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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

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単数・複数は無駄

 これまで日本人の中には,複数の概念が日本語では必ずしも言葉の上で明示されないから,科学的思考の発達が遅れたなどという人がいました。しかし一匹の犬を a dog,二匹以上の犬を dogs とすることが科学的といえるでしょうか。これでは二匹以上がすべて十把ひとからげにされて互いの違いは無視されてしまっています。
 日本語(やトルコ語,朝鮮語,蒙古語など)では,数の概念を明示する必要のあるときは,それを表す言葉(数詞,形容詞など)を名詞の前に置きます。<二羽の雀>,<沢山の花>,<多くの人>のようにです。よほど記憶力の悪い人ならいざ知らず,例えば<沢山の>といわれれば,次に来る<花>が複数であることは誰にとっても自明でしょう。
 ですから,<沢山の花々が咲き咲きましたました>などと,複数概念をいちいち各項目ごとに繰り返さないのです。つまり因数分解の要領ですべての語彙項目に含まれる複数の概念を先頭に括りだしてしまうわけです。しかしこの点ヨーロッパの多くの言語はみな,<沢山の花々が咲き咲きましたました>のような無駄なことをいつまでもやっているといえます。

鈴木孝夫 (2009). 日本語教のすすめ 新潮社 pp.21-22
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通念

 「通念(conventional wisdom)」という言葉を作ったのはウルトラ筆達者な経済学の賢人ジョン・ケネス・ガルブレイスだ。彼は通念という言葉をいい意味では使わなかった。「私たちは真理を自分に都合のよいことと結びつける」と彼は書いている。「自分の利益や幸せと一番相性のよいことを真理だと考えたり,あるいはしんどい仕事や生活の大変な変化を避けるために一番いいやり方を正しいことだと思ったりする。また,私たちは自尊心を強くくすぐってくれることが大好きだ」。ガルブレイスは続けて,経済・社会的行動は「複雑であり,その性質を理解するのは精神的に骨が折れる。だから私たちは,いかだにしがみつくようにして,私たちのものの見方に一致する考えを支持するのだ」。
 つまり,ガルブレイスの見方によれば,通念は,単純で都合がよくて居心地よさそうで,実際居心地がよくなければならない——正しいとは限らないけれど,通念は必ず間違っていると言いきるのはバカなことだ。でも,どこかで通念は間違っているかもしれないと気づいたら——いい加減な,あるいはお手盛りな考えが残した飛行機雲に気づいたら——そのあたりは疑問を立ててみるのにはいいところだ。

スティーヴン・D・レヴィット,スティーヴン・J・ダブナー 望月衛(訳) (2007). ヤバい経済学[増補改訂版] 東洋経済新報社 p.102

情報の非対称性

 取引の一方がもう一方よりもたくさん情報を持っているということはよくある。経済学者の専門用語でこれを情報の非対称性と言う。私たちは,誰か(普通は専門家)が他の誰か(普通は消費者)よりもよくわかっていることが資本主義ではよくあると思っている。でも実際は,あらゆるところでインターネットが情報の非対称性に致命的な打撃を与えている。
 インターネット上では情報が通貨だ。情報を,持つ人から持たざる人へ伝達する媒体として,インターネットは素晴らしく効率的である。定期生命保険料がそうだったように,情報はあってもてんでばらばらだったりすることもある(そういうときインターネットは,数えきれないほどの干し草の山から針を次々と吸いつけていくばかでかいU字磁石みたいな働きをする)。ステッソソン・ケネディがジャーナリストもいい子ちゃんぶった社会派も検察官も誰にもできなかったことをやってのけたように,インターネットは消費者保護団体にはできなかったことをやってのけた。専門家と一般人の格差を大幅に縮めたのだ。

スティーヴン・D・レヴィット,スティーヴン・J・ダブナー 望月衛(訳) (2007). ヤバい経済学[増補改訂版] 東洋経済新報社 p.76

インセンティブの味付け

 インセンティブの味付けは基本的に3つある。経済的,社会的,そして道徳的の3つだ。インセンティブの仕組み1つが3つとも兼ね備えていることはよくある。近年の嫌煙運動を見てみよう。1箱3ドルの「罪悪税」はタバコの購入意欲を挫く強い経済的インセンティブだ。レストランやバーでの喫煙が禁止されていることは強力な社会的インセンティブである。そしてアメリカ政府が,テロリストは闇でタバコを売って資金を調達していると主張するとき,あれは耳の痛い道徳的インセンティブになっている。

スティーヴン・D・レヴィット,スティーヴン・J・ダブナー 望月衛(訳) (2007). ヤバい経済学[増補改訂版] 東洋経済新報社 pp.21-22

ランダム・リンク

 規則的なネットワークの中で暮らしていて,離れた2つの地点AとBのあいだを移動したいと考えているとしよう。残念ながらこの場合は,しんどくても1歩ずつ進んでいくしかない。結局のところ,規則的なネットワーク内のリンクは近い位置にある点どうしを結んでいるだけで,離れた2点間をつなぐ短絡路(ショートカット)や架け橋(ブリッジ)はいっさい存在しない。けれども,ランダム・リンクを何本か入れてやると,このネットワークの性質は変化する。たまたま,新しく入れたリンクのうちの数本が遠く離れた2地点のあいだに延びていることもあるだろう。遠方への旅をしなければならないとしても,今度は一種の長距離高速道路を利用して旅の苦労を取り除くことができるし,高速を下りたあとは,短い距離を何段階かたどれば正確な目的地に到着することができる。
 そこで,世界の全人口,60億の人からなる円周に戻ることにしよう。ここではだれもが,直近の50人の隣人とつながっている。この規則的なネットワークの隔たり次数はざっと6000万だ。これは,1回に50人分移動したときに,60億人からなる円周を半周するのに要する回数に等しい。しかしながら,数本のランダム・リンクを入れると,この数字は急激に小さくなる。ワッツとストロガッツの計算によれば,新たに入れたランダム・リンクの割合が1万本につき2本でも,隔たり次数は6000万から約8に下がる。もし1万本につき3本の割合なら,5まで下がる。一方,ランダム・リンクがこれくらい少なければ,社会のネットワークならではの構造を作りだしているクラスター化には目立った影響は生じない。

マーク・ブキャナン 阪本芳久(訳) (2005). 複雑な世界,単純な法則:ネットワーク科学の最前線 草思社 pp.82-83
(Buchanan, M. (2002). Nexus: Small Worlds and the Groundbreaking Science of Networks. New York: W. W. Norton & Company.)

エイリアンと宗教性

 だが,セイラーとジーグラーが指摘しているように,これは,私たちが通常知っているような宗教にはあまり似ていない。エイリアンが実在し,政府がその事実を驚くほど巧みに隠蔽していると,多くの人々が受け入れているように見えるけれども,エイリアンに向けられた特別な儀式はないし,その信念がほとんどの人では深い情動反応や行き方の変化を引き起こすこともなく,自分たちだけがエイリアンを信じているからよりよく生きられるのだといった偏狭な考えを生じさせることもない。さらに,ここで私がつけ加えたいのは,,一般的なエイリアンのイメージからすると,彼らは(私の定義した)戦略的知識をもつ者としては記述されていないということである。すなわち,エイリアンは高度な物理学や科学技術の知識をもつ知的存在とされてはいるが,それは,「彼らは妹が私に嘘をついたことを知っている」や「彼らは私が正直に確定申告をしたことを知っている」といった推論を引き出すようには見えない。信者がエイリアンの訪問の「証拠」を得て表象するやり方は,個々の人間の行動とはなんの関係もないように見える。
 これとは対照的に,少数ながら,エイリアンを神や霊と同じように表象している人たちがいる。あるカルトでは,エイリアンがなにを知っていて,なにを欲しているかは,その人の生活に大きな影響をおよぼしている。人になにができるか,どのようにそれをするか,その人の生き方や考え方はみな,エイリアンについての考え方によって特徴づけられる。これが起こるのはふつう,ある印象的な人物が信者たちを,彼(女性であることはまれだ)が宇宙からのこれらの訪問者と直接会ったと信じさせ,それらの訪問者が戦略的情報を知りうるという推論を生み出せるからである。したがって,信者の推論システムにとって重要なこと——どう行動すればよいか,どれを選べばよいかなど——は,これらの行動や選択についてのエイリアンの見方に影響される。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.216-217
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

全知の神の概念について

 興味深い極端なケースは,全知の神の概念である。神学のなかで述べられているこの概念は,神が世界についてあらゆる角度からあらゆる情報を得ることができると仮定している。しかし,バレットとカイルが示したように,人々が実際にもっている概念は神学的理解から逸脱していることが多い。したがって実際に,文字通り全知の存在として神を表象しているかどうかが問題になる。もしそのように表象しているなら,人々は,世界のあらゆる側面についてのあらゆる情報が,神によって等しく表象されている,と仮定していることになる。だとすると,次のように言うのはごく自然だろう。

 神は,世界中のどの冷蔵庫の中身も知っている。
 神は,動いているどの機械の状態も知っている。
 神は,世界中の昆虫の1匹1匹がなにをしようとしているかを知っている。

 とはいえ,これらは,以下の3つと比べると,多少奇異に感じられる。

 神は,あなたが昨日だれと会ったかを知っている。
 神は,あなたが嘘をついているのを知っている。
 神は,私が悪いことをしたのを知っている。

 これがまったく文脈の問題だということに注意してほしい。もしあなたが,最初の3つが実際になんらかの戦略的情報を示す文脈のなかにいるのなら,これらをとくに奇異とは感じないだろう。神が実際に,あなたの冷蔵庫の中身(あなたが隣人から盗んだものが入っているなら),ある機械の状態(あなたがそれを使って人を傷つけようとしているなら),昆虫の行動(大量発生して敵を襲うようにと,あなたが望んでいるなら)を表象していると考えることができるからだ。これらの場合には,情報は戦略的である。こういった状況を表象する人々は直観的に,神が彼らにとって戦略的であるような情報を表象していると直接仮定している。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.205-206
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

種の本質

 これらの平凡な推論には,実際のところ,より深くより微妙な側面がある。子どもも,おとなも,生き物の種(生物学者にとっては,イヌ,ネコ,キリンなどの属)をふつうは本質の点から表象している。すなわち,ウシは,とり去ることのできない,種全体の特徴である内的属性(もしくは属性の集合)をもっていると仮定されている。心理学者のフランク・カイル,ヘンリー・ウェルマンとスーザン・ゲルマンは,幼い子どものこういったさまざまな表象を挙げているが,これはおとなにも当てはまる。かりに,あなたが一頭のウシを連れてきて,余分な肉をそぎ落とし,ウマに見えるように変形し,たてがみと洒落た尻尾をつけ,ウマの好物を食べ,ウマのように動きふるまうように作り変えたとしよう。これはウマだろうか?大部分の人は(大部分の子どもも),ウマではないと言うだろう。それは,変装したウシであり,ウマのようなウシ,いわば異文化を採り入れたようなウシであるが,依然として本質的にウシであることには変わりない。ウシであり続ける内的で不変ななにかがあるのだ。あなたは,その「本質」がなにかという表象をもたなくても,この仮定をもつことができる。すなわち,大部分の人は,ウシをなんらかの本質的「ウシ性」をもっている(たとえウシ性がどのようなものかを言えなくても)ものとして表象している。彼らが知っているのは,ウシ性は,ウシがどう変わっても,とり去ることができないものであり,ウシの外的特徴を生み出す,ということだ。これが,なぜ雄ウシには角が生え,ひづめがあるのかという理由だ。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 p.143
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

忠実な伝達とゆがんだ伝達

 明らかに,ミームには,忠実に伝達されるものも,大きくゆがめられて伝達されるものもある。リチャード・ドーキンス自身が作り出した2つの文化的なミーム——一方は忠実に複製されたミーム,もう一方は奇妙な突然変異をとげたミーム——のたどった対照的な運命について考えてみよう。「ミーム」の考えそのものが,かなり正確に複製されてきたミームの一例である。ドーキンスがこの考えを導入して数年後には,社会科学や進化生物学・心理学のほとんどの専門家がこの考えについて知っており,もとの意味が基本的にほぼ正確に保たれていた。これを,ドーキンスのもうひとつの概念,「利己的遺伝子」と比べてみよう。利己的遺伝子ということばでドーキンスが言わんとしたことは,DNAの配列である遺伝子がすることはただひとつ,自身の複製だ,ということである。これはすなわち,この機能をもたないもの(遺伝子を次世代に受け渡すことのできない個体を作るような遺伝子)は,遺伝子ピールから消え去る,ということである。ここまではきわめて単純だ。しかし,利己的遺伝子ということばがいったん広まってしまうと,その意味が思わぬ変化をとげ,「私たちを利己的にする遺伝子」という使われ方をすることが多くなった。ある時イギリスの『スペクテイター』紙の社説が,保守党は,ドーキンス教授の言うこの利己的遺伝子とやらを,もっと獲得したほうがよいと論じたことがある。しかし,遺伝子は「獲得」するものではないし,ある人間がほかの人間よりもある遺伝子を「より多く」もつというのも変だし,人々を利己的にする遺伝子というのもおそらくはないだろうし,いずれにしても,ドーキンスはそういうことを言ったことはない。こうした歪曲は,それほど驚くべきことではない。というのは,そうした歪曲は,広く流布している印象——生物学は,生存をめぐる闘い,テニスンの言う「牙と爪を血に染めし自然」,ホッブズの言う「万人の万人に対する闘い」をもっぱらあつかっている(実際こうした印象がおおむね誤りだということは,ここでは重要ではない)——を強めるものだったからだ。このような歪曲が起こったのは,「利己的遺伝子」という表現がぴったりする考えがすでにあったからである。利己的遺伝子の説明はこの考えに合うように変化し,もとの説明(最初のミーム)は,完全に無視された。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.52-53
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

げに恐るべきは分類なり

 学問間の「壁」は思いのほか低いどころか,最初からそのような「壁」は幻影に過ぎなかったと言っても誇張ではありません。私たちが無意識のうちに築いている学問分野を隔てる「壁」は,たまたま歴史の中のある時点で採用された分類基準の産物であって,その学問分野が最良であると結論できないのはもちろんのこと,それが永続するという保証もないのです。
 歴史を研究する分野は,現在の学問分類の体系では“文科系”から“理科系”までさまざまな領域に散在しています。それらの学問間のつながりを積極的に築いていこうという機運がつい最近になるまで盛り上がらなかったのは,ひとえに私たち研究者が幻の「壁」の内側に自分を閉じ込めてしまい,向こう側を覗こうとしなかったからではないかと推察します。
 げにおそるべきは分類なり。

三中信宏 (2006). 系統樹思考の世界:すべてはツリーとともに 講談社 pp.94-95

たまたま仕分けられた学問分類

 「理科系」と「文科系」という学問の分け方には,何かしら本質的に大きな意味があるかのように言われることがあります。ほんとうにそうなのでしょうか?
 私は,そういう論議は歴史的にたまたま仕分けられた学問分類に,後世の人間が振り回されているだけなのではないかという気がしています。いったん別々のクラスに分類されてしまったがために,その後いつまでたってもその学問分類の“縛り”から逃れられない状態に陥ってしまっている。しかも,その“縛り”を息苦しいと思わないばかりか,かえって“建売住宅”としての心地よさに安住してしまっている気配すらあります。
 歴史的偶然の妙と言ってしまえばそれまでなのですが,でも何かおかしい。その理由は,あるひとつの学問分類の体系が有形無形の制約を私たちに課しているのに,当の本人たちがそれにまったく気づいていないという点にあるのでしょう。その学問分類でほんとうにいいのですか?
 分類は絶対的なものではなく,ある採用された分類基準(類似性の尺度)にしたがってグループ分けをしているにすぎません。もちろん,得られた分類体系が私たちにとって認知的に役に立つかどうかという実用性のフィルターを通して,分類の善し悪しは判定されます。しかし,すべての分類には基準があるという点は,生物分類だろうが学問分類だろうがちがいはありません。分類基準を変えれば,分類体系はどのようにでも変わる——この単純な理屈はいつでも有効です。

三中信宏 (2006). 系統樹思考の世界:すべてはツリーとともに 講談社 pp.86-87

アブダクション

 演繹法や帰納法は従来の科学哲学の中では,物理学や化学などのように普遍類(たとえば,化学ならばある原子番号をもつ元素の集合,天文学ならば赤色巨星の集合のような類)を対象とする学問における,反復観察や再現実験を踏まえた論証方法として繰り返し論じられてきました。しかし,歴史学や進化学が対象とする個物(再現性のない一度かぎりの事物や現象)の場合には,そういう論証スタイルはもともとあてはめられません。だからこそ,もっと「弱い関係」を用意することで,歴史を扱う科学の中でも,データに基づく仮説や理論のテスト可能性を確保しようというわけです。
 データが理論に対して「経験的支持」を与えるとき,同じ現象を説明する複数の対立理論の間で,「支持」の大きさに則ったランクづけをすることができます。あるデータのもとで,もっとも大きな「支持」を受けた最良の仮説を頂点とする序列です。そして,経験的支持のランクがより大きい仮説を選ぶという基準を置くことにより,仮説選択の方針を立てることが可能になります。
 この仮説選択基準は,古くはアリストテレスのいう「エンテュメーマ」が指し示す推論の形式,すなわち「“最善の説明に向けての推理”(より古い言い方では,結果から原因へとさかのぼっていく推理)のような不可欠の推論様式」に通じるものがあります。さらに,19世紀の哲学者にして記号論の創始者であるチャールズ・S・パースは,与えられた証拠のもとで「最良の説明を発見する」推論方法を「アブダクション(abduction)」ということばによって表わそうとしました。
 理論の「真偽」を問うのではなく,観察データのもとでどの理論が「より良い説明」を与えてくれるのかを相互比較する——アブダクション,すなわちデータによる対立理論の相対的ランキングは,幅広い科学の領域(歴史科学も含まれる)における理論選択の経験的基準として用いることができそうです。

三中信宏 (2006). 系統樹思考の世界:すべてはツリーとともに 講談社 p.64-65

典型科学に固執する必要はない

 典型科学が課していた上述の5基準を,どんな根拠があって他の科学にもあてはめようとするのか,それ以外の基準があり得るのではないか,という問題意識がそこにはあります。歴史学や進化学を無理に既存の科学の枠組みに押し込めるのではなく,むしろこれまでの科学の制約そのものを変えていこうという方針です。
 しかし,このような反対弁論がそもそも可能になるためには,「歴史」すなわち過去に生じた現象に関する編年(年代記)あるいは叙述(物語)が,何らかの意味で「科学」的研究の対象となり得ることが示される必要があります。科学的方法は必ずしも単一ではなくてもよいだろうという主張は,えてして悪しき「相対主義」(“何でもかまわない”という科学論的スローガンがかつてありました)を誘い込む危険性があります。しかし,ここで私が念頭に置いている科学的方法の「複数性」は,そのような相対主義を許容するものではありません。
 科学的な仮説や科学論と呼ばれる資格をもつには,何らかの方法でその仮説や理論が経験的にテストされる必要があります。得られたデータや観察に対して,ある仮説や理論はどれくらいうまくそれを説明できるのか,あるいは説明できないのかを比較検討することで,私たちはある仮説が他の仮説よりもすぐれているかおとっているという判断を下すことができます。裏返せば,そのような経験的テストをすることができない主張は,データに照らした相互比較ができないという意味で,科学的ではないと言わざるを得ないわけです。

三中信宏 (2006). 系統樹思考の世界:すべてはツリーとともに 講談社 pp.43-44

学問間の見せかけの壁

 学問分野の仕分け(「〜学」というレッテル)それ自体が,18〜19世紀にかけてたまたま通用していた学問分類の体系を無意識的に継承してきたものに過ぎません。
 今の社会では(学界でも同じですが),たとえば自然科学とか人文科学・社会科学という学問の間には大きな隔たりがあるかのような先入観が幅を利かせています。そういう「見せかけの壁」をつくってしまうのは,研究者の多くにとってはある意味では楽なことです。「見せかけの壁」の向こうのことはとりあえず知らなくても日々の仕事は進められますから。
 しかし,たまには(いつもとは言わない)「見せかけの壁」の向こうに何があるかを垣間見るのも悪くはないでしょう。でも,私はさらに一歩進んで,そういう「壁」はもともとないのだと言ってしまいましょう。

三中信宏 (2006). 系統樹思考の世界:すべてはツリーとともに 講談社 pp.29-30

方法論的本質主義

 方法論的本質主義に則るならば,現実世界の事物を通して共有される「不変な本質(essence)」 を発見し,それに基づいて定義を下すことになる。たとえば「“子犬”とは何か?」に答えるためには,“子犬”であることの本質(たとえば,“生後間もない犬”)を明らかにした上で,「“子犬”とは“生後間もない犬”である」という定義を与えることになるだろう。この場合“生後間もない犬”という条件は“子犬”であるための必要十分条件としての本質とみなされる。
 物事には本質があると無意識に感じとってしまう「心理的本質主義」についてはすでに論じたが,ここで登場した「方法論的本質主義」と混同してはならない。前者はあくまでも認知心理学的な現象だが,後者は形而上学的な世界観の表明だからである。心理的本質主義はヒトであるかぎり避けられない生得的性質だが,方法論的本質主義はひとつの思想の系譜である。

三中信宏 (2009). 分類思考の世界—なぜヒトは万物を「種」に分けるのか— 講談社 pp.195-196

心理的本質主義のため

 生物学的には何の根拠もない「血液型人間学」が今なお世にはびこっているその理由は,ヒトの行動や心情を背後で支配しているのは不可視の「血液型」なる本質である,というわれわれの心理的本質主義に「血液型人間学」が訴えかけているからだろう。どんなに教育程度が高くても,心理的本質主義は容易に解毒されない。

三中信宏 (2009). 分類思考の世界—なぜヒトは万物を「種」に分けるのか— 講談社 pp.99-100

タクソン

 分類に関わるこの手の議論でとくに重要なのは,分類体系を構成する単位すなわち個々の種や属や科などの分類群---「タクソン(taxon)」と呼ぶ(複数形は「タクサ(taxa)」)---,ならびにそれらのタクソンから成る「カテゴリー」のもつ意味である。ここでいうカテゴリーとは階層分類のなかでの「ランク」に対応する。一般に,リンネ式の階層分類では,種をもっとも低次のランクをもつカテゴリーとし,属,科,目,綱,門,界という,より高次のランクをもつカテゴリーを構成する。分類体系におけるカテゴリーとタクソンとの関係は,集合とその要素の関係にある。

三中信宏 (2009). 分類思考の世界—なぜヒトは万物を「種」に分けるのか— 講談社 pp.55-56

山とは何か

 実際,そもそも「山」をどう定義するかは大変な難問で。まだ答えはない。直感的に「山」に見える地形のふくらみを「山」と呼べばすむ話ではないかと考える人がいても不思議ではない。しかし,周囲の土地から突き出て標高が高ければ「山」とみなすと機械的に定義してしまうと,公園の砂場で幼児がつくった「砂山」まで「山」とみなさなければならなくなるだろう。日本中,「山」だらけになってしまう。これでは話にならない。結局,その土地の住民が古来「山」と呼ぶ土地の突起に対して,国土地理院が「三角点」を与え,初めて合法的に「山」とみなすしかないわけだ。
 私たちは「山」といえばついつい高い山を思い描くので,「山とは何か」という定義など自明だろうと軽く考えてしまいがちだ。しかし,高い山ではなく低い山にいったん目を向けると,「山」といえるかどうかの境界がぼやけてしまう。高い「山」の明瞭さは低い「山」のあいまいさの免罪符にはならない。だからこそ,国家や法律の助けを借りて「山である」と宣言するのである。

三中信宏 (2009). 分類思考の世界—なぜヒトは万物を「種」に分けるのか— 講談社 pp.23-24

古今東西すべてが収められている図書館

 五百年前,上のほうのひとつの六角形の監督者が,他の本と同じように判然としないが,しかし同じ行がほとんど2ページ続いている1冊の本を見つけた。発見した本を巡回解読係に見せると,この男は,ポルトガル語で書かれているといった。他の連中は,イディッシュ語で書かれていると教えた。1世紀たたないうちにその言語が突き止められた。それは,古典アラビア語の語形変化を有する,グアラニー語のサモイエド=リトアニア方言であった。その内容もまた解読された。それは,無限に反復されるヴァリエーションの例示を付した,結合的分析の概要であった。これらの例示のおかげで,ある天才的な司書が図書館の基本的な法則を発見した。この思想家のいうには,いかに多種多様であっても,すべての本は行間,ピリオド,コンマ,アルファベットの25字という,同じ要素からなっていた。また彼は,すべての旅行者が確認するに至ったある事実を指摘した。広大な図書館に,同じ本は2冊ない。彼はこの反論の余地のない前提から,図書館は全体的なもので,その書棚は二十数個の記号のあらゆる可能な組み合わせ—その数はきわめて厖大であるが無限ではない—を,換言すれば,あらゆる言語で表現可能なもののいっさいを含んでいると推論した。いっさいとは,未来の詳細な歴史,熾天使らの自伝,図書館の信頼すべきカタログ,何千何万もの虚偽のカタログ,これらのカタログの虚偽性の証明,真実のカタログの虚偽性の証明,パシリデスのグノーシス派の福音書,この福音書の注解,この福音書の注解の注解,あなたの死の真実の記述,それぞれの本のあらゆる言語への翻訳,それぞれの本のあらゆる本のなかへの挿入,などである。

ボルヘス, J. L. 鼓 直(訳) (1993). バベルの図書館 伝奇集 岩波書店 pp.108-109

絶対的な基準は

 つまり,僕らはいつも,妙な癖を持ったこの目で世界を眺めて,そして,その歪められた世界に長く住んできたから,もはや今となってはこれが当たり前の世界で,だから,これが自分では「正しい」と思っている。そういう経験の「記憶」が正しさを決めている。
 この意味で言えば,「正しい」か「間違っている」かという基準は,「どれだけそれに慣れているか」という基準に置き換えてもよい。つまり,僕らの「記憶」を形成するのに要した時間に依存する。だから,そもそも「正しい」「間違い」なんていう絶対的な基準はないんだ。
 たとえば,シマウマという動物がいるよね。あれはどんな模様している?白地に黒シマの模様,それとも黒地に白シマ模様?こう訊くと,多くの人は「白地に黒シマ」と答える。でもね,現地のアフリカの人に訊くと,「黒地に白シマ」って答えるんだな。意外でしょ。でも,理由はわかるよね。肌の色だ。彼らにとっては,地肌というものは黒色なわけで,「白」こそが飾り模様の色なんだ。黄色人種や白色人種とは発想が逆になるよね。
 もし自分の個人的な価値基準を,正誤の基準だと勘違いしちゃうと,それはいわゆる「差別」を生んでしまう。残念ながら,人間って自分の感じる世界を無条件に「正しい」と思いがちだよね。この癖には慎重に対処しないといけない。そう,謙虚にならないと。

池谷裕二 (2009). 単純な脳,複雑な脳:または,自分を使い回しながら進化した脳をめぐる4つの講義 朝日出版社 p112.

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