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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

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児童虐待の一般化

 しかし,このような感覚——「児童虐待」は重大な社会問題であり,私たちが解決に向けて真摯に取り組むべき課題である,というような認識——が広く人々に共有されるようになったのは,日本では1990年代に入ってからのことである。そもそもそれ以前の日本では「児童虐待」という言葉が一般的なものではなく,今日報道されるような子供に対する継続的な暴力や養育放棄といった事例を,ひとつの「社会問題」として捉える視点に欠けていたのである。そのような意味で,児童虐待は90年代の日本で「発見」されたものであり,それ以前の社会では一部の専門家が関心を寄せる対象にすぎなかった。
 ところが前述のような「児童虐待問題」に対する現代的コンセンサスが形成される直前,すなわち1980年代の日本の大衆メディアででは,現在の視点からみれば不謹慎とも思える性質の児童虐待報道が繰り返されていた。それは,陰惨な児童虐待事件をまるでオカルト的な恐怖物語を読むような感覚で読者に消費させていく雑誌記事であり,それらの記事は子供が犠牲になる事件を表面的には非難しながらも,アルシュ「別世界の物語」として無邪気に供覧するような性質を備えていた。

佐藤雅浩 (2009). 児童虐待とオカルト—1980年代女性週刊誌における猟奇的虐待報道について— 吉田司雄(編著) オカルトの惑星—1980年代,もう一つの世界地図— 青弓社 pp.183-207
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インテリジェント!

 実を言うと,私たちは,うまくいったり,役に立ったり,効果的だったりしたことはほとんど何でも「賢い(インテリジェント)」といいがちだ。何かを「愚かな(スチューピッド)」と呼ぶとき,嫌いを少し超えていることを意味していることもある(「いこのいまいましい(スチューピッド)雨がうっとうしい」)。車の製造業者は自分たちの製品は車輪の上の知性(インテリジェンス)だと言う。小さな女の子が習いたての童謡を暗誦するとき,彼女を賢い(インテリジェント)と言う。確かに,脳がすることは,虫の知能(インテリジェンス)からパーティのホストあるいは数学者の知能(インテリジェンス)まですべて知能(インテリジェンス)のいち携帯と言えるかもしれない。
 私見では,日常概念の「本質をつかもうとする」ことは科学にとって後退だ。私たちは日常概念は,あいまいで,定義が不明確で,どうにでも取れると思い,実際に使えるものと確実なものを生み出す系統的な観察を期待する。しかし,心理学が注意や記憶,知能などの概念の本質を見つけようと試みるのは,土,水,火,空気という科学以前の元素を思い起こさせる。それは,化学者が,周期表を確立してから,目を凝らしながらそれを見て,「ところで,土,水,火,空気はどこにあるのだろう?」と尋ねるようなものだ。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.46-47

曖昧な言葉

 この単純な作用が,占いが当たる理由も説明してくれる。占い師や霊能者が口にする言葉はあいまいなので,何通りにも解釈できる。たとえば,占い師が「住まいについて大きな変化」と言った場合,その意味としては自宅の引っ越し以外に,知り合いの転居に手を貸す,家を相続する,自宅から下宿に移る,海外に別荘を買う,などいくつも考えられる。また,この言葉には時間的な表現が含まれていないので“変化”の時期は近い過去,現在,未来のいずれとも受け取れる。見てもらう側は,占い師の言葉に意味を見つけようと懸命に努力する。自分の人生を振り返り,言われた言葉にあてはまるできごとを探しだす。そして占いが当たったと,自分に言い聞かせる。このプロセスは,実際の占いに入る前から働きはじめる。たいていの占い師が,占いの言葉は完全な形をとらないことを,客にあらかじめわからせておく。くもりガラスを通して見るようなもの,あるいは暗闇で声を聞くようなものだと断りを入れるのだ。あいまいな部分を埋めるのは,客自身の力である。そのうえで占い師は,フォックス博士やイライザと同じように,意味のない言葉を口にする。それをうるわしい事実に変えるのは客自身なのだ。研究者のジェフリー・ディーンは,この現象を「プロクルステス効果」と名づけた。プロクルステスとは,自分のベッドの大きさに合わせて泊まり客の手足を強引に切り落としたり,引き伸ばしたりするギリシア神話の人物である。

リチャード・ワイズマン 木村博江(訳) (2012). 超常現象の科学:なぜ人は幽霊が見えるのか 文藝春秋 pp.38-39

誤謬

 誤謬は,直感(および半直感)を揺るがす。なぜなら,誤謬は論理的展開の間違いであるだけでなく,「一見正しく見える理屈における間違い」だからだ。早くから論理について厳しい勉強を始めれば,あるいは勉強をもっと長くし続ければ,いまほど直感が誤謬によってもてあそばれることはないはずだ。

マリリン・ヴォス・サヴァント 東方雅美(訳) (2002). 気がつかなかった数字の罠:論理思考力トレーニング法 中央経済社 pp.80-81

成功に意味は

 だいたい「成功」なんて暑苦しい言葉,われわれの人生のなかではほとんど使われることがなかった言葉である。少なくともわたしはこれまでの過半生のなかで,たぶんただの1回も思い浮かべたことのない言葉である。多くの「もどき本」では,「目標を明確にしろ,そしてそれを紙に書け」という。で,書いたとするよね。「野球選手になりたい」でも「先生になりたい」でも「宇宙飛行士になりたい」でも「保母さんになりたい」でもいい。ところがもしそれが実現しても,それは「成功」とはだれも呼ばないのだ。もちろん,それでいいのである。「成功」という言葉など人生においてはなんの意味もないのだから。

勢古浩爾 (2010). ビジネス書大バカ事典 三五館 pp.233

技術なんか

 しばしば,「コミュニケーション力」ということがいわれる。しかし話し方なんかうまくなる必要はないと思う。技術なんかどうでもいい。自分ばかり話をしない,他人が興味がなさそうな話は早々にやめる,人の話は聞く,正直に対応する,無神経なことはいわない,これくらいのあたりまえのことがわかる人間になることが先決である。それでダメならダメでいいではないか。

勢古浩爾 (2010). ビジネス書大バカ事典 三五館 pp.136-137

ちょこっと目立つ

 ちょこっと目立つ,やや目立つ。わずかに目立つ。かすかに目立つ。それの繰り返し。そうすると,助監督らがひょっとして,私のことが少しでも頭をかすめてくれるのではないかと思うわけですわ。
 若気の至りで,自分なりにそうせんといかんと思ったんでしょうね。そんなん,たいしたこともありまへんわ。でも,十六,七の頃の私は,そんなことでも,遮二無二,一生懸命やってました。かわいいもんですわ。

福本清三・小田豊二 (2003). どこかで誰かが見ていてくれる:日本一の斬られ役 福本清三 集英社 pp.39-40

木と森

 物事が正しいのか,また間違いなのかを判断するには,個別の事実関係をしっかり洗い直して把握するということは,とても大事なことだ。だが実は,それよりも大事なことがある。細かな「木」ばかりに目を奪われすぎて,「森」が見えなくなることがないように気をつける,ということだ。陰謀論の場合,この「個別の木ばかりに目を奪われてしまって,森が見えなくなる現象」がよく起きてしまう。その結果,やすやすと陰謀論の罠へとハマっていってしまうということが多いのだ。
 陰謀論はたいてい,話の規模や設定が気宇壮大なので,全体像がもともと何だかよくわからない場合が多い。そのため,ついつい個別の事象の真実性や,つい納得してしまいそうな細かな話の筋立てなどに,壮大な陰謀論の内容全体の事実性の担保を頼ってしまいがちなのだ。
 五里霧中の「陰謀論の森」の中で,いかにもそれっぽい,わかりやすそうな事象・事実なるものを目の前にポイと投げられると,急に視界が開けたような気がしてしまい,本当は何も見えておらず,わかってもいないのに,その1つの事象・事実だけで,まるで森全体が納得できてしまいそうな気持ちへと陥り,「ああ,そうだったのだ」と,ありもしない納得をついついさせられてしまうというわけなのだ。

ASIOS・奥菜秀次・水野俊平 (2011). 検証 陰謀論はどこまで真実か パーセントで判定 文芸社 pp.291

教養主義

 ここで教養主義というのは哲学・歴史・文学など人文学の読書を中心にした人格の完成を目指す態度である。東京帝大講師ラファエル・ケーベル(Raphael Koeber 1848-1923)の影響を受けた漱石門下の阿部次郎(1883-1959)や和辻哲郎(1889-1923)などが教養主義文化の伝達者となった。『三太郎の日記』や『善の研究』が刊行されることによって,旧制高等学校を主な舞台に,教養主義は大正教養主義として定着する。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.40

安心

 経済学者は安心という意味について独特の解釈をしている。多くの現象は,2ゆ(あるいはもっと多く)の均衡を持つのが特徴だ。たとえば,ハリケーン・カトリーナの後でだれもニューオーリンズの家を再建しようとしないなら,それ以外のみんなだって再建しようとはしないだろう。ご近所もいないし店もないというのに,だれがそんな無人の荒地に住みたいだろうか?でももし多くの人がニューオーリンズの家を再建しようとしたら,それ以外の人たちも再建をしたがるだろう。ということで,ここには2つの均衡がある。1つは再建が行われる良い均衡だ。われわれはこれを安心がある状態だという。もう1つは,再建が行われない悪い均衡だ。これは安心がない状態だ。この見方だと,安心というのは予測でしかない。この場合は,他の人が家を建てるかどうかという予測となる。安心のある予測は,未来がバラ色だという予測だ。安心のない予測は,未来が暗いというものとなる。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.14-15

じょて

 助手は事務職員から「じょて」と呼ばれる場合さえもあった。戦前は技師(技士)の補助職に技手(正式名称は「ぎしゅ」)という職種があったが,その呼び方を真似て助手が「じょて」と呼ばれたのである。
 戦前の技術職の身分階層は,帝大卒が「技師」,高等工業専門学校卒が「技士」であり,「技手」は工業学校などの中等教育卒業者から補充された下級技術職だった。だから「じょて」と呼ばれると,「多分の軽蔑のよび方としか思われませんでした」(大河内一男『暗い谷間の自伝』)といっているのも,下級補助職の「技手」を連想したからであろう。もっとも明治25年までは帝大の「助手」の官名は「技手」だったから,「じょて」という呼びかたは助手のもともとの呼称からきていたのかもしれないが。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.62

左傾

 ここで当時の用語である「左傾」について説明しておこう。「左傾」は,評論家新居格(1888〜1951)によって大正時代につくられた語である。「左傾」は「赤化」と同じように,マルクス主義などの「左」翼思想に「傾」ことである。したがって左傾教授(学生)とはマルクス主義などの左翼思想にコミットした左翼教授(学生)のことである。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.15

心とは

 これまで述べたように,心とは,行動する観察対象における,隠れた活動部位です。その働きは,状況に応じた行動の発現を支えるために,余計な行動の発現を抑制することです。しかし,未知の状況では,自律的にある行動の抑制を解き,その余計な行動を自発的に発現させる逆の働きも持つようです。これらを総合すると,心の働きとは,「状況に応じた行動の発現を支えるために,余計な行動の発現を『潜在させる』こと」と言いかえる必要がありそうです。
 余計とされる行動は,発現を抑制されるだけで,消されてしまうわけではありません。すなわち,覆いをかけられるだけなのです。それはまさしく「潜在」している状態です。未知の状況では,「予想外の行動」として自発的に発現させられるのです。

森山 徹 (2011). ダンゴムシに心はあるのか:新しい心の科学 PHP研究所 pp.54-55

霊の身元

 だがそもそも,霊はなぜ身元を特定される必要があるのだろうか。無名のままの霊たちが,交霊会においてラップ音を鳴り響かせたりテーブルを浮遊させたりするだけでは,何が不足だというのだろうか。仮に身元が特定できたとしても,その身元が,名前から衣服さらには指紋に至るまで,生前と同じでなければならないのはなぜなのか。死んだはずの存在が,生きていた頃と何ひとつ変わらない容姿や身なりで現れたとすれば,その存在は果たして本当に死んでいると言えるのだろうか。あるいはこの場合,死とはいったい何を意味するのであろうか。

橋本一径 (2010). 指紋論:心霊主義から生体認証まで 青土社 pp.33

行いのせい

 これが本当ならまことに恐るべきことである。閻魔さまや天帝は,その部下を使って世界中にアンテナを張りまわし,人間の善事悪事をキャッチして,それに相応する賞罰をあたえる。人間は寸時も油断できないのである。これが中国で普遍的に行われる道教の実践道徳の根底に横たわる思想なのである。
 こういう立場からすると,試験審査官の少々のの不公平も,実は,受験生自身の宿業だということになってしまう。試験の成績発表があるごとに,世上にはいろいろの取り沙汰が行なわれる。やれ何番目の合格者は賄賂の結果だ,やれ何番目は文章が下手で有名な男だ,やれ何番目は品行のよくなかった男だ,どうのこうのと非難が起こりやすい。すると別の見方をする側では,いや最初の場合は先祖代々陰徳を積んだ家だ,第二の場合は親孝行な男だ,第三番目の場合は人知れずこっそりと善事を行なっていた男だ,などと弁護する人間も現れる。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.161-162

大量のフロイト

 祖母の家を解体してみたところ,床下から大量のフロイトが出てきた。
 問い返されると思うのであらかじめ繰り返しておけば,発見されたのはフロイトで,しかも大量に出現した。フロイトという名の何か他のものでしたなんて言い逃れることはしない。フロイトという姓のフロイトであって,名をジグムント。
 強面だ。

円城塔 (2010). Self-Reference ENGINE 早川書房 p.152 (文庫版)

想像力?

「金星人やら蟹座系宇宙人やら、何でもいいんだけどさ、そういうのがな、俺達と同じ姿形で、同じ言葉喋って、飯喰って糞して寝てるという発想のどこに想像力が働いてんだよ。そんなアホ臭いことを考えて、それが想像力だとか言われると、何か幻滅するよな」
特撮に出て来る宇宙人も、SFの宇宙人も、形は変だけどそこは一緒なんだよと、先輩はなぜか悔しそうに言った。

京極夏彦 (2012). 幽談 メディアファクトリー pp.188

アートの意味

 アート(art)の語源はラテン語のアルス(ars)で,技術,才能などを意味したが,さらにその語源を辿るとギリシャ語のテクネ(techne)に行き着く。テクネは,「内在する原理を正しく理解した上で何かをする(ものを作る)能力」,あるいは「金細工師が持っている実用以上の装飾能力,技術」という意味で使われた。つまり,アートにはずっと昔,「物事の原理の理解」と「装飾技術」という2つの意味が含まれていたのである。それは,アーティスト(芸術家)と呼ばれる人が出現する前,アルチザン(職人)と呼ばれる人々のものだった。それを受け継いだルネサンスの芸術家の作品にも,「装飾」性ははっきりとあった。美術史に残っていない作品には,キレイなだけの壁に飾る「花」みたいな絵もごまんとあっただろう(今もあるが)。アートも元は,花のデコレーションや凝った髪型や化粧と同様,ストレートな美と贅沢に関わるものだった。
 装飾的なだけで創造性のない作品,新しい視点を提供していない作品は,アートと言われないことになったのは,近代以降である。意匠性,装飾性はデザインや工芸の十八番であって,アートにとっては二の次だ。デザイン,工芸にとって重要な商品の流通性も,アートにとっては二の次。そうした“狭義のアート”を指して,私達はアートだと認識している。そうでないとアートの輪郭が曖昧になってしまうからだ。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.175

自由で純粋

 一般の人が「アーティスト」(ジャンルを問わない)に抱いてきたのは,金儲けや業界的策略とはかけ離れたイメージであろう。芸術家は世俗的な計算とは無縁な,“自由”で“純粋”な存在。独立独歩。孤高。反逆。我道をいく。一匹狼。できればそうあってほしいという願望がどこかにあったはずだ。つまり,「アート」も「アーティスト」も,プラスの価値に満ちた言葉だった。それもかなりカッコいい,ちょっとやそっとでは手に入らないプラスの価値。これは「シンガーソングライター」という言葉と比べてみるとわかる。「シンガーソングライター」に言葉以上の意味はない。「アーティスト」にはある(ように思わせる雰囲気がある)。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.39

いつからアーティスト?

 日本のミュージシャンに対して,いつ頃から「アーティスト」という呼び方をするようになったのだろうか。私の記憶では,80年代前半あたりからちらほらとその傾向があった。またしても80年代。その頃の対象は,70年代にニューミュージックのシンガーソングライターとしてデビューした人や,その流れを汲む歌手やロックバンドである。彼らは歌手兼作詞・作曲家だから,アーティストと言えるんじゃないかという意味と幾分のリスペクトを込めて,音楽ライターなどが雑誌でそう呼ぶことがあった。
 80年代はアイドル歌謡全盛の時代だったので,アーティストとアイドルの違いは比較的はっきりしていた。たとえばアーティストにルックスは必ずしも求められないが,アイドルはルックス命。アーティストに年齢制限はないが,アイドルにはある。アーティストはわがあままでも許されるが,アイドルは素直が一番。アーティストはテレビに出なくてもいいが,アイドルはお茶の間で親しまれてナンボ。アーティストは「生き様」のリアリティを必要とするが,アイドルは虚像で十分。そして,アルバムが確実に売れていくのがアーティストで,シングルが一発ヒットして売れるのがアイドル……といった具合。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.36-37

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