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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

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アーティストです

 美術畑でアーティストを自任する人が,自分を浜崎あゆみと同格だと思っていることはまずない。たとえ世間的知名度や収入で圧倒的に負けていても,「本来のアーティスト(芸術家)はこっちであって,比べるほうがおかしい」と思っている(はずだ)。そう,アート=美術こそは芸術の代表格。レオナルド・ダ・ヴィンチを見よ。アンディ・ウォーホルを見よ。アーティストは常に,時代の先端に立ってきたではないか。美術畑の人がバイトしながら売れない作品を作っていたとしても,職業を聞かれて「アーティストです」と誇らしげに答える時,そういう先達の栄光が瞬間的に頭の中をよぎっている(はずだ)。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.19
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言語とメタ言語

 論理が使える範囲の限界を特定し,真理の概念がどういうことかを特定しようとするなら,言語とメタ言語との区別は重大である。この区別がないと,論理は混乱に陥り,自分が立てようとするどんな命題でも「真」になる。大地は平らだということを証明したいとするなら,次のような文を考えるだけでいい。

 この文全体が偽であるか,大地が平らであるか,いずれかである。

 この文は真か偽かいずれかである。それが偽だとすれば,それが言っているところによって,大地は平らでなければならない[両方とも成り立つか,両方とも成り立たないか,いずれかになるが,前提から前半が成り立つ以上,後半も成り立つ]。真であれば,最初の命題「この文全体が偽である」か,第二の命題「大地は平らである」のいずれかが真でなければならない。ところが今は文全体が真であると仮定しているので,第1の可能性は排除され,したがって第2の可能性の方が真とならなければならない。したがって,大地は平らなのだ。さらにすごいことに,「大地は平らである」の代わりに,何でも好きな命題を入れることができ,同じ推論によって,その好きな命題が真であることが証明できる。
 ポーランドの数学者アルフレッド・タルスキーが,1939年,やっとこの気がかりな状況に方をつけた。特定の論理的言語で表された命題は,その言語の外に出て,そのメタ言語の1つを使わないことには,真とも偽とも呼べないのである。世界についてのある命題が真であると言いたければ,メタ言語を使わなければならない。タルスキーは,ある命題が「真」だと言われるのはどういう意味なのかということを決定する明瞭な方法を唱えた。「大地は平らである」という命題が真であるのは,大地が実際に平らな場合であり,その場合に限るとした。それはつまり,「 」でくくった地球についての文が真であるのは,その文にある「大地」という言葉を,意味を変えることなく実際のこの惑星に置き換えることによって,大地が実際に平らであることを示すことができる場合であり,その場合に限るということである。そうすると,「 」にくくった文を論じ,それが真であるかどうかを論じ,地理的な証拠と付き合わせることができるが,それを「 」にくくらないメタ言語において行なうまでは,「 」でくくられた文は意味を持たない。
 この細かい区別は,「この文は偽である」などの昔からある言語上のパラドックスを一掃してしまう。それは言語とメタ言語とを混同しているだけだということがわかる。先の「この文全体が偽であるか,大地が平らであるか,いずれかである」という例にも同じ欠陥が存在する。それは命題と命題についての(メタ)命題とをごっちゃにしているのである。やはり大地は平らではない。
 この安心できる結論には,さらに驚くべき副産物がある。絶対の真理というのはありえないのである。ある言語の内部で行える,その体型内部で真と言って意味することを定めるような演繹(証明)はあるが,その上にそびえるメタ言語の階層にはきりがなく,それぞれにそれぞれで真と言われるものの一定の領域がある。タルスキーが示したのは,真や偽について形式的な定義は立てられないということである。真はそれを表現するために用いられる言語と同じ次元において厳密に定義することはできず,メタ言語においてしか定義できないのである。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.317-319
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

失敗を表す言葉

 ヒトの脳も脆弱であることは疑う余地がない。脳はこれまで述べてきたような認知エラーを始終起こすし,小さな不具合やときには重大な故障も起こす。もっとも経度の不具合はチェスの達人がへまと呼ぶ類のものであり,私のノルウェー人の友人はこれを「脳の放屁」と揶揄する。理性や注意が一時的に機能を停止するわけだが,これは時に,「しまった!」と叫ぶような後悔や交通事故にすらつながることがある。そんな馬鹿はしないはずなのに,ほんの一瞬気が緩む。私たちは一生懸命でも,脳は私たちの望むとおりには働いてくれない。誰一人これから逃れる術はない。タイガー・ウッズですら,やさしいパットを沈められないこともある。
 当然と言えば当然だが,適切にプログラムされたコンピュータなら,こうしたへまはやらない。私のコンピュータは複雑な演算の途中で一桁繰り上げるのを忘れたり,(私にとっては残念なことに)チェスの途中で「ぼんやりして」クイーンを守るのを忘れたりはしない。よく言われるのとは違って,エスキモーは実際は雪に関する単語を500以上も持ってはいないが,英語を母語とする私たちは,短絡的な認知に関する単語を実にたくさん持っている。「mistake(ミス)」「blunder(へま)」「fingerfehler(手違い)」(チェスプレーヤーのあいだでよく使われる英語とドイツ語の混種語)はもとより,「goof(しくじり)」「gaffe(失態)」「flub(失策)」「boo-boo(どじ)」「slip(掛け違い)」「howler(間違い)」「oversight(過失)」とじつに多彩だ。言うまでもなく,私たちはこれらの語を使う機会には事欠かない。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.210-211

言葉の変化の理由

 コンピュータ言語の単語は,1つに定まった意味を持つ。だが人間の言語では単語の意味がつねに変化している。ある世代では「bad」は「悪い」を意味するかもしれないが,次の世代の「bad」は「いい(グッド)」を意味する。なぜ言語はこれほど速く変化してしまうのか。
 答えの一部は,言語を持つ前の私たちの祖先がどう世界を見ていたかにある。彼らは正確さを尊ぶ哲学者でも数学者でもなく,つねに先を急ぐ動物だった。完全な解決策より「間に合わせ」の解決策で我慢することがしばしばだったのだ。
 セコイアの森を散策中に樹の幹を見たとしよう。あなたはおそらく木を見ていると考える。その幹が高くて,上に葉が生い茂っているかどうかわからないにしても。不完全な証拠(葉も根も視界になく幹が見えるだけでも,私たちは自分が木を見ていると結論づける)に基づいて瞬時の判断を下すやり方は,「部分一致」と呼ばれる。
 むろん,このやり方の論理的なアンチテーゼは,全体を見るまで待つことである。これは「完全一致」と呼ばれる。おわかりのように,木全体を見るまで待つ人は間違いを犯すことはないが,たくさんの木を見逃す危険を冒すことになる。進化は素早い決断を下す者に報い,気難しい者を好まない。
 よくも悪くも,言語はこのシステムをそっくり受け継いでいる。あなたは,椅子が四本の脚,背当て,座るための平らな面を持つ物体と考えるかもしれない。しかし哲学者のルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889〜1951)が指摘したように,これほど厳密に定義された概念はこの世にそれほど多くはない。ビーンバッグチェアはやはり椅子の一種と考えられていても,背当てや脚はない。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.161-162

言語の冗長性と多義性

 言語は時に冗長性を持ち(カウチとソファはほぼ同じものを意味する),不完全なこともある(微妙な匂いをきちんと表現できる言語はない)。申し分なく筋が通っているにもかかわらず,表現するのがひどく難しい考えがある。「Whom do you think that John left?(ジョンが別れたのは誰?)」(正しい答えは彼の最初の妻メアリーということにしよう)という文は文法的には正しいが,一見したところ同じに見える「Whom do you think that left Mary?(メアリーと別れたのは誰?)」(答えはジョン)は正しくない(この現象を説明しようと試みた言語学者が何人かいたものの,この非対称な現象がそもそもなぜ存在するのか説明するのは難しい。こうした例は数学やコンピュータ言語には見られない)。
 さて,この多義性は例外事項ではなく諸言語に普遍的に見受けられるようだ。「run」には「走り」や「ストッキングの伝線」,「野球の得点」などの意味が,「hit」には「ひっぱたく」や「ヒット曲」などの意味がある。もし私が「I’ll give you a ring tomorrow.」と言った場合,私は指輪をあげると言っているのだろうか,あるいは電話するよ,と言っているのか。短い単語も明確でない場合がある。ビル・クリントンのこんな有名な言葉がある。「それは『is』という語の意味次第だね」。さらに,個々の単語の意味は明快でも,文全体としてはそうではないこともある。「Put the book on the towel on the table」は,タオルの上にある本をテーブルの上に置く,そしてテーブルの上にある本をタオルの上に置く,の2通りの意味がある。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.142-143

時計の数

 時計をひとつ持っている人は何時だかわかるが,時計を2つ持っている人は正確な時間がわからない。しかし,時計を2つ持っている人のほうがおもしろい人生を送れるのではないだろうか。そういう人は,人間の知識など不確かなものだし,常に仮のものでいる変わってもおかしくないと知っている。両耳で音を聞くことができれば,現実についての多様な視点をもつことから自由が生じると直感的にわかる。それは,片耳しかないぼくには本来できない芸当なのだが,3種類の音声処理ソフトを使うことにより,3通りの視点で現実をとらえることができた。

マイケル・コロスト 椿 正晴(訳) (2006). サイボーグとして生きる ソフトバンク クリエイティブ pp.229-230

サイボーグとロボットの混同

 要するに,ハリウッドは,サイボーグとロボットを著しく混同しているのだ。1984年に,『ターミネーター』のシリーズ第1作が公開されたとき,サイボーグとはロボットであり,それゆえモンスターであるという印象が人々の心に強烈に焼きつけられた。ターミネーターに命を狙われているサラ・コナーに,彼女を守るために送り込まれたカイル・リースは,こう説明する。「理を説いてわかるような相手じゃないし,交渉するのも無理だ。やつが誰かに情けをかけるとか,自分の行動を後悔するとか,何かに不安を感じることなんてありえない。それと,絶対に途中であきらめないんだ。絶対に。君を殺すまで」
 それにしても,ターミネーターとはいったい何者なのだろうか。リースは説明しながら,ロボットという単語とサイボーグという単語を慎重に区別している。

 サラ 「機械なの?つまり,ロボットみたいな」
 リース「ロボットじゃない。サイボーグだ。サイバネティック・オーガニズム」
 サラ 「でも……血を流していたわ」
 リース「わかった。説明しよう。ターミネーターには血液が流れている。一部が人間,一部が機械なんだ。内部は,完全武装を施された超合金製の胴体で,マイクロプロセッサーによって制御されている。とても頑丈だ。ところが,外側は,人間の生体組織でできている。肉,皮膚,髪……血。つまり,サイボーグ用に培養された生体組織をかぶせてあるということだ」

 あらゆる世代の映画ファンにとって,ターミネーターの攻撃に遭い,弾雨のなかでリースがサラに語った言葉がサイボーグの権威ある定義となった。しかし,彼がターミネーターをサイボーグと呼んだのは完全な誤りだ。たしかに,ターミネーターの皮膚は人間の生体組織だけれども,それは彼が機械であることを隠すための偽装にすぎない。金属製の骨格をむき出しにするために皮膚が燃やされる場面を見ればわかるように,ターミネーターは,皮膚がなくてもまったく問題なく機能できるロボットである。ターミネーターは,人間の皮膚はあっても,人間性はない。
 1960年にサイボーグという言葉をつくったマンフレッド・クラインズが,この映画を観たときにあきれ返った理由もそこにある。彼は,サイボーグを「自動制御型マンマシンシステム」と定義したが,ターミネーターは人間ではない。インタビューの中で,クラインズは次のように抗議している。

 最近公開された,アーノルド・シュワルツェネッガー主演の『ターミネーター』という映画は,サイボーグという概念から人間性を奪ってしまった。この作品は,我々が提唱した真の科学的概念を曲解している。それは風刺にすらなっていない。モンスターではないものからモンスターを創造しているのだから,もっと悪い。身体機能を拡大強化された人間をモンスター化するというのは……。

 クラインズが憤慨するのは当然だ。ぼくだって腹が立つ。ロボットとサイボーグの違いは明らかなのに,よくものがわかっているはずの学者も含めて,多くの人たちがこれら2つを置き換え可能な同義語として用いている。

マイケル・コロスト 椿 正晴(訳) (2006). サイボーグとして生きる ソフトバンク クリエイティブ pp.149-151

サイボーグとは

 世間では,体に人工物を装着している人をサイボーグと呼ぶことが多い。だが,はっきり言ってそれは間違いだ。たとえば,人工股関節置換手術を受けた人はサイボーグではない。なぜなら,人工股関節はその人の行動を制御したり,選択したりするわけではなく,あくまでも立つ,座る,歩くといった動作を補強するための機械装置にすぎないからだ。入れ歯,人工角膜,人工膝関節についても同じことが言える。それらは材料科学と外科手術がもたらした成果だが,サイボーグの技術ではない。サイボーグのサイボーグたるゆえんは,もしも……ならば……,そうでなければ……という決定を下し,人体を制御してそうした決定を実行するソフトウェアがあることだ。

マイケル・コロスト 椿 正晴(訳) (2006). サイボーグとして生きる ソフトバンク クリエイティブ pp.73

残酷なセリフ

 他,キャリアセンターの職員も言いがちな面接関係のセリフをふたつ。
 「会って数秒で人はわかる」
 だったら,面接じゃなくて,顔見せで十分では。キャリアセンター曰く「わかるから,身だしなみは大切にしましょう」。えっ,内面は外見でごまかせるってこと?
 「最終的に,面接は相性です」
 昔は,「お見合いのようなものです」と言っていた。ま,事実そういう面はあるし,なにより落ちたときの学生の慰めになった。でも,20回,30回と連続して「相性」で断られるのが当たり前の時代においては,自分の性格に難があるかのごとく聞こえる残酷なセリフだ。

沢田健太 (2011). 大学キャリアセンターのぶっちゃけ話:知的現場主義の就職活動 ソフトバンク クリエイティブ pp.145-146

努力放棄

 厳しい言い方をすれば,自分を変えるために何か具体的な努力をしようとは考えずに,環境を変えることで自分を変えようという彼らの心性こそが本書のテーマである「自分探しの旅」だ。

速水健朗 (2008). 自分探しが止まらない ソフトバンク クリエイティブ pp.62

自分探し

 「自分探し」という言葉は,かつてはネガティブなニュアンスを持って使われることの多い言葉だったはずだ。三十路を間近に控えたOLが突然,海外留学やワーキングホリデーに出かけてしまうようなケースを揶揄して使われていた言葉だ。
 もしくは,大人になるのを先延ばしする「モラトリアム人間」(小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』)といったようなかつての流行語とも近いニュアンスがあった。それが昨今では,「自己実現」や「自分らしさ」などの言葉の流行とともに,前向きな若者の行為として受け入れられているという側面もある。つまりは,世間も[自分探し」に対して,高低・否定の視線がない混ぜになった状態と言っていいだろう。

速水健朗 (2008). 自分探しが止まらない ソフトバンク クリエイティブ pp.16-17

二種類の自分探し

 そして,その「自分探し」にも,大きく分けると2通りのものがあると思う。
 1つは,外向きな「自分探し」だ。海外へふらっと自分を見つめ直しに,1人で旅に出てしまうような行為が代表的だ。若者がバックパックを背負ってアジアを貧乏旅行することや,最近だと「外こもり」なども一類型だろう。もう少し身近な例で言えば,海外まで行かずとも国内でメッセージ性の強い団体にコミットメントするような具体的な行動を伴うものである。
 もう1つは,やや内向きな「自分探し」である。就職活動中の学生が,自分がやりたいこととは何か?自分は何に向いているのか?などとこれまでは考えもしなかったことを考え出し,自問自答しながら自己啓発系の書籍を読み漁ってみたり,スピリチュアルに感心を持つようなケースが典型である。やりたいことが見つからず,フリーターとなって自分の将来をあれこれ考えるといった場合の自分探しもこちらのパターンだ。

速水健朗 (2008). 自分探しが止まらない ソフトバンク クリエイティブ pp.4

グアノ

 グアノとは,海鳥の糞が堆積して化石化したもので,窒素質グアノと燐酸質グアノの二種類がある。前者は,降雨量の少ない乾燥地に堆積したもので,窒素分に富む。後者は,降雨量の多い高温地帯の珊瑚礁の上に堆積したもので,有機物の分解が進行して窒素が失われ,燐酸の割合が多くなったものである。また,燐酸質グアノは,長期的には風化して珊瑚礁などの石灰岩と結合し,グアノ質リン鉱石に変質する。もっとも,これらの区分は相対的なもので,明確に線引きができるわけではない。これらはいずれも良質なリン資源であり,特に窒素質グアノはそのまま良質な肥料となる。燐酸質グアノやグアノ質リン鉱石は,硫酸分解などの加工処理を行った上で,リン酸肥料として用いられる。
 16世紀にインカ帝国を征服したスペイン人は,ペルー沖の島々に海鳥の糞の山があり,ケチュア族がそれを「フアヌ」と呼んで,良質の肥料として用いていることを報告している。グアノ(guano)とは,この「フアヌ」(huanu)が転訛したものである。このペルー産グアノは,19世紀はじめ,ドイツの博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトによって欧米に紹介された。1840年にペルー政府はグアノ資源を国有化し,欧米各国に売り込む。特にアメリカでは,大量の肥料を必要としたため,ペルーから莫大な量のグアノを輸入することになった。

長谷川亮一 (2011). 地図から消えた島々:幻の日本領と南洋探検家たち 吉川弘文館 pp.87-88

無主地・先占

 「無主地」とは,どの国家にも所属していない土地のことである。国際法では,このような土地に対しては,ある国家が他の国家に先んじて支配を及ぼすことによって,その国の領土に編入することが認められている。これを「先占」という。
 先占が成立するためには,まず,国家が領有宣言などによって公式に領有意思を表明し,さらに,その後も実効的占有を続ける必要がある。個人や私企業が領有を宣言したというだけでは,先占は成立しない。また,たとえ領有宣言を行ったとしても,その後に実効支配を続けなければ先占は成立しない。なお,無人島であっても,巡視を定期的に行うなどして領有意思を明確にしている場合は,先占は成立していると見なされる。また,領有意思を他国に通告する必要はないとされている。
 この理論は18世紀末に成立し,19世紀の帝国主義時代には,植民地を正当化するための論理として盛んに利用されることになった。無主地とは,あくまで「どの国家も領有していない土地」という意味であり,その土地が無人かどうかは無関係とされている。したがって,たとえ人間が住んでいようと,その人間たちが「国家」といえるほどの社会を構成していないと見なされる場合は,その土地は無主地と見なされることになったのである。

長谷川亮一 (2011). 地図から消えた島々:幻の日本領と南洋探検家たち 吉川弘文館 pp.18-20

投資と投機

 なぜ日本人は,投資に対しての理解が浅いのか。
 その理由のひとつはおそらく,「投資」と「投機」の区別がないことが考えられる。
 「投機」とは要するに,利殖のみを目的に,一攫千金を狙って行う賭け事だ。得する人間が1人いれば,損する人間がその何倍もいる。つまりは大勢の損が,少数の得に移転するだけの,ゼロサムゲームである。本質的にはパチンコや競馬,競輪と変わることがないギャンブルだ。
 それに対して「投資」は,畑に種を蒔いて芽が出て,やがては収穫をもたらしてくれるように,ゼロからプラスを生み出す行為である。投資がうまくいった場合,誰かが損をするということもなく,関係したみなにとってプラスとなる点が,投機とは本質的に異なる。また投機が非常に短期的なリターンを求めるのに対して,投資は本質的に長期的なリターンを求めるところも大きな違いだ。
 しかしそのような投資の本質について理解している人は,日本にはほとんどいない。

瀧本哲史 (2011). 僕は君たちに武器を配りたい 講談社 pp.210-211

イノベーション

 もともと「イノベーション」とは,オーストリア出身の経済学者ヨーゼフ・シュンペーターが作った言葉である。彼は起業家の生み出す絶え間ないイノベーションが経済を変動させ,資本主義を進歩させていくと主張した。
 日本ではよく「技術革新」と訳されるが,実は「新結合」という言葉がいちばんこの言葉の本質を捉えた訳語だと私は考えている。既存のものを,今までとは違う組み合わせ方で提示すること。それがイノベーションの本質だ。

瀧本哲史 (2011). 僕は君たちに武器を配りたい 講談社 pp.183

イメージだけで

 いま「草食系」とか「肉食系」とかいいますよね?
 「草食系男子」っていえば,要するに,「ガツガツしない男」ってことですよね。でもそれって簡単に言えば,「人見知り」ってことでしょ?「引っ込み思案」ってことだと思うんですよ。「肉食系男子」は「社交的な人」。ただそれを言い換えてるだけでしょ。肉食系のほうが生命力強そうに見えて,実は意外に「草食系」のほうがしぶどく生きそうだし。それって言葉を言い換えてるだけで,言葉のイメージだけで判断してしまうと実際は違うことがあると思うんですよね。

有吉弘行 (2010). お前なんかもう死んでいる:プロ一発屋に学ぶ50の法則 双葉社 pp.182

マネジメントとビジネス

 まず「マネジメント」とは「事業をうまく運営すること」と定義する。単に「事業を運営する」のではなく,そこに「うまく」というニュアンスを絡ませている。事業をうまく運営することは,利益を多く出すこと,あるいは安定的に出すことに他ならない。だから,マネジメントとは,事業をうまく推進するための「知恵」や「手法」であり,それは「理論」として体系化されたり,「制度」として形式化されたりする。
 一方,「ビジネス」とは,「何らかの事業を行うこと」と定義する。「事業」とは,他者に価値を提供して(何かを作るなり売るなりして)利益を得ることを目指す。ビジネスは,人間によって実際に行われているものであり,それが「うまく」行われているかどうかは問わない。つまりビジネスは,ある人間が「意志」に基づき実際に行う「活動」を指している。

深田和範 (2010). マネジメント神話が会社を滅ぼす 新潮社 pp.19-20

選択は創造

 フランスの数学者,科学思想家のアンリ・ポアンカレはこう言った。「発明とは,無益な組み合わせを排除して,ほんのわずかしかない有用な組み合わせだけを作ることだ。発明とは見ぬくことであり,選択することなのだ」。わたしなら後の文をちょっと変えて,違う説を唱える。「選択とは,発明することなのだ」。選択は,創造的なプロセスである。選択を通じてわたしたちは環境を,人生を,そして自分自身を築いていく。だがそのために多くの材料を,つまり多くの選択肢をやみくもに求めても,結局はそれほど役に立たない組み合わせや,必要をはるかに超えて複雑な組み合わせをいたずらに生み出すだけで終わってしまうのだ。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.258-259
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

インシャラー

 個人の力だけでは世界を動かせないという認識は,アラブの慣用句,「インシャラー」(神の思し召しがあれば)にも表れている。イスラム教徒は,未来のことを口にするとき,おきまりのようにこの言葉を言い添える。たとえば「また明日,インシャラー」というふうに。また日本で,困難な状況や気の進まない仕事に立ち向かう人たちがよく口にする,「しかたがない」という表現にも,この認識が表れている。個人は決して無力ではないが,人生というドラマの一登場人物に過ぎないのだ。
 このような多様な物語がおよぼす影響を明らかにする方法の1つに,成功や失敗にどのような解釈が与えられているかを検証する方法がある。英雄や悪人について,どのような物語が伝えられているだろうか?北山忍とヘイゼル・マーカスほかの研究者は,2000年のシドニー・オリンピックと,2002年のソルトレークシティ冬季オリンピックでのメダリストの受賞スピーチを分析した。その結果,アメリカ人は成功要因を,個人の能力や努力という観点から説明することが多かった。「ただ集中を維持することだけを考えました。自分の実力を世界に見せつける時が来たと……自分に言い聞かせたんです。『いや,今夜の主役は俺だぞ』って」。他方日本人選手の多くは,自分を支えてくれた人たちのおかげで成功したと考えていた。「世界最高のコーチと,最高のマネージャー,応援してくださった方々——みなさんのおかげで金メダルがとれたんだと思います……自分だけの力じゃありません」。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.84
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

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