I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

概念・喩え

ですから,このお話で活躍致しますお化けども,これは概念でございます。
 お化けと申しますものは——幽霊なんかも含みますけれども——これ,大雑把に述べますてえと,文化的存在と申すことが出来ましょうな。
 世の中には理解の及ばぬ現象やら,子細あって曲解したい事象やら,都合の悪い出来ごとなんぞが沢山ございます。人と申しますものは,そうしたものごとを誤魔化すように出来ております。まあ,無理な解釈を致しましたり,妙な説明を致しましたり,怖がりたくないから何かの所為にしてしまったりする訳ですな。そういう色々な人の思いが捏ね上げました妄念やら小理屈なんかが,お化けそもそもでございます。その辺から生まれまして,長い年月をかけまして醸造されました様々なモノが,妖怪と呼ばれる訳でございますな。
 ですから,まあいないという形でいる訳でございまして——その辺が,喩えなのでございますな。

京極夏彦 (2013). 文庫版 豆腐小僧双六道中おやすみ 角川書店 pp.10

自炊と屠畜

こういうことではないだろうか。「自炊」という行為は屠畜に似ている。電気ショックを浴びせたり,額を撃ち抜いたりして,家畜を絶命させる。その瞬間からの一部始終を見るのと,肩やもも肉などの各部位に切断された後の牛や豚を見るのとでは,受ける衝撃はまるで違う。生命体から物体へと変わる瞬間が衝撃的なのだ。「自炊」も同じ。背表紙を切り落とされ,装幀を破壊される瞬間がなにより辛い。その段階はすでに終えているのだ。だからこそ平気なのだろう。

西牟田靖 (2015). 本で床は抜けるのか 本の雑誌社 pp.122

勤勉性

締めくくりに,勤勉性とは単にまじめで,熱心,一生懸命という特性にとどまるとみたら失敗するだろう。勤勉な生き方とは,創造性の基盤,成長の源であるという現実である。芸術でも科学でも産業でも,NHK『プロジェクトX——挑戦者たち』でみたように,創造的営為の背後には,必ずといっていいほど地道な勤勉性が潜んでいる。これは人々の常識になっている。この日本列島において,多様な文化が創造され,今日のように発展してきたのも,人々の間にまじめに努力するという勤勉な資質の裏づけがあったからにほかならない。
 世界の人々と交わる中で,われわれは勤勉に生きる意味を自然体で伝えることができるだろう。内外の人々は,シュリーマンのように,日本人の普段の生き方,働き方に実地に触れることによって,勤勉性というわが国の土着思想に深い関心を向けはじめるのではないだろうか。迂遠なようだが,それがグローバルな国際社会に寄与できる道なのかもしれない。その意味ではミッションであろう。

梶田正巳 (2015). 日本人と雑草:勤勉性を育む心理と文化 新曜社 pp.187

粘りと勤勉

最後に注目しておきたいのは,「ねばり強い」と「勤勉」との関係である。「ねばり強さ」が欠ければ「勤勉性」は失われるし,また逆も真なりだろう。両者には強い相関関係,表裏一体のかかわりがある,ということである。困難があっても耐えながら,目標を達成するために,一生懸命に勤めることをわれわれは最重視している。ここに日本人の勤勉性の特徴が現れている。こう眺めてくると,日本人のかかわる社会的場面では,「怠ける」,「チャランポラン」,「いいかげん」などは,反対に一番嫌悪され,信用されない人柄の指標になっているものと思われる。

梶田正巳 (2015). 日本人と雑草:勤勉性を育む心理と文化 新曜社 pp.32

翻訳文化

翻訳活動は今日,「翻訳文化」と称されて,わが国の社会文化の大きな特質といわれている。いまやなじみのボキャブラリーになっている権利(right),社会(society),民主主義(democracy),憲法(constitution),自由(freedom and liberty),衛生(hygiene),個人(individual),自然(nature)などは,江戸末期から明治にかけて,日本語へ翻訳する過程でできあがった新しい言葉なのであった。この百数十年の間に非常に多くの翻訳語が造語されて,日本語を豊かにする大きな契機になっていた。
 江戸末期から進んだわが国の翻訳文化が影響を与えたのは,日本にとどまるものではない。実は漢字文化圏の本場である中国へも逆輸入されていった。そして,中国語のボキャブラリーをも非常に豊かなものにしていったのである。具体例を掲げれば,上記のほかには,階級,取締,出版,哲学,立場,主義,原子,近代化,唯物論などの語彙は,日本語書籍の中国語への翻訳活動を通して,中国語の中に取り入れられた代表的な言葉である。

梶田正巳 (2015). 日本人と雑草:勤勉性を育む心理と文化 新曜社 pp.14-15

安心と安全

“安全”と“安心”は文字にすると似てるけど,水と油といってもいいほどに異なる概念です。
 その決定的な違いは,危険(リスク)に対する態度にあります。
 安全を実現するためには,つねに現実の危険と向き合わねばなりません。どんな危険がどこにどれだけ存在するのかを,つねに把握して可能なかぎり回避する,これがホンモノの安全対策。
 かたや,安心はこころの状態にすぎません。感じかたには個人差があります。アタマの悪い人ほど,現実の危険から目を背け,儀式やげん担ぎを懸命にやって,危険を遠ざけたと“安心”しがちです。
 安心は,安全であることを保障しないのです。安全の実現のためには,安心することは許されません。
 ところが近年の日本では,この正反対の概念をセットにした“安全・安心”という矛盾した言葉を,到るところで目にするようになりました。

パオロ・マッツァリーノ (2015). 「昔はよかった」病 新潮社 pp.124-125

過去最悪

だいたい,“過去最悪”なんて主観的な表現を報道で用いてはいけません。善悪の基準は人や立場によって異なります。“最悪”かどうかは,書き手の主観的印象で決まってしまいます。
 天気予報でも,最高気温,最低気温はあるけれど,最悪気温なんていいません。暑がりと寒がりの気象予報士では,なにが最悪か,基準がブレてしまいます。
 犯罪の件数が増えると,マスコミは“激増” “悪化” “過去最悪”などとおおげさに報じます。でも逆に犯罪が減って戦後最低を記録したとしても,“過去最良” “過去最善”とは決して報道しないんです。
 やはり,マスコミ関係者含め,ほとんどの人が,よのなかは悪くなる一方だ,犯罪が減ることなどありえない,と思っているのでしょうね。

パオロ・マッツァリーノ (2015). 「昔はよかった」病 新潮社 pp.34-35

理由を明確に

この英文の書き手には,“Do you know why?”(なぜか分かりますか?)のように,読み手やスピーチの聞き手などに分かるはずのないことを訊くのが,ある種のレトリックだと思っているのでしょう。しかし,たとえ,日本語でエッセイを書くときや,日本語でスピーチを行うときなどにそのような質問を向ける習慣があるとしても,英語でも同じレトリックが使える,と勘違いさせてほしくないのです。
 また,さらに言えば,英語で何かの理由を述べるときには,ちゃんと理由として成立することを述べてほしいのです。上記の英文では,「なぜ将来,コンピュータ技術者になりたいのか」という理由の1つとして「コンピュータは私たちにとってとても役に立つと思っているからです」と述べられていますが,これは内容的にきわめておかしい。
 まず「コンピュータは私たちにとってとても役に立つ」ということは自明の事実なのに,“I think... .”(…と私は思っています)と言うと,それはまるで個人の意見にすぎないかのように述べてしまうことになります。
 また,「コンピュータは私たちにとってとても役に立つと思っているからです」のように,ほとんど誰もが等しく当然に思っているはずのことを自分独自の気持ちの理由として述べているのもおかしい。まるで「なぜ飛行機のデザイナーになりたいのですか」と訊かれた人が,「飛行機は私たちにとってとても役に立つと思っているからです」と答えるのと同じ感じです。あるいは,「なぜ建築学科に行くことにしたか」という質問に,「建築は私たちにとってとても役に立つと思ったからです」と説明するようなものです。

マーク・ピーターセン (2014). 日本人の英語はなぜ間違うのか 集英社インターナショナル pp.167-168

理由を明確に

因果関係を示す表現に関しては,日本語のほうが英語よりもだいぶ制限がゆるいようですが,私は“英語的論理”の縛りから脱却できていないせいか,日本語の「静岡出身なので,アパートで1人暮らしをしている」という言い方にも抵抗感を覚えてしまいます。私なら「静岡出身であり,今アパートで1人暮らしをしている」のように直したくなるのです。というのも,東京では静岡出身の大学生でも,アパートではなく寮や一戸建てに住んでいる人もいれば,1人暮らしではなく2人や3人で暮らしている人も少なくないからです。つまり,「静岡出身」だからといって,何も「アパートで1人暮らし」と決まっているわけではないのです。

マーク・ピーターセン (2014). 日本人の英語はなぜ間違うのか 集英社インターナショナル pp.91-92

反知性という敵意

反知性の立場はある架空の,まったく抽象的な敵意にもとづいている。知性は感情と対峙させられる。知性が温かい情緒とはどこか相容れないという理由からである。知性は人格と対峙させられる。知性はたんなる利発さのことであり,簡単に狡猾さや魔性に変わる,と広く信じられているからである。知性は実用性と対峙させられる。理論は実用と反対のものだと考えられ,「純粋に」理論的な精神の持ち主はひどく軽蔑されるからである。知性は民主主義と対峙させられる。それが平等主義を無視する一種の差別だと考えられるからである。こうした敵意の妥当性がいったん認められると,知性を,ひいては知識人を弁護する立場は失われる。だれがわざわざ,情緒の温かみ,堅固な人格,実践能力,民主的感情を犠牲にする危険を冒してまで,せいぜい単に利口なだけ,最悪の場合は危険ですらあるタイプの人間に敬意を払うだろうか。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.41-42

知性的であること

《知性的であること》を定義するには,たとえば知的な弁護士や大学教授と,知的ではない弁護士や大学教授の違いを見きわめることが必要である。もっと適切な言い方をすれば,なぜ弁護士や大学教授が,あるときは決まりきった純粋な職業的流儀にのっとって行為しているとされ,あるときは知識人として行為しているとされるのかを見きわめることが必要である。両者の違いは,仕事の基盤となる知識の性格ではなく,知識に対する態度にある。私が示唆してきたように,こうした人物はある意味では知識のために生きている——つまり,宗教的傾倒とじつによく似た,精神生活への献身的意識をもっている。これはべつに驚くにはあたらない。知識人の役割は,重要な部分で聖職者の職務を受け継いだものだからである。すなわち,考察という行為のなかに絶対的な価値を認める,ある特殊な意識である。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.24

知能と知性2

この知能の質と知性の質との相違は,そう規定されるというより,そう推量されるにすぎないことのほうが多いのだが,それらがよく使われる文脈から,両者の微妙な違いを察することができる。そしてこの違いはほぼだれにでも理解できることだ。つまり,知能はかなり狭い,直接の,予測可能な範囲に適用される頭脳の優秀さを指す。ものごとを処理し,適応するなど,きわめて実質的な特質——動物の長所のうち,適応するなど,きわめて実質的な特質——動物の長所のうち,もっともすぐれ,魅力あるもののひとつ——である。知能は,限定され明確に定められた目標の枠内ではたらき,そのために用をなさない考え方は,さっさと切り捨てる。そして,知能は世間一般で広くもちいられるため,そのはたらきは日常的に観察でき,単純・複雑,双方の考え方からおなじように評価される。
 一方,知性は頭脳の批判的,創造的,思索的側面といえる。知能がものごとを把握し,処理し,最秩序化し,適応するのに対し,知性は吟味し,熟考し,疑い,理論化し,批判し,想像する。知能はひとつの状況のなかで直接的な意味を把握し,評価する。知性は評価を評価し,さまざまな状況の意味を包括したかたちで探し求める。知能は諸動物のひとつの特質として高く評価される。それに対し,人間の尊厳を唯一表わすものである知性は,人間の特質のひとつとして高く評価される一方,非難もされる。両者の相違がこのように明確になれば,なぜ,だれがみても鋭敏な知能をもつ人が,やや知性に欠けると言われるのか,同様に,なぜまちがいなく知性的な人びとに,かなり多方面にわたる知能がそなわっているのか,理解し易くなる。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.21-22

知性と知能

世間の偏見を理解するには,まずその慣習的なあり方を分析するのが得策である。この観点から,人気のあるアメリカの著作に目を通すと,だれでも,知性という観念と知能という観念とが明確にちがうことに気づくはずだ。前者はよく,一種のののしりとして使われるが,後者はけっしてそういうことはない。だれも知能の価値を疑わない。知能は理想的特性として世界じゅうで尊重されており,知能が並外れて高いと思われる個人は深く尊敬される。知能の高い人はつねに賞賛を浴びる。これに対して高い知性をもつ人は,ときには——とくに知性が知能をともなうと考えられるときには——称賛されるが,憎悪と疑惑の目を向けられることも多い。信頼できない,不必要,非道徳的,破壊的といわれるのは知性の人であって,知能の高い人ではない。ときには,その高い知性にもかかわらず,知能が低いとさえいわれるのだ。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.21

知識人に対する考え

以上の事例や出所や意図は多様だが,いずれも反知性主義にかんして格好の仮説を提示している。つまり,知識人は見栄っぱりでうぬぼれが強く,軟弱で尊大であるらしく,不道徳で危険で,社会の破壊分子であるともみられている。この仮説にもとづけばふつうの人間の十人並みの判断力は,とくに実務面で成功している場合,学校で正式に得た知識と専門の識見をはるかに凌がないまでも,十分それにとって代わりうる。知識人が影響力を発揮しやすい場所——総合大学や単科大学——が芯から腐っているのも,驚くに値しない。とにかく情操教育や,古い宗教的,道徳的諸原理が,新しい思想や芸術に呼応する知性を形成しようとする教育よりも,信頼できる人生の指針ということになる。小学校教育においても,身体と情緒の発達に逆らって知識のみを重視しすぎる教育は,社会的退廃をひき起こす恐れがあると見なされている。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.16-17

究極の否定表現「嫌い」

「今日はですね,究極の否定表現,『嫌いだ』について考えてみましょう」
 「おお,そうですね。『嫌いだ』というのは,たしかに究極っぽいですね」
 「そうなんです。『この本を読んで,作者のことが決定的に嫌いになった』という感想で,全面否定することができます。理由とか論理を越えていますから,反論を許さない絶対的表現として用いられています。いわば捨て身の最終兵器ですね」
 「うーん,でも,好きか嫌いかは,個人的な嗜好の問題ですよね?」
 「そのとおり。ですから,『嫌いだ』とわざわざ公言しても,実際には作品の否定というよりは,その人本人の自己顕示としての意味しかありません。それでも,やはり,この評価に重みがある,と感じてしまう人が多いようです。それは,誰かから『お前は嫌いだ』と言われることを恐れている人たちが現代社会では非常に多い,ということでしょう」

森博嗣 (2014). 実験的経験 Experimental experience 講談社 pp.261

小説

「誰に対してのものかは関係ないのです。この,読んで得るものがない,というのと,もう一つ頻繁に出てくるフレーズは,心に残るものがない,というやつですね。僕,思うんですけど,小説って,読んでなにかを得たり,読んで心に残すものなんでしょうか?それって,教科書とか聖書みたいですね。小説っていうのは,そもそも,得るものなんてないし,心に残るものでもないのでは?その証拠に,みんな読んだものを綺麗さっぱり忘れているじゃないですか。心に残るというのなら,読んだあと,もう少し振り返ってみるとか,じっくり考えてみるとか,したら良さそうなものなのに,つぎつぎと作品に手を出して乱読しまくるわけですよね。こういう読み方が,そもそもなにかを得たいとか,心に残したいとか,そういう姿勢と矛盾していると思えるのですが,いかがでしょうか」

森博嗣 (2014). 実験的経験 Experimental experience 講談社 pp.67-68

サリエンス

中毒者を惹きつける薬物類の力を表すときに脳科学者がよく使う用語に「顕著性(サリエンス)」があるが,これは好むというより欲する感覚,いや,必要とするという感覚でさえある。顕著性の発達は,経験を伝達する神経経路にたどることができる。この経路は,脳の下側の,腹側被蓋野と呼ばれる領域から,側坐核,海馬,前頭前皮質など,報酬,動機づけ,記憶,判断,抑制,立案に関連した脳領域へと拡がっていく。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.97−98

リアルガチ

この「リアルガチ」という言葉こそ出川の芸風を一言であらわしている。
 たとえば,素朴な疑問として「熱湯風呂は本当に熱いのか?」というものがある。
 ダチョウ倶楽部の上島竜兵の場合,答えは「熱くない」だ(もちろん,本当に「熱い」ときもあるだろうが)。
 熱くない“熱湯”を誰よりも「熱く」見せるリクションでは右に出るものはいない。それは天下一品の芸だ。
 一方,出川の場合,本当に「熱い」ほうが本領を発揮する。
 普通,本当に熱いと人はリアクションを取れないものである。が,出川は違う。その熱さを熱さのままの臨場感で伝えることのできる稀有な存在なのだ。

戸部田誠 (2015). コントに捧げた内村光良の怒り:続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方 コアマガジン pp.55-56

オタク的

オタク的とはどういうことか。簡単に言えば,特定の分野に強いこだわりを見せて,それを突き詰めていく態度のことだ。

ラリー遠田 (2015). なぜ,とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか? コアマガジン pp.97

ハロー効果

第1次世界大戦中,エドワード・ソーンダイクというアメリカの心理学者が上司は部下をどう評価するかについて調査していた。あるとき,ソーンダイクは陸軍将校に依頼して,知性,体格,リーダーシップ,性格などさまざまな面から部下の兵士を評価してもらった。その結果に彼は驚いた。「優秀」と思われている兵士は,ほぼすべての項目で評価が高かったのに対し,そう思われていない兵士はどの項目も標準以下だったのである。まるで,顔も姿勢もいい兵士は銃撃も靴磨きもハーモニカもうまいと思われているかのようだった。ソーンダイクはこの心理傾向を後光(ハロー)が射している様子になぞらえて,ハロー効果と名づけた。

フィル・ローゼンツワイグ 桃井緑美子(訳) (2008). なぜビジネス書は間違うのか:ハロー効果という妄想 日経BP社 pp.91

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