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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

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変だよね

 「変だよね。そうやって,心みたいな言葉を持ち出さないといけないっていうのが,もう変だよね。みんなが変なんだよ。数式を一所懸命考えている人って,みんなのことを認めているのに,人間の心がどうこうって言う人は,数式を考えている人を認めないじゃない。他人を認めない人の方が,人間として,なにか欠けているじゃない?」

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.281
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サイコメトリーの語源

 サイコメトリーという言葉は,1842年にギリシャ語のpsche(魂)とmetron (測定)からつくられた造語である。だが,その概念自体は,はるか昔からさまざまな文化のなかで民話として育まれてきた。何世代にもわたる幽霊話も,元をたどれば,建物は殺人の記憶をとどめられる,恐怖は長年その場所に宿る,と信じられていることからくる。
 たいていの学者は,サイコメトリーなど迷信と同じで議論に値しないと見なしてきた。ところが30年ほど前,ボストンの地質学者が,多少の心霊能力があるという妻とその友人数人を,サイコメトリーの実験にかけてみることにした。実験の方法はきわめて単純で,彼がもっともよく知っているものを使った。岩石を紙に包んでおいて,その中身について話すよう求めたのである。
 ハワイのキラウエア火山の溶岩のかけらは,こんな反応を引き出した。「火の海が崖からなだれ落ちているように見える」氷河擦痕のある石灰岩の小石はこうである。「わたしはどんどん流されていて,上にもまわりにも何かある。きっと水だ。わたしは氷漬けになっている」
 批判者らが指摘するように,実験に用いられた岩石は,被験者が紙の上からさわってみたときに推察できたかもしれない。それに,たとえサイコメトリーというものがあるとしても,無生物がどのようにして人間と交信できるのかは,誰も説明できなかった。

デボラ・ブラム 鈴木 恵(訳) (2010). 幽霊を捕まえようとした科学者たち 文藝春秋 pp.163-164

倫理的に考えると

 これらは倫理的にむずかしい問題だが,まずはスポーツマンにもそうでない人びとにも同じように有用な強化について考えてみよう。たとえば知能を高める薬だ。現在のところ,それは仮定にすぎない(いまのところそのようなものは存在しない)が,倫理的問題を考える手がかりにはなる。
 おそらく留意すべきなのは,われわれはふだん教育制度によって知能を伸ばそうとしている点だ.哲学者ジョン・ハリスはこう指摘している。政治家がカリキュラムを練り直して平均学業成績を5パーセント伸ばしたとしたら,彼は英雄と呼ばれるだろう。では,まったく同じ結果を遺伝子操作でめざしたらどうだろうか?大統領生命倫理評議会の答えはこうだ——「人工的」手段を使って,そのほかの点において望ましい目的を達成するのは,どこか好ましくないという。
 べつの例を挙げることで,この反対意見が信頼できるものなのか確かめられる。カリフォルニア工科大学の科学者たちがガンにたいする抵抗力を遺伝的に操作しようとしていることは,すでに紹介した。手段が好ましくないからという理由で,この研究を禁止すべきだろうか?ガンに苦しむ人びとに,この「人工的」治療法の恩恵を受ける機会を与えずにおくべきなのだろうか?
 倫理的保守派がこの問いに「イエス」と言うのなら,その立場は狂っているとしか思えない。治療法がある意味「人工的」だからというだけで,ひどい苦痛に苛まれている人たちを放置していいはずがない。重要なのは目的で,手段ではないはずだ。だが遺伝子操作によるガンの治療法についてそれが当てはまるとしたら,たとえば知能の向上や長寿化といった望ましい目的につながるほかの遺伝子工学的手法にも,それが当てはまらないわけがない。
 保守派はたいてい,理由を変えてこの議論に応じる。治療と強化には倫理的なちがいがあると主張する。前者——たとえばガンの治療法——は患者を「正常に機能する状態」に戻すが,後者——たとえば知能を高める遺伝子療法——は個人を「正常をこえた状態」にするというわけだ。
 しかし,この区別はややあやふやだ。悲しいかな,人間がガンに対して脆弱なのはまったく当たり前で,だからこそ科学者たちは治療法を見つけたがっている。体調不良や病気は,人間の状態の正常な側面だし,それは昔から変わらない。加えて,もっと広い視野で見れば,能力を高める理由は,病気を治す理由とつながっているはずだ。どちらも,より良い,もっと充実した生活を送れるからである。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.267-269

努力を続けましたとさ

 人間関係は,育む努力をしないかぎり。だめになる一方で,けっして良くなりはしない。まず,お互いの考えや希望を正確に伝えた上で,矛盾する点をはっきりさせ,解決していくことだ。「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」ではなく,「いつまでも幸せに暮らす努力を続けましたとさ」というべきだろう。

キャロル・S・ドゥエック 今西康子(訳) (2008). 「やればできる!」の研究:能力を開花させるマインドセットの力 草思社 pp.131

理想主義的な超越思想

 自己啓発のイデオロギーは,ぼくたちに「自己実現」という神の宣託を告げる。

 ひとは無限の可能性をもっている。
   ↓
 人間の潜在的な能力は,教育や学習,訓練によって開発できる。
   ↓
 教育と訓練によって自己実現した主体が,世界を理想に向けて進化させる。

 そこにあるのは,ひとも社会も「進化」するというポジティブで理想主義的な超越思想だ。

橘玲 (2010). 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 幻冬舎 pp.24

forecastという用語

 同じようにフィッツロイの努力も,一般の人々や,科学界の権力層にはあまり歓迎されなかった。当時,天気の予想は占星術師のすることであって,科学的探求に向いたテーマだとは思われていなかったからだ。大衆紙は,気象庁の不正確な予報を「ザドキエルの占星暦」などの占星術師の予言と比べては面白がっていた。主流派の科学者たちは,こうしたことは自分たちの評判を傷つけるものとみていた。
 フィッツロイは,占星術と比較されないように努め,余計な意味合いが強い「prediction(予言または予測)」という言葉を避けて,代わりに「forecast(予報)」という独自の用語を新たに作り出した。「預言や予言という語は,科学的な配合と計算の結果としての意見には厳密には用いることができないが,予報という言葉はそうできる」。1963年,フィッツロイは,気象を平均的な教育レベルの人々に理解可能なものにすることをめざした『気象の本』を発行した。しかし,この分野を世に広めようというフィッツロイの試みに,英国王立教会のようなエリート主義的な科学機関はさらに苛立った。フィッツロイが天気を語るのに,数学用語ではなく直感的な言葉を使ったことも役に立たなかった。さらには電信網によって「我が国の大部分に広がる大気の連続的な状態を感知する手法」を与えられたと主張したことも助けにならなかった。これは客観的というより,神秘的なことに聞こえる場合もあったからだ。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.141-142

地球全体が生命体だった

 アリストテレスは,物質にはそれぞれ異なる欲求や願望をもつ生命力が備わっていると考えていた。また万物は四大元素——土,水,空気,火からできているとした。土は下降しようとする傾向が強く,水はそれよりは穏やかに下降しようとする。空気は上昇しようとし,火はより激しく空に向かって上昇しようとする。水中のあぶくが上に昇ってくるのは,水より上にいたいという「欲求」が空気にあるからなのだ。したがって運動は,物体がそれ自身に与えられた高さに達したいときや,外力がかかったときに起きる。いかなる物体についても,その説明が完全であるためには,その物体が存在する目的すなわち目的因を考慮せねばならないとされた。天空の星々は四大元素以外の第五元素であるエーテルから成る。エーテルはすべての元素の中でいちばん軽く,永久に続く運動を表わした円を描いて運動する。地球はあらゆるもののなかでいちばん重いので,宇宙の中心にあらねばならなかった。
 こうした目的論的な世界観においては,地球自体が一種の生命体であった。地震,風,流星などの自然現象は地球の「呼気」であるとされた。医師の息子だったアリストテレスは,つねに地球と人体を比較対照した。震えや痙攣は体内を吹き抜ける一種の風のせいであり,地震はより大きな規模の風のせいだと考えていた。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.54

記憶の比喩の変遷

 記憶について語るときの比喩は,時代や技術に沿ったものが使われる。何世紀も前の哲学者は記憶を,そこに何かを押し付ければ必ず型が残るから柔らかな蝋板に喩えた。印刷機が登場すると,記憶とは図書館のようで,あとから読み直せるように出来事や事実を保管する場所だと人々は考えた(現在の私たちでも,ある程度の年齢の者はこのように考えていて,頭の中のごちゃごちゃになった引き出しに入っている情報を「並べ替えて整理する」といった言い方をする)。映画や録音技術が発明されると,記憶とは一種の撮影用カメラであり,何かが生まれる瞬間にスイッチを入れるとあとは自動的にすべてを録画していくものとなった。現在の私たちは,コンピュータの用語で記憶のことを考え,なかにはもっとRAMの容量が欲しいとぼやく人もいるようだが,ともかくも発生した現象のほとんどは「保存」されていると私たちは考える。脳はこうした記憶をすべて検索するとは限らないが,ともかく記憶はそこに存在し,私たちが取り出し,ポップコーンでも用意して鑑賞するのを待っているのである。
 こうした比喩は人気があって,いかにもと思わせ,しかしながら間違っている。記憶とは,遺跡にでも眠る骨のように脳の何処かに埋もれているわけではないし,地面からカブでも引っこ抜くように掘り出せるわけでもなければ,彫り出したあとに完璧に保存できるわけでもない。私たちは自分に起きたことをすべて記憶するのではなく,突出したものだけを選択している(私たちが次々に何かを忘れていなかったら,先週の木曜の気温やバスで聞いたくだらないおしゃべり,かけたことのあるすべての電話番号などのゴミ情報で頭の中は満杯になりきちんとはたらかなくなってしまうはずだ)。さらに,記憶を再生する作業は,ファイルを取り出したりテープを再生するのとはまったく別物である。記憶とは,いくつかの脈絡のないフィルムの断片を見て,残りのシーンはどんなものかを想像するようなものだ。詩やジョークなど丸暗記で思い出せる情報もあるだろうが,複雑な情報を思い出すときに私たちは,それがひとつのストーリーになるように形づくっていく。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.97-99
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

南アフリカのビッグファイブ

 南アフリカに生息する野生動物のなかに,ビッグ・ファイブとよばれる5種類のけものがいます。ライオン,アフリカスイギュウ,サイ,アフリカゾウ,ヒョウです。ビッグ・ファイブは人気があるとともに,狩猟がおこなわれていた時代も出会うことがむずかしく,狩猟も危険で困難だったので,偉大なものへの念をこめてこのようによびました。なお,ビッグ・ファイブはこの国の紙幣の絵柄にもなっています。

峯陽一(監修) 岡崎努(文・写真) (2009). 南アフリカ 体験取材!世界の国ぐに43 ポプラ社 pp.26-27

過去へのアウトソース

 しかし,ここで重要なのは事実や数字ではない。問題の本質は,経済学的というより心理学的なアプローチを必要としていることだ。もっと重要なのは,政治経済学者のデイヴィッド・ロスコプフが指摘したように,大部分の仕事がインドや中国にアウトソーシングで消えたのではなく,消えた仕事は「過去へアウトソースされた」のだ。仕事の消滅は新しい技術の出現が原因であって,外国人労働者が仕事を奪ったのではない。たとえば,多くのオフィスは受付係をなくし,代わりに音声案内を設置し,航空会社はチケット取扱い業務にコンピュータのオンライン予約システムを導入した。
 この現象はヨーロッパやアメリカばかりでなく日本や韓国でも同様に起きている。韓国の戦闘的な労働組合は常に大企業と対決し,庶民派の政治家に投票する。西側諸国の政治家は中産階級の不安の声を代弁し,政治的な得点を挙げるために失業を政治問題の焦点に据える。サービス業でアウトソーシングの影響を受けた人びとは,ほとんどが政治的に影響力を持つ事務職系労働者で,彼らの不平不満は社会に広く聞き入れられる。プリンストン大学の経済学者アラン・ブラインダーが警告しているように,これまでオフショアリングの衝撃をもろに受けてきた声なきブルーカラー労働者たちとは違い,「失業者の新たな中核となった人びと,特に高学歴層の出身者たちは,現状に甘んじたまま何も言わず黙っていることはないだろう」。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.197

影の部分

 グローバリゼーションの「影の部分」は1989年の新聞記事に最初に出てくるが,この「影」に関する記事は1990年代のグローバル化の進展とともに当然のごとく取り上げられるようになり,2000年にピークに達した。よく言われるグローバリゼーションの弊害の1つは,低賃金国へのオフショアが進む先進国の失業問題だ。オフショアリングのインパクトはアメリカばかりでなく日本にも波及し,1985年9月22日のプラザ合意は日本円,ドイツマルクの対米ドル切り下げで一致。その結果,かつてない円高が進行し,日本の主要輸出業者は生産ラインのオフショアに移行せざるをえなくなった。日本産業のグローバリゼーション・プロセスは「バンブー(空洞)効果」と呼ばれて知られるようになり,生産活動は竹の節のように空洞化し,日本国内にあるのは本社の抜け殻だけになった。労働者は日本独特の慣行で別の職場に吸収されたが,日本では初めてグローバリゼーションが失業や労働時間短縮の恐怖となって現れた。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.136-137

「グローバリゼーション」

 このファクティバを検索してみると,グローバリゼーションという言葉は1979年,欧州経済共同体(EEC)の行政文書に複数の「s」を付けた形で最初に出てくる。それは夜空にぽつんと浮かぶ小さな灯りのようだったが,1980年代後半になると,地球に接近する彗星のように加速度的にその数を増していった。グローバリゼーションを取り上げた記事は1981年にわずか2件だったのが,2001年までの20年間で5万7235件に達した。その後2003年になると,「グローバリゼーション」という言葉の使用頻度は落ち込み,いったん2005年に4万9722件と上昇するが,2006年以降は減少傾向が続き10月現在,4万3448件となっている。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.119-120

「隠蔽」の意味の拡大

 「隠蔽」というのは,「物事を隠すこと」を意味する言葉です。本来の意味は,何らかの情報が明らかにならないよう,何らかの工作,つまり「隠蔽工作」をするという意味です。ところが,最近の企業不祥事などで使われる「隠蔽」という言葉は,もっと広い意味です。要するに,「企業等が何らかの事実を把握し,公表しなければいけないのに公表しなかった」という,単なる「非公表」という不作為も,「隠蔽」という言葉で非難されるのが,最近の風潮です。

郷原信郎 (2009). 思考停止社会:「遵守」に蝕まれる日本 講談社 pp.32-33

警句

 “自分”のことばかり考えて発言するな
 “業界”のことを優先しすぎるな
 “産業界”の利益ばかり考えるな
 “国益”ばかり目標にするな

 個人としてか,企業を代表してか,業界を代表してか,そして一国を代表してなのか,自分がどんな立場で参画するかで“私”は変わってきます。
 ただし,ことルール作りに関しては,どんな場合であれ“私”を含む全体の利益,つまり,公益を念頭においての参画が必要です。
 さらに言えば,公益と社益が一致してこそ,企業の存在意義もあるわけで,社会全体はどうなろうと,わが社だけは利益を上げるべきだと考える企業に存在意義はありません。結局は自然に淘汰されてしまうのもそんな会社です。

青木高夫 (2009). ずるい!?:なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか ディズカヴァー・トゥエンティワン pp.181-182

ルールとプリンシプル

 ルール————行動が準拠すべき,または準拠することを要求されるプリンシプル
 プリンシプル————理性や行動の基礎となる,基本的な真理・法律

 つまり,ルールもプリンシプルの1つではありますが,プリンシプルの方がより根源的で,どんな場合にも変わらない真理性を含んでいるのです。
 ルールは「行動に関する規定」,プリンシプルは「行動に関する原則」とか「自分の流儀」と訳したら良いでしょうか。そうであれば,ルールが変わることに大きな問題はありませんが,プリンシプルがコロコロと変わるようでは問題です。
 もう1つ,オックスフォード辞典の“ルール”の定義に「準拠すべき,または準拠することを要求される」という言葉があるように,ルールは考え方の違う人や組織の間に適用されることが想定されているようで,参加した人は守るという“他律的な指向”が強いものです。罰則がある場合もあります。
 これに対し,プリンシプルは,考え方の近い人や組織の中で自然にできていくもので,当事者だけに適用されるという自律的な要素が強く,第三者がこれに従うと賞賛はされますが,当事者も含め,それを守らないからといって罰則はないし,本来,非難できるものでもありません。

青木高夫 (2009). ずるい!?:なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか ディズカヴァー・トゥエンティワン pp.31-32

「ワカチコ」の語源

 タイトルについて話し合っていたとき,スタッフが「『仮面舞踏会』ってどうだろう?」と言い,「おぉ,いい!」となった。
 曲のアレンジは当初,アントニオ猪木さんのテーマ曲「炎のファイター」のような雰囲気だったが,踊るためにイントロに何かほしいと思っていたら,ニシキが「トゥナイヤイヤイヤイティア〜」と歌い始めて,また「おぉ,いい!」となったわけである。僕らはサザンの桑田佳祐さんが大好きであり,その擬音語の影響もあった。
 ちなみに2曲目の「デカメロン伝説」のイントロの「ワカチコ,ワカチコ」は,黒人音楽のドゥーワップ(スキャット)のコーラスのバックで使われているのをニシキがピックアップしたのだ。僕らの大好きなジェームス・ブラウンやマイケル・ジャクソンらの曲からの影響だった。最近,お笑い芸人さんが「ワカチコ」をネタにしている。意味を聞かれるが,いまとなれば説明しづらい。

東山紀之 (2010). カワサキ・キッド 朝日新聞出版 pp.121-122

フルセット・コンプライアンス

 では,組織は,どうしたら社会の要請に応えることができるのでしょうか。
 まず第1に,社会的要請を的確に把握し,その要請に応えていくための組織としての方針を具体的に明らかにすること。第2に,その方針に従いバランスよく応えていくための組織体制を構築すること。第3に,組織全体を方針実現に向けて機能させていくこと。第4に,方針に反する行為が行われた事実が明らかになったりその疑いが生じたりしたときに,原因を究明して再発を防止すること。そして第5に,法令と実態とが乖離しやすい日本で必要なのが,1つの組織だけで社会的要請に応えようとしても困難な事情,つまり組織が活動する環境自体に問題がある場合に,そのような環境を改めていくことです。
 この5つこそが,従来の短絡的な法令遵守の徹底とは異なる,「社会的要請への適応=コンプライアンス」という考え方なのです。社会の中で組織が存在を認められているのは,その組織が社会の要請に応えているからこそです。それに反する行為が行なわれた場合に,企業の事件や不祥事につながるのです。
 私は,これら5つの要素を「フルセット・コンプライアンス」と呼んでいます。

郷原信郎 (2007). 「法令遵守」が日本を滅ぼす 新潮社 pp.152-153

生産性向上とは

 マイケル・ポーターという有名な経営学者が来日したときに,官庁関係の講演会で話をしました。そこで彼は,生産性向上の成功例として,カリフォルニアワインを挙げたのです。評価の低かった米国産ワインですが,人手をかけ品質を向上させることで,ものによってはフランス産と同等以上のブランドを得ることに成功し,値上げができた。そのことが付加価値額を増やし,これにかかるヒトでの増加をも打ち消して生産性を高めたというわけです。
 私はそのときの講演録を読んだことがあるのですが,質疑応答のところをみると日本側の偉い人からずいぶんとんちんかんな質問が出ていました。その方を含めた聴衆の多くが生産性や付加価値の定義を確認しておらず,「生産性というのは技術革新で人手がかからないようにすることによってのみ,つまり労働力を減らすことによってのみ向上するものだ」と信じ込んでいたために,そもそもハイテクとは程遠いワイン産業が生産性向上の典型例として出てきたことがなぜなのか,理解できていなかった。「人手をかけブランドを上げることでマージンを増やし,付加価値額を増やして生産性を上げた」というポーターの説明が伝わらなかったのです。ポーターにしてみれば,聴衆の中の偉い人までもが生産性の定義を誤解しているとはまさか思わないので,これまた何を聞かれたのかもわからずにトンチンカンな答えを返していました。国内だけに存在する「空気」に染まってモノを考えていると,国外にまったく通用しなくなってしまうという現象が,典型的に露呈した場でした。
 こほどさように,日本では生産性向上といえば人員削減のことであると皆が信じ込んでいます。ところがお気づきでしょうか。生産年齢人口の減少に応じて機会化や効率化を進め,分母である労働者の数を減らしていくと,分子である付加価値もどうしてもある程度は減っていってしまうということを。付加価値の少なからぬ部分は人件費だからです。

藻谷浩介 (2010). デフレの正体:経済は「人口の波」で動く 角川書店 pp.150-151

KY=「空気しか読まない」

 ちなみにここでご紹介した小売販売額や課税対象所得額,あるいはこの先で使う国勢調査のような,確固たる全数調査の数字は,現場で見える真実と必ず一致しますし,お互いの傾向に矛盾が出ません。一致しないのは,得体の知れない世の空気だけです。こういう空気というのは,数字を読まない(SY),現場を見ない(GM),空気しか読まない(KY)人たちが,確認もしていない嘘をお互いに言い合って拡大再生産しているものです。本当に問題なKYというのは,「空気読めない」ではなくて,この「空気しか読まない」なのです。先ほどお話しした,日本は中国に対して貿易赤字だと確認もしないで決め付けている向きなども,このKY・SY・GMの典型ですね。

藻谷浩介 (2010). デフレの正体:経済は「人口の波」で動く 角川書店 pp.69-70

「刺激」は何を指す?

 新生児の脳が正しい回路パターンを形成するには刺激が必要だということには異論がない。しかしこの「刺激」が何を意味するかについては,辛らつな,少々政治的な議論がある。
 多くの神経科学者にとって刺激とは,ふつうの知覚をもった赤ちゃんが毎日の暮らしのなかで受け取る刺激以上のことを意味してはいない。見て,聞いて,味わい,触れ,嗅ぐということだ。
 深刻な育児放棄で生後1年以上もベビーベッドに寝かされっぱなしという子どもには発達異常が起こるという報告はたくさんある。3歳になっても歩けない子どもも多いし,21か月でお座りができない子もいる。
 だが刺激,とくに認知機能に訴える刺激を増やせば脳の回線が改善されるかということになると,議論は白熱する。まだハイハイもしていない赤ちゃんをミニ・アインシュタインに育てると約束して,教育熱心な親にビデオを売りつけ,いつもモーツァルトの音楽を流しておきなさいと勧め,食事の時には必ずフォークとスプーンで算数をやらせないとチャンスを逃すと脅す。こういうやり方では,「刺激」という言葉が泣くだろう。
 ヒトの脳の発達には,ある程度の刺激が欠かせないことは明らかだ。だが,たぶん赤ちゃんが積極的にまわりの世界を探求し,いないいないばあやかくれんぼをし,話したり聞いたりして親と交流していれば充分なはずだ。

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.134
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

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