I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

良いチェックリスト・悪いチェックリスト

 ブアマン氏はいろいろ教えてくれた。良いチェックリストもあれば悪いものもある。悪いチェックリスト曖昧でわかりにくい。長すぎて使いにくく,実用に適さない。現場を知らないデスクワーカーによって作られる。彼らはチェックリストを使う人たちは馬鹿だと思い込んでいるから,全ての手順を細かく書き出そうとする。脳を活性化させるのではなく,眠らせてしまうようなチェックリストを作ってしまう。
 一方,良いチェックリストは明確だ。効率的で,的確で,どんなに厳しい状況でも簡単に使える。全てを説明しようとはせず,重要な手順だけを忘れないようにさせる。なにより実用的であることが良いチェックリストの条件だ。
 だが,どんなに良いチェックリストにも限界がある,ということをブアマン氏は強調した。やるべきことの優先順位を付けたり,チームワークを高めるきっかけを作ることもできる。でもチェックリストを渡しただけでは誰も使ってくれない。

アトゥール・ガワンデ 吉田 竜(訳) (2011). アナタはなぜチェックリスト使わないのか?:重大な局面で“正しい決断”をする方法 晋遊舎 pp.139

3種類の問題

 ヨーク大学のブレンダ・ジマーマン教授とショロム・グルーバーマン教授は,複雑性について研究を重ねてきた。2人によれば,世の中の問題は3つに分類できるという。
 1つ目は「単純な問題」だ。ケーキの焼き方などがこれにあたる。いくつかの基本的な技術を学ぶ必要はあるかもしれないが,それらを覚えてレシピ通りにやれば高確率で成功する。
 2つ目は「やや複雑な問題」だ。ロケットを月へ飛ばすのはこれにあたる。複数の「単純な問題」に分解できることもあるが,単純なレシピは存在しない。予期せぬ困難が頻発し,チームワークと専門知識が成功には不可欠だ。タイミングや協調が重要な課題となる。
 3つ目は「複雑な問題」で,子育てが良い例だ。月へのロケットは,1度やり方がわかれば,また同じやり方で飛ばせる。何度も繰り返すことによって,飛ばし方を改良していくこともできる。だが,子供は1人1人が違う。1人子供を育てたからといって,次がうまくいく保証はない。経験は有用だが,それだけでは不充分だ。次の子には全く違う育て方が必要かもしれない。「複雑な問題」は先行きが非常に不透明なのだ。だが,うまく子供を育てるのが不可能というわけではない。複雑だというだけだ。

アトゥール・ガワンデ 吉田 竜(訳) (2011). アナタはなぜチェックリスト使わないのか?:重大な局面で“正しい決断”をする方法 晋遊舎 pp.60-61

取って代わっただけ

 それまでは無批判に忌み嫌われておりましたようなものでございましても,蓋を開ければ何の科学的根拠もなかったとなりますれば,これは考え方を改めましょうと——普通ならこうなるはずでございましょう。
 ところが現状はその逆なのでございますな。
 まあ,この国も,文明開化,四民平等,近代化,民主主義化と,どんどん変わった訳でございます。最初にまず迷信が排除されましたな。で,身分やら階級やらの差も表向きはなくなりました。そうして,憑物筋という前近代の装置が徐々に機能しなくなって参ります。
 それは,まあ仕方がない。
 しかし,よくよく考えてみますってェと,迷信に科学が,身分やら階級やらに貧富の差やら学歴やらが取って代わりましただけのことでございまして,構造自体はそう代わり映えしていないのでございますな。結局,説明の体系やら解釈やらは大きく変わりましたものの,差別意識だの何だのというものはそのままの形で温存されておりましょう。
 人間,そう進歩は致しませんな。

京極夏彦 (2010). 文庫版 豆腐小僧双六道中ふりだし 角川書店 pp.519-520

世間話から昔話へ

 世間話と申しますものは,これリアルタイムなものでございまして,真偽の程は別としてもほんとうのこととして語られます。事実であろうとなかろうと面白可笑しく語られるものでございます。
 この世間話,事実のみを残すなら単なる記録でございますが,語りを語りとして伝えました時に,それは説話となり得るのでございます。
 この,語りの構造だけを抽出致しまして——つまりコード化致しまして,固有名詞を一般名詞に置き換えましてお話しますってェと,これは昔話になりましょう。純粋に語りの面白さだけを伝える——これは口承文芸でございます。
 口承文芸という部分に力点を置かずに,説話をただ後世に伝えた場合が,民話と呼ばれる訳でございます。一方で物語の面白さを重視せず,所謂事実としての側面を重視して後世に語り伝えました場合は,伝説になりましょう。伝説にはリアリティが必要なのでございます。
 因みにこの説話,事実の部分だけを記しますってェと,単なる記録になってしまう訳でございまするが,語ること——物語の方を文字で記しますと説話文学となるのでございます。これは小説のハシリでございましょうか。また,語りのテクニックが職業化致しますと,これはお噺——いわゆる落語などの話芸になって参ります。落語はその昔,昔話と呼ばれていたのでございます。
 世間話の妖怪から昔話の妖怪になると申しますのは,つまりリアリティを失うということでございます。

京極夏彦 (2010). 文庫版 豆腐小僧双六道中ふりだし 角川書店 pp.460

妖怪は1

 例えば数字の1を思い浮かべて戴けましょうか。
 1という概念は慥かにありましょう。しかしこの世に1というモノは存在しませんな。存在しませんから,もちろん見えも致しません。致しませんが,ない訳ではございません。仕方がないので1なり一という記号で表しますな。多くの方は,イチと聞けば,1や一を思い浮かべることでございましょう。
 妖怪は,この1と同じでございます。

京極夏彦 (2010). 文庫版 豆腐小僧双六道中ふりだし 角川書店 pp.11

不確実性を守るもの

 情報とは,直観に従って形式張らずに定義してみると,「不確実性を守るもの」のようになるかもしれない。実は,これはきちんとした定義でもあるとわかった——情報の量は,不確実性を低減させるものの量によって決まる(ゆえに,圧縮したファイルはランダムに見える。0番のビットからn番のビットまでの値がわかったところで,n+1番のビットにどんな値があるかはまったく予測できない——もし予測できるのであれば,まだ圧縮する余地があるということになる)。情報の量,つまり情報の「質量」に相当するものは,もともとシャノンの1948年の論文で発表されたもので,「情報エントロピー」,「シャノンのエントロピー」,または単に「エントロピー」と呼ばれている。エントロピーが高いほど情報量は多くなる。いまや驚くほど多くのもの——コイントスから電話での通話,ジョイスの小説,初デート,遺言,チューリングテストにいたるまで——の情報量が,測定可能であることがわかっている。

ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.308

言葉の意味の変化

 「知恵遅れ(retarded)」という言葉は,かつては丁寧な言葉だった。この言葉は「白痴(idiot)」「痴愚(imbecile)」「軽愚(moron)」といった言葉の代わりとして使われはじめたが,これらの言葉ももともとは丁寧な言葉だった。言語学者はこのように丁寧な表現が悪い意味になっていく過程を「延々と続く婉曲表現の置き換え」と呼んでいる。皮肉なことに,人やアイデアをけなすときに「知恵遅れ」と言うと,「白痴」や「軽愚」と言った場合よりも侮蔑的な響きになる。「白痴」や「軽愚」などの表現は——あまりに侮蔑的であるために——使われなくなり,代わりに「知恵遅れ」という表現が使われるようになったのにもかかわらず。大統領首席補佐官のラーム・エマニュエルが2009年の戦略会議で,自分の気に入らない提案を「知恵遅れ」と呼んだところ,大物の共和党員たちから彼の辞任を求める声が湧き上がり,(辞任しないのであれば)特別オリンピック[知的障害者のためのオリンピック]の委員長に対して個人的に謝罪するべきだと非難された。2010年5月,上院の健康,労働,年金に関する委員会で,ローザ法と呼ばれる法案が可決された。これは,連邦の文書で「知恵遅れ」という言葉を使うのを禁止し,代わりに「知的障害者(intellectually disabled)」という言葉を使わなければならない,というものである。延々と続く置き換えは続いているのだ。

ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.284

統計的技法

 多くの研究者は,類語集や文法規則に従って言語を分析しようとしても,翻訳の問題は解決できないと考えている。そこで,こうした従来の作戦をほとんど放棄した新しい手法が生まれた。たとえば2006年の米国標準技術局の機械翻訳コンテストでは,グーグルのチームが圧倒的な差で優勝し,多くの機械翻訳の専門家を驚かせた。グーグルのチームでは,コンテストで使用された言語(アラビア語と中国語)をだれも理解していなかった。そして,ソフト自体も同じように理解していなかったかと言えるかもしれない。このソフトは,意味や文法規則をなに1つ知らなかったのだ。ただ人間による質の高い翻訳(ほとんどは国連の議事録からのもので,この議事録はおかげで21世紀のデジタルのロゼッタ石になりつつある)の膨大なデータベースを利用して,過去の訳文に従って語句をつなぎ合わせたのである。それから5年後のいま,こうした「統計的」な技法はまだ完全ではないものの,ルールベースのシステムを完全に圧倒している。

ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.96

ソフトな退職強要

 その結果,今度はそうした損害賠償を請求されないような方法で,ハラスメントを行う企業が現れ始めたのである。それは「ソフトな退職強要」と呼ぶべき方法だ。
 ソフトな退職強要では,あからさまなハラスメント行為は行われず,ただひたすら会社に「居づらくなる」ような方法をとる。例えば,挨拶に返事をしないというのがその典型だ。そのほかにも,例えば,「どうしたいの?」と定期的に言われ続けるという相談もあった。これだけだとハラスメントだとはわからないだろう。だが,「そうしたいの?」という言葉は,会社に居続けることができないような雰囲気とプレッシャーを与えるために用いられている。そして実際,本人はこのまま会社に残ることはできず,辞めるしかないと思っているのである。
 また,「能力が低いから,他の道を考えた方があなたのためだ」「この仕事に向いていないと思う。あなたのためにも他に合った仕事を見つけた方がいいのでは」「仕事ができないなら,違う仕事を紹介できるけど」,さらには「わたしだったら採らない」と言われるケースも見られた。さらに,仕事を与えられない,自分で仕事を見つけてきても「一切評価しない」と言われたとの相談もあった。これらの場合には実質的には「辞めた方が良いのでは」と退職を促しているが,直接的な強要ではなく,上司らが退職を「求めている」というニュアンスを伝え続けることで,職場に居続けることを難しくする。

今野晴貴 (2012). ブラック企業:日本を食いつぶす妖怪 文藝春秋 pp.118-119

民事的殺人

 さらに,これらの手法がひどくなると,「民事的殺人」と呼びうる状況にまで至る。「民事的殺人」とは,被害者が権利行使の主体としてはあたかも「殺され」てしまっているかのような状態である。職場のことを思い出すだけで,過呼吸になる,涙が止まらなくなる,声が出せなくなる。徹底的に追い詰められた恐怖の経験が,彼らから法的な権利の主体であることを奪い去る。ブラック企業の側からすれば,この状態こそが,「完全にリスクをヘッジした状態」なのである。

今野晴貴 (2012). ブラック企業:日本を食いつぶす妖怪 文藝春秋 pp.112

戦略的パワハラ

 労働者に「一身上の都合で辞めます」と一筆書かせることで,訴訟リスクを軽減しようというのだ。もし労働者に解雇は不当だったと争われそうになったら,「こちらには証拠がある」と強弁する。これも,契約当事者の意志に反した行動を本人の意志であるかのように偽らせるため,契約の原則から逸脱している。しかし,職場の力関係が圧倒的な場においては,こうした無理も通るのである。
 更に,こうした訴訟リスクを避ける手口が高度化している。それが「戦略的パワハラ」だ。組織的にパワハラを行い,精神的に追い詰められた労働者が自ら辞めるのを待つ。会社から「辞めてほしい」とは一言も言わずに,目的を達成することができる。これは「辞めちまえ」と理由もなく解雇するより,表向きは穏健にみえるかもしれない。しかし,本質的な狙いは全く同じである。しかも,その弊害は精神的な疾病にかかってしまう「戦略的パワハラ」の方が深刻だ。職だけではなく,健康も失ってしまうことになる。
 戦略的パワハラの背後には,「ここまでならぎりぎり退職強要にならない」とアドバイスする弁護士もいる。この手口が悪質なのは,健康を害することが副次的な悲劇としてではなく達成された目的として起きる点にある。会社は組織を動員し,悪知恵のはたらく参謀を雇ってこの目的を達成する。

今野晴貴 (2012). ブラック企業:日本を食いつぶす妖怪 文藝春秋 pp.89-90

危険な誘惑

 「死者は無抵抗に,生前の印象的な出来事に象徴されます。それはなるほど,何をしたかというより,したことのうちで,何が目立ったかの問題です。……私はそもそも,死に方に拘る,という考え方が好きではありませんでした。それは,危険な誘惑です。生きることへの拘りを断念させてしまいます。」
 「そうなのかもしれません。……わかる気がします。」
 「どんな人生でも,死に方さえ立派であれば,立派な人生だ。——それは,人を破滅させる思想です。戦争になると,政治家はこの考え方を徹底させます。たとえこれまでの人生が不遇であっても,最後に国家のために戦って死ねば,国家は立派な人間として,あなたの人生を全面的に肯定する,と。恐ろしい,卑劣な嗾しです。……私は,苦しみに満ちた人生を送ってきた人間が,死に方一つで,最後にすべてを逆転させられる——自分の一生を,鮮やかに染め直すことが出来ると夢見ることに同情します。その真剣な単純さを愛します。自分は表面的には違っていても,本質的に立派な人間だったのだと,最後に証明しようとすることを理解します。しかし,賛同はしません。」

平野啓一郎 (2012). 空白を満たしなさい 講談社 No.4073-4074/6700(kindle)

悩みとは

 いきなりですけど,“悩み”とは何でしょうか?
 「複数の問題がこんがらがった状態」
 これが“悩み”です。
 個々の問題は単純なんですね。でも,それがこんがらがってしまう。こんがらがって互いにリンクして,まるで解決も考えるのも不可能に思えてしまう状態。それが“悩み”です。
 たとえば,ですよ。
 「お腹がすいた」
 「お金がない」
 「人にお金を借りるのは恥ずかしい」
 これら個別の問題がこんがらがると,
 「お腹がすいてご飯食べたいんだけど,お金がない。でも,誰に借りに行ったらいいんだろう。人にお金借りるなんて恥ずかしい。どうすればいいんだろう」というふうに,同じ問題を何度も考えてしまいます。
 「それにしても,お腹がすいた。でも,お金がない。誰かに借りに行かなきゃ。でも,誰に借りたらいいんだ。恥ずかしいし。でも,お腹がすいた。このままだったら病気になってしまう」と,ぐるぐるぐるぐるループし始める。
 分解していけば個別の問題は,「お腹がすいた」「お金がない」「恥ずかしい」というだけです。
 もし,この“悩み”を因数分解するように分解してしまえば,解決可能なポイントがはっきりします。
 「お腹が空いた」→無料で食事するには?スーパーたデパ地下で試食する?パンぐらい恵んでくれそうな知人はいないか?小麦粉や米など部屋にないか?
 「お金がない」→今すぐブックオフに売れる本はないか?
 「お金を借りるのは恥ずかしい」→恥ずかしがらずに借りられるのは?親に電話してみる?
 これは仕分けです。はっきりすれば対処できるんです。
 個別の「問題」に戻すこと。複数の問題を混ぜてしまって,“悩み”に進化させないこと。
 これが“悩み”に対する最短アプローチです。

岡田斗司夫・FREEex (2012). オタクの息子に悩んでいます:朝日新聞「悩みのるつぼ」より 幻冬舎 pp.42-43

共感のコツ

 共感のコツは相談者と“同じ温度の風呂に入る”ことにあります。
 恋愛で悩んでいるとか,借金のことで困っているとか,いろんな悩みがありますよね。
 その時に,ついつい僕たちはその相談者と“同じ温度の風呂”に入らないんです。
 その人が熱くて困っているとか,冷たくて困っていると言っても,自分は服着て標準の温度で快適に過ごしながら,つまり安全地帯から「こういうふうにすればいいよ」と忠告してしまう。
 とくに男性はこれをやってしまいがちです。女の人が男性相手に相談をすると,ムダに疲れてしんどいというのをよく聞きます。
 というのも,男性はすぐに答えを出そうとする。
 僕と同じで,役に立とうとするあまり,その人に対していま自分が言える一番論理的で,行動可能で,こういうふうにすれば状況が改善されるのにといった指針を,手早く言おうとしすぎるんです。
 結論だけじゃダメなんです。それよりもっと前の段階で,「相手と同じ温度の風呂に入る」これが必要です。

岡田斗司夫・FREEex (2012). オタクの息子に悩んでいます:朝日新聞「悩みのるつぼ」より 幻冬舎 pp.34-35

長方形の比喩

 よく用いられる「長方形の面積」の比喩をここでも紹介しておきましょう。長方形の面積は縦の辺の長さと横の辺の長さのどちらで決まるでしょう。この問いはナンセンスですね。どちらの辺の長さのほうが重要でしょう。この問いもナンセンスです。縦と横の両方で決まり,どちらも重要です。遺伝と環境の関係もそれと同じです。しかしここに横の長さは一定で,縦の長さが違う5つの長方形があるとすると,その面積の違いは縦と横のどちらで決まるでしょう(図表4−3)。この問いには意味があります。当然,縦だけで決まるといえるからです。
 あなた自身のことだけ考えれば,その遺伝条件は変わりません。つまり横の長さは一定です。ですから縦の長さ,つまり環境の影響だけがあなたの変化に影響を与えていると感じる。しかし世の中にいる人たちはみんな,横の長さも違うのです。その結果として,この世の中の人たちの違いの少なからぬ部分が横の長さ(遺伝)でも説明され,どちらか一方だけではないというわけです。そしてどちらも人生に少なからぬ意味をもたらすのです。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.136-137

できない,やらない

 「できない」ことと「やらない」ことは決定的に違う。「できない」ことは,自分の能力や環境,その他の外部条件が原因のこともある。「できない」ことは,場合によってはあきらめるしかない。ただ,今はできなくても,努力して将来できるようにすることが可能な場合もある。
 一方,「やらない」ことの原因は自分の気の持ちようを変えるだけで解決できる。

瀬谷ルミ子 (2011). 職業は武装解除 朝日新聞出版 pp.24

セルフ・ネグレクト

 マリア・P・パヴロウは,セルフ・ネグレクトを次のように定義しています。

 (1)個人の,あるいは環境の衛生を継続的に怠る
 (2)QOL(Quality of Life = 生活の質)を高めるために当然必要とされるいくつか,あるいはすべてのサービスを繰り返し拒否する
 (3)明らかに危険な行為により,自身が危険にさらされる

 まず,定義(1)についてですが,ここでは個人の衛生,あるいは環境の衛生を「継続的に」怠り,極めて不衛生に陥ることがポイントです。
 例えば環境の衛生を考えてみましょう。仕事が落ち着くまで部屋の片付けを後回しにしていて,仕事が終わったら一気に部屋の片付けを始める人はいるでしょう。
 また,年末に大掃除をするのが一般的ですが,徹底的に掃除をする人もいれば,いつもより少しだけ念入りに掃除する人もいると思います。つまり,多くの人は,掃除や片付けを時々はサボっても,継続的に怠ることはしません。
 個人の衛生を考えてみましょう。風をひいてしばらくお風呂に入らないことはあっても,風邪が治ればお風呂に入るでしょう。またお風呂に入らない日が数日続けば,タオルで体を拭いたり,足だけでも洗ったりということを代わりにするのが通常です。
 次に定義(2)ですが,ここでは「当然必要とされる」サービスを,「繰り返し」拒否することがポイントです。
 介護が必要な状態になれば,何らかのサービスを受けて少しでも助けてもらおうとするのは当然のことです。もちろんすべてのサービスを受けるには費用もかかりますから,介護保険で利用できるサービスをケアマネジャーから勧められ,自分の意志でいくつかのサービスを選択し決定していくことになります。
 ただ,サービスを勧められても,なかなか即答できる人はいないはずです。ケアマネジャーの説明に納得できなかったり,ヘルパーに限らず他者を家の中に入れることに抵抗を感じたりするため,サービス利用をすぐに決断できる人の方がむしろ少ないかもしれません。
 それでも,ほとんどの人は,何度か説明を受ければ,必要なサービスであれば納得して受け入れるでしょう。セルフ・ネグレクトは,繰り返しの説明や説得にもかかわらず,自分に必要だと勧めてくれるサービスを断り続ける場合です。
 定義(3)は,「危険な行為」により「自身が危険にさらされる」ことがポイントです。「危険な行為」は「傷の手当てをしない」などの,必要な病気の治療やけがの処置を「怠る」つまり「放置する」ことが含まれます。また病気治療のために必要な食事制限を守らない,薬を飲まないことが,「危険な行為」にあたります。通常の生活をしていれば生活に危険は生じないのですが,自分自身の危険な行為や不注意により,自分自身を危険にさらすような状況が起きてしまうのです。

岸恵美子 (2012). ルポ ゴミ屋敷に棲む人々:孤立死を呼ぶ「セルフ・ネグレクト」の実態 幻冬舎 pp.23-25

形態的幼児性

 また,社会ダーウィン主義に関連するものに,形態的幼児性と呼ばれる考え方がある。ダーウィンによって提唱されたもので,女性は男性よりも小さく,男性よりも形態的(身体的)に乳児や子どもに近いという考えである。ビクトリア時代の理論家の中には,この考えをもとに,女性は男性よりも知的に劣っているが,子どもよりは知的だと考えた者もいる。これは,女性よりも男性のほうが毛深いのだから,ゴリラに似ているはずだと言うようなものだ。もしかしたら妥当なのかもしれないが,信じるべき理由があるだろうか。女性のいわゆる知的劣等性を「説明する」形態的幼児性という考え方が,ここでも,女性から法的,経済的,政治的な力を奪い取るのを正当化するために利用されたのだ。形態的幼児性を女性にあてはめた社会進化論は,黒人に対する白人の権力を維持するために同じ考えを利用した。彼らが言うには,白人に比べ,黒人は身体的に類人猿に似ているので,それゆえ白人よりも知的に劣っているのだと。黒人女性は,この性差別的で人種差別的な理論によって,さらにおとしめられたのである。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.42

「情報の洪水」

 「情報の洪水」という言葉がある。
 これは,嘘だ。
 情報があふれるほどあって,それに対処できない,という弱音の表現が「情報の洪水」という言葉を生み出した。「情報化社会」は「情報禍社会」なのだとか,「情報過多」によって短絡型思考,自閉症型反応,分裂症的反応をまきおこすという「情報ストレス理論」,環境汚染のひとつとして「情報汚染」を考えなくてはいけないという話まである。
 こういう情報の受けとめかたは,新聞,雑誌,テレビなどから流れてくる,見かけ上,莫大な量に見える情報を消化しないといけない時代に遅れるという焦りの産物にすぎない。
 しかし気をつけて見ればわかることだが,洪水のような情報の中味は,実は同じようなモノがあふれているだけの話で,どうということはないのである。
 ひとつの事件,ひとつのテーマが話題になると新聞も雑誌もこぞって同じことを報道する。違いは味つけだけだ。最も確実な報道をした媒体の情報を引用し再編成している例の多いことも,週刊誌やテレビを見ているとよくわかる。

山根一眞 (1989). スーパー書斎の仕事術 文藝春秋 pp.41-42

児童虐待の一般化

 しかし,このような感覚——「児童虐待」は重大な社会問題であり,私たちが解決に向けて真摯に取り組むべき課題である,というような認識——が広く人々に共有されるようになったのは,日本では1990年代に入ってからのことである。そもそもそれ以前の日本では「児童虐待」という言葉が一般的なものではなく,今日報道されるような子供に対する継続的な暴力や養育放棄といった事例を,ひとつの「社会問題」として捉える視点に欠けていたのである。そのような意味で,児童虐待は90年代の日本で「発見」されたものであり,それ以前の社会では一部の専門家が関心を寄せる対象にすぎなかった。
 ところが前述のような「児童虐待問題」に対する現代的コンセンサスが形成される直前,すなわち1980年代の日本の大衆メディアででは,現在の視点からみれば不謹慎とも思える性質の児童虐待報道が繰り返されていた。それは,陰惨な児童虐待事件をまるでオカルト的な恐怖物語を読むような感覚で読者に消費させていく雑誌記事であり,それらの記事は子供が犠牲になる事件を表面的には非難しながらも,アルシュ「別世界の物語」として無邪気に供覧するような性質を備えていた。

佐藤雅浩 (2009). 児童虐待とオカルト—1980年代女性週刊誌における猟奇的虐待報道について— 吉田司雄(編著) オカルトの惑星—1980年代,もう一つの世界地図— 青弓社 pp.183-207

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