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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

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大麻の「麻」と麻薬の「麻」は違う

 ところで,
 「大麻の『麻』は麻薬の『麻』である。だから大麻は麻薬なのだ」
 という意見をよく耳にするが,それは大きな誤りである。大麻の『麻』は,家の中で麻を裂いて,こすって,干す様子を,速しという形で表しており,『麻』は「磨く」「摩る」という意味にも通じていく。一方の麻薬の「麻」は,本来はやまいだれに林と書く「痲れる(しびれる)」という文字で表していた。その後「痲藥」という漢字が,1949年から定められた当用漢字表に従って「麻薬」と表記されるようになったのである。

長吉秀夫 (2009). 大麻入門 幻冬舎 p.143
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帰納推理と演繹推理

 古典的区分として,帰納推理と演繹推理の区分がある。演繹推理は,真とされる命題から結論を推論することにかかわるが,その過程で意味的情報を増加させることはない。すなわち,結論は前提の中にすでに内在している情報を単に明示的に言明するものでしかない。哲学の下位分野である論理学は,必然性の原理に基づいて演繹推理の正しい手続きを規定することに関心をもっている。要するに,これは,妥当であると推論される結論は論証の前提に一致しているだけでなく,一つの反例も存在しないことが必要であることを意味する。例えば,“ジェーンは図書館にある多くの本を読む。図書館にあるすべての本はハードカバーである”と読者に告げるとしよう。読者は,ジェーンは多くのハードカバー本を読むと推論するのは許されるが,彼女はたいていの場合ハードカバー本を読むと推論するのは許されない。なぜなら,おそらく彼女はもっと多くのペーパーバックを購入して読むからである。
 帰納推理は,所与の情報を超えて意味的情報の量を増加させることを含む推論で,現代哲学では論理学の領域でなく,現象の説明や科学的推理に関連するものと考えられている。帰納の一形態として,観察された結果に対してありそうな原因を求めることが含まれる----例えば,道路脇にある損傷した車をみて,この場所で交通事故が最近起こったのだと仮定する場合のように。必然性の原理に違反するので,このような推論は論理学的に妥当ではない----その車はだいぶ以前に事故を起こし,無頓着な所有者によってこの場所まで運転されてきて放置されているのかもしれないのである。しかしながら,このような理にかなっており,かつありそうな推理を行なう能力は,われわれを取り巻く世界を理解する上で明らかに重要である。

エバンズ, J. St. B. T. 中島 実(訳) (1995). 思考情報処理のバイアス 信山社 Pp.3-4
(Evans, J. St. B. T. (1989). Bias in Human Reasoning: Causes and Consequences. Hove, UK: Lawrence Erlbaum Associates.)

こたえは「わからない」しかない

 「UFOの95%は見間違い」と説明すると,どうしてもUFOは宇宙人の乗り物だと固く信じている人は,よくこう聞いてくる。
 「じゃあ,その最後の5%の正体はいったい何なんですか。どう調べても正体が分からないのならば,それこ本当のUFO,宇宙人の乗り物ということじゃないですか。正体がわからない以上,宇宙人の乗り物ではないと否定することだってできないわけでしょう」
 筆者はこう問われた場合,次のように答えることにしている。
 「いいえ,残りの5%は,タヌキが化けた茶釜が空を飛んでいるんですよ。正体がわからない以上,タヌキが化けているのではないと否定することだってできないはずでしょう」
 タヌキが化けた「ぶんぶく茶釜」は,たしかに格好がUFOに似ている。
 ここに挙げた「宇宙人の乗り物」と「ぶんぶく茶釜」というUFOの正体についての2つの考え方の主張は,論理的に見れば,まったく同じ構造をしている。正体がわからないあるものについて,任意のXなるものを勝手に持ち出し,いずれも「正体がわからない以上,Xでないとも言えない」と主張しているにすぎないわけだ。一見,論理的に見えるが,この主張のしかたになんの信憑性もないことは,Xの中に好きなものを入れて自分で回答を作ってみればわかる。
 「最後の5%の正体は何なんですか」と尋ねられた場合の正しい答え方は,1つしかないだろう。それは,ただ「わからない」だ。最初に書いたようにUFOとは,定義そのものが「正体がわからない」という意味だ。だから,本当のUFOの正体を教えてくれと尋ねるのは「正体のわからないものの正体を教えてくれ」と頼んでいるのとまったく同じことだ。問い自体に意味がない。もし答えられたとしたら,それはもはやUFOではない。

皆神龍太郎 (2008). UFO学入門:伝説と真相 楽工社 Pp.46-47

しんどい道を笑顔で行け

 おばあちゃんはやさしい口調で,
 「しんどい道と楽な道があってね,選ばなきゃいけない時が来たら,しんどい道を選びなさいね」
 というのも口癖だった。
 「え,おばあちゃん,しんどい方へ行くの?」
 「そうだよ。楽な道は横着をするということなんだよ。しんどい道を行くと神様が助けてくれる。でも笑顔でいないと助けてくれないよ。しんどい道を行くと決めたら笑顔で行きなさいよ」

冨安徳久 (2008). ぼくが葬儀屋さんになった理由 ホメオシス p.16

翻訳のイメージ

 そこでもう一度,翻訳の話にもどろう。これまでわれわれは何度か,同じドイツ語の文章が,異なる訳者によってさまざまに訳されてきた実例を見てきた。ある一つの文章を訳すときに,翻訳の正解は一種類ではない。5人の訳者がいれば,5通りの正しい翻訳ができあがる可能性がある。つまり正しい翻訳とは,非常に多くの可能性の束として存在しているということだ。
 易者が使う筮竹(ぜいちく)という竹の棒がある。易者はその束を胸の前で混ぜ合わせながら,そこから一本ずつ抜き出し,占いを行う。翻訳もまたあの筮竹のようなものだ。誤訳や不適訳を除外して正しい翻訳だけを集めたとしても,それはけっして1つの文章に収斂することはない。正しい翻訳もまた多数の潜在的訳文の束として存在している。それぞれの訳者はその束の中からみずからの言語感覚に沿って1本の筮竹を選び出し,それを紙の上に固定していく。
 ところがしばしば忘れられるのは,たとえばカント自身がドイツ語の一文を書いたときにも,同じように多様な表現の束の中から,最終的に1本の筮竹を抜き出して紙の上に記したという事実だ。1つのドイツ語文が多様な日本語に翻訳されうるように,カントの原文もまた,それとまったく意味の変わらない幾多の表現の束の中から選択されたものだ。たしかに最終的に実現したのは,たった1つの文章だ。しかしカントが,可能的な表現の束の中からもっとも優れた一文を選び出したという保証はない。それはきわめて偶然的なできごとにすぎない。じっさい,もう少し別の表現方法をとっていたならば,カントが伝えたかった文意がはるかに的確に伝わったであろうに,と思われる文章はいくらでもある。

鈴木 直 (2007). 輸入学問の功罪----この翻訳わかりますか? 筑摩書房 p.213-214

川上哲治のつくった言葉

 ちなみに,この「球際」と「チームプレー」という言葉は,川上監督の造語です。今なら流行語大賞になったかもしれません。
 また,「(チームのために)仕事をする」という言葉が選手の間で流行ったのも,V9巨人が最初です。これは,チームプレーの精神が浸透していたことをうかがわせるエピソードだといえるでしょう。

小野俊哉 (2009). 全1192試合 V9巨人のデータ分析 光文社 pp.38-39

想像力に屈した人の例

 中には想像力に屈してしまった人たちもいる。1930年代にロンドン大学の教授をしていたキャロライン・F・E・スパージョンはみんなから尊敬され,ふだんは分別をわきまえているのに,シェイクスピアの書いたものを入念に読めば,作者の外見が判断できると思いこんでしまって(『シェイクスピアの修辞的表現とそこからわかること』という著書の中で)自信たっぷりにこう書いた。「彼は小柄ながらもがっしりとした体格で,幾分細身ではあるが,驚くほど均整のとれたその肉体の動きはしなやかで軽く,眼光は俊敏にして鋭く,機敏でたくましい行動は見る者の目を楽しませた。おそらく肌は生まれたてのように白く美しく,若い頃には顔に色も出やすくて,感情がすぐ表に現れたことだろう」
 一方,人気のあった歴史家アイヴァー・ブラウンは,シェイクスピアの芝居に膿瘍などのできものがよく出てくることから,シェイクスピアは1600年以降は「悪性のブドウ球菌に感染していて」次から次へとできるできものに苦しんだと結論づけた。


ビル・ブライソン 小田島則子・小田島恒志(訳) (2008). シェイクスピアについて僕らが知りえたすべてのこと 日本放送出版協会 p.28

シェイクスピアの綴り方

 今の私たちには,彼の名前をどう綴るのが一番いいのかもわからない。が,彼自身もよくわかっていなかったようだ。なぜなら,現存するサインは2つとして同じ綴りのものがないのだから(今残っているサインは,Willm Shaksp, William Shakespe, Wm Shakspe, William Shakspere, Willm Shakspere, William Shakspeareの6つだ。おもしろいことに,彼が用いなかった綴り Shakespeare こそ,今現在広く使われているものである)。さらに,彼の名前の発音の仕方にも自信がもてない。『シェイクスピアの発音』という発音に関する決定版を書いたヘルゲ・ケーケリッツは,シェイクスピア本人は「シャクスピア」と発音していた可能性もあると考えた。ストラットフォードとロンドンとで違う発音の仕方をしていた可能性もあるし,綴り方と同じくらいいろいろな発音をしていた可能性もある。

ビル・ブライソン 小田島則子・小田島恒志(訳) (2008). シェイクスピアについて僕らが知りえたすべてのこと 日本放送出版協会 p.19

無視・賞賛・非難

 「人間は無視・賞賛・非難の段階で試される」という。箸にも棒にもかからない状態では徹底的に「無視」。少し希望が見えてきたら「賞賛」。そして,一人前と認められるようになったら「非難」する。そのようにされて人間は成長していくのだと……。まさに私はその原則通りの道を歩んできた。


野村克也 (2009). あぁ,監督--名将,奇将,珍将 角川書店 p.183

馬鹿

 馬鹿ですか?ラブレターの中には,散々,馬鹿という言葉が使われていました。あなたはいったい自分を何様だと思っているのでしょう。あなたがいったい何を生み出し,あなたが馬鹿と言いながら見下す人たちに,何の恩恵を与えているというのですか?
 あなたは自分の父親にまで,生きる価値がないという表現をしていましたが,今あなたが生きているのは誰のおかげなのでしょう。そんなこともわからずに,少し勉強ができるからといって,自分こそが選ばれた人間であると思っているあなたこそが,一番,何もわかっていない人間,あなたが言うところの馬鹿なのではないでしょうか。

湊かなえ (2008). 告白 双葉社 p.257-258


全般的知識は必要悪

 「ただ単に諸君に全般的な理解をあたえんがためなのだよ」と所長はいつも見修生たちに説明するのだった。というのは,彼らは,いやしくもその仕事を賢明に遂行してゆこうとすれば,もちろん何らかの全般的理解はもたなければならぬのだから--ただし,もし社会の善良にして幸福な一員であろうとするならば,全般的理解はできるだけ最小限に止めておくことだ。それは,だれしも知っているように,専門的知識は徳と幸福を増進するが,全般的知識は知的見地からいって必要悪なのだから。そもそも社会の背骨をなすのは哲人ではなくして,糸鋸師や郵便切手蒐集家なのである。

ハックスリー 村松達雄(訳) (1974). すばらしい新世界 講談社 p.8

ジョークの進化の様子

 ミトコンドリア・イヴの王冠もイヴ自身が生きているうちには姿が見えないという,この奇妙な不可視性は,あらゆる種が持っているはずの始まりが,ほとんど目に見えないということに比べたら,まだ分かりやすく,まだ受け入れ易い。種が永遠でなければ,時間全体は,何らかの仕方で種xが存在する前の時代と,それに続くすべての時代に分割することができる。だがその接点では間違いなく何かが生じたのだろうか。多くの人々を困惑させてきた似たような謎を考えれば,助けになるだろう。新しいジョークを聞いた時など,いったいそれはどこから来たのだろうと,おもったことはないだろうか。もしあなたが,かつて私が知っていたり聞いたことがあったりした他のほとんどの人たちと同じであれば,あなたはジョークを決して作ったりしないで,誰かある人から聞いたことをおそらくは「改作」してひとに伝えているはずだ。しかしその誰かも,それをまた誰かから聞いて,そのまた誰かも,それをまた誰かから……。ところで私たちは,そのプロセスが永遠には続きえないことを知っている。たとえば,クリントン大統領についてのジョークも,もってせいえい1年というところだからだ。ではいったい誰がジョークを作るのだろう。ジョークの作者は(ジョークの版元とは対照的に)姿が見えない。ジョークの作者を現場で押さえる人がいるとは思われない。だからこんな民間伝承--「都市伝説」--さえあるほどだ。つまり,こうしたジョークはみんな監獄で囚人たちによってつくられたのだ。彼らは私たちとは似ても似つかない危険で異常な人たちで,秘密の地下ジョーク工房でジョークをこしらえるよりほかには時間のうまい使い方のないひとたちなのだ。ナンセンスな話だが,なかなか信じられなくてもきっと本当だと思われるのは,私たちが人から聞いて人に伝えるジョークは,伝えられる途上で訂正や更新を受けながら,初期の物語から進化してきたものだからだ。ジョークにはたいてい原作者がいない。ジョーク作りは何十,何百,何千という話し手に分散して行われ,そこからジョークが育ってきた先祖たち同様,それが休眠状態に入るに先だってしばらくは,何かその場その場に固有なそのときどきのおもしろさを備えたヴァージョンとして結晶化する。種分化もまた同じように目撃するのが難しいが,それはジョークの原作者を目撃するのが難しいのと同じ理由によっている。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.138

「ノートルダムの鐘」のタイトル変更

 数年前,ディズニーのアニメーション映画『ノートルダムの鐘』が公開された。原作の邦題は「ノートルダムのせむし男」。文豪ビクトル・ユーゴーの原作だ。そのタイトルの「せむし男」が,映画では「鐘」に変わっていた。僕は当初,例によっての言い換えかと思っていた。しかし原題も「The Bells of Notre Dame」(ノートルダムの鐘)と表記されていることに気づき,アメリカでもやはりこの言葉は禁止用語になっているのかと驚いた。しかしそうではなかった。調べてみたらアメリカでのタイトルは,原題「The Hunchback of Notre Dame」のままだった。日本の配給会社は,邦題ばかりかビデオパッケージに表記する原題まで,ご丁寧に変更したわけだ。それもあの著作権管理に世界一うるさいと評判のディズニーを相手に。それだけの情熱とエネルギーがあるのなら,表現と規制について,もっと突き詰めて考える時間だって作れたはずだと思う。あるいは小人たちのテレビ出演への抗議に,「善意のつもりかもしれないが筋違いだ。彼らにもテレビに出て生活費を稼ぐ権利はあるのだ」と言い返すこともできたと思う。欧米の文化や習慣を全面的に追従する気は僕にはない。しかし差異はある。確かにある。非常に微妙な亀裂だけど,でもその断層は絶望的なまでに深い。

森 達也 (2003). 放送禁止歌 光文社 p.155

君は裏切ったのか!

 硬直的に二項対立思考する人は,“味方”の陣営に属する各人に対して,つねに“正しい意見”に忠実であることを純粋主義的に要求します。
 ちょっとでも“味方の統一見解”からずれたようなことを口にしたり,“敵”の言い分を部分的に肯定したりするようなことを言うと,「君は裏切ったのか!」と問い詰めます。「別に,いつも同じ意見である必要などないだろう」などと言おうものなら,その人が悪魔にでも取りつかれたかのように大騒ぎし,糾弾し始めます。
 英雄として祭り上げられている人だって例外ではありません。むしろ英雄であればあるほど,純粋に“味方の理想”を守っていくことを期待されます。
 英雄が信者の期待を大幅に裏切るようなことをすると,とんでもないことになります。悪魔そのもののような扱いをされるかもしれません。硬直した二項対立図式は,誰にとっても不自由です。

仲正昌樹 (2008). 知識だけあるバカになるな! 何も信じられない世界で生き抜く方法 大和書房 Pp.136-137

敵を基準に思考する

 思想・宗教的な確信からであれ,売られた喧嘩を買ってしまったからであれ,「善=味方/悪=敵」の二項対立的な思考が癖になっている人は,しばしば,「敵」を基準に思考するようになります。「敵を基準にする」というのはヘンな話だ,矛盾していると思うかもしれませんが,これは実際によくあることなのです。
 どういうことかと言うと,二項対立的に考える人は,「相手(=敵)が言うことは嘘である」と最初から決めつけているせいで,相手が何か言うと,自分の頭の中でその真偽を確かめもしないで,それをすぐに否定し,その「正反対」を自分(たち)の“意見”にしてしまう傾向があります。


仲正昌樹 (2008). 知識だけあるバカになるな! 何も信じられない世界で生き抜く方法 大和書房 Pp.123

「善/悪」思考

 しかも,さらにまずいことに,独特の価値観・世界観に基づく二項対立図式で思考する人は多くの場合,その二項を「善/悪」と結びつける傾向があります。
 マルクス主義者であれば,「ブルジョワ的思考=悪/プロレタリア思考=善」,フェミニストであれば,「女性を蔑視する傾向=悪/女性を尊重する思考=善」,保守主義者であれば,「伝統を破壊する思考=悪/伝統を尊重する思考=善」,エコロジストであれば,「環境を大事にしない思考=悪/環境を大事にする思考=善」,愛国主義者であれば,「国を愛さない思考=悪/国を愛する思考=善」……という具合です。
 当然のことながら,自分と味方の立場は「善」の側で,敵は「悪」の側です。「善」は「悪」に勝たねばなりません。味方が善で,敵が悪だと強く信じてしまうと,相手(=敵)が何か「正しそうなこと」を言っているなと心のなかで感じても,なかなか素直に認めることができません。相手の言い分を認めることが,悪魔に誑かされることのように感じられてしまうのです。

仲正昌樹 (2008). 知識だけあるバカになるな! 何も信じられない世界で生き抜く方法 大和書房 Pp.114

二項対立図式の罠

 硬直化した「二項対立」的志向が陥りやすい罠とはどういうものか一言で言ってしまえば,自分(たち)が関心を持っているテーマの中から「二項対立図式が際立つような争点を見出してくるよう努める」のではなくて,「二項対立図式が際立つような争点が絶対にあるはずだ」と最初から決めてかかる傾向があるということです。

仲正昌樹 (2008). 知識だけあるバカになるな! 何も信じられない世界で生き抜く方法 大和書房 p.111

二項対立図式

 討論あるいは対話という形で,真理を追究していこうとすれば,それと同じように,対立図式を際立たせるような争点を絞り込むことが不可欠です。
 ある物事に対する見方を,互いに相容れない正反対の二つの極にはっきり分けて,いずれが「正しい」か,あるいは「より適切か」を,対話・討論を通して,あるいは自分の頭の中での討論を通して----妥協したり,曖昧なところを残したりせず----決着させようとする思考法のことを「二分法」あるいは「二項対立」と言います。
 そうした思考法と連動する形で,物事を----「善/悪」「プラス/マイナス」「右/左」「新/旧」「ポジティヴ/ネガティヴ」というふうに----二つの極に分解して認識することを,「二項対立」的あるいは「二分法」的な認識と言います。
 英語で言うと<dichotomy>です。日本人に比べてイエス/ノーをはっきり言う西洋人は,哲学や政治の問題を考える時にも,二項対立的に突き詰めた発想をする傾向が強いと言われています。

仲正昌樹 (2008). 知識だけあるバカになるな! 何も信じられない世界で生き抜く方法 大和書房 Pp.106-107

やらせの背景

 極論すれば,現在テレビ・雑誌媒体において「情報」といえば<商品知識>のことであり,「事件」といえば<芸能スキャンダル>のことである。そういった環境下で生じてきているのが,先に述べた「やらせ」の現象である。つまり,ここにおいては事実を事実として伝えるべきジャーナリズムが,フィクション・虚構となってしまいつつあるという危機なのだ。


新藤健一 (1994). 新版 写真のワナ 情報センター出版局 p.275.

勧誘電話の撃退法

「今,お悩みのことはありませんか?」に対して「この電話をいかに切るか,です」というフレーズは相手を絶句させるには有効です。

坂口孝則 (2008). 営業と詐欺のあいだ 幻冬舎 p.195


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