I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

わかりきったアドバイス

ボストン・レッドソックスの大打者テッド・ウィリアムズは,いつも癪に障ることが1つあると話したことがある。相手チームのランナーが塁に2人以上出ていて,バッターボックスに強打者が立つと,監督はマウンドまで出てくる。そしてピッチャーに「打たれにくいところをねらっていけ。ただし,フォアボールはやめてくれよ」というだけいって,さっさとベンチに引きあげるのだ。ばかばかしい!ピッチャーだって打たれにくいところに投げたいし,フォアボールも出したくないに決まっている。わかりきったことではないか!そうではなく,「ここではフォアボールはまずいから,ストライクゾーンをねらっていけ!」,もしくは「ここでは打たれたくないから,フォアボールで逃げろ」とはっきり指示してこそ役立つ助言なのである。それなのに,監督はどちらもうまくやれと簡単にいう。業界アナリストとそっくりだ。

フィル・ローゼンツワイグ 桃井緑美子(訳) (2008). なぜビジネス書は間違うのか:ハロー効果という妄想 日経BP社 pp.26

結論が正しい

結論が正しいと言えるのは,論証が妥当であり,前提となる根拠がすべて信頼性がある場合です。論証が妥当であるとは,前提に信頼性がある場合にその結論も信頼性があるような論証のことを言います。別の言い方をするなら,前提となる根拠を仮にすべて信頼性があると考えたときに,結論が偽であるとは考えられないなら,その論証は妥当であると言います。同様に,前提となる根拠を仮にすべて真であると考えたときに,結論が真であるとは考えられないなら,その論証は妥当ではないと言います。

福澤一吉 (2005). 論理表現のレッスン NHK出版 pp.164-165

演繹的論証

根拠がそのまま結論を導くためにフルに使用できるような論証,または根拠の意味内容に結論がすでに含まれているような論証を演繹的論証と言います。その意味において,演繹的論証では前提となる根拠の枠の内側にある結論しか導けません。一方,帰納的論証では,前提となる根拠を認めたとしても,そこから正しい,妥当な結論が導かれることはありません。帰納的論証ではある根拠から出発し,その根拠に含まれていない内容を推測して導きます。前提として提示された根拠の枠を超えて推測するわけです。結論の不確かさがそれを導かれるプロセスの不確かさに依存しているような論証を帰納的論証と言ってもいいでしょう。

福澤一吉 (2005). 論理表現のレッスン NHK出版 pp.146

帰納的論証

用いられた根拠からなんらかの推測をし,主張・結論が出されるような論証の形式を帰納的論証といいます。帰納的論証ではある根拠から出発し,その根拠にそもそも含まれていない内容を推測して導いていることになるのです。ですから,仮に用いられている根拠が信頼性のあるものであったとしても,論証として妥当とはいえません。この意味において,帰納的論証ってけっこう危なっかしいことをしているのです。しかし,帰納的論証の名誉回復(?)のために言っておきますと,私たちが日常接するほとんどの論証は帰納的論証です。この帰納的論証があるからこそ手元にあるなんらかの根拠,証拠から,まだ見ぬ,だれも知らないことが予測できるわけです。その意味において,帰納的論証はパワーがあるとも言えるのです。

福澤一吉 (2005). 論理表現のレッスン NHK出版 pp.145-146

問うという行為

そもそも,なにかを問うという行為はなんなのでしょうか。問うという行為は,議論している話題または問題をその問いがもつ枠組でくくろうとする行為,またはその枠組みで問題がつかまるはずであるという態度表明でもあります。その行為に絶対性があるはずはありません。さらに,問いと答えは一般に対になっています。ですから,問いの仕方自体がそでに答えの出し方や答えのあり方を限定していることになります。その問いがどんな枠組みで世界を切り取ろうとしているのかを自分でつよく意識できない状態で相手に「問う」ことをすると,こんどは相手からその「問い」の意味について聞かれる可能性が生じます。その相手からの「問い」に十分答えられるだけの準備が,問うことには要求されるのです。

福澤一吉 (2005). 論理表現のレッスン NHK出版 pp.65-66

思考を論理的に表現する

もうひとつは「論理的に思考する」のではなく,「思考を論理的に表現する」ことが大事である,ということです。思考はそもそも論理的ではなく,ハチャメチャであるというわけです。科学的大発見などをもたらす思考は「どんな考え方をしてもよろしい」というハチャメチャな自由があってこそ実現するものです。しかし,ハチャメチャ思考をそのまま表現してもおそらくだれにも分かってもらえないでしょう。なんらルールのないところで自由に考えたものを第三者に伝えたいのであれば,こんどは第三者と共有できるなんらかのルールに沿ってその考えを整理し,表出する必要があります。そのルールが論理に他なりません。飛躍が最大になるように仕組まれているのが思考で,飛躍が最小になるように仕組まれているのが論理と言ってもいいでしょう。

福澤一吉 (2005). 論理表現のレッスン NHK出版 pp.7-8

論理的であること

言葉と言葉がもつ関係性に人間の心理が関与することを考えるなら,論理的であることは「語と語,句と句,文と文の関係性にこころを向け,その関係性に注意を集中すること」に他なりません。

福澤一吉 (2005). 論理表現のレッスン NHK出版 pp.7

因果関係とは

因果関係とは,原因と結果の関係である。自然科学における因果関係の推論とは,原因と考える要因(出来事)と結果と考える出来事との関係を,実験か観察で得られたデータを用いて推論することである。本書で説明するように,因果関係自体は直接認識できないので,「推論」がついて回る。つまり,原因と結果に関するデータを得て,そのデータに基づいて思考し,因果関係があるのか因果関係がないのかを推論するのである。さらに,あるとすればその因果関係はどの程度の影響を与えるものなのか,それは無視できるのか,対策が必要なのか,どの程度役に立つと言えるのか,商品化可能なのかを考えたりもする。ちなみに,私の専門分野の疫学では原因を暴露と呼び,結果を病気と呼ぶことが多い。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.10-11

差別の理由とは

差別主義者,排外主義者は必ず「差別の理由」を訴える。私のもとにもヘイトスピーチを正当化するための「理由」が,これまでにもメールや電話などで多数寄せられてきた。
 そのたびに私はこう答えている。
 マイノリティ差別を正当化できる「理由」など一切,存在しない。ヘイトスピーチというのはマイノリティに対する暴力,攻撃,迫害である。人間としての尊厳を傷つけ,また社会全体をも破壊するものだ。もしも「理由」如何によってそれが許容されるならば,世界中にはびこる様々な差別——黒人差別,ユダヤ人差別,アラブ人差別なども正当化されてしまう。あるいは第二次大戦中,日本人であるということだけで収容所送りとした米国の差別政策すら認めなければならない。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.223-224

差異にこだわる

彼らが口にする「気持ち悪い」は,「怖い」「意味が分からない」といった言葉と同義語である。とにかく“異なる他者”を差別することでしか,自我を保つことができない。あるいはそうすることでしか,自らの優位性を訴えることができない。そうしたゼノフォビア(外国人嫌い)を根底に抱えた者は,デモ参加者の中に少なくないように思える。
 以前,新大久保でおこなわれた差別デモの最中,たまたま現場に遭遇した右翼組織のメンバーが「朝鮮人って言葉を使わずに愛国を語ってみろよ」とデモ隊に対して吐き捨てるように叫んでいた風景を目にしたことがあるが,私もまったく同感だ。レイシストはレイスの差異にこだわることこそが,活動の原動力なのである。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.205-206

理由などない

しかし,私は思う。そもそも差別に理由をもうける時点で,決定的に間違っている,と。差別を肯定するための理由などを認めていたら,世界中のすべての差別が許容されてしまうではないか。
 国家や指導者を批判することは一向に構わないが,私たちの目の前にいるマイノリティを差別し,排除し,嘲笑する理由など何一つない。
 いや,あってはならないのだ。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.132-133

熟慮ではない

社会のマジョリティとして,マイノリティの殺戮を煽ったのだ。「軽はずみ」であることなど,何の言い訳にもなるまい。世界中の歴史を紐解けば,あらゆるジェノサイド(虐殺)は,それこそ「軽はずみ」から始まっている。熟慮に熟慮を重ねた「虐殺」などあっただろうか。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.130-131

不快語や罵詈雑言とは違う

「ヘイトスピーチとは,人種,民族,国籍,性などのマイノリティに対して向けられる差別的な攻撃を指す」
 これが師岡の見解だ。私もそれに倣いたい。
 自身の努力だけでは変更することのできない,けっして抗弁することができない属性や,性的マイノリティに対し,差別に基づいた扇動・攻撃を加える行為そのものが,ヘイトスピーチと位置付けられる。しかもそれらの攻撃は社会的な力関係を背景におこなわれる。
 また,人種差別研究で知られるハワイ大学のマリ・マツダ教授は,ヘイトスピーチは「マイノリティに対して恐怖,過度の精神緊張,精神疾患,自死にまで至る精神的な症状と感情的な苦痛をもたらす」としたうえで,その定義を以下の3点に簡潔にまとめている。
(1)人種的劣等性を主張するメッセージであること
(2)歴史的に抑圧されてきたグループに向けられたメッセージであること
(3)メッセージの内容が迫害的で,敵意を有し相手を格下げするものであること
 要するに,ヘイトスピーチは単なる不快語や罵詈雑言とは違うということだ。
 この点は世間にはまだ正確に伝わっていない。「言葉遣いが汚い」ということだけで「ヘイト」だとする風潮の方が,日常社会やネット言論の世界では一般的だ。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.77-78

だから害悪

カタルシスや娯楽のためにマイノリティが存在するのではない。ヘイトスピーチを全身に浴びてきた人間が,そう簡単に「痛み」から解放されるわけがないのだ。
 何度でも言う。ヘイトスピーチは暴力そのものだ。生身の人間を傷つける。そして,人を抱える社会そのものを傷つける。
 だから害悪なのだ。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.62

暴力そのもの

ヘイトスピーチは単なる罵声とは違う。もちろん言論の一形態でもない。一般的には「憎悪表現」と訳されることも多いが,それもどこか違うように感じられてならない。
 憎悪と悪意を持って差別と排除を扇動し,人間を徹底的に傷つけるものである。言論ではなく,迫害である。
 言葉の暴力——ではない。これは「暴力」そのものだ,と。人間の心にナイフを突き立て,深く抉るようなものだ。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.19-20

トートロジー

「これは私のおふくろです。なぜなら,私の母だからです」という表現は,最も厳密な論証で誤りがありません。しかし,このような論証は結論が必ず真理なので内容的に意味のない表現になっています。吟味するまでもなく意味内容が絶対に真理となるような表現内容を,「トートロジー」とか「同語反復」と呼びます。トートロジーでは前提や根拠から主張への飛躍はありません。つまり,確実な結論を導けますが,生産的なことは何も言っていないに等しいのです。ですから,なにか生産性のある論証をする場合には「Aという前提・根拠」から「Aという前提・根拠以外のなにか」を導く必要があります。言いかえるなら,飛躍をともなわない意見は主張にはなりえないのです。

福澤一吉 (2002). 議論のレッスン NHK出版 pp.91

反論を許す

主張をこのように考えてみますと,単に主張が「自分が一番言いたいこと」では済まない場面がありそうです。要するに,自分の主張は誰かへの反論になっているのですから,こんどは自分の意見は誰かから必ず反論される対象となっているはずです。そうであるなら,「誰かからの反論を十分に許す(これはいいことです)だけの議論構造をあらかじめ用意してから主張すること」が議論の順番ということになるでしょう。

福澤一吉 (2002). 議論のレッスン NHK出版 pp.90

的を射ていない

ある質問が「的を射ていない」と即断できるということは,同時に「的を射た質問とはなにか」を知っていることを意味します。つまり,「的を射た質問とはなんであるか」がわかっているからこそ,それとの対比で「的を射ていない質問」が定義できるのです。このことを事前におさえているためには,議論が開始される以前に周到な思考上の準備が必要なばかりか,議論になっている内容についての明確な考えを持っている必要があります。そして,そうした準備があるならば,この学生の質問をきっかけにして面白い議論が展開できそうな気がします。
 すべての大学教員に議論スキルが欠けているとは思えません。より正確には,議論スキルのない人が,またはそのような認知技能を身につけるためのトレーニングを受けていない人が,または議論を実践していないような人が,大学の教員をしている「場合がある」ということになるのでしょう。

福澤一吉 (2002). 議論のレッスン NHK出版 pp.33-34

アイデンティティの核心

集団に対するヘイト・スピーチの被害が,個人に対するそれに比べて小さい(希釈化・希薄化する)とする主張は,マイノリティ集団と個人との関係については当てはまらない。マイノリティに属する人々にとって民族性などの属性はアイデンティティの核心を占めることが多く,その属性に向けられた言葉の暴力は,特定人に向けられても,集団に向けられても,属性を同じくするすべての人の存在価値を否定するメッセージとなりうる。

師岡康子 (2013). ヘイト・スピーチとは何か 岩波書店 pp.156-157

深刻な人権侵害

まずヘイト・スピーチは,単なる「悪い」「不人気」「不適切」「不快」な表現ではないことを確認したい。脅迫や名誉毀損が他人の人権を侵害して許されないのと同様,ヘイト・スピーチは人権を侵害する表現であり,許してはならないものである。「不快」「不適切」などと軽く扱うこと自体,ヘイト・スピーチのもたらす取り返しのつかないほどの深刻な人権侵害と社会の破壊の害悪を認識していないと言わざるを得ない。

師岡康子 (2013). ヘイト・スピーチとは何か 岩波書店 pp.151

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