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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

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ロボットの特徴

①「ロボット」は何かに挑戦した成果を保存しておく。人間は新しい技術を獲得した成果を「ロボット」にして装備する。そして必要な場合に再利用できるようにする。これは人間の自由を拡大している。
②「ロボット」は何かを見,聞き,知ったということを保存しておく。こうすることで,人間は世界のどの部分はすでに織り込み済みであり,どの部分はまだ未知であるかを区別できる。そうすれば,既知の部分についてあれこれ悩まずにすむ。このこともまた人間の自由を拡大している。
③「ロボット」は,とくに使い込まれれば,ほとんど無意識のうちに仕事を処理してくれる。こうして人間は,じぶんのやっているあれこれを「ロボット」任せにして自分は他のことをしていられる。自由の拡大である。
④「ロボット」は1つの重要な仕事を成し遂げるために,グループとしてチーム・ワークをなす。あなたが取引先のお得意様と重要な契約を取り付けられるのは,日本語を操る「ロボット」,パソコンを操る「ロボット」,書類を作成する「ロボット」,上司の指示を記憶している「ロボット」などが,スムーズに仕事を処理してくれるからである。

佐々木正悟 2005 「ロボット」心理学 文芸社 p.35-37
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ロボット

 英国の文学批評家であり,小説家であり,哲学者であり,オカルトや犯罪の研究家としても知られるコリン・ウィルソンが,「ロボット」という心理学的な概念を発表した。
 コリン・ウィルソンによれば人間の非常にユニークな特徴のひとつとして,「ロボットを使う」,それどころか「ロボットになってしまう」ということが挙げられる。「ロボット」という言葉によって彼が指している意味は,つまるところ人間の学習能力のことなのである。

佐々木正悟 (2005). 「ロボット」心理学 文芸社 p.27

Time flies like an arrow

Time flies like an arrow. の5つの意味

「時は矢のように過ぎる」
「矢の速度を測定するのと同じやり方でハエの速度を測定せよ」
「矢がハエの速度を測定するのと同じやり方でハエの速度を測定せよ」
「矢に似ているハエの速度を測定せよ」
「ハエの一種である「タイムフライ」は矢を好む」

1960年代にハーバード大学で開発された初代コンピュータが,この文章に対応するツリーを5つも発見して,研究者をぼう然とさせた。

スティーブン・ピンカー (1995). 言語を生み出す本能(上) 日本放送出版協会

人権・自由・平等・博愛

人権とか自由,平等,博愛という言葉を聞いただけで,葵の御紋のように平伏してしまう前に,この概念の両義性をしっかり理解することから始めた方がいいでしょう。たとえばー
 人権=声の大きい者による既得権の拡大
 自由=わがまま
 平等=抜け駆け禁止
 博愛=敵は殺せ
 とか(笑)。
 「他人のわがまま(既得権)を侵さない限りでわがまま(既得権)を保障する」
 こういう条文であれば,まだしもリーズナブルだと思います。


日垣 隆 (2001). それは違う! 文芸春秋 p.183

責任認識の順序

 責任をめぐる正しい洞察からすれば,「意図→行為→損害の事態→責任の発生」という時間的な順序があるのではなくて,「起きてしまった事態→収まらない感情→責任を問う意識→意図から行為へというフィクションの作成」という論理的な(事実の時間的な流れに逆行する)順序になっているのですね。このことを私たちはよくよく自覚しつつ,責任論議をする必要があります。



小浜逸郎 (2005). 「責任」はだれにあるのか PHP新書 Pp.211-212.

責任

 「責任」という概念は,「道徳」や「法」という概念と比べるとかなり曖昧です。それはどうしてかというと,「責任を果たさなくてはならない」と考えたり,あるいは「責任をとれ」と言われたりする場合,そこに必ずと言ってよいほど範囲を確定できない要素が入り込むからです。この不確定要素はどこから来るのか。
 それは,そもそも人間というものが,つねに取り返しのつかない過去と予測のつかない未来とを,現在に引き寄せつつ生きている存在であることによるのではないかと私は考えました。この存在論的なあり方は,あらゆる人間にとって普遍ですから,そうである限り,「責任」概念は,本質的に不条理なものとしてできあがっていることになります。
 人が死んでしまったから責任をとれと言われても,とりようがありません。「目には目を」の原則を貫いたからといって,死んだ人が帰ってくるわけではありませんからね。
 また,あらかじめ百パーセント責任をとれるように,起こりうる未来をすべて予測しておけなどといわれても,そんなことは無理です。
 それから,人はいつも理性的な存在として行為しているわけではありません。ところが,責任について書かれたものを見ると,ほとんど,個人がある理性的な意図から行為におよんだという想定のもとに考えられています。しかし,不作為そのものに対して責任を問われる場合もありますし,何となくボーッとしているうちに何かが起きてしまったとか,無意識の行動としか考えられない振る舞いに対しても責任が問われます。人間は,むしろ無反省な状態で互いにかかわっていることのほうが圧倒的に多いにもかかわらず,それでもその結果を問われます。
 一人の行為なり作為,不作為,さらに何となくそこに居合わせたというような状態は,それだけで,時間的にも空間的にも人間関係を流れわたって,しだいに波及効果をおよぼしていく。互いに影響をおよぼし合う関係になっているということ。この事実も,だれが,だれに対して,どういう責任をとるのかを確定しようとするときに,たいへんな難題となって立ちはだかります。

小浜逸郎 2005 「責任」はだれにあるのか PHP新書 Pp.209-211

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