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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

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ダグラス・アダムスの言葉

 ダグラス(・アダムス)は自分自身を笑いものにし,自分のジョークに笑うことがありました。それは,彼の魅力を形づくる数多くの要素のうちの1つでした。

 私たちが世界を見る視点には何かしら奇妙なところがあります。私たちが深い重力の井戸の底で,9000万マイル彼方の核融合の火の玉の周りを巡る,気体でおおわれた一惑星の表面で暮らしていて,それが正常だと考えているという事実は,明らかに私たちの視点がどれほど歪んだものになりがちであるかを示す徴候の一部であります。しかし,私たちは,知の歴史を通じてさまざまなことをおこない,自らの誤解のいくつかをゆっくりと正してきたのです。


リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 p.295.
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結局同じになった

 しかし,20ヤードもいかないうちに,彼らはいきなり立ち止まった。農場住宅から,どっとあがる騒々しい叫び声が聞こえてきたのだ。動物たちは,駆けもどって,また窓からのぞいてみた。思った通り,ものすごい大喧嘩が始まっていた。わめき立てる声や,テーブルをドンドンたたく音がしたかと思うと,にくしみをこめた,うさんくさそうな視線がとびかい,相手の言葉を打ち消す,騒々しい怒罵の叫びがあがった。喧嘩のもとは,ナポレオンとピルキントン氏が,同時にスペードのエースを出したことらしかった。
 十二の怒声があがっていたが,その声はみんな同じだった。豚の顔に何が起こったのかは,もう疑いの余地もなかった。屋外の動物たちは,豚から人間へ,人間から豚へ目を移し,もう一度,豚から人間へ目を移した。しかし,もう,どちらがどちらか,さっぱり見分けがつかなくなっていたのだった。


ジョージ・オーウェル 高畠文夫(訳) (1972). 動物農場 角川書店 pp.149-150.

動物の主張

 「『人間』は,生産せずに消費する唯一の動物である。ミルクも出さなければ,卵も生まない。力がなくて鋤も引けない野ウサギを捕えるほど早く走ることもできない。それにもかかわらず,彼らは動物たちに君臨している。動物を働かせ,動物には餓死すれすれの最低量を与えるだけで,あとは全部自分たちがひとりじめにしている。われわれの労力が土地を耕し,われわれの糞が土地を肥やしている。それにもかかわらず,われわれのうちで,誰か,裸の皮膚以上の財産をもっているものがいるだろうか?わたしの目の前にいらっしゃる雌牛さん,あなた方は,この1年間に何千ガロンのミルクを出されましたか?しかも,あなた方のたくましいお子さんを育てるはずのミルクは,いったいどうなりましたか?最後に一滴に至るまで,われわれの敵の咽喉を潤したのであります。また,メンドリさん,あなた方は,この1年間にどれだけの卵をお生みになりましたか?そして,そのうちのいくつがひよこに孵りましたか?残りは,ことごとく,ジョーンズと彼の一味のものたちに金をもたらすために,市場へ送られてしまったのです。それから,クローバーさん,あなたの老後の支えとなり,楽しみともなるはずだった,あなたのお腹を痛めた4頭のお子さん方は,どこにいられますか?1歳になったとたんに,みんな売られてしまいました---そして,あなたは,もう二度とお子さん方の顔をごらんになられることはないのです。4回のご出産と農場におけるいっさいの労苦の報酬として,あなたは,いったい何をもらったというのですか?どうにか命をつなぐだけの食物と厩だけではありませんか?」

ジョージ・オーウェル 高畠文夫(訳) (1972). 動物農場 角川書店 pp.11-12.

ペトワック(PETWHAC)

 ここで私はちょっとした頭文字からなる専門用語を作りたい。ペトワック(PETWHAC)は,“本来偶然にすぎないのに,なにか関係があるように見える事象の集合(Population of Events That Would Have Appeared Coincidental)”の略である。集合(population)とは奇妙な言葉に思われるかもしれないが,正確な統計学的用語である。さて,霊能者の呪文から10秒以内に止まった誰かの時計,という現象は明らかにペトワックの範疇に入る。同様のことは,その他多くのことについても言える。厳密に言えば,居間の時計が止まったことは除外すべきだ。霊能者は振り子時計までをも止められるとは口にしなかった。それゆえに,人々は霊能者の念力は思いのほか強力なのだ,という誤った思いこみを強めることになる。霊能者は,腕時計が一日前に止まることや,心臓発作に同調して止まることについても何も言わなかった。これも同じ効果をもたらす。
 つまり,このような関係のない周囲のできごともペトワックの範疇に入ってくる。そこには,なにか神秘的な力が働いたに違いないと思ってしまうのだ。このように考えはじめると,ペトワックは本当に,かなり大きな集合となる。ここが重要なポイントだ。もし腕時計が24時間も前に止まれば,易々とだまされることもないし,このできごとをペトワックに含めることもないだろう。しかし,もし腕時計が呪文のちょうど7分前に止まれば,このことに感銘を受ける人がいるかもしれない。なぜなら7は古代から神秘的な数字だからだ。おしておそらく,同じことが7時間,7日,などにも言えるだろう。ペトワックの例はたくさんあることをよく知っておけば,なにか偶然の一致が起きたときに惑わされずにすむ。ペテン師の策略のひとつは,ありふれた現象をさも珍しいことのように思わせることにある。


リチャード・ドーキンス 福岡伸一(訳) (2001). 虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか 早川書房 pp.205-206.

「コーカサス人種」の由来

 生物学や進化論など私自身の分野でこのように一見すると気まぐれと思われる名称の中で,ヨーロッパ,西アジア,北アフリカの明るい肌をした人々がコーカサス人種と公式に名づけられたことほど,好奇に思われたり,問い合わせがあったり,講義のあと質問されたりしたものはない。どうして,この西洋で最も一般的な人種がロシアの山脈の名前になぞらえられたのだろうか。すべての人種の分類に最も影響を与えたドイツの博物学者(ナチュラリスト),J・F・ブルーメンバッハ(1752〜1840)が1795年に出版した独創的な著作『人類の自然的種類について』の第3版でこの名称を考え出したのである。ブルーメンバッハの初めの定義では,この名称を選ぶとき,2つの理由,すなわち,1つはこの狭い地域から最も美しい人々が出ていること,もう1つはこの地域で最初に人類が創造された可能性があること,を引き合いに出している。

スティーヴン・J・グールド 鈴木善次・森脇靖子(訳) (2008). 人間の測りまちがい 下 差別の科学史 河出書房新社 pp.317-318.


嫉妬とは

 翌日,談春(ボク)は談志(イエモト)と書斎で二人きりになった。突然談志が,
 「お前に嫉妬とは何かを教えてやる」
 と云った。
 「己が努力,行動を起こさずに対象となる人間の弱味を口であげつらって,自分のレベルまで下げる行為,これを嫉妬と云うんです。一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する。本来なら相手に並び,抜くための行動,生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人間はなかなかそれができない。嫉妬している方が楽だからな。芸人なんぞそういう輩の固まりみたいなもんだ。だがそんなことで状況は何も変わらない。よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの,世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は現実だ。そして現状を理解,分析してみろ。そこにはきっと,なぜそうなったかという原因があるんだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う」


立川談春 (2008). 赤めだか 扶桑社 p.116.

冷笑主義者

 冷笑主義者の目的は,すべての言論を否定することです。否定することは簡単です。いろんな説を否定しさえすれば,簡単に自分たちが優位に立てます。
 実際のところ,彼らは,自分たちの主張が他人に受け入れられることすら求めていません。どこかの誰かが何かの説を正しいとどれだけ主張しようと,まったく困りません。そういう人たちを「バカだ」と見下すことさえできれば,それで満足です。だから,普通の人が常識的に受け入れている様々なことを否定して場を乱すのです。
 議論の場では,彼らは同じ土俵に立っていないことに注意しなくてはなりません。アリの行列にイタズラをして遊ぶ子供のようなものです。一生懸命に巣に餌を運んでいるアリに対して,障害物を置いてみたり,乗っている板をくるっと回したりして,右往左往するアリを眺めて楽しむのと同じ感覚です。一生懸命に議論をしている人々に対して,様々なイタズラを仕掛け,それに反応するさまを眺めて楽しんでいます。まじめに議論をしている人にとっては,非常に迷惑な存在です。

岩田宗之 (2007). 議論のルールブック 新潮社 pp.50.


リンチの語源

 自警団が警察に代わって犯罪者を捕らえ,裁判所の代わりに暴力で刑罰を与えることを,「リンチ」と呼ぶ。この名称の由来は,ヴァージニアに入植したチャールズ・リンチ(1736〜96)にあるとされる。
 大佐だった彼は,1780年頃,馬泥棒などを処罰する目的で自警団を結成し,犯人を自分たちで捕まえては,裁判を行い,有罪と決まればその場でむち打ち刑に処した。これが,のちにフロンティア各地で行われる自警団による犯罪者の処罰の方法の原型となる。

鈴木 透 (2006). 性と暴力のアメリカ 中央公論新社 pp.81-82.

子どもは純真?

 しかし一般には,子供は純真だという先入観がはびこっている。子供が純真そうな顔つきをしているのはたしかだが,実は未発達のために,そのような顔つきしかできないだけではないかと思う。その証拠に,身体を自由に操れる大人になると,純真そうな顔つきをするものは皆無となり,邪心が露骨に顔に現れるようになる。
 そもそも,大人になるとあれだけ悪いことをするような人間が子供のころだけ汚れのない人間だったはずがない。子供の頃は純真だったのに大人になって突然悪くなった,と考える方が不自然である。
 子供は実際には嘘もつけば,親の目を盗んで悪いこともする。そうでない子供もいるかもしれないが,それは,悪いことを思いつくだけの知恵がないか,実行するだけの体力や知力がないか,機会がないか,のいずれであるにすぎない。

土屋賢二 (2001). 哲学者かく笑えり 講談社 pp.111-112.

段階評価

 このように男は「たんなる見せかけ」を軽蔑する。しかし女に対しては,外見にとらわれて,内面にまでは目がとどかない。いくら内面的葛藤を抱えていても,男の本質は単純なのだ。
 このことは男女の語彙の差にも現れている。女の語彙は少ない。「すてき」,「いやらしい」など,主観的感想を4段階くらいで表現するための語彙に限られている。一方,男の語彙は,さらに少なく,「許せる」と「許せない」しかない。他のことばも使いはするが,それらはすべてこの2つの単語の同義語である。
 男が女を選ぶ基準も非常に単純である。女が男を選ぶときのように複雑な条件をつけたりしない。たいていは容貌と性格をもとにして選ぶが,そういっても実際は簡単である。容貌のランクは①許せる,②ただちに許せるとはいえない,の2段階しかない。性格も①許せる,のみの1段階評価である。

土屋賢二 (2001). 哲学者かく笑えり 講談社 pp.75-76.

健康法の根拠

 先日,身体の一部をマッサージするとあらゆる病気が治るという健康法をテレビで紹介していたが,その考案者は「なぜ寝たきりの猿がいないのか。それは自然な生活を送っているからだ。猿や猫が医学部に行って医学を勉強するだろうか。人間だけが医者になるのだ」と話していた。
 ふつうなら,ここから出てくる結論は,「自然界の動物は,寝たきりになるほど長生きしないし,医学部へ行けるほど頭が良くないし,入学金を払えるほど金持ちでない」ということだと考えるだろう。しかしテレビでは「だから人間は不健康だ」という結論を引きだしていた。
 わたしなら「自然の動物が虫歯になるだろうか。歯を磨く人間だけが虫歯になる。野生の動物が近視になるだろうか。学術書や請求書を読む人間だけが近視になる。野生の動物が頭痛に悩むだろうか。シソとミョウガと納豆(これらはほんらい食品ではない)を食べる人間だけが頭痛に苦しむのだ」と主張して,歯を磨く,学術書や請求書を読む,シソとミョウガと納豆を食べる,といった行為をやめるよう提唱するところだ。

土屋賢二 (2001). 哲学者かく笑えり 講談社 pp.43-44.

「民間健康法」と「正規の健康法」

 健康法にはさまざまあるが,大きく「民間健康法」と「正規の健康法」の二種類に分類することができる。民間健康法は,次のような特徴をもっている。民間健康法は,次のような特徴をもっている。
①簡単安易である。毎日50キロ走れとか,100日間山にこもれ,といった健康法があっても普及しないだろう。所要時間も1日5分が限度であろう(健康を切望しているといってもこの程度のものである)。
②万病に効く。画期的な健康法であればあるほど,あらゆる病気を治すものだと信じられている。「水虫からガンまで」,「夜尿症から心臓マヒまで」治る,というふれこみがあれば申し分ない。
③痛くない。せいぜいタワシでこするときの痛みが限度である。
④厚生省や科学者が認めていない。
 これらの条件が満たされれば効果のほどは二の次である。確実に効果があるなら,健康法として定着するはずであるが,民間健康法はどれも定着せず,流行りすたりを繰り返しているのがその証拠である。
 「正規の健康法」は,これと逆で,医学に裏づけされたものを指す。当然厚生省も認めている。したがって正規の健康法はスリルに乏しい。
 たとえば「脅威の回春術」といっても,正規の健康法に従うかぎり,結局は「規則正しい生活と適度の運動とバランスのとれた栄養」というハンで押したような結論が出るだけである。われわれはそんなまどろっこしい健康法を求めているのではない。一発逆転の健康法を求めているのだ。ここに各種の民間療法がもてはやされる余地がある。

土屋賢二 (2001). 哲学者かく笑えり 講談社 pp.41-42.

「自分に関する事実」の一部は,想像の産物である。

 人間は事実というものをたいして重視してはいないが,自分のこととなると話は別である。自分の身長が1センチ違っても大騒ぎするのだ。どうして自分のことに大騒ぎするのかということは自明ではない。
「本人がこだわらなければ,だれがこだわってくれるというのか」
という人がいつかもしれないが,
「どうしてお前のことにこだわる人がいなくてはならないのか」
という,いっそう深刻な問題を提起されるだけである。
 しかし,「自分に関する事実にこだわっている」といっても,実際には,自分に関係の深い事実ほど,想像によって歪曲されているものである。多くの人は,何の根拠もなく「努力しさえすれば他人には絶対に負けない」と夢想しているし,ギャンブルをやる人は「ギャンブルを続けていれば,いつか必ず大勝する」という自分勝手な信念を持っている。他にも,
 ・あの女がこっちをちらっと見たのは,わたしに気があるからだ
 ・あの女がこっちを見もしないのは,恥ずかしがっているからだ
 ・この犬がほえるのは,わたしを手ごわい相手と思っているからだ
 ・この犬がほえないのは,わたしに敬意を払っているからだ
 ・わたしはたぶん死なない。たとえ死んでも,それは本当の死ではない
といった甘い夢の世界にわれわれはひたっているのだ。たしかにこの夢が破られるときもある。異性にふられた,体重計の上に乗った,鏡を見たときなどがそうである。しかし,その場合ですら,「女は男を見る目がない」とか,「この体重計はこわれている」と,あくまでも夢を救おうとする傾向がある。われわれがかろうじて自分に誇りをもって生きていられるのは,想像によって,このように虫のいい勘違いをするからだ。

土屋賢二 (1999). われ大いに笑う,ゆえにわれ笑う 文藝春秋 pp.64-65.

超能力と霊魂は相反する概念

 それどころか,ESPという概念は,霊の存在を危うくしかねない。ESPに限界がないとすると,霊の存在が証明できなくなってしまうのだ。いわゆる「超ESP仮説」である。
 霊媒に憑依した霊が,故人しか知りえないような情報を語ったとしよう。ESPが存在しないなら,これは霊が実在する証拠とみなされるだろう。しかし,ESPが存在するなら,トランス状態に陥った霊媒が無意識にESPで知った事実を口にしているのではないか,という仮説を却下できなくなる。
 霊を写真に撮ったらどうなるだろう?いや,それも証明にはならない。いわゆる念写という現象が存在するなら,それが撮影者の念写ではないことをどうやって証明するのか?
 霊が何かを動かしたり,物理的な痕跡を残したら?いや,それでもだめだ。その現象が誰かの潜在的なPK能力のしわざではないと,どうして言えるのだろう。実際,超心理学者たちは,ポルターガイスト現象にRSPK(回帰性自然発生サイコキネシス)というもっともらしい名前をつけている。霊が家具を揺らしたりするなど,迷信にすぎない。そうした現象は,その家に住んでいる人間,特に思春期の少年少女が,無意識にPKで起こしている現象に違いない……。
 そう,もともと唯物論から生まれた「超能力」という概念は,「霊の存在」という概念と矛盾する。にもかかわらず,マイヤーズやライン,それに続く研究者たちは,自らの首を絞めかねない超能力の研究に没頭してきたのである。

山本弘 (2003). 神は沈黙せず 角川書店 p.269.

陰謀論は宗教に似ている

 彼らは「真実」を求めているのだ。UFOの謎に頭を悩ませ,単純明快な論理ですべてを説明することを夢見ているのだ。「誰かが真実を隠している」「誰かが我々を騙している」という説は,安直であるがゆえにアピールしやすい。隠されている真実さえ明らかになれば,すべては単純明快であったことが判明するだろう……。
 陰謀論というのは宗教に似ているー私はふと,そう気づいた。
 この世は混迷に満ちている。多くの悲しむべき出来事,不条理な出来事が常に起きている。戦争,災害,不景気,伝染病……そこにはなんの秩序も基準も見当たらない。どんなに正直に慎ましく暮らしていても,天災であっさり死ぬことがある。悪人が罰を受けることなくのさばることがある。人の生や死というものには,結局のところ,意味などない。
 しかし,多くの人はそれに納得しない。自分たちの生には何か意味があると信じたがる。この世で起きることもすべて,何か意味があると考えたがる。偶然などというものはありえない。どんな事件にもすべてシナリオがあるー誰かが仕組んだことなのだ,と。
 阪神大震災が起きた時,オウム真理教は「地震兵器による攻撃だ」と主張した。そのオウム真理教事件は,一部の陰謀論者に言わせれば,フリーメーソンや北朝鮮の陰謀なのだそうだ。1996年にO-157が流行した時も,2005年にインフルエンザが流行した時も,やはり陰謀説を唱える者が現れた。こうした説は決して近年の流行ではない。14世紀にフランスでペストが大流行した時,「ユダヤ人が井戸に毒を流しているからだ」という噂が流れ,大勢のユダヤ人が殺された。1853年,長崎にコレラが流行した時も,「イギリス人が井戸に毒を流している」という噂が広まった。1995年,エボラ出血熱が流行したザイールでも,「医者が病気をばらまいている」という噂が流れた。時代や民族を問わず,人は大きな災厄に接すると,「誰かのせいだ」と考えたがるらしい。
 考えてみれば,ノアの洪水の伝説も,そうして生まれたのではないだろうか。昔の人にとって,自分たちの住む地域が「全世界」であったろう。自分たちの住む地域に洪水が起きた時,「全世界が洪水に見舞われた」と思いこんだろう。生き残った人たちは考えた。なぜこんな悲惨なことが起きたのか。誰が何のために私たちの隣人を殺したのか……彼らはその不条理な悲劇を合理的に説明するため,物語を創り上げたのだろう。「死んだのはみんな悪い人たちで,神は彼らを罰するために洪水を起こしたのだ」と。
 そう,宗教とは「神による陰謀論」なのだ。災厄を起こしたものの正体が人であれば陰謀論になり,神であれば宗教になる。それだけの違いだ。
 そう考えれば,カルトを盲信する者がしばしば陰謀論を唱える理由も説明がつく。神を信じる心理,陰謀を信じる心理は,結局のところ同じメカニズムによるものだからだーすべてにきっと意味があると考えたがる心理。
 あいにくと私にはそんな心理はない。災厄は意味も理由もなく起こるということを,子供の頃に知ってしまったからだ。

山本弘 (2003). 神は沈黙せず 角川書店 p.83-84.

真実を教えようとしている

 「嘘は強い。ひとたび成功した嘘,多くの支持者を獲得した嘘は,真実が暴露されたぐらいで揺らぐものではない。何年,何十年でもはびこり続けるのです。それに対して,真実はなんとも弱く,はかない。大きな嘘にあっさり押し流されてしまう。真実を口にしただけで処刑された時代もあったのです。人類の歴史を見れば,むしろ嘘が勝利した例の方が圧倒的に多いと言えるかもしれません。
 ですから,もし本当に子供たちに社会の中で成功するすべを身につけさせようと思うなら,学校は嘘の大切さを教えるべきなのです。嘘がいかに強いものかを,嘘をどのように使えばいいかを教えるべきなのです。嘘を武器に使う者の方が勝てるのですからー」
 そこで校長は,悲しげな表情で大きくかぶりを振った。
 「しかし,そんなことはしません。学校ではそんなことを教えません。私たちはあなたたちに真実を教えようとしています。真実を守ることを教えようとしています。たとえそれが不利と分かっていてもです。それはなぜなのか?考えてみてください」
 それだけ言って,校長は私たちを放免した。処分は一切なしだった。私と葉月は,校長室を後にし,無言で廊下を歩いていった。
 「……なぜなんだろう?」
 何分かして,はづきがぽつりと言った。
 「どうして校長,『真実を教えています』じゃなく,『真実を教えようとしています』って言ったんだろう?」

山本弘 (2003). 神は沈黙せず 角川書店 p.39.

平等とは

 実際は,フェミニズムの信条と,男女が心理学的に同一ではない可能性は両立不能ではない。くり返しになるが,平等とは,あらゆる人間の集団が置き換え可能であるという経験的主張ではなく,個々人は集団の平均的属性によって判断されたり制約を受けたりするべきではないという道徳的信条である。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[下] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.113.


フェミニズムの2派

哲学者のクリスティーナ・ホフ・ソマーズは著書『だれがフェミニズムを乗っ取ったのか(Who Stole Feminism?)』のなかで,フェミニズムの2つの派に有用な区別をつけ,その相違点を指摘した。「エクイティ・フェミニズム」は性差別や,女性に対するそのほかのかたちの不公正さに反対する。このフェミニズムは啓蒙期から発展した古典的な自由主義と人道主義の伝統の一部であり,フェミニズムの第一派を導き,第二波を立ち上げた。「ジェンダー・フェミニズム」は,女性は依然として,広く存在する男性優位のシステムによって奴隷化されており,そのジェンダー・システムが「バイセクシュアルの乳児を,一方が命令して他方がしたがう男性と女性のジェンダー・パーソナリティに変えてしまう」と考えている。このフェミニズムは古典的な自由主義の伝統に反対し,マルクス主義やポストモダニズムや社会構築主義やラディカル・サイエンスと同盟している。そして,一部の女性学研究やフェミニズム団体や女性運動の代弁者の信条となっている。
 エクイティ・フェミニズムは,平等な処遇についての道徳上の主義であり,心理学や生物学の経験的な問題にはかかわらない。ジェンダー・フェミニズムは,人間の本性についての3つの主張を持つ経験的な主義である。1つは,男女の差異は生物学的要素とは無関係で,すべて社会的に構築されたものであるという主張。2つめは,人間の社会的動機はただ1つ,権力であり,社会生活は権力がどのように行使されているかという観点からのみ理解できるという主張。そして3つめは,人間の相互関係は,たがいに個人として対処しあう人びとの動機から生じるのではなく,ほかの集団に対処する集団ーーこの場合は,ジェンダーとしての女性を支配するジェンダーとしての男性ーーの動機から生じるという主張である。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[下] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.116-117.

ダークサイドへの過程

Fear is the path to the darkside.
Fear lead to anger, anger lead to hate, hate lead to suffering.

Yoda said to Anakin, in StarWars Episode I

自殺は強制された死

 私自身が精神科医であるからといって,精神科治療で自殺をゼロにできるなどと断言するほど傲慢ではない。たしかに,どれほど手を尽くしても生じてしまう自殺があることも残念ながら認めざるをえない。しかし,早い段階でこころの病に気がついて,適切な治療を受けることさえできたならば,助かっただろうと思われる例もかなりの割合にのぼるのだ。
 そこで,「人には自殺する権利がある」とはやばやと結論を下す前に,自殺につながりかねないこころの病について正しい知識を持って,少しでも自殺によって命を失う人の数を減らすことができればと私は考えている。
 自殺は決して選択された死などではなくて,さまざまな理由から自殺しか選択肢がない状況に追い込まれた,いわば強制された死であるというのが,精神科医としての私の持論であるのだ。

高橋祥友 (2003). 中高年自殺:その実態と予防のために 筑摩書房 p.104-105

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