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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

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人相

民間レベルの人相占いでは,目や鼻や口,またホクロやオデキなどの形,大きさ,位置によって占うものが多い。鼻の下の長い人は助平,頭のつむじが横にある人は心がひねくれているなどというのは,「鼻の下を長くする」,「つむじ曲がり」という言い方で,日常的に使われている。また,「おでこの広い人は心も広い,狭いひとは心も狭い」とか,「唇の厚い人は無口で,薄い人はおしゃべりだ」などと,美しい顔の人は心も美しいというのとほとんどかわらない,単純な連想が多い。顔になにかの大小,上下,広狭,厚薄などが,性格のそれらに比例しているとするだけのことだ。そして,ほとんどが,大きい,広い,厚いはよい意味で,小さい,狭い,薄いは悪い意味に解釈されている。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.28-29
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「ない」ことの表現

私たちは記憶が「ない」ということを,どのようにして表現できるだろうか。屁理屈のように聞こえるかもしれないが,かつてフランスの哲学者ベルクソンが指摘したように,そこに何かがあったからこそ,そこで何かが失われたことがわかるのである。「ない」ことを表象するには,言語や数字のゼロのような記号の働きによるしかない。

小田中章浩 (2013). フィクションの中の記憶喪失 世界思想社 pp.186

忘却と記憶喪失

神話的・民話的な「忘却」と「記憶喪失」を隔てる最大の要素は,前者で描かれる人物が近代的な意味での「個人」ではないことである。したがってそこで語られる登場人物は,なぜ自分がそこにいるのか,なぜ記憶を失ったのか,あるいは記憶を失うことがもたらす人間関係といったことにほとんど関心を持たない。別の言い方をすれば彼らはある種の役割として存在するのであり,彼ら(より正確に言えば彼らについて語る話者ならびにその聞き手)はこうした役割について疑問を持たない。その意味では昔話や神話における記憶喪失は,現代の漫画やテレビドラマでの用いられ方とよく似ている。そこでは記憶喪失は単に物語を展開させるための仕掛け(ギミック)であり,また神話や昔話に見られるように記憶喪失というモチーフは他のモチーフと交換可能であることが多い(どうしてもそこで記憶喪失が用いられなければならない必然性はない)。

小田中章浩 (2013). フィクションの中の記憶喪失 世界思想社 pp.27-28

記憶喪失というモチーフ

その一方で,何度も繰り返して語られていくうちに新奇さを失い,もはや物語を進める上での約束事のようになっている筋立てもある。こうしたものは,特に神話や伝説のように,数限りなく繰り返して語られてきた物語に見られる。神話学や民話学では物語を構成するこうした要素のことをモチーフと呼ぶ。モチーフは,物語の興味の中心(テーマ)を構成することもあれば,物語を構成する一要素にすぎない場合もある。記憶喪失をめぐる物語についても同様である。記憶喪失が物語のテーマになっていることもあれば,それは物語を進める上での1つの前提でしかない場合もある。

小田中章浩 (2013). フィクションの中の記憶喪失 世界思想社 pp.18

比喩表現

その意味では多重人格といい解離性同一性障害といい,いずれも何かをわかりやすく,かつ生き生きと伝えるために用いられた比喩であるといえる。社会を語るための比喩として病が用いられることは珍しいことではない。例えばある時期,分裂病(現在の統合失調症)が占めていた時代の象徴としての座に1990年代以降,多重人格が座るようになったということができるかもしれない。実際,大澤真幸はきわめて率直にこのことを表現している。すなわちかつて「分裂病」として語られていたことから思弁的で神秘的な衣をはぎとって即物化したものが多重人格なのである,と(大澤・斎藤[2003])。
 それに付け加えていうなら,分裂病の比喩を用いながら時代や社会を語っていたのはいわゆる「知識人」であったが,多重人格は一般の人々が自分たちの振る舞い方や関係のあり方を語る際に動員されることであるという点でも後者はより一般化,「通俗化」されていたといえるかもしれない。それは研究者やジャーナリストが社会を観察する際に用いるものというよりは,観察されている人々が自分たちで使用している語りの道具なのである。

浅野智彦 (2013). 「若者」とは誰か:アイデンティティの30年 河出書房新社 pp.166-167

測定と計測

私は測定という言葉と計測という言葉を,あるていど分けて使うようにしています。計測という言葉が積極的に使われるようになったのは,かなり最近のことで,それは測定の結果を有効に活用するということを含む仕事のようです。つまり,測定が観察データであるとすれば,計測はもの作りのように,目的をもったデータをとらねばならないということです。

矢野宏 (1994). 誤差を科学する:どこまで測っても不正確!? 講談社 pp.75

良し悪しと好き嫌い

私たちは「好き」か「嫌い」かを,「いい」か「悪い」かで表現します。「好き」か「嫌い」かは,特定の個人に属するものですが,それを「いい」とか「悪い」とかいってしまうと,特定の個人を離れて一般的な評価となってしまいます。そこに感覚的な判断の落とし穴があるようです。

矢野宏 (1994). 誤差を科学する:どこまで測っても不正確!? 講談社 pp.54-55

迷惑をかけるな=権利が理解できていない

多くの大人たちは,子供たちに対して常に,「他人に迷惑をかけるな」と言いますね。しかしそれは,「権利というもの自体を,まだよく理解できていない」からでしょう。その背景には,2つの理由があると思われます。
 第1は,日本という国が,「同質性が高い」ということです。
 他の多くの国々と比べると,大陸から離れた島国である日本には,歴史的に見ても,比較的「同じような人々」が暮らしてきました。
 また,2千年にわたって日本の産業・経済の中心だった「水田耕作」では,村の中で「和を保つ」ことが非常に重要です。
 このため日本人は,「みんな同じ心を持っているはずだ」とか「他人に迷惑をかけることはすべて悪だ」と考えるような文化を持つようになりました。
 第2は,日本では,「自由」とか「民主主義」とか「権利」といったものが,革命によって(下から)勝ち取られたものではなく,敗戦によって(上から)あたえられたものだった——ということです。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.22-23

セクハラという言葉

そもそも日本語として流通している「セクハラ」には,使われ方にだいぶ幅があって,大きく分けると広義のセクハラと狭義のセクハラがあります。日常語としての使い方と法的な使い方と言ってもいいですし,イエローカードとレッドカードの違い,と言えばもっとわかりやすいでしょう。この2つは,重なりはありますが,大いに異なります。
 狭義は,その行為はハラスメントにあたると「公式認定」されるセクハラ。訴えや相談があり,調査を経て「これはハラスメントだ」と判断されて,何らかの措置や処分が下されるものです。いわばレッドカードが突きつけられるわけです。その中には,強制わいせつのような犯罪やあからさまな強要を含む「真っ黒」なものや,人権侵害にあたるものも含まれます。
 他方,日常語としての使い方はもっと広義です。まだ結婚しないのとしつこく聞かれたり,イマイチの上司からカラオケでデュエットしようと誘われたりして,「ウザいなぁ」「ちょっとやめてよ〜」と思うときに,「それってセクハラですよ」と,軽くジャブを出す使い方です。面と向かって「嫌です」「やめてください」と言うのは角が立つので,「セクハラじゃないですか」と軽く言うわけです。これはいわばイエローカードで,注意してやめてくれればそれでいいわけです(サッカーなら同じ試合で2枚出されるとレッドカードと同じ退場ですから,それより軽いですね)。
 このイエローカードの「セクハラ」の用語法は,大変便利です。1989年にセクハラという言葉ができて,あっという間に流行語となりましたが,そんなふうに広がったのは,便利な言葉だったからにほかなりません。「嫌です」とは言いにくくても,冗談めかして注意喚起をしてやめてもらえる,とても便利で有効な使い方です。言った本人,やった本人の意図がどうあれ,冗談めかした注意喚起ですから,使いやすいのです。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.50-51

ポピュリズム

ポピュリズムというのは,みんなやればできるのだという考え方として,ここでは定義されている。たとえば前述の苅谷剛彦は能力平等主義という言い方で言っているが,すべての人が努力によってあるレベルに到達できることを前提にした平等主義である。
 もちろん,ポピュリズムがただちにすべて悪いわけではない。ポピュリズムがもたらす混乱状況を見据えつつも,他方で教育や学力というものを見ていく上で,こうしたポピュリズム的な視点は,最低限はふまえておく必要があるだろう。
 たとえば,みんながイチローや香川真司にはなれないのは当たり前だと思うだろう。しかし,たとえば東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故が私たちに突きつけた,エネルギー問題や,放射線の問題を考えてみよう。こうした事柄については,専門家に判断を白紙委任するのではなく,市民が市民としての一通りの知識を身に付け,判断できるようにしなければならないという認識が共有されつつあるように思う。このように,世の中には,市民みんなが平等に身に付けることが求められつつあるものもある。プロに必要なものと市民に必要なもの,そこをどのように仕分けしていくかというところがポイントではないか。

小玉重夫 (2013). 学力幻想 筑摩書房 pp.58-59

話しかけてくれたら

大学の演習形式の授業の初回で全員に自己紹介をしてもらうときに,気になっていることがある。それは自己紹介の最後に,「話しかけてくれたら嬉しいです」というような表現をする学生が非常に多いことだ。自分はみんなと話がしたい,仲良くなりたい,でもシャイな人間なので自分からはなかなか話しかけることができない,だから話しかけてほしいと。気持ちはわからないでもない。しかし,もしクラスの全員が同じ気持ちであったらどうだろう。みんな話がしたいのに,人から話しかけられることを待っているだけで,自分から話しかける人間が1人もいないので(話しかけて受け入れてもらえないことを恐れているのだ),結局,誰とも話すことができないだろう。まさに「みんなぼっち」の世界だ。「話しかけてくれたら嬉しいです」と言う学生に,私は,「だったらまず君から話しかけてごらんよ。相手はきっと嬉しいと思うよ」と話しかけることにしている。そうすると教室に笑いが起きる。これが私の狙いで,一緒に笑うことで,話がしやすくなるのである。

大久保孝治 (2013). 日常生活の探求:ライフスタイルの社会学 左右社 pp.158

継続性と回復

レジリエンスという用語はさまざまな分野で少しずつ違った意味で用いられるため,厳密に定義するとなるとひと筋縄ではいかない。土木工学の分野では,一般的には橋や建物などの構造物が損傷を受けたあとでベースラインまで回復する性能を意味する。緊急時の対応力については,市民生活に欠かせないシステムが自信や洪水の被害からどのくらいのスピードで復旧できるかを指す。生態学では回復不能な状態を回避する生態系の力を意味し,心理学ではトラウマに効果的に対処する個人の能力を意味する。ビジネスでは,自然災害や人災に遭遇しても業務を継続できるように(データや資源の)バックアップを整備する意味で用いられることが多い。力点こそ異なるが,これらの定義は変化に直面した際の継続性と回復というレジリエンスの2つの本質的な側面のいずれかに基礎をおいている。

アンドリュー・ゾッリ,アン・マリー・ヒーリー 須川綾子(訳) (2013). レジリエンス 復活力:あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か ダイヤモンド社 pp.9-10

給与と賃金

 ここまで「給与」あるいは「給料」と「賃金」を同じ意味で併用してきた。日常的にはいずれの用語も使われているが,「給」と「賃」では漢字の含みがかなり違う。「給」は目上の者から目下の者に金品を与えるという意味がある。女性がよく使う「お給料」という言葉は,会社や役所からいただくという意味合いを強く感じさせる。他方,「賃」には金銭を払って人を雇うという意味があり,いただくというニュアンスはない。「納税者」という言葉が下の者が上のものに納めるという響きをもつことを嫌って,「タックスペイヤー」という言葉を使う人がいる。それに倣ってというわけではないが,私は,「日給」「月給」「給与所得」などのような,置き換えると通りが悪くなる準専門的な用語は別として,なるべく給与あるいは給料より賃金という用語を使うようにしている。
 なお,アメリカでは賃金(wage)とサラリー(salary)とが使い分けられている。前者は主に工場などの現場作業に従事するブルーカラーの時給労働者に支払われる日給または週給について使われる。後者は主に専門職やオフィスワークや営業などに従事するホワイトカラーの月額報酬(支払いは月給制でも年俸契約の定額報酬になっていることが多い)についていわれる。

盛岡孝二 (2011). 就職とは何か:<まともな働き方>の条件 岩波書店 pp.93

呼べば来る

 いささかしつこいとは思うが,「呼ぶと来る」のと,「呼べば来る」のとの違いについて考察しておきたい。「呼ぶと来る」というばあいは,むろん,呼ばれたことを理解できてはいるのだが,呼ばれないかぎりは来る意思がないということの表現のように思える。だから「呼ばれなくても来るわよ」という反論も生じてくる。「呼ぶと来る」という表現のなかには,主体の側の意思のみが主張されていて,受け手はまったく受動的な感じを与える。だから,「カメ」はもっと能動的な面をもっているという修正意見が出されるのである。ところが,「呼べば来る」という表現の方は,「カメ」による状況判断を含んでおり,主体の側の意思のみでなく,受け手である「カメ」の能動的意思もあらわされているように思う。いつでもいく気はあるのだが,そちらの都合も考えて待機しているのだという気分が,「呼べば」への反応に含まれているのではなかろうか。

中村陽吉 (1991). 呼べばくる亀:亀,心理学者に出会う 誠信書房 pp.152

マジック体験とは

 実際に起きていることを説明するには,本当にさまざまな問題がある。“マジック”の比喩に戻って,私たちがマジック体験というのはどういうものなのかを理解しようとする宇宙人の種族だと想像してみよう(私の一部のファンが興奮する前にはっきりと言っておくが,私は宇宙人が本当にいるなどとは信じていないし,それを理解しようとしているわけでもない)。私たちはまず何をすればいいだろう?自分でマジックを観るのもいいが,(a)何も役に立たない,もしくは(b)自分たちが体験したことしかわからない。マジックのトリックを目撃した人たちにインタビューするという実験をして,どんなものだったのかを調べるのもいいかもしれない。確実にその人たちは,「催眠術にかけられちゃった」とか「彼は私に催眠術をかけたんだ」と言うのと同じように,「マジックだったよ」とか「彼は私にマジックをして見せたよ」と言うだろう。比喩としては成立している。しかし,いくつかの問題にぶつかるだろう。まず,トリックに対する反応の仕方は膨大にある。本物の魔術だと思う人も少しいれば,本物の「魔法」ではないが,マジシャンが何か特別な精神力,さらには超能力的な力を持っていると信じる人もいるかもしれない。イライラするパズルだと思う人もいれば,仕組みがすっかりわかってしまったけど,それを言うのは失礼だと思っている人もいるかもしれない。よく見られる反応としては,マジックで“あるかのように”便乗して楽しみ,その状況を説明するのに“マジック”という言葉を使うことに抵抗を示さない人は多い。そういう人たちは,「このトリックは本物じゃない」という,ゲームを台無しにしてしまうようなことを言って,マジシャンを困らせるようなことはしたくない。調査するにはあなどれない人たちだ。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.179-180

マジックとは

 つまり,マジックとは何かというと,ごまかしや,すり替えや,膝の上にコインを落とすことではない。相手を手際良く,巧みに誘導し,不思議な体験をしているのだと思わせるような関係を相手とのあいだに踏み込んで作り上げることだ。子どものようにびっくりする体験ともどこか似ているが,大人の知的なナゾナゾのような要素もある。それは観客の頭の中にしか存在しない体験で,その体験はきみの技術が導き出したものかもしれないが,技術そのものと体験は同じではない。それは観客の体験の中にあり,マジシャンが使っている手法の中で見つかることはないのだ。つまり,何より大切なのはプレゼンテーションということになる。かの有名な,素晴らしいマジシャンであるユージン・バーガー(クロースアップ・マジシャンの権威である)は,3つか4つのトリックを学ぶだけに残りの人生をすべてかけることだってできる,と言っている。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.54

操られ感

 私は,「演じる」ということを30年近く考えてきたけれど,一般市民が「演じさせられる」という言葉を使っているのには初めて出会った。なんという「操られ感」,なんという「乖離感」。
 「いい子を演じるのに疲れた」という子どもたちに,「もう演じなくていいんだよ,本当の自分を見つけなさい」と囁くのは,大人の欺瞞に過ぎない。
 いい子を演じることに疲れない子どもを作ることが,教育の目的ではなかったか。あるいは,できることなら,いい子を演じるのを楽しむほどのしたたかな子どもを作りたい。
 日本では,「演じる」という言葉には常にマイナスのイメージがつきまとう。演じることは,自分を偽ることであり,相手を騙すことのように思われている。加藤被告もまた,「騙すのには慣れている」と書いている。彼は,人生を,まっとうに演じきることもできなかったくせに。
 人びとは,父親・母親という役割や,夫・妻という役割を無理して演じているのだろうか。それもまた自分の人生の一部分として受け入れ,楽しさと苦しさを同居させながら人生を生きている。いや,そのような市民を作ることこそが,教育の目的だろう。演じることが悪いのではない。「演じさせられる」と感じてしまったときに,問題が起こる。ならばまず,主体的に「演じる」子どもたちを作ろう。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 2026-2036/2130(Kindle)

「かわいい」

 たとえば一般によく言われることだが,日本語には対等な関係で褒める語彙が極端に少ない。上に向かって尊敬の念を示すか,下に向かって褒めてつかわすような言葉は豊富にあっても,対等な関係の褒め言葉があまり見つからないのだ。
 欧米の言葉ならば,この手の言葉には,まさに枚挙にいとまがない。「wonderful」「marvelous」「amazing」「great」「lovely」「splendid」……。
 しかし日本語には,このような褒め言葉が非常に少ない。そこでたとえば,スポーツの世界などで相手を褒めようとすると外来語に頼らざるをえなくなる。「ナイス・ショット」「ナイス・ピッチ」「ドンマイ」……。
 だが,ここに1つだけ,現代日本語にも,非常に汎用性の高い褒め言葉がある。
 「かわいい」
 これはとにかく,何にでも使える。
 よく中高年の男性が,
 「いまどきの子は,なんでも『かわいい』『かわいい』で,ボキャブラリーがないなぁ」
 とおっしゃっているのを見かけるが,ボキャブラリーがないのは,そう言っている私も含めたオヤジたちの方なのだ。
 「対等な関係における褒め言葉」という日本語の欠落を「かわいい」は,一手に引き受けて補っていると言ってもいい。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 1049-1057/2130(Kindle)

冗長率

 「冗長率」という言葉がある。
 1つの段落,1つの文章に,どれくらい意味伝達とは関係のない無駄な言葉が含まれているかを,数値で表したものだ。
 先に掲げた話し言葉のカテゴリーの中で,さてでは,もっとも冗長率が高いのは,どれだろう。当然,多くの方は,「会話」だと考える。「無駄話」というくらいだから,親しい人同士のおしゃべりが,冗長率が高いだろうと感じる。
 しかし「会話」は,内容はたしかに冗長かもしれないが,冗長率自体は高くならない。お互いが知り合いだと,余計なことはあまり喋らない。もっとも冗長率の低い話し言葉は長年連れ添った夫婦の会話だろう。「メシ・フロ・シンブン」というやつだ。
 もちろん演説やスピーチは,基本的に冗長率が低い方が優れているとされる。「えー」とか「まー」が多用されると聞きづらい。
 実は,もっとも冗長率が高くなるのは,「対話」なのだ。対話は,異なる価値観を摺り合わせていく行為だから,最初はどうしても当たり障りのないところから入っていく。腹の探りあいも起こる。
 「えーと,まぁ,そうおっしゃるところはわからないでもないですが,ここは1つどうでしょうか,別の,たとえば,こういった見方もあるんじゃないかと……」
 とここまで,何一つ語っていない。冗長率は圧倒的に高くなる。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 960-967/2130(Kindle)

異文化理解能力

 現在,表向き,企業が新入社員に要求するコミュニケーション能力は,「グローバル・コミュニケーション・スキル」=「異文化理解能力」である。OECD(経済協力開発機構)もまた,PISA調査などを通じて,この能力を重視している。この点は,本書でもあとで詳しく触れる。
 「異文化理解能力」とは,おおよそ以下のようなイメージだろう。
 異なる文化,異なる価値観を持った人に対しても,きちんと自分の主張を伝えることができる。文化的な背景の違う人の意見も,その背景(コンテクスト)を理解し,時間をかけて説得・納得し,妥協点を見いだすことができる。そして,そのような能力を以って,グローバルな経済環境でも,存分に力を発揮できる。
 まぁ,なんと素晴らしい能力であろうか。これを企業が求めることも当然だろうし,私もまた,大学の教員として,1人でも多く,そのような学生を育てて社会に送り出したいと願う。
 しかし,実は,日本企業は人事採用にあたって,自分たちも気がつかないうちに,もう1つの能力を学生たちに求めている。あるいはそのまったく別の能力は,採用にあたってというよりも,その後の社員教育,もしくは現場での職務の中で,無意識に若者たちに要求されてくる。
 日本企業の中で求められているもう1つの能力とは,「上司の意図を察して機敏に行動する」「会議の空気を読んで反対意見は言わない」「輪を乱さない」といった日本社会における従来型のコミュニケーション能力だ。
 いま就職活動をしている学生たちは,あきらかに,このような矛盾した2つの能力を同時に要求されている。しかも,何より始末に悪いのは,これを要求している側が,その矛盾に気がついていない点だ。ダブルバインドの典型例である。パワハラの典型例とさえ言える。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 106-115/2130(Kindle)

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