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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

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時限爆弾事例への反応

 道徳哲学の文献の一つのセクションにざっと目を通すと,カチカチという時計の耳障りな音が聞こえてくる。カチカチと音を立てる時計のシナリオは,拷問の許容範囲―あるいはその逆―について論じる倫理学者のあいだで人気がある。一人のテロリストが捕まっている。彼がある大都市に仕掛けた小型の原子爆弾が,二時間後に爆発することがわかっている。テロリストは爆弾を仕掛けた場所を言おうとしない。情報を吐かせるために拷問をしなければ,数千人が命を落とす。どうすべきだろうか?


 9・11の同時多発テロで明らかになったのは,世界には民間人の大量殺害という目的に夢中になっている人がいるということだった。それ以降,倫理をめぐる討論に登場する時限爆弾は,一般の人たちにとって現実味を帯びることになった。著名な法律学教授のアラン・ダーショヴィッツは,ある本を書いてリベラル派の人々を憤慨させた。彼はそこで,極端な状況では政府から拷問者に「拷問許可証」を与えてはどうかと提案したのだ。その後,拷問スキャンダルが起こっては広く報道されてきた。たとえば,アルカイダの工作員で9・11テロの黒幕だと考えられるハリド・シェイク・モハメドへの水責めだ。


 時限爆弾の事例に対する義務論者の反応には,以下の五つのパターンがある。


 一つ目。時限爆弾が経験的実在に対応している可能性を否定するもの。実際には,脅威は差し迫っていないのがふつうで,明確な期限は存在しないし,避けられない脅威も存在しない。命が失われることが確実にわかるわけでもない。そのうえ,拷問は効果がない,さらに悪いことには逆効果―偽りの自白を招く―かもしれない。信頼できる情報を引き出す,あるいは別の方法で危機を脱するための代替的で合法的な手段があるかもしれない。


 二つ目。一部の義務論者は,絶対論者の立場からの論理的帰結を受け入れる覚悟がある。いかに多くの命が失われようとも,彼らは拷問に許容範囲があることを否定しつづける。


 三つ目―おそらく標準的な見解。義務論者にもこう主張する人がいる。誰かを拷問しなければ,結果として本当に厄災を招く(たとえば数千人が命を落とす)という場合,拷問への制約は無視してかまわない。


 四つ目。一部の義務論者はこう主張する。重要な情報を入手する方法が拷問しかない場合,時限爆弾を仕掛けたテロリストは,道徳的観点からして拷問に服す義務がある。言い換えれば,この人物を拷問にかけることにはいかなる制約も存在しない。爆発によって想定される帰結のほうが,拷問への制約よりも重要だということではない。むしろ,テロリストはみずからの行動のせいで,拷問されない権利を没収されてしまったのだ。彼が仕掛けた爆弾が一人の命を脅かしているだけだとしても,拷問は許される。


 五つ目。このシナリオにかかわることを断固として拒否する。拷問の正当化の可能性を論じること自体が認められないと考える人もいるのだ。その可能性がとりあげられるだけで,心が病み,文化が堕落している証拠だ。ある哲学者が言うように「社会とは,そのなかで何が議論にふさわしくないとされているかによって,ある程度まで定義される。たとえば,われわれの社会では,黒人を奴隷にすべきか否かは議論の対象とならない……議論にふさわしくないと考えられるものは,それに関して二つの見方はないとして扱われるものである」。拷問はそうしたテーマの一つであり,一つの見方しかありえないというのだ。



デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.77-80


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二重結果論


 二重結果論はもっとも正確に定式化できる。この定式化は一般に受け入れられているわけではない。とはいえ通常,二重結果論は四つの構成要素からなっていると見なされている。



・行為はその有害な結果から独立していると考えられ,行為自体は間違っていない。


・行為主体は悪い事態を予見してはいても,手段としてであれ目的としてであれ,善行をなす意図はあるが悪事を働く意図はない。


・悪い結果を招かずに善行をなしとげる方法はない。


・悪い結果は,求められている善行と比較して不釣り合いなほど甚大ではない。



 特定の軍事施設を攻撃目標とすることが正当化できるか否かを考えてみると,二重結果論の応用の仕方がわかる。巻き添え被害が予見されるにもかかわらず,ある施設を攻撃することを正当化するには,二重結果論によれば以下の条件が満たされる必要がある。この施設を攻撃すること自体は間違いであってはならない。この施設への攻撃は意図された行為でなければならないが,巻き添え被害は意図されたものであってはならない。この施設への攻撃から帰結する善に対して,巻き添え被害の悪が不釣り合いに大きくてはならない。



デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.52


路面電車学

 ほとんどのシナリオで,死の危機にさらされている五人には何の罪もない。そんな危険な状況に置かれる謂れはないのだ。五人を救うために殺されるかもしれない一人にも,いっさい悪いところはない。これらの一人と五人のあいだには何のつながりもないのがふつうだ。友人でもなければ同じ家族の一員でもない。唯一の共通点は,同じ悲惨な状況にたまたま巻き込まれたことだけである。


 やがて,われわれは「太った男」と出会うことになる。彼の扱い方をめぐる中心的な難題は,一世紀近くものあいだ哲学者を悩ませてきた。いまではそのトピックに関する論文が非常に多く存在するため,「路面電車学(トリオロジー)」なる冗談めかした新語が定着している。



デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.22


プライバシーと公共性

 プライバシーは固定化した構成概念ではない。それは何かの情報あるいは環境に自ずと備わっている特質ではない。それは人々が印象や情報の流れや文脈を管理することにより社会的状況をコントロールしようとするのに用いられるプロセスなのだ。皮肉屋はしばしばプライバシーを必要とするのは何か隠すものがある人間だけだと言う。しかし,その考え方は論点を紛らわしくさせるだけだ。プライバシーは個人の成長に必要不可欠であり,価値あるものだ。大人になりつつあるティーンエイジャーは,自分が重要な存在であると感じたいものだ。プライバシーは,社会の中で周縁化された,もしくは比較的恵まれていない者たちにとって,特に大きな意味がある。プライバシーを守ろうとするティーンエイジャーの努力はしばしば彼らに力を及ぼす存在によって弱体化されているが,彼らは決してプライバシーを放棄してはいない。それどころか,ティーンはこれまで無力な人々が脈々と用いてきた戦略を現代化し,利用して,常にプライバシーを守るための新しい方法を試みている。コンテンツへのアクセスをコントロールすることでプライバシーを見出す代わりに,多くのティーンは意味へのアクセスをコントロールしている。


 プライバシーと公共性は相反する概念と考えるのは簡単であるし,多くのテクノロジーは,利用者がプライベートでいるか公的でいるかどちらかを選ぶ前提で組み立てられている。しかし現実には,プライバシーも公共性もどちらもあいまいなものだ。多くのティーンは,公共空間を前にプライバシーを退けるのではなく,ネット上のパブリックの中でプライバシーを守る新しい方法を探っている。このようにプライバシーを守るために革新的な戦略を開発することで,ティーンはしばしば力を手にする。プライバシーはただ主体に依存しているわけではない。プライバシーを守ることができるということは,ひとつの主体性の表現なのだ。



ダナ・ボイド 野中モモ(訳) (2014). つながりっぱなしの日常を生きる:ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの 草思社 pp.122-123


良い質問とは

 良い質問とは,正しい答えを求めるものではない。


 良い質問とは,すぐに答えが見つからない。


 良い質問とは,現在の答えに挑むものだ。


 良い質問とは,ひとたび聞くとすぐに答えが知りたくなるが,その質問を聞くまでそれについて考えてもみなかったようなものだ。


 良い質問とは,思考の新しい領域を創り出すものだ。


 良い質問とは,その答えの枠組み自体を変えてしまうものだ。


 良い質問とは,科学やテクノロジーやアートや政治やビジネスにおけるイノベーションの種になるものだ。


 良い質問とは,探針であり,「もし~だったら」というシナリオを調べるものだ。


 良い質問とは,ばかげたものでも答えが明白なものでもなく,知られていることと知られていないことの狭間にあるものだ。


 良い質問とは,予想もしない質問だ。


 良い質問とは,教養のある人の証だ。


 良い質問とは,さらに他の良い質問をたくさん生み出すものだ。


 良い質問とは,マシンが最後までできないかもしれないものだ。


 良い質問とは,人間だからこそできるものだ。



ケヴィン・ケリー 服部 桂(訳) (2016). <インターネット>の次に来るもの:未来を決める12の法則 NHK出版 pp.380-381


残響

 「残響」とは,言葉や音楽がやんだあとも室内で反射して聞こえる音をいう。ミュージシャンやスタジオエンジニアは部屋が「生きている(ライブ)」とか「死んでいる(デッド)」などと言うことがある。ライブな部屋とは,たとえば声が響いて気分よく歌える浴室のような部屋だ。デッドな部屋とは,ホテルの豪華な客室のように,柔らかい調度品やカーテンやカーペットなどに声が吸収されて響きにくい部屋だ。部屋が音をよく反響させるか,それとも静まり返るかは,主に反響によって決まる。短い残響が生じる部屋では音がすぐには消えず,言葉や音楽が微妙に強調されて華やかになる。大聖堂などの非常にライブな場所では,残響がまるで生命をもつかのごとく鳴り響き,細部まで堪能できるほど長く持続する。残響は音楽の質を高め,壮大なコンサートホールでオーケストラの奏でる音の厚みを増すのに重要な役割を果たす。適度な残響があれば声が増幅され,部屋の両端にいる人が互いの声を聞き取りやすくなる。残響などの音響的な手がかりから感じられる部屋の広さが,ニュートラルな音や快適な音に対する情緒反応に影響するということを示す証拠も存在する。私たちは,広いスペースよりも狭い部屋のほうが静穏で安全,そして快適だと感じやすい。



トレヴァー・コックス 田沢恭子(訳) (2016). 世界の不思議な音 白揚社 pp.24


劣等な人々の永続への不安

 劣等人間が世代を超えて永続することに対する不安は,「彼らが持っている何かが彼らの子孫も確実に劣等人間にする」という仮説に基づいている。1870年の時点では,まだ「遺伝子」の存在は知られていなかった。しかし当時のエリート階級の人々の多くは,大多数の人々は救い難い遺伝的形質を持っていると信じていたことに間違いはない。今日でこそ「劣等」という差別的用語を使う失礼な人はいないだろうが,こうした考え方自体は,現在もなお根強く生きている。社会の大多数の遺伝子と言うとき,それは彼らのIQや教育困難性,福祉依存傾向,犯罪傾向などの個人的特性がその時代に固定しており,社会的条件が新しくなっても変化することはないという考えを意味している。


 私は当時使われていた言葉をあえてそのまま使うことにする。すなわち大多数の人間は「劣等」である。「除去すべき人」と言い換えてもよい。端的に言えば,「おまえたちはおまえたちのような子孫を作ってしまうだろうから,我々はおまえたちの遺伝子を除去したいのだ」ということである。言い方はどうあれ,ここには私たち人類の心と人間性は凍結されているという仮定がある。しかし,この過程は間違いであることを歴史が証明している。かつて私は,一人親になってしまう黒人女性の割合は,自立できる黒人男性配偶者の割合が変化するのに応じて変化するだろうと述べたことがある。自立可能な男性が多ければ,より多くの黒人女性が夫を見つける。一方,自立可能な男性がわずかしかいなければ,黒人女性のわずかしか夫を見つけることができず,彼女たちの多くが,一人親(シングルマザー)になるのである(Flynn, 2008)。


 私は「今日の劣等人間は明日の劣等人間」という考え方を否定する。もし,ある社会に一定の割合でIQの低い人々がいれば,彼らはIQの低さのために「劣等人間」の烙印を押されるだろう。そして,世代を経るごとにIQが低下すれば,その社会の「劣等人間」の割合は増加することになる。逆に,もし世代を経るごとに下層階級の人々が「劣等人間」でなくなれば,つまり,もし彼らが永久に「劣等人間」でないのであれば,IQの低い人々,すなわち望ましくない個人的特性を持つ人々の割合が次第に減少することになる。本書の趣旨は,社会が近代化するのに伴って,時代とともに,人々の精神や能力がどのように変容してきたのかを跡づけることに外ならない。



(Flynn, J. R. (2013). Intelligence and Human Progress: The Story of What was Hidden in our Genes. New York: Elsevier.)


ジェームズ・ロバート・フリン 無藤 隆・白川佳子・森 敏昭(訳) (2016). 知能と人類の進歩:遺伝子に秘められた人類の可能性 新曜社 pp.54-55


赤の女王仮説

 すべての進歩は相対的である,というこの概念は,生物学の分野では「赤の女王仮説」として知られるようになった。『鏡の国のアリス』のなかで,アリスが出会うあの女王のことである。赤の女王は走り続けるが,永遠に同じ場所にとどまっている。風景が彼女についてくるからだ。この考え方は,進化の理論にますます大きな影響を与えるようになってきており,本書でも再三繰り返されることになるだろう。速く走れば走るほど,世界もまた速度を増し,それだけ進歩は少なくなる。人生はチェスのトーナメントだ。ゲームに勝ったところでまた次のゲームに進まなければならない。しかも「駒落ち」というハンディを負って。



マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.39


悪口・陰口

悪口や陰口というのは,物事やひとの行動が嫌だと思ったときに,それが変わってほしいという思いがフラストレーションとなって,それを本人に直接言えないときに,別の分かり合えているひとに話す行動である。これが繰り返されれば,派閥が生まれたり,孤立するひとが出たり,弱い側のひとがつぶれていく。自殺につながる可能性もある。

森川すいめい (2016). その島の人たちは,ひとの話をきかない:精神科医,「自殺希少地域」を行く 青土社 pp.76

ペットの定義

わたしのお気に入りは,ペンシルバニア大学の人類動物学者,ジェームズ・サーペルによるペットの定義だ。サーペルによると,ペットとは明白な役割を持たないままわたしたちがいっしょに暮らす動物を指すのだという。でも,この幅をもたせた定義ですらも,その境界線のあたりではおかしなことが起きる。比較的最近まで,アメリカの家庭で飼われる多くの動物には何かの仕事が与えられていた。たとえばイヌだったら,家畜の群れを追い,狩りをし,番犬になり,荷車を引き,ときにはバターをかき混ぜるのを任されたりもした。ネコだって,愛情の対象としてよりもむしろ,生きたネズミ捕りとしての立場に甘んじていたのだ。アメリカでは,カナリアを筆頭に,カゴのなかで飼われる鳥の数が爆発的に増加する19世紀半ばまでは,飼い主を楽しませるのが唯一の役目という動物はほとんどまれだった。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.103-104

名前と分類

動物に名前をつけたり,特徴を言いあらわしたりするときにわたしたちが使う言葉は,動物についてどう考えるかという問題にかかわるもうひとつの要素——すなわち,動物をどのように分類するか,ということとも深く関係している。たとえば「ペット」に分類される動物には名前をつけるけれど,「研究対象」に分類される動物にはふつう名前はつけない。最近,ある生物学者に,実験室のマウスには名前があるのかどうか尋ねてみたら,こいつは頭がおかしいんじゃないかという顔でこっちを見ていた。そりゃそうだ。だって,生物学者が突いたり,深針を挿したり,注射したりする白いマウスは,本質的にどれも同じなんだから。名前なんかつけてどうするって言うんだ?

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.61-62

負の力

人を怨む,世間を呪う「負の力」。
 これは,簡単に恐ろしいパワーを生み出してしまう。
 どうにでもなれというパワーは,人々を圧倒し,魅了することすらある。
 だけど,それは必ず自分に跳ね返ってきて,自分を追い込む危険な刃物だ。
 だから今のぼくは,「正」の力で物事を考え生きるようにしている。怨まず,呪わず,感謝する。100パーセントできている自信はないが,心がけるように努めている。

ハウス加賀谷・松本キック (2013). 統合失調症がやってきた イースト・プレス pp.99-100

説明と理解

どういうことか。本書の関心に即して私なりにまとめると,およそ次のようになる。「説明」と「理解」とは,同じ水準に並び立つような営みではないし,ましてや対立する営みでもない。また,学問(科学)には「説明」的方法と「理解」的方法という2つの方法があるのでもない。つまり,自然を対象にしたときには「説明」的方法が用いられるが歴史や芸術を対象にしたときには「理解」的方法が用いられるとか,自然科学は「説明」するが人文科学は「理解」する,とかいうわけではないのだ。強いていえば「説明」だけが方法的である。学問とは「説明」という方法と,それによって獲得された知の総体にほかならない。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.352

歴史をどのように語るか

基本的な語彙の選択においてすらむずかしい問題が生じる場合がある。侵略か進出か,テロリズムか革命か,保護か隷属化か等々,私たちは歴史を語る語彙をめぐって争うことをやめない。歴史的事件の当事者や歴史家にかぎらず,既存の歴史に規定されながら新規に歴史をつくっていく存在であるところの私たちは,歴史的な事実にどのような意味を担わせるか,どのような語彙を用いるかを通じても,歴史に参加している。歴史とは解釈であり実践であると言われるのはそういう意味だ。歴史にかかわる論争がしばしば平行線をたどる背景にはこうした事情がある。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.314-315

進化論の比喩

私たちの日常生活は進化論の比喩的な用法にあふれている。なかでも典型的なのはビジネスや処世術,人生訓で用いられる進化論(ビジネス進化論)だろう。これらの語り手たちは,進化論が教える生物の世界をモデルとして引きあいに出しながら,私たちに絶え間なく「進化」しつづけるように命じる。そして厳しい競争を勝ち抜いていこうと鼓舞する。テレビ,新聞,雑誌,ネット,看板広告,中吊り広告,社員研修等々で,こうしたものを見ない日はない。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.24

homosexual

1868年5月6日,ケルトベニはウルリヒスに宛てて手紙を書きます。ウルリヒスが「ウルニング」だなんてちょっとカッコよすぎる名前で同性愛者を呼んでいたのに対し,ケルトベニはもうちょっとシンプルな言葉づかいをしてみせました。ギリシャ語で「同じ」を意味する「ホモ(Homo)」と,ラテン語で「性」を意味する「セクスス(Sexus)」を組み合わせ,「Homosexual(同性愛者)」という言葉をつくり出したのです。さすが,語学に長けた言葉のプロのやることです。同じ要領で,ケルトベニは「Heterosexual(異性愛者)」という言葉もつくりだしてみせました。
 続いてケルトベニは,この「同性愛者」という言葉を使い,1869年に刑法143条反対を表明する文書を発表しました。匿名での発表でしたが,その中には,自殺した友達を想い「刑法143条は恐喝や自殺を誘発する」と書くことを忘れませんでした。これが,文献に残っている限りでは,人類史上はじめて「Homosexual(同性愛者)」という言葉が公式に使われた瞬間です。

牧村朝子 (2016). 同性愛は「病気」なの? 僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル 星海社 pp.45-46

生物次元への還元の危険性

ヒトラー出現以降の世界に住むわれわれは,人間の価値や反社会的行動の原因を生物学の次元へ還元してしまうことの危険をよく知っており,事実そのような警句は繰り返し発せられてきた。ここでもう一度整理しておくと,その危険とは,IQの遺伝子や,犯罪傾向の遺伝因子や,反社会的あるいは暴力的な遺伝子などという,生物学のレベルとは対応関係のない,その意味でありもしない遺伝因子を想定したり,人間の社会的行動を説明づけしようとする生物学概念へ人間解釈を還元してしまったりすることである。それは,人間解釈の浅薄さ以外の何ものでもなく,このような言説に対しては感度を鋭くして,ていねいに批判しつづけていかなくてはならない。
 同時にわれわれは,飛躍的に研究が進むであろう脳神経系の生物学の研究成果を常時モニターし,ここから引き出されてくる脳神経系の疾患のしくみを正確に理解するようにすべきである。科学的にも倫理的にも妥当と思われる治療や予防の手段については,これを受け入れていくだけの洞察力と理解力をあわせもたなければならない。しかし,それ以前に,正確な医学的意味が理解されないまま,また科学的意味が未解明のまま,遺伝子診断がサービス産業として拡大していくことの非合理と無責任さは,何より科学および医学の立場からもっと問題視されてよいだろう。
 ただし,医学史研究・医療人類学などが明らかにしているように,何を「疾患」や「障害」とみなすのか,また「疾患」や「障害」にいかに対応すべきなのかについては,文化や価値観,あるいは「疾患」や「障害」をもつ当事者であるか否かなど,さまざまな要因が関わってくる。科学や医学の研究成果を正確に理解するとともに,その成果が人間社会に発信される場面でいかに意味づけられ機能するかという面も,監視しなくてはならない。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 269-270

カーネマンは何学者

心理学者にとっては,カーネマンがノーベル経済学賞をとる前から,トゥバスキー&カーネマンという2人の名前は,リンダ問題などと共に認知心理学者として認識されていた。したがってノーベル経済学賞をとったからといって,カーネマンは経済学者じゃない,心理学者なんだ!というのが心理学者の気持ちなのである。私たちが育てたんだ!という気持ちであろうか。
 しかし現実は残酷である。『岩波世界人名大辞典』においてカーネマンは行動経済学を開拓した経済学者として評価されているのであった。ただし,ノーベル賞受賞の理由は,不確定状況下における判断についての心理学的研究の洞察を経済学に統合したことであり,受賞分野としてあげられていたのは,経済心理学ならびに実験経済学であったから,彼のことを心理学者であるとしても基本的には間違いにならないだろう。

サトウタツヤ (2015). 心理学の名著30 筑摩書房 pp.273

哲学者の二分法

また彼は哲学者の二分法ということも述べている。哲学における2つの大きな考え方である合理論と経験論のいずれをとるかは,哲学者の気質によるという大胆な仮説である。柔らかい心,と,硬い心,というのがジェームズの唱えた二分法である。一般に,性格やパーソナリティの理論は,個人差を扱おうという動機がなければ発生しないし維持もされない。
 この(哲学者の)気質二分法は,心理学者たちに影響をあたえ,1920年代の性格類型論へと結実していったと思われる。たとえば,ユングに関してはジェームズの影響についての研究が進んでおり,ユングの類型論(タイプ論)とジェームズの気質二分法との関係が明らかになりつつある。

サトウタツヤ (2015). 心理学の名著30 筑摩書房 pp.17-18

健康とは

50年以上前に策定されたWHO憲章(1946)をみると,その前文には次のように書かれている。「完全な肉体的,精神的及び社会福祉の状態であり,単に疾病又は病弱の存在しないことではない」。心理・社会的な側面も「健康」にとって重要であることはわかっていたのだ。ただ,それを科学的にとらえる方法の開発や大規模なデータが得られなかったなどの理由で研究が遅れていた。他方で,生物医学的な研究方法がより早く確立し,膨大な知見の蓄積が進んだ結果,生物医学的なとらえ方のほうが,主流となった。それに対し生物心理社会モデルは,社会疫学によってようやく科学的に裏づけられたというべきかもしれない。

近藤克則 (2010). 「健康格差社会」を生き抜く 朝日新聞社 pp. 114

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