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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

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信じない者は

 サイキックを信じない者は,信念とは無縁のむなしい生き方をしているわけでもない。僕は友人と語り合い,笑い合うときの温かい幸福感を信じている。自分の力で何かを解決したときの満足感を信じている。人は自分の未来も,人類の未来も変えられると信じている。

ウィリアム・リトル 服部真琴(訳) (2010). サイキック・ツーリスト:霊能者・超能力者・占い師のみなさん,未来が見えるって本当ですか? 阪急コミュニケーションズ pp.386
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彼は誰なのか

 まずは,ジョー・マクモニーグルとはどんな男かを理解しなくてはならない。彼は何者なのか。本物の遠隔透視能力者で,未来を予知することもできるのか。僕は本人に電話をかけてみる。彼は今,ヴァージニア州でインテュイティブ・インテリジェンス・アプリケーションという会社を経営し,自身の遠隔透視能力を使って鉱床の位置を特定したり,株式市場に関する情報を教えたりするサービスを提供している。
 「我々は今も遠隔視の驚異にさらされている」ロシアのスパイがアメリカの機密情報を盗むリスクがあると考えているかという質問に,ジョーはそう答える。「ロシアが遠隔透視能力者を活用していることは紛れもない事実だ。私は彼らの活動拠点を訪れて,彼らと話をしたことがある」
 それなら,それほどの秘密ってわけじゃないんだ。僕は心の中でつぶやく。アメリカで最強の遠隔透視能力者が,ロシア人のライバルの活動をチェックしにくることを許すくらいなんだから。

ウィリアム・リトル 服部真琴(訳) (2010). サイキック・ツーリスト:霊能者・超能力者・占い師のみなさん,未来が見えるって本当ですか? 阪急コミュニケーションズ pp.303-304

ジーン・ディクソン効果

 僕と同業者のジェス・スターンは1960年に発表した著書『予言——未来をのぞいた人々』で,現代のノストラダムスを発見したと述べている。1930年代から1970年代にかけて数々の予言をしたジーン・ディクソンという女性だ。政治家やセレブの運勢を見ていた彼女はかのウィンストン・チャーチルに,1974年の選挙では労働党に敗れるが,その後で権力の座に返り咲くと告げたことで知られている(実際には,1945年の総選挙で労働党が勝利し,チャーチルは1951年に首相に再び就任した)。ぞっとするのは,ディクソンの予言の多くが事前に公表されたことだ。1956年には,パレード誌でジョン・F・ケネディの暗殺を予言した。より正確に言えば,1960年にアメリカ大統領に選出された民主党の政治家,青い目に茶色の髪をした若くて背の高い男が大統領在任期間中に死亡する,と。彼女は経験なカトリック信者で,自分の力は神から与えられたものだと主張していた。
 だが,物事には常にもう1つの面がある。ディクソンは,JFKは大統領選で敗北し,ニクソンが勝つだろうとも予言した。数学者でテンプル大学教授のジョン・アレン・パウロスは彼女にちなんで「ジーン・ディクソン効果」を唱え,数少ない正しい予言ばかりが記憶に残り,外れたものは見過ごされがちなため,予言の的中率は実際より高いと思い込まれると言っている。事実,ディクソンはいくつかの「トンデモ予言」も披露している。彼女によれば,1958年に台湾の金門島と馬祖島をめぐって第三次世界大戦が勃発し,アメリカの労働運動指導者ウォルター・ルーサーが1964年の大統領選に出馬し,人類初の月面着陸はソビエトによって達成されるはずだった。

ウィリアム・リトル 服部真琴(訳) (2010). サイキック・ツーリスト:霊能者・超能力者・占い師のみなさん,未来が見えるって本当ですか? 阪急コミュニケーションズ pp.42-43

天然ボケとキャラ

 ただし「天然ボケ」は,孤立した特異な存在なわけではない。「笑い」を誘うものとして,それは1つの理想型であって,そうなりきれない者は,自分の「そのまま」さをどこかで意識して演出しなければならない。それが「キャラ」と呼ばれるものの現在の「笑い」の空間での位相である。人は,とりわけ1990年代以降の「笑い」の空間で誰でも多かれ少なかれ「キャラ」になる。そのかたちは,「ボケキャラ」であったり「キレキャラ」であったり千差万別である。逆にいえば,どんなタイプの「キャラ」であるかというよりも,「キャラ」であること自体が大事なのである。
 この場合「キャラ」は,先に述べたキャラクターの文法を一般化することで,結局キャラクターが希薄化したようなものといえるかもしれない。キャラクターが,「仲間」空間から浮いた位置にある個体をさすものだったのに対し,「キャラ」は,そのような浮いた特性を簡単に模倣できるようなものとしてパターン化した結果,「仲間」空間での軽い差異化の手段として根づいたものである。それは,タイプというほど個体の恒常的性質の表れを示すものではない。それは,その場その場でのポジションの引き受け方であり,したがって「キャラ」を意識するなかで,それになりきろうとするゲームを発動させることが重要なのである。
 つまり「キャラ」とは,付け替え可能な覆面のようなものである。それは「素」が見えないくらい演じられるような場合もあれば,「素」が透けてみえるような場合もある。だがいずれの場合も含めて,「キャラ」のゲームは成立している。言い換えれば,そのゲームの最大の特徴は,「素」と演技をあえて峻別しないことである。個人の「素」をなんらかの配合で織り込むことが,このゲームで抜きん出るためのポイントである。人は誰もが,ある部分ある場面では「天然ボケ」でありうるのだ。

太田省一 (2002). 社会は笑う:ボケとツッコミの人間関係 青弓社 pp.164-165

天然ボケとは

 「天然ボケ」のボケは,意図されたものではない。普通のつもりでまじめにおこなった言動が,周囲からはボケと受け取られるのである。したがって,「天然ボケ」と名ざされた当人には,そこにウケようという気持ちはない。言い換えれば,とりあえずボケることによって自己主張するつもりはないのである。むしろそうした意図が感じられなければ感じられないほど,その人は,完璧な「天然ボケ」として周囲からより好意的に迎えられることになるだろう。
 その意味で,「天然ボケ」は,内輪ウケの空間で,誰もが多かれ少なかれ意識せざるをえないはずの記号的な自己主張のまさに対極の存在である。だがそこにこそ,「天然ボケ」という非記号的存在が記号化される契機がある。
 結局,「天然ボケ」とは,あらゆる言動がボケとして扱われる存在のことである。そうなるとき,「天然ボケ」の自己主張のなさが逆に強い自己主張になるという事態が起こる。本人にその気がなくとも,存在自体が周囲の注目を浴び,また言動が個性の表現として解釈されてしまう。ただしその存在の自己主張は,内輪ウケの空間を突き崩すようなものではない。その主張はすべてボケというかたちをとるからである。したがって「天然ボケ」は,内輪ウケの空間での一種理想的な存在様態という地位を占めることになる。「天然ボケ」は,ボケを創意工夫する労がなくとも「笑い」を引き起こすエリートなのである。

太田省一 (2002). 社会は笑う:ボケとツッコミの人間関係 青弓社 pp.95

結婚しようか悩んだ時は

 もし「結婚相手は彼でいいのかな……」と悩んでいる女の人がいたら,ベッドで「人間って牛は殺すのに,なんで犬は殺さないの?」と聞いてみたらいい。
 おそらく,学歴や肩書きなんかより,はるかに相手の人間的レベルがわかるだろう。哲学に教養,やさしさに表現力,すべてがあからさまにわかってしまうのだ。この人の子供なら膿んでもいいと思える答えが返ってくれば合格でいいだろう。
 「何言ってんの,バカだろ。フツーそんなこと考えねえよ」ときたら,その男は自分の子供にも同じことを言う。子どもが将来大きく羽ばたく可能性も低いので,そんな彼なら捨ててしまってもいいかもしれない。

山田玲司 (2009). キラークエスチョン:会話は「何を聞くか」で決まる 光文社 pp.130-131

人生の危機と生活の危機は違う

 人間,生きていたらさまざまな問題とぶつかります。なかにはやっかいな問題もある。そんなときに出てくるのが,こんな台詞です。
 「今度ばかりは人生の危機だ。どうやって乗り越えたらいいのか……」
 人生の危機とは尋常ではありません。
 いったいどんな状況が人生の危機なんでしょうね。
 「ついにリストラされてしまった。次の仕事のあてもないし,まさに人生の危機だよ」
 「離婚問題が持ち上がっている。これまで順調にきたのに,いまになって人生の危機が,突然,訪れるなんて……」
 リストラや離婚が人生の危機というわけですが,わたしには到底,そうは思えません。危機という言葉を使うとしても,それらはせいぜい生活の危機です。人生の危機とはまったく違います。
 どうやら,日本人は人生の危機と生活の危機を混同してしまっているらしい。これこそ,かなりやっかいな問題です。


ひろさちや (2010). 「ずぼら」人生論 三笠書房 pp.164-165

善悪ともう一つ,必要・不必要の軸を

 「嘘が悪だ」と言うときに,その判断基準になっているのは善悪の物差しです。
 一方,物差しはもう1つある。必要か不必要か,というものがそれです。前者は宗教的な物差し,後者は政治的な物差しだ,と言えます。
 この2つの物差しは,まったく違う次元にあります。
 ところが,日本人は両者を混同しているんですね。ほんとうは善には必要な善と不必要な善があるわけだし,悪にも必要な悪と不必要な悪があるわけです。宗教が根づいているキリスト教国などでは,ものごとを判断する際,この4つの価値観が基準になっています。
 日本人はそれができないんですね。
 つまり,必要なものは善であり,不必要なものは悪である,という価値観でものごとが判断されるんです。必要悪(不必要善)という価値観が抜けています。
 いちばんいい例が暴力です。
 暴力はいかなる場合も悪です。しかし,学級崩壊の危機に瀕死他養育現場では,体罰やむなしという状況があるかもしれません。あるいは,家庭でも拳固の一発が親子間の絆を深めるといったことがないとは言えません。悪である暴力も必要か,不必要かという原理で考えたら,ときには必要なこともあるんですね。じゃあ,必要性は認めよう。必要ならいいことのはず。体罰は善だ——ということになるのが日本人なんです。必要だけれども,悪だという発想ができないんですね。
 その結果,体罰が野放しになってしまう。

ひろさちや (2010). 「ずぼら」人生論 三笠書房 pp.27-28

スピン

 このような「情報操作」を欧米では「Spin」(スピン)という。そして,このスピンの技術に長けている人間のことを「スピンドクター」と呼ぶ。日本語に訳すと,「情報操作の達人」というところか。アメリカやイギリスでは,隠語などではなく,ごく当たり前に「スピン」という言葉は社会の中に浸透している。たとえば,アメリカ大統領府の記者会見会場は「スピン・ルーム」という。アメリカ社会においては,記者会見とは大統領がメディアを通じて国民に対して情報操作をおこなう場だという認識が浸透しているからだ。
 では,この日本ではどうだろう。峰久氏の言葉を借りるまでもなく,メディアによる報道がスピンで溢れているのは紛れもない事実だし,薄々そんなところだろうと勘づいている人々も大勢いることだろう。だが,首相官邸の記者が「情報操作記者」と揶揄されているという話は寡聞にして聞かない。明らかにスピンは存在しているのに,公には語られることはないという,なんとも理不尽な環境にメディアは置かれているのだ。

窪田順生 (2009). スピンドクター:“モミ消しのプロ”が駆使する「情報操作」の技術 講談社 pp.8

見たいものだけ

 自分が見たいものだけ見る。
 自分が信じたいものだけ信じる。
 統計的な事実はそこで,まったくの無力だった。政府も,企業も,民衆も,そんなグラフは見たくないから。

伊藤計劃 (2010). 虐殺器官 早川書房 pp.230-231

命令的規範と記述的規範

 心理学者は命令的規範と記述的規範とを区別する。命令的規範は,より公的な社会のルールであり,広く知られ,おおむね遵守されている。妊娠中にタバコを吸わないことや,野生生物保護区でゴミを捨てないこと,上品なレストランで鼻をほじらないこと—これらは命令的規範の例である。記述的規範はもっとあいまいなものだ。私たちはそれを周囲の人々の行動から学びとる。記述的規範の例を見たいのなら,野球場へ行って,国歌が流れているあいだに観客のようすを観察すればいい。だれもが立ちあがる(これは命令的規範だ)が,帽子を脱いで胸に手を当てるかどうかは周囲の座席にいる人々しだいだ。ひとりのファンが帽子を脱げば,周囲の人々もつぎつぎに脱ぐ。片手を胸にあてた人が集まっている場所もあれば,両手を背後でぎゅっと握っている人が集まっている場所もある。記述的規範の働きは微妙だが,近くにいる—物理的にも比喩的にも—人々の行動がもたらすその力は見過ごすべきではない。
 さらに,命令的規範と記述的規範はたがいに反することもありうる。たとえば,妊娠している女性が,喫煙者が多いラマーズ法の教室へ行くような場合だ。命令的規範はひとつの行動をうながし,記述的規範はちがう行動をうながしている。
 裏切りを理解しようとする人がだれもみな驚くのは,不倫に関する記述的規範は命令的規範よりも強力だと,研究から立証されていることだ。不貞を働いた人を知っている人は,自分自身も不貞を働く可能性が高いことがあきらかになっている。野球場で国歌斉唱の場面で人々に帽子を脱がせるのと同じ要素が,人々にパートナーを裏切らせるのだろうか。

ロバート・フェルドマン 古草秀子(訳) (2010). なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか:嘘とだましの心理学 講談社 pp.123

ガスライティング

 「ガスライティング」では,あるできごとが起きた,またはある発言があったという事実を否定する。境界性パーソナリティ障害であるか,意識的または無意識的に他者を操作しコントロールしたいという欲求を持つその他の人間に見られる行動である。他者の認識,記憶,正気であるという事実そのものを否定することもある。以下は大学のルームメイトに対するガスライティングの例だ。
 「ルームメイトにあることを尋ねると,彼女は推測で答えたが,正しいかどうかは自信がないと言った。そこでわたしが母にメールで尋ね,ルームメイトが正しいことがわかった。ルームメイトにそのメールを見せたのは『ほら,あなたの言うとおりだったわ!』という意味だった。ところがどういうわけか彼女はそれから15分間にわたってどなり,叫び,悪口雑言を並べ,罵倒し,最後にこうわめいた。『母親からのメールなんか見せて,わたしがまちがってると言うなんて!』。わたしが言ったこととまったく逆だった。わたしは彼女に向かってメールを見てと言い,『彼女が正しかった』と教えたいのだとわからせようとしたが,彼女は見ることさえ拒否し,顔までそむけ,1語たりとも読もうとはしなかった。理由はわからないが,彼女には,『彼女がまちがっていて愚かだとわたしが言おうとしている』と信じる“必要”があったのだ」

バーバラ・オークレイ 酒井武志(訳) (2009). 悪の遺伝子:ヒトはいつ天使から悪魔に変わるのか イースト・プレス pp.212

ペンシルバニア・ダッチ

 誇張と省略という比較的単純なプロセスが,こうして,科学的な実験結果の報告から他人についての噂まで,私たちが人づてで「知る」ことの多くを歪めていることになる。こうした人づての話は,次々に語り継がれていくたびに,元々の事実からの隔たりも大きくなりがちである。そして,語り継がれていく過程で紛れ込んだ誤りが修正されることは稀である。実害のないちょっと愉快な例として,「ペンシルバニア・ダッチ」という誤った命名が生じ,定着してしまった背景にも,ある種の誇張と省略が関わっていると思われる。実は,ペンシルバニア州に大量に移民してきたのはオランダ人[ダッチ]ではなく,ドイツ人[ドイッチ]であった。初め,彼らは「ペンシルバニア・ドイッチ」と呼ばれていた。ところが,アメリカ人の多くには,この「ドイッチ」という発音が難しかったため,長い年月を経る間に,より発音の容易な「ダッチ」に次第に変化してしまった。その結果,現在ではアメリカ合衆国の人々の多数が,ペンシルバニア州の人々の祖先はオランダ移民であると思っている。実際,ペンシルバニア州の観光みやげの多くには,ペンシルバニア「ダッチ」産であることの証として,「風車」のマークが付けられているほどである。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.152-153
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

Pennsylvania Dutch:http://en.wikipedia.org/wiki/Pennsylvania_Dutch

スナックの始まり

 とりあえずやったわけ。それで,上野広小路で「宝石」っていうスナックを作ったの。ただ,当時はスナックって言葉がなかったの。『小さなスナック』ってのは,そのちょっとあとに流行ったのね。なぜそうなったかというと,昭和39年に東京オリンピックをやるにあたって,それまでの東京はバーでも喫茶店でも24時間営業してよかったんだけど,深夜営業を禁止するという禁止条例が出て,食事を出してるレストラン系統だけ夜中やっていいということになったの。そうすると,(夜中)やるにあたっては,お茶漬けだとかなにか出さないといけない。それがスナックの走りだったの。

玉袋筋太郎 (2010). 絶滅危惧種見聞録 廣済堂出版 pp.225

カロリーベース自給率の問題点

 カロリーベースの指標は生活実感にも即していない。たとえばスーパーに並ぶ野菜を見てもらいたい。自給率が41パーセントだというのなら,半分以上が外国産ということになる。しかし,実際は大半が国産品だ。このギャップは何なんだと疑問をお持ちの方も多いだろう。
 まさにその通りで,野菜の重量換算の自給率は80パーセントを超えている。2008年に,毒ギョーザ事件を始めとする中国産食品の危険性がクローズアップされたため,多くの野菜が中国からも輸入されているという印象が強いと思うが,中国産は10パーセント程度にすぎない。だが,野菜は全般的にカロリーが低いため,全供給量に占める国産カロリー比率は3パーセント,摂取カロリーでは1パーセントを占めるのみ。中国産野菜への依存率に至っては,0.1パーセントだ

浅川芳裕 (2010). 日本は世界5位の農業大国:大嘘だらけの食料自給率 講談社 p.31

「実行しがたく,金がかかる」

 大衆的ポジティブ・シンキングと同じく,ポジティブ心理学も,自分の気のもちようを調整することで可能になる内面の変化だけを扱うものである。セリグマン自身,社会の変化をあからさまに拒絶し,幸福かどうかの決定に「環境」がどんな役割をするかについて,こう記している。「環境のよいところは,幸福をいっそうよいものにする場合がある点だ。悪いところは,環境を変えることは実行しがたく,金がかかる点である」。とはいえ,こういう主張—「実行しがたく,金がかかる」—は,奴隷制度の廃止から男女の給与平等まで,さまざまな改革にいわれてきたことなのだ。

バーバラ・エーレンライク 中島由華(訳) (2010). ポジティブ病の国,アメリカ 河出書房新社 pp.208-209

ネガティブな人とは付き合うな

 そんなわけで,ポジティブにふるまえば成功に至るという主帳は自己充足的になっている—少なくとも,ポジティブにふるまわなければ,たとえば自分の雇用者や,同じ宗派の信者にすら拒絶されるなど,はなはだしい失態につながりうるという意味において,ポジティブ・シンキングの導師は「ネガティブな」人とはつきあわないようアドバイスすることで警告を発している。にっこり笑い,愛想よくし,流れに身を任せなさい—さもないと村八分にされてしまいますよ,と。

バーバラ・エーレンライク 中島由華(訳) (2010). ポジティブ病の国,アメリカ 河出書房新社 pp.70

最初のポジティブ・シンキング本

 ポジティブにふるまう方法を記した最初の本は,1936年に出版され,いまだに売れつづけているデール・カーネギーの名著,『人を動かす』である。カーネギー—もともとはカーナギーといったが,実業家のアンドリュー・カーネギーにあやかって改名したようだ—は,じっさいに幸せな「気持ち」でいるかどうかはともかく,成功しているようにふるまえば,人を動かすことができるとした。「にっこり笑う気持ちになれなければ,どうすればいいだろう。2通りの方法がある。1つ,無理やり笑うこと。周囲に人がいなければ,無理やり口笛を吹いたり,鼻歌をうたったり,声を出してうたったりしてみることだ」。「無理やり」ポジティブにふるまうのもいいが,そうできるよう自分を訓練してもいい。「電話オペレーターに訓練をほどこし,関心や熱意をこめて話すよう教えこむ企業はたくさんある」。オペレーターは熱意をもっていなくともいい。ただ,声の調子に熱意をあらわせばいいのだ。『人を動かす』によれば,最大の成功は,誠実さを装えるようになることである。「人間関係に関するさまざまな法則と同じく,関心を示すときには誠実にそうするべきである」。では,誠実さを「示す」にはどうすればいいのだろう?この本には説明されていないが,俳優としての技量がある程度必要になるのは間違いない。1980年代,社会学者のアーリー・ホックシールドの有名な研究によって,客室乗務員はつねに明るい接客態度を要求されるため,ストレスを感じ,感情をすり減らしてしまうとわかった。「彼らは,自分の感情がよくわからなくなるのです」と,私がインタビューしたときに,ホックシールド自身が話している。

バーバラ・エーレンライク 中島由華(訳) (2010). ポジティブ病の国,アメリカ 河出書房新社 pp.65-66

許可を待つ人と自分で許可する人

そのうち,人間は2つのタイプに分かれることが分かってきました。自分のやりたいことを誰かに許可されるのを待っている人たちと,自分自身で許可する人たちです。自分自身の内面を見つめて,やりたいことを見つける人がいる一方で,外からの力で押されるのをじっと待っている人もいます。わたしの経験から言えば,誰かがチャンスをくれるのを待つのではなく,自分でつかみに行った方が良い面がたくさんあります。埋められるのを待っているすき間はつねにあり,チャンスが詰まった金塊は地面に転がっていて,拾われるのを待っているのです。机にばかりかじりついていないで,たまには顔をあげ,窓の外を眺めましょう。通りの向こう側や角に,何か見つかるかもしれません。でも,金塊は,それを拾おうという前向きの気持ちを持っている人のために,そこにあるものです。

ティナ・シーリング 高遠裕子(訳) (2010). 20歳のときに知っておきたかったこと:スタンフォード大学 集中講義 阪急コミュニケーションズ pp.72

「許可を求めるな,許しを請え」

 ルールは破られるためにある——こうした考え方が集約されているのが,よく耳にするフレーズ「許可を求めるな,許しを請え」です。ほとんどのルールは,ある世界で最低限守るべきものとして作られていて,右も左もわからない人にとってはヒントになります。何かをしようとするとき,たとえば映画業界に入るとか,会社を興すとか,大学院に行くとか,選挙に立候補するとか,何でもいいのですが,どうすればいいかを人に尋ねたら,その道の人から支援を受けられるようにする方法をいろいろ教えてもらえるでしょう。映画ならエージェントや元手も必要です。大学院に行きたいなら試験を受けて,入学を許可されなくてはなりません。大多数の人は,こうした手順に従いますが,そうでない人もいます。脇道に入ることによって,ルールを迂回し,通常のハードルを飛び越え,目標に到達できる独創的な方法があることを覚えておいて下さい。ほとんどの人が,高速に乗るために幹線道路で延々と続く渋滞の列で待っているとき,目的地まで早く着ける抜け道を探そうとする冒険心の持ち主はいるものです。安全を確保し,秩序を守り,大多数の人々に都合のいいプロセスをつくるためです。ですが,ルールは疑ってみる価値はあります。いつも通る道が塞がっていたとしても,ルールを迂回して脇道を通れば目的地にたどり着けることだってあるのです。

ティナ・シーリング 高遠裕子(訳) (2010). 20歳のときに知っておきたかったこと:スタンフォード大学 集中講義 阪急コミュニケーションズ pp.63-64

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