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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

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格差とは

 というわけで格差とは,本来は切れ目なく続いている人びとの地位の上下関係に人為的に境界線を引いて,位階(ヒエラルキー)の構造をはっきりさせたものだということになります。もっとも,そこまで突き詰めて考えながら格差という言葉を使っている人はそう多くはないと思いますが。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.61
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学歴と学校歴

 学歴と学校歴の違いについて,まず確認しておきたいのは次のことです。最近,以前ほど「学歴」は重要ではなくなっている,あるいは「学歴」よりも実力で出世が決まる時代になった,などといわれることがあります。そこでいわれている内容をよくみると,どうやらこれらは,学歴ではなく学校歴にかんする時代の変化を指摘するもののようです。つまり,ランクが高くない大学を出ていても,その後の職歴においていくらでも逆転可能になってきた,一流大学を出ているだけでは成功は約束されない社会になっている,ということです。大卒層のなかで,学校歴の序列が以前のように厳密なものではなく,少し弛んできたということは,私もおそらく事実だろうとみています。
 ただし,それはあくまで学校歴(大学名)についての変化であって,高卒でも大卒層を逆転することができる社会になったということではありません。それどころか,学歴分断線が無効化しているという話は,いまだかつて聞いたことがありません。この点について誤解して「学歴なんて関係なくなった」と思っている人があれば,考えを改めるべきでしょう。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.43-44

保留

 「ん」は,清濁の区別からすれば,本居宣長が言うように伝統的には「濁」の方に考えられてきた。「ん」は,日本語の中では,語頭につく言葉がなく,前の音の鼻音化によって次に来る音との間で繋ぐ働きをするからである。
 しかし,同時にこの清音と濁音の間にある「ん」は,薄明の世界をも意味している。これは,日本の文化が「イエス」と「ノー」との区別をはっきりしない世界で培われてきたということとも深い関係があるのではないだろうか。
 我々は人の言葉に相槌を打ちながら,あるいは考え事をしながら「んー」と声にならない音を出す。これは「イエス」でもない,「ノー」でもない「保留」を意味するものである。
 「保留」には「清」や「濁」の区別はない。むしろ,それは「清」と「濁」をつなぐ役割をしているように思われる。

山口謠司 (2010). ん:日本語最後の謎に挑む 新潮社 pp.181-182

下品な表現

 「言はんずる」「出でんずる」「為んずる」などという言い方は,『平家物語』などの軍記物にはよく使われる言葉である。しかし,軍記物などが現れる以前,王朝文化の華やかな時代,こうした言葉は,清少納言のような保守的な価値観を持つ人にとっては,非常に耳障りに聞こえたに違いない。ましてや,こうした崩れた口語を書くことは下品極まりないものに思えたのであろう。

山口謠司 (2010). ん:日本語最後の謎に挑む 新潮社 pp.108

あうん

 真言宗では「阿」から始まる「阿字観」という瞑想を行って宇宙が生じる瞬間を体験し,そして最後に「吽字観」で,再びこの宇宙が収縮し種子となることを瞑想する。
 曼荼羅ではこれを「胎蔵界」と「金剛界」と呼ぶが,つまるところ,これこそが空海が目指した「即身成仏」の根本の思想だったのである。
 はたせるかな,五十音図は,「ア」からはじまり「ン」で終わる発音の世界を図で示している。
 それぞれの文字は,ただ日本語の発音を単に表記の指標として示しているものと言うこともできるだろう。しかし,それぞれの音は,発音だけでなく,それを組み合わせることによって,言葉で森羅万象を描くことのできる種を内包して存在する。
 仏教は,常に変化して已まない現象を凝視することによって,変化しないものがあることを知るという哲学である。
 空海が著した『吽字義』は,これを真言という言葉の世界に当てはめて明らかにしようとした書物であったのだ。

山口謠司 (2010). ん:日本語最後の謎に挑む 新潮社 pp.75-76

「ん」という文字

 日本語には上代,「ん(ン)」という文字はなかった。
 上代の日本人も,現代の日本人と同じように考え事をしながら「んー」と唸っていたのかもしれないが,それを書くことはできなかった。書けないから,無理をしてでも書かなければならないときには「イ」とか「ニ」という現代のカタカナを記号として使った。でも,「イ」を使うと「i」,「ニ」と書けば「ni」と発音することになってしまう。「i」や「ni」と間違って読まれないための記号は何かないか……という試行錯誤の結果,「ん(ン)」という文字が生まれてきた。

山口謠司 (2010). ん:日本語最後の謎に挑む 新潮社 pp.60

美しさ

 たとえば過去の完了を意味する「〜てし」というのは,こうした一例である。「てし」という言葉は当時,日本語では同じ音で「書の先生」=「手師」を意味する言葉があった。書の先生として最も手本に多く用いられたのは,「書聖」と呼ばれた王羲之である。万葉の人々は,「〜てし」と書くのに「手師」から「王羲之」を連想し「羲之」と書いたのである。
 これを視覚的な美しさなのかと問われる方もあろう。
 しかし,筆者は現代的な芸術という意味での「美しさ」を言っているのではない。彼らは漢字を使って日本語を書きながら,じつはこれが視覚的には「漢文」のように見えることを「美しい」と感じていたのである。

山口謠司 (2010). ん:日本語最後の謎に挑む 新潮社 pp.34

了見

 そしてもう1つ,必ず師匠を意識し,受け継いでいるものがあります。それはちょっとした台詞の言い回しや仕草かもしれないし,稽古の仕方や演出方法かもしれない。さらに言えば,落語への取り組み方,その姿勢なのかもしれません。
 5代目小さんは,よく「了見」という言葉を使っていました。噺の中の人物を演じきるには「その人物の了見になればいい」なんて言ってましたね。
 私はこの「了見」はすべてのことに通じると思うのです。もっと落語が上手くなりたい,なぜお客さんは自分の噺を理解してくれないのか——それは落語家本人の了見次第。そして,答えは自分で捜索して見つけるというのも,師匠のに教わったことです。私が祖父から伝えてもらったものはあまりに多く,大きかったことを,今さらながらに感じずにはいられません。


柳家花緑 (2008). 落語家はなぜ噺を忘れないのか 角川SSコミュニケーションズ pp.145

オプトアウト・オプトイン

 そして,もう1つ,日本の著作権の概念に著しく欠けていることに「オプトアウト」という考え方がある。このオプトアウトは,ウェブの時代には欠かせない考え方である。
 たとえば,あなたがどこかのサイトの会員に登録すると,以後,そこから頻繁に広告メールが送られてくるケースがあると思う。これが,オプトアウトで,簡単に言うと「拒否しない限り同意しているとみなす」ということ。つまり,オプトアウトでは事前の了解なしでもメールが送れることになっている。
 ところが,日本は「オプトイン」の国で,著作者の許諾と同じように,メールを送る前に「広告メールを送りますがいいですか?」と許可を得ないと,メールを送れないことになっている。オプトインもオプトアウトもともに拒否する権利だが,その方向性はほとんど正反対で,日米は全く逆だ。
 オプトアウト方式でいけば,著作物を使用する場合,コンテンツそのものには著作者本人の許諾が必要となるが,フェアユースと絡めて,許諾の範囲,引用の範囲と判断できれば,直接著作者に当たらなくても使用できる。もちろん,著作者本人が申し出て,「やめてほしい」と言ってきたら,ガイドラインに照らして判断し直す必要がある。
 日本では「許可なくやること」は大犯罪のように扱われるが,コンテンツの流通を考えたとき,オプトアウトのほうがはるかに自由が利く。また,ウェブの世界では削除は一瞬であり,削除した瞬間から権利は侵害されなくなるので,この方式がアメリカでは一般化している。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.149-150

フェアユース

 フェアユースというのは,「著作物を構成に利用した際に著作権の侵害にはならない」という概念。フェアとは「公正」ということだから,公正(フェア)にやりさえすれば,著作権者の許諾をいちいち得なくてもかまわない,というのがフェアユースの基本的な考え方である。
 この場合のフェアとは,個人的な複写はもちろん,公共の利益になる使い方なら複写・引用してかまわないということ。とくに引用の場合は,報道,論評,教育目的のケースでは,日本よりかなり許容度が高い。したがって,アメリカでは公益性があると認められると制作側が判断すれば,著作権に事前の許可を取らないケースが多い。
 ところが,日本の場合,著作物を使用する場合は,ほとんどのケースで著作者の了解,許可を求めなければならないことになっている。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.149

理想像の拘束

 勝は,自らの築き上げた「勝新太郎」という理想像にがんじがらめになって,身動きがとれなくなっていた。
 「勝新太郎は次も何かやる」
 「勝新太郎は必ず凄いことをやってのける」
 高すぎる理想へのプレッシャーを抱え,前に進むことをためらった。
 映画を作ることも,出ることも,勝は恐くなっていた。
 そして,勝は段々と映画の話をしなくなっていった。

春日太一 (2010). 天才 勝新太郎 文藝春秋 pp.286-287

一体化した

 座頭市と一体化してしまった勝は,作品世界の全てを自分の考える方向へもっていこうとする。それでも誰かしら監督が現場にいれば,多少なりとも押さえにはなっていた。だが,勝自らが監督としてクレジットされている場合はそうはいかない。時には勝が監督し,時には座頭市が監督する,混沌の現場がそこにはあった。
 座頭市の紛争をした勝監督が,カメラの後ろから役者たちの芝居をチェックしていた。と,突然,あることに気づいて叫び出す。
 「おい!座頭市はどこだ!座頭市がいないぞ!」
 勝の言葉に一同,唖然とする。その様子に,勝は思わずガラスに遷った自分を見て,初めて我に返る。
 「あ……座頭市はオレか」
 みんな,それを勝一流のジョークと思って笑った。が,それは決して洒落ではなかった。
 勝は,現場で自分が「勝新太郎」なのか「座頭市」なのか,分からなくなっていた。事実,このころ,勝が自ら監督をする時,座頭市を撮り忘れることが多かった。作品世界は,座頭市と一体化した勝新太郎の視線からのもの。勝のイメージする映像の中には座頭市はいない。座頭市はカメラの後ろ側ですべてを見つめているのだから。

春日太一 (2010). 天才 勝新太郎 文藝春秋 pp.183-184

どこまで耐えられるか

 勝は後年,役者志望の若者たちに,こう語っていたという。
 「役者はいつ売れるか分からない。ずっと売れないかもしれない。スターになれるかもしれないし,なれないかもしれない。でも,売れなかったら一生ラーメンをすすって生きる覚悟で入ってこないとダメだ」
 役者として成功できるかどうかは誰にも分からない。だが,成功しなかった時に,どこまで耐えられるか。その人間の価値はそこにかかってくる。勝の成功は,まさに粘りの勝利だった。

春日太一 (2010). 天才 勝新太郎 文藝春秋 pp.66-67

「軸」って何?

 企業の採用責任者が,あるいは就職予備校の講師が,そして当の学生たちも頻繁に使う言葉がある。「軸」という言葉だ。
 「その人なりの軸が見えてくるかどうか」
 「私の軸って,何だろう……」
 というように使う。その人なりの思考行動特性や能力,価値観,それらが一体となったパーソナリティ(個性・人格)を指している。そして,面接とは,その人の「軸」を探り出していく場だ,と捉えられている。そのために,学生が自己PRをするために持ち出す経験を掘り下げたりしながら徹底的に聴き込むことで,「本人に自律性があるのか」「人を動かすリーダーシップを発揮してきたか」などを見極めたり,思わぬ質問を投げ掛けたりして,その人の素顔の部分に迫ったりする。徹底的に丸裸にしていくという戦術だ。その結果,いろいろ聞き出しても「軸」がよく見えない,分からない,という学生にはNGのレッテルが貼られていく。また,「軸」が見極められた人の中でも,各社の求める人物像にフィットしない学生はオミットされていく。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.111

就活という言葉

 そのように硬直化・マニュアル化し始めた頃に生まれたのが「就活」という言葉だ。
 就職活動を略した言葉ではあるが,立派な固有名詞である。就職情報サイトにエントリーして,自己分析をして,エントリーシート作りを工夫して,就職試験や面接の対策を講じて,同じようなファッションを身にまとって……このようにパッケージ化された大学生の就職活動のことを指している。転職やアルバイト探しのように自分が必要な時に自分なりの方法で行う求職活動に「就活」という言葉は使わない。
 つまり,この言葉は,自由化とはまったく正反対の状況から生まれた言葉だ。職業選択の自由が憲法で謳われ,何の法的規制がないにもかかわらず,勝ち負けが問われ,ガチガチのルールで定められたかのような就職活動のスタイルにつけられた名称だ。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.13-14

信念とは

 信念とは,われわれが直感的に把握できるが定義することは難しく,深く根ざした考え方を指す。信念は物事や状況に関するものであり,信じる人が,それらの物事と状況について述べられたことを事実と受け止める必要がある。例えば,私が自分の上司は電気ウナギのような管理能力を持っていると信じるとするならば,比喩的ではあるものの,私はこの評価が上司の行動様式を代表していると考えていることになる。この信念は,私が持つ他の信念——よい管理とはなにか,上司の過去の行動,電気ウナギの行動などに関するものにも依存している。長い間には,経験に基づいて,そのような信念の極めて複雑なネットワークを作り上げていくことになる。
 しかしながら,そのようなネットワークの複雑性は,それを構成する信念が正しいことを保証するものではない。新しい情報は,私にそれらの信念の一部を変更もしくは棄却することさえ要求する場合がある。例えば,電気ウナギは方々を動き回って時間を過ごすという私の想像は——私の上司の管理手法の比喩になるのはそのためだが——電気ウナギがじつは正確で有能な捕食者であるという自然に関する番組を見た後には存在しなくなるかもしれない。その番組を見た後には,電気ウナギについての信念ばかりでなく,私の上司についての信念も変えなければならないだろう。

キャスリン・テイラー 佐藤敬(訳) (2006). 洗脳の世界——だまされないためにマインドコントロールを科学する 西村書店 pp.172-173
(Taylor, K. (2004). Brainwashing: The Science of Thought Control. London: Oxford University Press.)

全体主義のテーマ

ロバート・リフトンの8項目の全体主義的テーマ
1.環境コントロール
 個人の外界とのコミュニケーションをコントロールし,それによってその人の現実理解をコントロールする。
2.霊的操作
 一定のパターンの行動と情動を,あたかも自然発生したかのように誘導する。
3.純粋性の追求
 選ばれた集団外の分子は排除し,それらが集団のメンバーの精神に影響しないようにするべきという信念。
4.告白のカルト
 個人のプライバシーを最小限にするために,告白を利用,強要する。
5.神聖な科学
 イデオロギーの基本的信念は道徳的に不変であり,科学的に真実であるとみなすことによって,外見的権威を増大させる。
6.言葉の意味付け
 複雑な考えを簡単で,断定的に聞こえる言葉に圧縮する。「思考停止法」。
7.人より教義の優先
 個人が経験する何事にも増して教義が正しく真実であるという考え。
8.存在権の支配
 集団のメンバー,非メンバー両者の生活の質,最終的運命をコントロールする権利。

キャスリン・テイラー 佐藤敬(訳) (2006). 洗脳の世界——だまされないためにマインドコントロールを科学する 西村書店 PP.34
(Taylor, K. (2004). Brainwashing: The Science of Thought Control. London: Oxford University Press.)

創発性

 この点について,私たちは,社会的ネットワークには創発性があるという言い方をしている。創発性とは,部分が相互に作用し合いつながり合うことによって,全体が獲得する新しい特質のことである。創発という考え方を理解するには,次のようなアナロジーが役に立つ。ケーキは,その材料のいずれとも違う味がする。また,それぞれの材料の味を平均しただけの味でもない。たとえば,小麦粉とタマゴの中間の味がするわけではない。そんなものよりもずっとおいしいのだ。ケーキの味は,その材用の味の単なる合計を超えたものである。人間の場合も同じように,社会的ネットワークを理解すれば,いかにして全体が部分の合計よりも大きくなるかが理解できるのだ。

ニコラス・A・クリスタキス,ジェイムズ・H・ファウラー 鬼澤忍(訳) (2010). つながり:社会的ネットワークの驚くべき力 講談社 pp.41-42
(Christakis, N. A. & Fowler, J. H. (2009). Connected: The Surprising Power of Our Social Networks and How They Shape Our Lives. New York: Little, Brown and Company.)

ネットワークの構造

 ネットワークの形状は,構造あるいはトポロジーとしても知られており,ネットワークの基本的な特性である。この形状はさまざまな視覚化,つまり表現できる。だが,ネットワークがどう視覚化されようと,形状を決めるつながりの実際のパターンは変化しない。そこで,床にばらまかれた500個一揃いのボタンを想像してみよう。ボタンをつなぎ合わせるのに使う2000本の糸があるとする。次に,2つのボタンを適当に選び,糸の両端に結びつけるものと想像してほしい。この後この作業を繰り返し,糸を使い切るまで行き当たりばったりにボタンのペアをつなげていく。最終的に,何本もの糸に結ばれたボタンもできれば,たまたま一度も選ばれず,ほかのボタンとはつながっていないボタンもできるだろう。ことによると,いくつかのグループ同士がつながっているものの,ほかのグループからは独立しているという場合もあるだろう。これらのグループは——つながりを持たない1つのボタンだけからなるものを含め——ネットワークの構成要素と呼ばれる。私たちがネットワークを説明する際,最大の構成要素だけを意味していることが多い(この例で言うと,最も多くのボタンからなる構成要素)。
 一つの構成要素のなかから一つのボタンを選び,床からつまみ上げれば,直接・間接にそれとつながっているほかのボタンもすべて空中に持ち上がることになる。このボタンの塊を床の別の場所に落とせば,最初につまみ上げたときとは違って見えることだろう。だが,つながったボタンの塊を何度つまみ上げて落としても,トポロジー——ボタンのネットワークの根本的で本質的な特性——はまったく変わらない。各ボタンはほかの特定のボタンに対し,以前と同じ位置関係にある。ネットワークにおける位置は変わっていないのだ。視覚化ソフトはこれを2次元で表し,基本的なトポロジーを明らかにしようとする。そのために,最も複雑なつながりを持つボタンを中心に,最もつながりの少ないボタンを端に配置するわけだ。まるで,こんがらがったクリスマスツリー用の豆電球をほどこうとしているようなものである。からまりあった巻きひげのように引き伸ばせる部分もあれば,床の上で何度ひっくり返しても中心にありつづける,つながり合った豆電球の束もあるからだ。

ニコラス・A・クリスタキス,ジェイムズ・H・ファウラー 鬼澤忍(訳) (2010). つながり:社会的ネットワークの驚くべき力 講談社 pp.27-28
(Christakis, N. A. & Fowler, J. H. (2009). Connected: The Surprising Power of Our Social Networks and How They Shape Our Lives. New York: Little, Brown and Company.)

省略形へ

 20世紀はじめに「ハンバーグサンドイッチ」は「ハンバーガー」あるいは「バーガー」と縮めて呼ばれるようになった。1920年代には,シンクレア・ルイスの『アロウスミスの生涯』や『フリー・エアー』などのアメリカ文学に登場し始めた。このころ学校のカフェテリアのメニューにも載り,「健康によい,おいしい食べもの。栄養があって,おなかいっぱいになるけれどもたれない」と宣伝された。子どもたちはハンバーガーが大好きだった。

アンドルー・F・スミス (2011). ハンバーガーの歴史:世界中でなぜここまで愛されたのか? ブルース・インターアクションズ pp.24

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