎回,日本開催となった。これは,国際バレーボール連盟が決めたことである。もはや,バレーボールは日本のテレビ局が独占するスポーツになっている。数字の取れる日本戦は,ゴールデンタームに放送され,強豪国同士が当たる準決勝や決勝は,深夜にでも放送があればいいほうといった具合である。スポーツにおける公平性は価値を失い,商業的な価値が優先されるようになったのだ。

速水健朗 (2011). ラーメンと愛国 講談社 pp.201-202

自殺報道の特徴

 さて,わが国の自殺報道の特徴を詳しく見ていくと,次のような点に気づかれる。
 [引責自殺や親子心中を特にセンセーショナルに報道する]そもそも引責自殺といった概念自体が諸外国にはないのだが,ある種の政治・経済的スキャンダルの渦中で起きた自殺についてわが国のマスメディアは非常に大きく取り上げる。また,親子心中についてもセンセーショナルに取り上げ,同情的な色彩の報道も多い。
 [極端な一般化]因果関係について極端に単純化して解説される傾向がある。とくに最近では長期にわたる深刻な不況と結びつけて,「不況」「中年」「自殺」がキーワードとして頻用されて,短絡した説明が目立つ(子どもの自殺の場合は,最近では「いじめ」がキーワードになる。20〜30年ほど前は,青少年の自殺というと,「受験苦」や「試験地獄」などが頻用されていたのと対照的である)。
 確かに,わが国が未曾有の不況に見舞われていることは否定しようもないし,真剣に取り上げなければならない問題である。しかし,不況だけが自殺を説明する唯一の原因であるかのように報道されるのは問題である。
 自殺の問題を考える時には,背景に存在する可能性のある精神疾患,環境因(過程や職場での問題),不適応を起こしがちな性格傾向,直接の契機などを総合的に判断すべきである。自殺はある出来事をきっかけにして起きたように見えることがあったとしても,ただひとつの問題だけが原因で生じていることはごく稀である。「不況→自殺」といった短絡的な解説が,自殺の危険を内在している他の多くの人々に影響を及ぼす危険を認識すべきである。
 [過剰な報道]マスメディアは自殺直後の短期間に過剰なまでに同じ報道を繰り返す。そして,自殺した人が著名人であったり,その時代を象徴するような事件の最中で起きた自殺であればあるほど,一時期,どのメディアもその自殺報道一色になってしまう。また,画像の持つ衝撃は想像以上に大きい。連日のように犠牲者の写真が載せられ,関係者に対する執拗なまでのインタビューが繰り返される。
 [ありきたりのコメント]自殺をセンセーショナルに報じた最後に,識者と称する専門家の「戦後の教育のつけ」「会社社会の犠牲者」「個を無視し,集団優先社会の当然の結果」「不況の抜本的対応を先送りにしてきた政府の責任」などといった,ごく当たり前のコメントが添えられる。
 ところが,群発自殺の渦中で実際にどのような手立てを取ったらよいのかといったことには,全く触れていない。どのような人に注意を払い,どのようなサインが危険で,どう対応すべきか具体的に解説しているものはほとんどない。
 [短期間の集中的な報道]自殺直後の数週間は過剰なまでに集中的な報道が繰り返されるのだが,長期的な視点に基づく問題提起がほとんどない。そして,他に大事件が起きると,とたんに自殺報道は終わってしまう。それまでは過剰な報道合戦をしていたマスメディアが,天災や他の政治スキャンダルやテロといった大事件が起きると,自殺の問題をぱったりと取り上げなくなってしまう。自殺は,長期的な取り組みが必要なのだが,マスメディアの対応は短期的かつ集中的なものに終始している。
 [自殺の手段を詳しく報道する]群発自殺では,最初の犠牲者と同様の方法を用いる傾向が強いすでに述べたように,1986年にアイドル歌手の岡田有希子が自殺した後の群発自殺では,ほとんどの青少年が同じようにビルから身を投げて亡くなった。
 1994年や1995年のいじめ自殺報道後の群発自殺ではほとんどの子どもが首を吊って死亡している。マスメディアはこの事実を知ってか知らずか,最初に自殺した子どもが首をくくった自宅のバスケットボールのゴールポストを繰り返し大写しで報道する。
 また,1998年2月に新井将敬代議士がホテルの一室で溢死したが,その際に,空調の送風口に紐をかけて自殺した。その1週間後に3人の会社社長が国立市のホテルで同時に自殺した時にもまったく同じ方法を用いていたのも単なる偶然ではないだろう。すでに述べた2003年の「ネット自殺」では一酸化炭素中毒が用いられた。このように,本来自殺の危険の高い人に,自殺方法の鍵を与えるような具体的で詳細な報道は避けるべきなのだ。
 [メンタルヘルスに関連する啓発記事が極端に少ない]とくに欧米と比べて,わが国では自殺そのものの報道が繰り返されるばかりであり,自殺をどのように防ぐかという啓発記事がきわめて少ない。
 自殺がどれほど深刻な事態になっているのか,統計的な事実を取り扱う報道も少ない。また,自殺が迫る危険のある人の特徴,自殺の危険因子,直前のサインを解説する報道もほとんどない。自殺につながりかねない精神疾患についての解説や,それらの疾患には有効な治療手段が現在では各種あることを教育するような報道もない。
 自殺してしまった人の背景について微に入り細に入り報道するにもかかわらず,自殺の危険を実際に克服したような実例について報道されることはほとんどないのだ。
 [危険を乗り越えるための具体的な対処の仕方を示さない]アメリカでは報道機関に対して,自殺報道の最後に相談機関のリストを掲げるという提言を行なっている。電話相談,精神科医療機関などの連絡先を掲げておくというのだ。日本でもごく一部の新聞で,いのちの電話,警察の電話相談,人権擁護団体などの電話のリストが掲げられたことがあるが,このような配慮は他の多くのメディアも見習ってほしい。

高橋祥友 (2003). 中高年自殺:その実態と予防のために pp.97-101

聞く,受け入れる,評価する

 ここでの順序の違い(「聞く,受け入れる,評価する」と「聞く,評価する,受け入れる」)は一見些細なことであるように思えるかもしれないが,重大な結果を招く。ラジオ・パーソナリティーのアイラ・グラスが毎週ホストを務める《ディス・アメリカン・ライフ》という番組で最近話題になった話をご紹介しよう。生涯を通じて政治活動家として活躍し,ニューハンプシャー州の民主党議長の最有力候補だった人物が,児童ポルノのビデオを大量に所有しているとして告発された。告発した同州選出の共和党議員は何も証拠を提供しなかったにもかかわらず,告発された人物は選挙戦からの離脱を余儀なくされ,彼の政治生命は絶たれたも同然となった。2ヵ月にわたる捜査では証拠は一切挙がらなかったものの,すでに彼の名声は地に落ちていた。司法の世界には「疑わしきは罰せず」の原理が厳然として存在するが,私たちの心はそのようにはできていない。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.97-98

決め打ち

 日本のマスメディアの方からよく米国の医療制度について質問を受けます。このとき,半分かそれ以上の方は,米国の医療制度が日本のそれより優秀だ,という前提に基づいて取材にいらしています。中にはそういう結論を立てておいて,私の所にインタビューにいらっしゃる,という本末転倒な方もいます。結論が出ているのなら,私のところなんぞに来なくてもいいのです。真実とは,分かるまでは不問にしておくもんですが。
 私が「いや,そうでもないんですが」とやんわりたしなめると,食って掛かるように「そんなことはないでしょう。やっぱり日本の厚生労働省はだめでしょう」みたいな結論に強引に持っていきたがる。困ったもんです。

岩田健太郎 (2003). 悪魔の味方:米国医療の現場から 克誠堂 pp.21

食い物にされる

 この間も,若手で「今,コントをやっているのは踏み台で,いずれはクイズとかの司会をやりたい」と言っているのがいて,「へえ,そいう考え方もあるんだ」と驚いた。
 たしかに,やる方はコントより楽だし,テレビ局の側も使い勝手がいい。
 でも,そうやって便利屋みたいに使われてると,結局はテレビ局に食い物にされてしまう。かといって仕事をセーブすると生意気だと言われるし,逆に節操なく出続けるとすぐに寿命が尽きちゃう。若い芸人にとっては,難しいところだ。
 今から考えれば,僕の場合は,ドリフでずっと週1本だけのペースでやってたことが,逆に長続きできた大きな理由だったと思う。

志村けん (2002). 変なおじさん[完全版] 新潮社 pp.174

データでは

 たとえば,「格差の主因は非正規雇用」というOECDの訳知り顔レポート(06年)により,これも定着した感がある「貧困=非正規」という構図だが,年間所得200万円未満世帯の構成比では,高齢者が5割であり,次に多いのが約2割の失業者,その次が正社員での低所得者,さらに自営業者と続き,非正規世帯はたった7%弱。
 若年(15〜24歳)層の2人に1人が非正規社員とこれも声高に叫ばれるが,中身を精査すれば,248万人いる若年非正規のうち,115万人は学生バイトでこれを除けば,非正規数は半減する。
 最近の新しいところでは,「若者が内向きになったから海外留学が4割も減っている」という妄言もこの類だろう。97年に4万6000人いた留学生が,現在は2万7000人と4割減!が彼らの挙げる数字だが,この数字は全部「アメリカへの留学生数」。近年では中国やアジアへの留学生が増えているので,全世界への留学生は97年当時6万2000名だったものが,現在6万7000名と1割程度増えている。この間に,留学適齢期と言われる18〜29歳の人口は27%も減っているにも関わらず,だ。確かに留学生総数の方も,05年以降は減少傾向にある。ただ,この減少幅も約15%であり,前述の「留学適齢人口」の減少で説明できる範囲に留まる。

海老原嗣生 (2011). 就職,絶望期:「若者はかわいそう」論の失敗 扶桑社 pp.118-119

ニュースのシステム

 ニュースというのは,極めて特殊な例を日常に持ち込むシステムである。滅多に起こらないことが毎日起こるように錯覚させ,「恐ろしい世の中になった」と強調する傾向がある。昔は隠されていたこと,伝わってこなかった情報が,広い範囲から集められてくるだけのことだ。そして,そういった特殊な状況に対して,日常のありふれたもので解決しようとする。言葉でいえば,「心」「友」「愛」というようなものである。それが不足していたから事件が起きた,と暗に結論を示す。これを真に受ける人は少なくないだろう。そういう人は,自分にはそれらが足りないのではないか,と心配になり,必要以上にそれらを求めようとするかもしれない。

森博嗣 (2011). 自分探しと楽しさについて 集英社 pp.109-110

レベル差

 余計な話だが,TVのクイズ番組の問題は,国語と社会は中学や高校レベルで出題されるのに,算数や理科(特に物理分野)になると,とたんに小学校レベルになる。あれはいったいどうしてなのだろう,と常々不思議に感じている。

森 博嗣 (2011). 科学的とはどういう意味か 幻冬舎 pp.101

感想だけ

 TVの報道番組に専門家(たとえば科学者)が呼ばれて,司会者が質問をすることがある。「先生,これはどういうことなのでしょうか?」と解説を求めるのだが,それに対して専門家が丁寧に答えても,司会者はまったく内容を聞いていない。話がまだ途中なのに次の質問をしたり,今説明があったばかりのことをまた尋ねたり,という場面があまりにも多い。
 そして,最後には,こんなふうにきくのだ。「先生は,この事態についてどう思われますか?」と。いくら専門家であっても,その人がどう思っているのか,ということは聞いてもしかたがない。専門的な見地からデータを示し,それを評価しつつ説明することが専門家の価値である。その専門家が「残念です」とか「少し光が見えてきました」と個人的感想を述べても,そんなものに意味はない。しかし結局は,この最後の「感想」だけを受け取る人が大多数だし,番組もその言葉を欲しがっているのである。

森 博嗣 (2011). 科学的とはどういう意味か 幻冬舎 pp.58

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