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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

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「品格のある」金持ちになれるかどうか

 何度も言うが,お金を稼ぐことは,決して悪ではなく「善」だ。
 問題は,稼いだお金をどう使うか。いわば,どう世の中に回していくかで,あなた自身が「品格のある」お金持ちになれるかどうかが決まるのだ。
 いつまでもお金の奴隷でいたくないなら,100稼いだうちの30だけでも投資に回して運用すること。
 そうすれば,あなたの資産も増える可能性があるし,運用することで社会の役にも立てるってわけだ。

田口智隆 (2010). 11歳のバフェットが教えてくれる「経済」の授業 フォレスト出版 pp.197
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「社会のニーズに応えて」

 清流に鮎がいるといっても,鮎が清流を作ったわけじゃないだろう。綺麗な水だったから,鮎が棲んでるってだけのことだよ。
 一番間抜けなのは,「社会のニーズに応えて」っていうの。
 そうじゃなくて,そういうものを偶然作っちゃった人が当たっただけ。そういうもんだと思うよ。

ビートたけし (2005). 悪口の技術 新潮社 p.64

「あなたの話をするのです」

 就職できないことを心から恥だと思えない人向けには恥辱産業があって,そういう感情をきちんと形作ってくれる。キャリアコーチ,自己啓発本,モチベーショナルスピーカー,ビジネスの権威が,自分に何が起ころうと,すべては自分の「態度」の結果であると説くのである。レイオフされて,仕事がなかなか見つからないって?あなたは「ネガティブ」すぎて,ネガティブな環境を引き寄せている。私は,あるキャリアコーチがこういっているのを聞いたことがある。「ここでは景気や市場の話はしません。あなたの話をするのです」

バーバラ・エーレンライク 中島由華(訳) (2009). スーパーリッチとスーパープアの国,アメリカ:格差社会アメリカのとんでもない現実 河出書房新社 pp.71

分類すること

 文化人類学者はよく,人間社会をいくつかのカテゴリーに分類しようとする。しかし,人間社会の多様性は,音楽様式や生活様式などと同様,時間の経過とともに連続的に変化するものであり,段階的に線引きする分類はどうしても不完全なものにならざるをえない。それらは,すべての段階で連続しており,前段階の終わりとつぎの段階のはじまりの区別そのものが恣意的である(これは,19歳を未成年とするのか,それとも若い大人とするのかの問題に似ている)。また,異なる順序で出現するものを段階という区画に押し込むことになるので,どうしても不均質な分類にならざるをえない(ブラームスとリストはロマン派の作曲家としてひとつに分類されているが,これを知ったら,彼らは墓の中で嘆き悲しむことだろう)。とはいえ,恣意的に段階を区切る分類方法は,注意事項を念頭に入れておけば,音楽や人間社会の多様性について論じるには便利である。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 p.88

クレオール化

 文法に生まれつきのメカニズムが関与しているという主張は「クレオール化」と呼ばれる現象にも基づいている。植民地の拡大が続いた帝国主義時代,ヨーロッパの商人や入植者たちは,先住民族と「ピジン語」と呼ばれる間に合わせの言葉でコミュニケーションを取った。ピジンには実質的に文法がないといってよい。時制もないし,a や the といった冠詞もない。しかし,商売上のやりとりのような簡単な情報の伝達には十分に役に立つのである。ピジン語を複雑にすることもできる。しかし,複雑さの質が統語を使用した言語とは違っている。ピジン語の複雑さは,単語の連合による単純増加型のものである。ソロモン諸島のピジン語で,チャールズ皇太子は「ミサスクインのピキニーニ(pikinini belong Missus Kwin)」であり,ダイアナ妃は「ミサスクインのピキニーニのメリ(Meri belong pikinini belong Missus Kwin)」であった。少なくとも彼女の離婚まではそうだった。離婚後,彼女の肩書きはさらに格上になった。「このメラヘリはミサスクインのピキニーニのメリがおしまいになったもの(this fella Meri be Meri belong pikinini belong Missus Kwin bim go finish)」。
 ハワイで行われた研究から,ピジン語が世代を経るとさらに洗練されることが分かった。この洗練されたピジン語を「クレオール語」と呼ぶ。ピジン語と違い,クレオール語ではきちんとした文法がある。クレオールの文法は赤ちゃんの脳から生まれてくるのである。クレオール語の文法の誕生に必要なことは,赤ちゃんをピジン語に触れさせることだけだ。なんと,両親の助けがいっさいなくとも子供たちは文法を勝手に創り上げてしまうのだ。これには子供たちの脳に組み込まれた本能的な文法機構が関与していると思われる。

マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 pp.24-25

2分割と3分割

 たとえば,分類の方法に,二分割と三分割がある。
 この2つの分類法,似ているようだが,その質はまったく違う。似て非なるものなのである。
 試みに,いまもっている本でも,CDでも,二分割,三分割を試みるとよい。二分割する方法はすぐに思いつくが,三分割となると突然むずかしくなる。
 たとえば,本の二分割なら,「男性作家と女性作家」「日本の作家と海外の作家」「物語と評論」などと,いくらでも考えつく。しかし,3つに分けようとすると一気に困難になる。なぜなら,分類法というのは恣意的なものだからである。いくらでも分割する方法はある。それを見つけられるかどうかだ。
 これはいい思考訓練になるのではないだろうか。

久我勝利 (2007).知の分類史:常識としての博物学 中央公論新社 pp.219-220

謹賀新年

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

不思議だ,という解釈

 「謎とは解らないこと,不思議とは誤った解釈。解らないことを解らないと云うのは良いのです。しかし不思議だと云ってしまった途端——それは解釈になってしまう。その人が知らないだけで当たり前の出来ごとであるかもしれないと云うのに,不思議だ不思議だと当たり前のように云うのは,解釈の押し付けに他なりません」

京極夏彦 (2009). 邪魅の雫 講談社 p.1147

この世には不思議なことなど何もないのだ

 「非合理的だからあり得ない,不自然だから間違っている——そんなことはないんだよ。世の中は矛盾や不具合で満ち満ちている。普通なら信じられないような事態でも,起きる可能性があれば平気で起きる。起きる確率が異様に低い出来事でも,偶然起きないとは云い切れない。それでいて,起こり得ないことは何がなんだって絶対に起きない。どんなにありそうなことでも起きないものは起きない。何となく空でも飛びそうな男が居たとしたって,人間は絶対に宙には浮かない。だからこそ」
 この世には不思議なことなど何もないのだと,中禅寺は云った。
 「どうであれ,きちんと検証しようとする姿勢は大切だ。でもね,例えば何か怪しい,不自然だと疑ってみるのは良いことだが,だから完全に潔白だとか思い込んでしまうことは危険だよ。判らないものは判らないとするのが常に正しいのだからね」

京極夏彦 (2009). 邪魅の雫 講談社 p.576

詭弁

 「それって其処に何が見えるかは,見る者次第と云うこと?善悪はそれを用いる者の心次第と云うこと?」
 「それこそ詭弁だよ。犯罪,人道,科学,それらの相は皆別だと云っている。それぞれの相が世界や社会や世間と別の関わり方をしている。だから科学に善悪を持ち込むことは間違いだ。況て,明るい暗いなどと云う漠然とした判断基準は個人的なもの,精精世間が共有する幻想じゃないか。例えば敗戦濃厚な国の人人にとって,原子爆弾は明るい未来明るい科学と云うことになるだろ?」
 「それこそ詭弁じゃない」
 「そうじゃないさ。何と云っても,国が滅びかけていて,自分も家族も殺されそうだと云うその時に,形勢逆転の可能性を与えてくれる切り札になり得る兵器が出来たとしたら——それをして明るい未来と夢想すること自体を間違っているとは云えないだろう。法律違反でも条約違反でもないなら,糾弾も出来ないだろうね。しかし,所詮原子爆弾は大量殺戮兵器でしかないんだ,そんなものは人道的に認められない,あるべきでない,作るべきでないと云う考え方は至極尤もな正論だろう。核兵器を必要とする社会と云うのは,矢張り間違っているんだよ。でも——だ。だからと云って,核分裂を物理的な力に転用すると云う発明自体は貶められるものじゃないだろうし,理論そのものは誰にも否定出来まい」

京極夏彦 (2009). 邪魅の雫 講談社 pp.544-545

株式市場とは

 株式市場とは,たんに企業の所有権の断片を売ったり買ったりする場所だけではない。それは,たんに我々の貯蓄のはけ口だけではなく,また,より多くの資本を求めている企業が資金調達をする源泉だけではない。巨大企業の価値を測るための道具だけではない。また,固定された資本資産を換金可能な流動的な形態に変換する手段というだけではない。
 株式市場はこれらのすべてである。どの1つをとっても,ほかのすべての機能なくしては,その役割を果たさない。もしも市場が売手と買手を出会わせることがなかったら,株式には流動性がなく,売りまたは買いの取引はもはや容易にはその逆取引を行うことができなくなる。もしも株式の流動性がなかったら,発行企業にとっては資金調達のコストがはるかに高くなり,その結果,成長も鈍化するであろう。もし市場が企業の所有権の一部を取引する場でなかったならば,そこで取引されている株式会社の価値を測ることがなかったとすれば,発行済の株式を売買したり新規に発行される株式を取得しようとする人々はいなくなるであろう。
 もし株式市場がなかったら,企業の所有権の市場はあたかも住宅の市場のようになってしまう。住宅の売手が売りに出すのは,その家の一部だけでなく,まるごと一軒である。仲介業者が転売のために自分の資金で購入するのはきわめてまれである。売手は広告を出さなければならないし,取引相手をみつけるためにはもっと手間のかかる方法をとらなければならない。不動産業者が6%もの手数料をとるのもうなずける(株式の取引ではふつう1%以下である)。また,取引に長い価格交渉がかかるのも当然である。1つの家が売れた後でその取引価格がいくらだったかを正確に知っているのは,本人と親しい友人だけである。取引の頻度は少なく,ある取引から次の取引までには時間が空いている。不動産の取引はこのように困難で,コストが高く,頻度が少なく,そして秘密のままに行われるので,買手も売手も自分たちが合意した価格がはたして妥当な価格だったかどうかほとんどわからないし,他の誰かともっと条件のよい売買ができたはずだったかどうかもわからない。

ピーター・L・バーンスタイン 青山護・山口勝業 (2006).証券投資の思想革命(普及版) pp.444-445

株主は会社の所有者か

 株主は本当に会社の所有者と言えるだろうか。そうとも言えない。会社に金を貸した人,つまり債権者こそがまず最初に会社に対して請求権を持っている。その債権者が自分の取り分を得た後に残った価値が株主の取り分となる。株主が会社の所有者と言えるのは,株主以外の誰にも会社がビタ一文借金を負っていない場合だけである。
 株主が会社の所有者とは言えなくても,会社の資産に対してコール・オプションを所有していることにはなる。会社の負債を買い取ることで,このオプションは行使される。このオプションの行使価格とはで,借入金額で,失効日は負債の償還期日である。
 負債の償還期日が到来した時,株主は会社の資産に対するコール・オプションを行使しないで,オプションを失効させ,社債権者に会社資産を譲り渡してしまうこともできる。ウォール街では,これを俗に「ババをつかませる」と言う。企業の株主が負債の返済に応じず会社を倒産させるのは,こういう場合を言う。ただし,たいていは新たな資金を借り入れて次のオプションに更新できるので,株主はそれまでのオプションを行使し,いったん負債を返済する。

ピーター・L・バーンスタイン 青山護・山口勝業 (2006).証券投資の思想革命(普及版) pp.333-334

オプションの役割

 投資家にとってオプションの役割は,相場の変化に伴うポートフォリオの価値をある程度コントロールする手段を提供することにある。ある一定のコストを負担することで,オプションの購入者には利益獲得の上限がないうえに,損失の可能性だけを限定することができる。投資家は全資産を今すぐ投資するかわりに,オプションを購入しておくことで,当面の相場動向を見極める時間的な余裕を持つことができる。他方で,相場はほとんど変化しないだろうと読んでいるオプションの売り手は,プレミアムを稼ぐことができる。要するに,ヘッジしたい人々と投機したい人々の双方のニーズをオプションは満足させてくれるわけだ。

ピーター・L・バーンスタイン 青山護・山口勝業 (2006).証券投資の思想革命(普及版) p.306

ダウ・ジョーンズ平均株価が使われた理由

 では,なぜ,そうした統計的な短所にもかかわらず,ダウ・ジョーンズ平均株価が市場を最もよく代表するものとして親しまれてきたのだろうか。あの1987年10月19日の大暴落の日にダウ・ジョーンズ工業平均が500ポイントも下落したのは誰もが記憶しているであろう。では,その日S&P500指数が何ポイント下落したか覚えている人は,果たしてどのくらいいるであろう。もっとも,その当時の混乱のなかで,それを気にとめるだけの余裕があった人がいての話であるが。
 この謎の答えは,ひとえに計算能力にある。1960年代になって高速演算が比較的安価で可能となるまでは,コールズやスタンダード・アンド・プアーズ方式で毎分毎分インデックスを算出することは不可能であったからである。何百銘柄もの直近の株価をそれぞれの発行済株式数に掛算をするという面倒くさい計算をしなければならないため,その当時まではインデックスは毎月1回しか発表されていなかった。これに対して,ダウ・ジョーンズ平均株価は,少数の株価を足し算して,あらかじめわかっている分母で割ればよいというだけのことなので,誰でもそのへんの紙に書けば1分足らずで計算できる。今日ではスタンダード・アンド・プアーズのデータは昔に比べれば広く使われるようにはなったが,これまでの株式市場の歴史を通してダウ・ジョーンズの数字が唯一タイムリーに入手できるものであった,というのが真相である。習慣はなかなか変わらないものである。

ピーター・L・バーンスタイン 青山護・山口勝業 (2006).証券投資の思想革命(普及版) pp.56-57

エネルギー概念の大衆的使用

 日常の会話で人びとが「私にはエネルギーが残っていない」というとき,それは科学者にとって「私は物理的な仕事をするキャパシティをもっていない」ことを意味している。しかしこのコンセプトの大衆的な使用は,場のコンセプトの利用と同じく,まともな科学者なら承知しないようなアイデアをふくむまでに拡大した。その一つが「精神エネルギー」で,ニューエイジの思想家にたいへん愛好されている。彼らがこのアイデアを信じているのは,彼らの哲学がそれがあるべきだといっているからだと思われるけれど,これは16世紀の教会の傲慢な考え方に危険なほど近い。彼らがガリレオを迫害したのは,宇宙は完全であるべきであり,その中心は地球であるべきだと信じていたからだった。
 観測は地球が宇宙の中心にないことを明らかにしたが,いっぽうで「精神エネルギー」のような存在が観測で証明されたことは一度としてなかった。バートランド・ラッセルのからかい半分の忠告「ある命題を,それが真実だと支持する根拠が一つもないときに信じるのは望ましくない」は,とりわけこの場合に相応しいようだ。

レン・フィッシャー 林 一(訳) (2009). 魂の重さは何グラム?—科学を揺るがした7つの実験— 新潮社 p.234

人称という範疇が存在しない

 こうして見ると日本語では人称という範疇が存在しない理由がよく分かります。日本人はできる限り,話の相手との心理的対立を避けたいのです。ですから一見二人称のように使われる<あなた,おまえ,そちら>などは皆相手のいる場所を言うことで相手を間接的暗示的に指すだけです。しかもこれらの疑似代名詞さえも出来るだけ使わずに済まそうとして,<旦那,社長,奥さん>などや相手の職業名を使うのです。このようなわけで日本語には西洋の言語に見られるような二人称代名詞は存在しないのです。強いて人称代名詞という用語を用いるならば,日本語では<私>や<俺>も含めて全てが三人称だと言うしかありません。

鈴木孝夫 (2009). 日本語教のすすめ 新潮社 pp.211-212

訳によって意味が変化する

 ところで日本でよく引用されるフランスの哲学者パスカルの言葉に「もしクレオパトラの鼻がもう少し低かったならば,世界のあらゆる様相は違ったものになっていただろう」<Le nez de Cleopatre: s’il eut ete plus court, toute la face de la terre aurait change.>というのがあります。この発言の解釈は色々あるようですが,私が今ここで指摘したいことは,多くの人がこの原文のフランス語を「クレオパトラの鼻がもう少し低かったならば」と訳しているのは誤訳ではないかということです。フランス語では plus court つまり<もっと短かったら>となっているのに,日本人は日本語で<鼻が短い>とは絶対に言わないため,フランス語としてはあり得ない<低かったら>に変えてしまったのです。その結果として鼻が高いことを何よりもよしとする日本文化特有の立場から,<クレオパトラは鼻の高い美人であった>,そこでもし鼻が低かったならば,つまり<余り美人でなかったら>,アントニウスが恋におちることにはならなかったかもしれない,そこで世界の顔は違ったものになった,つまりローマとエジプトの力関係が変わった可能性があったと言うわけです。

鈴木孝夫 (2009). 日本語教のすすめ 新潮社 pp.129-130

半分は音,半分は映像

 実はこのように音節の変化多様性が極めて乏しいため,日本語では言葉が長たらしくなるという弱点をかなりの程度まで補っているのが視覚に訴える文字なのです。このことは起源が外国語である漢字の場合に更にはきりしてきます。日本語の中の漢字の音にはキンやコウといった二音節のものが多いのですが,キンの音を持つ漢字は日常使われるもので約25,コウとなると驚くなかれ約90もあるのです。ですからこれらの漢字を含む言葉には,耳で聞いただけではどうにも区別の仕様のない同音語が沢山あるのは当然なのです。しかし文字で書かれたものを見れば殆どの場合疑問は解消します。コウギョウと聞いただけでは何を指すのか分からなくても,字を見ればそれが前にいったように工業,鉱業,興業,功業,興行のどれかが瞬時に決定されるからです。このように現代の日本語では音は言葉の半分でしかなく,残り半分はそれを表す文字の映像なのです。

鈴木孝夫 (2009). 日本語教のすすめ 新潮社 pp.54-55

日本語は映像を使う

 いま私たち日本人はある言葉を聞いたとき,殆ど無意識にその言葉がどのような字で書かれているのかを思い浮かべるのです。同音語の場合はなおさらで,音が等しいいくつかの漢字を思いだして,目下の話の内容に一番合致する漢字を正解として選んで,話を理解しています。ということはどこにも実際には書かれていない文字の,頭の中に記憶された映像を見ているのです。このことが私の言う日本語は話の理解を音声だけに頼るラジオではなくて,音声に文字の映像が加わって伝達が行われるテレビだということの意味なのです。

鈴木孝夫 (2009). 日本語教のすすめ 新潮社 p.44

日本語は階級差の少ない言語

 英語ではこのように高級語彙,つまり専門家や学問,特殊技術に携わる人々が用いる知的な用語の殆どが,一般の人々にはその意味が分からない古典語の要素で組み立てられているため,英米での新聞や雑誌などは少数のインテリを念頭においた高級紙と,一般大衆向けのものとにはっきりと分かれています。これに反して日本では国民の全てを読者とする全国紙がいくつもありますが,これは日本語が社会の上下を区別する必要のない言語だからです。そしてその理由の大きな部分が,漢字という古典外来要素に対して,英語などの場合とは違い,訓読みという誰にでも理解できる一種の<意味状の注釈>が用意されていることです。

鈴木孝夫 (2009). 日本語教のすすめ 新潮社 p.30

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