I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

知性的であること

《知性的であること》を定義するには,たとえば知的な弁護士や大学教授と,知的ではない弁護士や大学教授の違いを見きわめることが必要である。もっと適切な言い方をすれば,なぜ弁護士や大学教授が,あるときは決まりきった純粋な職業的流儀にのっとって行為しているとされ,あるときは知識人として行為しているとされるのかを見きわめることが必要である。両者の違いは,仕事の基盤となる知識の性格ではなく,知識に対する態度にある。私が示唆してきたように,こうした人物はある意味では知識のために生きている——つまり,宗教的傾倒とじつによく似た,精神生活への献身的意識をもっている。これはべつに驚くにはあたらない。知識人の役割は,重要な部分で聖職者の職務を受け継いだものだからである。すなわち,考察という行為のなかに絶対的な価値を認める,ある特殊な意識である。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.24

知能と知性2

この知能の質と知性の質との相違は,そう規定されるというより,そう推量されるにすぎないことのほうが多いのだが,それらがよく使われる文脈から,両者の微妙な違いを察することができる。そしてこの違いはほぼだれにでも理解できることだ。つまり,知能はかなり狭い,直接の,予測可能な範囲に適用される頭脳の優秀さを指す。ものごとを処理し,適応するなど,きわめて実質的な特質——動物の長所のうち,適応するなど,きわめて実質的な特質——動物の長所のうち,もっともすぐれ,魅力あるもののひとつ——である。知能は,限定され明確に定められた目標の枠内ではたらき,そのために用をなさない考え方は,さっさと切り捨てる。そして,知能は世間一般で広くもちいられるため,そのはたらきは日常的に観察でき,単純・複雑,双方の考え方からおなじように評価される。
 一方,知性は頭脳の批判的,創造的,思索的側面といえる。知能がものごとを把握し,処理し,最秩序化し,適応するのに対し,知性は吟味し,熟考し,疑い,理論化し,批判し,想像する。知能はひとつの状況のなかで直接的な意味を把握し,評価する。知性は評価を評価し,さまざまな状況の意味を包括したかたちで探し求める。知能は諸動物のひとつの特質として高く評価される。それに対し,人間の尊厳を唯一表わすものである知性は,人間の特質のひとつとして高く評価される一方,非難もされる。両者の相違がこのように明確になれば,なぜ,だれがみても鋭敏な知能をもつ人が,やや知性に欠けると言われるのか,同様に,なぜまちがいなく知性的な人びとに,かなり多方面にわたる知能がそなわっているのか,理解し易くなる。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.21-22

知性と知能

世間の偏見を理解するには,まずその慣習的なあり方を分析するのが得策である。この観点から,人気のあるアメリカの著作に目を通すと,だれでも,知性という観念と知能という観念とが明確にちがうことに気づくはずだ。前者はよく,一種のののしりとして使われるが,後者はけっしてそういうことはない。だれも知能の価値を疑わない。知能は理想的特性として世界じゅうで尊重されており,知能が並外れて高いと思われる個人は深く尊敬される。知能の高い人はつねに賞賛を浴びる。これに対して高い知性をもつ人は,ときには——とくに知性が知能をともなうと考えられるときには——称賛されるが,憎悪と疑惑の目を向けられることも多い。信頼できない,不必要,非道徳的,破壊的といわれるのは知性の人であって,知能の高い人ではない。ときには,その高い知性にもかかわらず,知能が低いとさえいわれるのだ。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.21

知識人に対する考え

以上の事例や出所や意図は多様だが,いずれも反知性主義にかんして格好の仮説を提示している。つまり,知識人は見栄っぱりでうぬぼれが強く,軟弱で尊大であるらしく,不道徳で危険で,社会の破壊分子であるともみられている。この仮説にもとづけばふつうの人間の十人並みの判断力は,とくに実務面で成功している場合,学校で正式に得た知識と専門の識見をはるかに凌がないまでも,十分それにとって代わりうる。知識人が影響力を発揮しやすい場所——総合大学や単科大学——が芯から腐っているのも,驚くに値しない。とにかく情操教育や,古い宗教的,道徳的諸原理が,新しい思想や芸術に呼応する知性を形成しようとする教育よりも,信頼できる人生の指針ということになる。小学校教育においても,身体と情緒の発達に逆らって知識のみを重視しすぎる教育は,社会的退廃をひき起こす恐れがあると見なされている。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.16-17

究極の否定表現「嫌い」

「今日はですね,究極の否定表現,『嫌いだ』について考えてみましょう」
 「おお,そうですね。『嫌いだ』というのは,たしかに究極っぽいですね」
 「そうなんです。『この本を読んで,作者のことが決定的に嫌いになった』という感想で,全面否定することができます。理由とか論理を越えていますから,反論を許さない絶対的表現として用いられています。いわば捨て身の最終兵器ですね」
 「うーん,でも,好きか嫌いかは,個人的な嗜好の問題ですよね?」
 「そのとおり。ですから,『嫌いだ』とわざわざ公言しても,実際には作品の否定というよりは,その人本人の自己顕示としての意味しかありません。それでも,やはり,この評価に重みがある,と感じてしまう人が多いようです。それは,誰かから『お前は嫌いだ』と言われることを恐れている人たちが現代社会では非常に多い,ということでしょう」

森博嗣 (2014). 実験的経験 Experimental experience 講談社 pp.261

小説

「誰に対してのものかは関係ないのです。この,読んで得るものがない,というのと,もう一つ頻繁に出てくるフレーズは,心に残るものがない,というやつですね。僕,思うんですけど,小説って,読んでなにかを得たり,読んで心に残すものなんでしょうか?それって,教科書とか聖書みたいですね。小説っていうのは,そもそも,得るものなんてないし,心に残るものでもないのでは?その証拠に,みんな読んだものを綺麗さっぱり忘れているじゃないですか。心に残るというのなら,読んだあと,もう少し振り返ってみるとか,じっくり考えてみるとか,したら良さそうなものなのに,つぎつぎと作品に手を出して乱読しまくるわけですよね。こういう読み方が,そもそもなにかを得たいとか,心に残したいとか,そういう姿勢と矛盾していると思えるのですが,いかがでしょうか」

森博嗣 (2014). 実験的経験 Experimental experience 講談社 pp.67-68

サリエンス

中毒者を惹きつける薬物類の力を表すときに脳科学者がよく使う用語に「顕著性(サリエンス)」があるが,これは好むというより欲する感覚,いや,必要とするという感覚でさえある。顕著性の発達は,経験を伝達する神経経路にたどることができる。この経路は,脳の下側の,腹側被蓋野と呼ばれる領域から,側坐核,海馬,前頭前皮質など,報酬,動機づけ,記憶,判断,抑制,立案に関連した脳領域へと拡がっていく。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.97−98

リアルガチ

この「リアルガチ」という言葉こそ出川の芸風を一言であらわしている。
 たとえば,素朴な疑問として「熱湯風呂は本当に熱いのか?」というものがある。
 ダチョウ倶楽部の上島竜兵の場合,答えは「熱くない」だ(もちろん,本当に「熱い」ときもあるだろうが)。
 熱くない“熱湯”を誰よりも「熱く」見せるリクションでは右に出るものはいない。それは天下一品の芸だ。
 一方,出川の場合,本当に「熱い」ほうが本領を発揮する。
 普通,本当に熱いと人はリアクションを取れないものである。が,出川は違う。その熱さを熱さのままの臨場感で伝えることのできる稀有な存在なのだ。

戸部田誠 (2015). コントに捧げた内村光良の怒り:続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方 コアマガジン pp.55-56

オタク的

オタク的とはどういうことか。簡単に言えば,特定の分野に強いこだわりを見せて,それを突き詰めていく態度のことだ。

ラリー遠田 (2015). なぜ,とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか? コアマガジン pp.97

ハロー効果

第1次世界大戦中,エドワード・ソーンダイクというアメリカの心理学者が上司は部下をどう評価するかについて調査していた。あるとき,ソーンダイクは陸軍将校に依頼して,知性,体格,リーダーシップ,性格などさまざまな面から部下の兵士を評価してもらった。その結果に彼は驚いた。「優秀」と思われている兵士は,ほぼすべての項目で評価が高かったのに対し,そう思われていない兵士はどの項目も標準以下だったのである。まるで,顔も姿勢もいい兵士は銃撃も靴磨きもハーモニカもうまいと思われているかのようだった。ソーンダイクはこの心理傾向を後光(ハロー)が射している様子になぞらえて,ハロー効果と名づけた。

フィル・ローゼンツワイグ 桃井緑美子(訳) (2008). なぜビジネス書は間違うのか:ハロー効果という妄想 日経BP社 pp.91

わかりきったアドバイス

ボストン・レッドソックスの大打者テッド・ウィリアムズは,いつも癪に障ることが1つあると話したことがある。相手チームのランナーが塁に2人以上出ていて,バッターボックスに強打者が立つと,監督はマウンドまで出てくる。そしてピッチャーに「打たれにくいところをねらっていけ。ただし,フォアボールはやめてくれよ」というだけいって,さっさとベンチに引きあげるのだ。ばかばかしい!ピッチャーだって打たれにくいところに投げたいし,フォアボールも出したくないに決まっている。わかりきったことではないか!そうではなく,「ここではフォアボールはまずいから,ストライクゾーンをねらっていけ!」,もしくは「ここでは打たれたくないから,フォアボールで逃げろ」とはっきり指示してこそ役立つ助言なのである。それなのに,監督はどちらもうまくやれと簡単にいう。業界アナリストとそっくりだ。

フィル・ローゼンツワイグ 桃井緑美子(訳) (2008). なぜビジネス書は間違うのか:ハロー効果という妄想 日経BP社 pp.26

結論が正しい

結論が正しいと言えるのは,論証が妥当であり,前提となる根拠がすべて信頼性がある場合です。論証が妥当であるとは,前提に信頼性がある場合にその結論も信頼性があるような論証のことを言います。別の言い方をするなら,前提となる根拠を仮にすべて信頼性があると考えたときに,結論が偽であるとは考えられないなら,その論証は妥当であると言います。同様に,前提となる根拠を仮にすべて真であると考えたときに,結論が真であるとは考えられないなら,その論証は妥当ではないと言います。

福澤一吉 (2005). 論理表現のレッスン NHK出版 pp.164-165

演繹的論証

根拠がそのまま結論を導くためにフルに使用できるような論証,または根拠の意味内容に結論がすでに含まれているような論証を演繹的論証と言います。その意味において,演繹的論証では前提となる根拠の枠の内側にある結論しか導けません。一方,帰納的論証では,前提となる根拠を認めたとしても,そこから正しい,妥当な結論が導かれることはありません。帰納的論証ではある根拠から出発し,その根拠に含まれていない内容を推測して導きます。前提として提示された根拠の枠を超えて推測するわけです。結論の不確かさがそれを導かれるプロセスの不確かさに依存しているような論証を帰納的論証と言ってもいいでしょう。

福澤一吉 (2005). 論理表現のレッスン NHK出版 pp.146

帰納的論証

用いられた根拠からなんらかの推測をし,主張・結論が出されるような論証の形式を帰納的論証といいます。帰納的論証ではある根拠から出発し,その根拠にそもそも含まれていない内容を推測して導いていることになるのです。ですから,仮に用いられている根拠が信頼性のあるものであったとしても,論証として妥当とはいえません。この意味において,帰納的論証ってけっこう危なっかしいことをしているのです。しかし,帰納的論証の名誉回復(?)のために言っておきますと,私たちが日常接するほとんどの論証は帰納的論証です。この帰納的論証があるからこそ手元にあるなんらかの根拠,証拠から,まだ見ぬ,だれも知らないことが予測できるわけです。その意味において,帰納的論証はパワーがあるとも言えるのです。

福澤一吉 (2005). 論理表現のレッスン NHK出版 pp.145-146

問うという行為

そもそも,なにかを問うという行為はなんなのでしょうか。問うという行為は,議論している話題または問題をその問いがもつ枠組でくくろうとする行為,またはその枠組みで問題がつかまるはずであるという態度表明でもあります。その行為に絶対性があるはずはありません。さらに,問いと答えは一般に対になっています。ですから,問いの仕方自体がそでに答えの出し方や答えのあり方を限定していることになります。その問いがどんな枠組みで世界を切り取ろうとしているのかを自分でつよく意識できない状態で相手に「問う」ことをすると,こんどは相手からその「問い」の意味について聞かれる可能性が生じます。その相手からの「問い」に十分答えられるだけの準備が,問うことには要求されるのです。

福澤一吉 (2005). 論理表現のレッスン NHK出版 pp.65-66

思考を論理的に表現する

もうひとつは「論理的に思考する」のではなく,「思考を論理的に表現する」ことが大事である,ということです。思考はそもそも論理的ではなく,ハチャメチャであるというわけです。科学的大発見などをもたらす思考は「どんな考え方をしてもよろしい」というハチャメチャな自由があってこそ実現するものです。しかし,ハチャメチャ思考をそのまま表現してもおそらくだれにも分かってもらえないでしょう。なんらルールのないところで自由に考えたものを第三者に伝えたいのであれば,こんどは第三者と共有できるなんらかのルールに沿ってその考えを整理し,表出する必要があります。そのルールが論理に他なりません。飛躍が最大になるように仕組まれているのが思考で,飛躍が最小になるように仕組まれているのが論理と言ってもいいでしょう。

福澤一吉 (2005). 論理表現のレッスン NHK出版 pp.7-8

論理的であること

言葉と言葉がもつ関係性に人間の心理が関与することを考えるなら,論理的であることは「語と語,句と句,文と文の関係性にこころを向け,その関係性に注意を集中すること」に他なりません。

福澤一吉 (2005). 論理表現のレッスン NHK出版 pp.7

因果関係とは

因果関係とは,原因と結果の関係である。自然科学における因果関係の推論とは,原因と考える要因(出来事)と結果と考える出来事との関係を,実験か観察で得られたデータを用いて推論することである。本書で説明するように,因果関係自体は直接認識できないので,「推論」がついて回る。つまり,原因と結果に関するデータを得て,そのデータに基づいて思考し,因果関係があるのか因果関係がないのかを推論するのである。さらに,あるとすればその因果関係はどの程度の影響を与えるものなのか,それは無視できるのか,対策が必要なのか,どの程度役に立つと言えるのか,商品化可能なのかを考えたりもする。ちなみに,私の専門分野の疫学では原因を暴露と呼び,結果を病気と呼ぶことが多い。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.10-11

差別の理由とは

差別主義者,排外主義者は必ず「差別の理由」を訴える。私のもとにもヘイトスピーチを正当化するための「理由」が,これまでにもメールや電話などで多数寄せられてきた。
 そのたびに私はこう答えている。
 マイノリティ差別を正当化できる「理由」など一切,存在しない。ヘイトスピーチというのはマイノリティに対する暴力,攻撃,迫害である。人間としての尊厳を傷つけ,また社会全体をも破壊するものだ。もしも「理由」如何によってそれが許容されるならば,世界中にはびこる様々な差別——黒人差別,ユダヤ人差別,アラブ人差別なども正当化されてしまう。あるいは第二次大戦中,日本人であるということだけで収容所送りとした米国の差別政策すら認めなければならない。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.223-224

差異にこだわる

彼らが口にする「気持ち悪い」は,「怖い」「意味が分からない」といった言葉と同義語である。とにかく“異なる他者”を差別することでしか,自我を保つことができない。あるいはそうすることでしか,自らの優位性を訴えることができない。そうしたゼノフォビア(外国人嫌い)を根底に抱えた者は,デモ参加者の中に少なくないように思える。
 以前,新大久保でおこなわれた差別デモの最中,たまたま現場に遭遇した右翼組織のメンバーが「朝鮮人って言葉を使わずに愛国を語ってみろよ」とデモ隊に対して吐き捨てるように叫んでいた風景を目にしたことがあるが,私もまったく同感だ。レイシストはレイスの差異にこだわることこそが,活動の原動力なのである。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.205-206

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