I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

自分が特別

「…王家の人々はほんとうのことがお嫌い。なぜならそれを聞くことがめったにないからです。そしてためにほんとうのことをいわれると,歯に衣着せぬ無作法ものだといって怒る。
 王女さまは自分が特別だと思っていますね。名前に『さま』なんてついているくらいですからね。でもだからといってあなた方が偉いというわけじゃありません。そんなものがついていても,いい子とはかぎりませんからね。世界はただじぶんの楽しみのためだけにあると思っているんでしょう。だから人に命令したり人を苦しめたりしてもおかまいなし。でもわしはあなたに別のことを教えました」

マリー女王 長井那智子(訳) (2008). わしといたずらキルディーン 春風社 pp.123-124

チョウ

クマールが買い物客をたとえた生物は,フジツボだけではない。小売業者が同じように気をつけなければならないのは,「チョウ」と呼ばれる顧客だ。ときどき店舗にふらりとあらわれ,散財をしていくが,何か月あるいは何年たっても姿を見せない。まったく当てにならないので,むやみにかまっても徒労に終わる。「チョウを追いかけてはいけません」とクマールは警告する。だが,その振る舞いをよく調べることで,才覚のある小売業者には「真の友達」,つまり常連に変わるチョウがわかるという。

スティーヴン・ベイカー 伊藤文英(訳) (2015). NUMERATI ビッグデータの開拓者たち CCCメディアハウス pp.76

フジツボ

経営者にとってもっとも不愉快な買い物客は,「フジツボ」と呼ばれている。この生物にたとえたのは,マーケティングのコンサルタントでもあるコネチカット大学のV.クマール教授だ。小売業者にとって,フジツボほどいやな顧客はいない。この連中は,切り取った割引券を手に,店舗から店舗へと車で乗りつけて,大幅に値引きされる商品だけを買っていく。船底に付着したフジツボのように,他人まかせに動きまわる。小売業者の利益にならないどころか,損失をもたらすこともわかってきた。売り上げデータをすべて取り込むことで,個々の顧客ごとに利益や損失を予想する計算が可能になった結果だ。ラルフ・ローレンやプロクター・アンド・ギャンブルをクライエントに持つクマールに言わせれば,小売業者は収益悪化につながりそうな顧客を「締め出す」べきだという。
 このことは,筋骨隆々の用心棒を雇い,入店を阻止するという意味ではない。だが,同じ効果をもたらす手段がいくつかある。まず,ダイレクトメールの送り先名簿からフジツボをはずす。店内でも,だんだんと対抗措置が取られるようになるだろう。正真正銘のフジツボがスマートカートを押していたら,定価のキャビアやトリュフの広告でスクリーンを埋め尽くし,不快にさせるのも効果的かもしれない。インターネットでは,お呼びでない顧客への嫌がらせがはるかに簡単だ。オンラインストアでは,すでにフジツボを広告で執拗に攻め立てている。さらに,本の中面の閲覧や,有能のポルノサイトにおける無料画像のダウンロードでは,もっとも低速のサーバーに切り替え,延々と待たせようとする。

スティーヴン・ベイカー 伊藤文英(訳) (2015). NUMERATI ビッグデータの開拓者たち CCCメディアハウス pp.74-75

ホモ・カテゴリス

ホモ・カテゴリスという本章の言い回しは,心的カテゴリーの重要性を見出したオルポートの影響を認めるものだ。カテゴリーはたくさんの共通性をもち,それゆえ親類として取り扱うのが便利な一群の物事である。カテゴ入ー・メンバー内の類似性は,それほど大きい必要はない。車(car)というカテゴリーは,おもちゃの車やケーブルカー,鉄道の客車などずいぶん異なっているものを含む。しかしカテゴリーの利用は私たちの行動に大きな影響を及ぼす——いくつかの下位カテゴリーについての状況をちょっと見れば明らかである。たとえば,あなたが高速道路を運転していて,スピードの速い前の車に急速に近づいていったとして,その前の速い車がパトカーであるかスポーツカーであるかのカテゴリー化によって,続くあなたの運転は全く違ったものになるだろう。他の例では,スプーンですくった白い結晶について見分けがつかなくても,砂糖とカテゴリー化した場合と,塩とカテゴリー化した場合とでは異なった行為をするだろう。

M.R.バナージ・A.G.グリーンワルド 北村英哉・小林知博(訳) (2015). 心の中のブラインド・スポット:善良な人々に潜む非意識のバイアス 北大路書房 pp.134
(Banaji, M. R., & Greenwald, A. G. (2013). Blindspot: Hidden biases of good people. )

偶然の3種類

どのような場合に,本来必然的な因果関係に支配されていながら,偶然とみえるものが発生するかについては,もう少し具体的に考えなければならない。偶然現象を発生させるメカニズムとして,昔から3種類の場合が考えられてきた。
 1つは,初期条件のわずかな違いが結果に大きな,あるいは明確な違いをもたらす場合である。

 偶然現象の第2は,2つあるいはそれ以上の互いに無関係な因果関係が,同時に働くことによって生じるものである。

 偶然現象の第3は,微細な多数の原因の結果として生じる連続的変動である。古くから物理量の計測誤差は,その大きさを予測することは不可能であり,また計測や計算の間違いなどがない限り,事後にも説明不能であるから,偶然的に変動するものとされていた。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.33-36

因果関係の単純化

ニュートンの宇宙観には,完全な決定論というほかに,もう1つの面がある。それは因果関係というものを単純化したことである。アリストテレスは,ものごとの原因には4種類があるとした。それは質料因,動力因,目的因,形相因である。
 質料因とは,あるものが本来もっている本質によって,その性質や現象が決められることをいう。つまり,いろいろなものが示す性質や振る舞いの違いは,それらが本来もっている質の違いによって生ずるということである。
 動力因とは,あるものが他から加えられた力によって,現象が引き起こされることをいう。あるもの,あるいは,あることが原因となって次のことが起こるという場合である。
 目的因とは,ある目的を達成するために,あることが引き起こされることをいう。
 形相因とは,もののあるべき形のことをいう。例えば,プトレマイオスの天文学では,天体は地球の周りを円運動するものと考えられたが,それは円というものが完全な形であるからだとされた。
 近代科学は,動力因以外のすべてを否定した。つまり,質料因,目的因,形相因をものごとの説明原理として認めないことにしたのである。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.24

必然性の条件

『偶然性の問題』という著書(1935年刊)を著した哲学者九鬼周造は,偶然性を必然性の否定と定義した上で,必然性とは何かということから議論を始めている。
 九鬼は必然という規定を,(1)概念性,(2)理由性,(3)全体性の3つに分け,それぞれ,(1)概念と徴表との関係,(2)理由と帰結の関係,(3)全体と部分との関係において把握されるとしている。そうして,この3つの必然を,(1)定言的必然,(2)仮説的必然,(3)離接的必然,と名づけている。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.4

必然とは何か

「偶然」とは「必然」の反対である。つまり必然でないものが偶然である。したがって「偶然とは何か」という問いは,「必然とは何か」と表裏の関係にあり,一方の答えは必然的に他方の答えを導くことになる。
 ところがよく考えてみると,「必然とは何か」という問いに対する答えは決して簡単ではない。それは,この宇宙に秩序を与えているものは何かという問いを含み,哲学の根本問題にかかわってくる。すべての宗教においても,それは根源的な問題である。近代哲学の宇宙観はそれに対して機械的因果論という1つの立場をとっているが,そのような立場自体は科学によって検証されるものではない。つまり科学は「原則的に検証可能な科学的法則によって説明される事象だけが必然的である」と主張するが,このこと自体は科学的に証明できることではない。さらにニュートン力学的宇宙観によれば,「すべての事象は数学的に表現できるような力学的法則に従い,したがって必然的である。この宇宙に偶然なものは本来存在しない」と考える。そうして,人間にとって「偶然」と見えるものは,対象についての知識が不十分なためにそのように思われるだけであり,したがって「偶然」とは「無知」の結果であるにすぎない,とラプラスは主張した。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.iii-iv

「不徳のいたすところ」

どんなにスバラシイ会社でありましても,不慮の事故不測の事態,不可抗力的な災厄ともうしますものは——これ,避けられるものではございません。
 災厄は振りかかる時には振りかかるもの。社長一人が有能だからといって災厄が除けて通るようなことは,これもまたございません。どう考えましょうとも,何もかもが社長の行いの悪さに起因していると考えますのは,やっぱり飛躍でございましょうな。それでも釈明は決まって“不徳のいたすところ”なのでございます。
 これは,トップ——王様に“徳”が足りないが故に不祥事——災害が起きてしまった,という“理屈”に基づく誤り方なのでございますな。
 天人相関説の焼き直しでございます。
 王様がダメダメなので天変地異が起きるようというのも,トップがヘタレなので会社がぐだぐだだよう——というのも,構造としては同じ。因果関係のないところに因果関係を幻視している訳でございます。こうした“お約束”を作り,広め,行使することで文化やら国家やらは成り立っておる訳でございます。

京極夏彦 (2013). 文庫版 豆腐小僧双六道中おやすみ 角川書店 pp.171-172

幽霊の場合

幽霊などの場合は,これ移動しそうな雰囲気でございますが,実を申せばこれも移動致しません。幽霊を感得する人間が移動するだけでございます。そもそも幽霊は死人の霊魂なんかではございません。生きている人間がそう見るだけのモノでございますから,いってみればお化けの出現は一種の“反応”でございまして,反応に意志などあろうはずもなく,ならば人間と無関係に移動することも出来ますまい。

京極夏彦 (2013). 文庫版 豆腐小僧双六道中おやすみ 角川書店 pp.23

概念・喩え

ですから,このお話で活躍致しますお化けども,これは概念でございます。
 お化けと申しますものは——幽霊なんかも含みますけれども——これ,大雑把に述べますてえと,文化的存在と申すことが出来ましょうな。
 世の中には理解の及ばぬ現象やら,子細あって曲解したい事象やら,都合の悪い出来ごとなんぞが沢山ございます。人と申しますものは,そうしたものごとを誤魔化すように出来ております。まあ,無理な解釈を致しましたり,妙な説明を致しましたり,怖がりたくないから何かの所為にしてしまったりする訳ですな。そういう色々な人の思いが捏ね上げました妄念やら小理屈なんかが,お化けそもそもでございます。その辺から生まれまして,長い年月をかけまして醸造されました様々なモノが,妖怪と呼ばれる訳でございますな。
 ですから,まあいないという形でいる訳でございまして——その辺が,喩えなのでございますな。

京極夏彦 (2013). 文庫版 豆腐小僧双六道中おやすみ 角川書店 pp.10

自炊と屠畜

こういうことではないだろうか。「自炊」という行為は屠畜に似ている。電気ショックを浴びせたり,額を撃ち抜いたりして,家畜を絶命させる。その瞬間からの一部始終を見るのと,肩やもも肉などの各部位に切断された後の牛や豚を見るのとでは,受ける衝撃はまるで違う。生命体から物体へと変わる瞬間が衝撃的なのだ。「自炊」も同じ。背表紙を切り落とされ,装幀を破壊される瞬間がなにより辛い。その段階はすでに終えているのだ。だからこそ平気なのだろう。

西牟田靖 (2015). 本で床は抜けるのか 本の雑誌社 pp.122

勤勉性

締めくくりに,勤勉性とは単にまじめで,熱心,一生懸命という特性にとどまるとみたら失敗するだろう。勤勉な生き方とは,創造性の基盤,成長の源であるという現実である。芸術でも科学でも産業でも,NHK『プロジェクトX——挑戦者たち』でみたように,創造的営為の背後には,必ずといっていいほど地道な勤勉性が潜んでいる。これは人々の常識になっている。この日本列島において,多様な文化が創造され,今日のように発展してきたのも,人々の間にまじめに努力するという勤勉な資質の裏づけがあったからにほかならない。
 世界の人々と交わる中で,われわれは勤勉に生きる意味を自然体で伝えることができるだろう。内外の人々は,シュリーマンのように,日本人の普段の生き方,働き方に実地に触れることによって,勤勉性というわが国の土着思想に深い関心を向けはじめるのではないだろうか。迂遠なようだが,それがグローバルな国際社会に寄与できる道なのかもしれない。その意味ではミッションであろう。

梶田正巳 (2015). 日本人と雑草:勤勉性を育む心理と文化 新曜社 pp.187

粘りと勤勉

最後に注目しておきたいのは,「ねばり強い」と「勤勉」との関係である。「ねばり強さ」が欠ければ「勤勉性」は失われるし,また逆も真なりだろう。両者には強い相関関係,表裏一体のかかわりがある,ということである。困難があっても耐えながら,目標を達成するために,一生懸命に勤めることをわれわれは最重視している。ここに日本人の勤勉性の特徴が現れている。こう眺めてくると,日本人のかかわる社会的場面では,「怠ける」,「チャランポラン」,「いいかげん」などは,反対に一番嫌悪され,信用されない人柄の指標になっているものと思われる。

梶田正巳 (2015). 日本人と雑草:勤勉性を育む心理と文化 新曜社 pp.32

翻訳文化

翻訳活動は今日,「翻訳文化」と称されて,わが国の社会文化の大きな特質といわれている。いまやなじみのボキャブラリーになっている権利(right),社会(society),民主主義(democracy),憲法(constitution),自由(freedom and liberty),衛生(hygiene),個人(individual),自然(nature)などは,江戸末期から明治にかけて,日本語へ翻訳する過程でできあがった新しい言葉なのであった。この百数十年の間に非常に多くの翻訳語が造語されて,日本語を豊かにする大きな契機になっていた。
 江戸末期から進んだわが国の翻訳文化が影響を与えたのは,日本にとどまるものではない。実は漢字文化圏の本場である中国へも逆輸入されていった。そして,中国語のボキャブラリーをも非常に豊かなものにしていったのである。具体例を掲げれば,上記のほかには,階級,取締,出版,哲学,立場,主義,原子,近代化,唯物論などの語彙は,日本語書籍の中国語への翻訳活動を通して,中国語の中に取り入れられた代表的な言葉である。

梶田正巳 (2015). 日本人と雑草:勤勉性を育む心理と文化 新曜社 pp.14-15

安心と安全

“安全”と“安心”は文字にすると似てるけど,水と油といってもいいほどに異なる概念です。
 その決定的な違いは,危険(リスク)に対する態度にあります。
 安全を実現するためには,つねに現実の危険と向き合わねばなりません。どんな危険がどこにどれだけ存在するのかを,つねに把握して可能なかぎり回避する,これがホンモノの安全対策。
 かたや,安心はこころの状態にすぎません。感じかたには個人差があります。アタマの悪い人ほど,現実の危険から目を背け,儀式やげん担ぎを懸命にやって,危険を遠ざけたと“安心”しがちです。
 安心は,安全であることを保障しないのです。安全の実現のためには,安心することは許されません。
 ところが近年の日本では,この正反対の概念をセットにした“安全・安心”という矛盾した言葉を,到るところで目にするようになりました。

パオロ・マッツァリーノ (2015). 「昔はよかった」病 新潮社 pp.124-125

過去最悪

だいたい,“過去最悪”なんて主観的な表現を報道で用いてはいけません。善悪の基準は人や立場によって異なります。“最悪”かどうかは,書き手の主観的印象で決まってしまいます。
 天気予報でも,最高気温,最低気温はあるけれど,最悪気温なんていいません。暑がりと寒がりの気象予報士では,なにが最悪か,基準がブレてしまいます。
 犯罪の件数が増えると,マスコミは“激増” “悪化” “過去最悪”などとおおげさに報じます。でも逆に犯罪が減って戦後最低を記録したとしても,“過去最良” “過去最善”とは決して報道しないんです。
 やはり,マスコミ関係者含め,ほとんどの人が,よのなかは悪くなる一方だ,犯罪が減ることなどありえない,と思っているのでしょうね。

パオロ・マッツァリーノ (2015). 「昔はよかった」病 新潮社 pp.34-35

理由を明確に

この英文の書き手には,“Do you know why?”(なぜか分かりますか?)のように,読み手やスピーチの聞き手などに分かるはずのないことを訊くのが,ある種のレトリックだと思っているのでしょう。しかし,たとえ,日本語でエッセイを書くときや,日本語でスピーチを行うときなどにそのような質問を向ける習慣があるとしても,英語でも同じレトリックが使える,と勘違いさせてほしくないのです。
 また,さらに言えば,英語で何かの理由を述べるときには,ちゃんと理由として成立することを述べてほしいのです。上記の英文では,「なぜ将来,コンピュータ技術者になりたいのか」という理由の1つとして「コンピュータは私たちにとってとても役に立つと思っているからです」と述べられていますが,これは内容的にきわめておかしい。
 まず「コンピュータは私たちにとってとても役に立つ」ということは自明の事実なのに,“I think... .”(…と私は思っています)と言うと,それはまるで個人の意見にすぎないかのように述べてしまうことになります。
 また,「コンピュータは私たちにとってとても役に立つと思っているからです」のように,ほとんど誰もが等しく当然に思っているはずのことを自分独自の気持ちの理由として述べているのもおかしい。まるで「なぜ飛行機のデザイナーになりたいのですか」と訊かれた人が,「飛行機は私たちにとってとても役に立つと思っているからです」と答えるのと同じ感じです。あるいは,「なぜ建築学科に行くことにしたか」という質問に,「建築は私たちにとってとても役に立つと思ったからです」と説明するようなものです。

マーク・ピーターセン (2014). 日本人の英語はなぜ間違うのか 集英社インターナショナル pp.167-168

理由を明確に

因果関係を示す表現に関しては,日本語のほうが英語よりもだいぶ制限がゆるいようですが,私は“英語的論理”の縛りから脱却できていないせいか,日本語の「静岡出身なので,アパートで1人暮らしをしている」という言い方にも抵抗感を覚えてしまいます。私なら「静岡出身であり,今アパートで1人暮らしをしている」のように直したくなるのです。というのも,東京では静岡出身の大学生でも,アパートではなく寮や一戸建てに住んでいる人もいれば,1人暮らしではなく2人や3人で暮らしている人も少なくないからです。つまり,「静岡出身」だからといって,何も「アパートで1人暮らし」と決まっているわけではないのです。

マーク・ピーターセン (2014). 日本人の英語はなぜ間違うのか 集英社インターナショナル pp.91-92

反知性という敵意

反知性の立場はある架空の,まったく抽象的な敵意にもとづいている。知性は感情と対峙させられる。知性が温かい情緒とはどこか相容れないという理由からである。知性は人格と対峙させられる。知性はたんなる利発さのことであり,簡単に狡猾さや魔性に変わる,と広く信じられているからである。知性は実用性と対峙させられる。理論は実用と反対のものだと考えられ,「純粋に」理論的な精神の持ち主はひどく軽蔑されるからである。知性は民主主義と対峙させられる。それが平等主義を無視する一種の差別だと考えられるからである。こうした敵意の妥当性がいったん認められると,知性を,ひいては知識人を弁護する立場は失われる。だれがわざわざ,情緒の温かみ,堅固な人格,実践能力,民主的感情を犠牲にする危険を冒してまで,せいぜい単に利口なだけ,最悪の場合は危険ですらあるタイプの人間に敬意を払うだろうか。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.41-42

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