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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

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深刻な人権侵害

まずヘイト・スピーチは,単なる「悪い」「不人気」「不適切」「不快」な表現ではないことを確認したい。脅迫や名誉毀損が他人の人権を侵害して許されないのと同様,ヘイト・スピーチは人権を侵害する表現であり,許してはならないものである。「不快」「不適切」などと軽く扱うこと自体,ヘイト・スピーチのもたらす取り返しのつかないほどの深刻な人権侵害と社会の破壊の害悪を認識していないと言わざるを得ない。

師岡康子 (2013). ヘイト・スピーチとは何か 岩波書店 pp.151
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表現の自由

最初に議論の共通の前提である,表現の自由の意義について確認しよう。表現の自由は,日本国憲法の保障する様々な自由の中で,もっとも重要なものの1つとして位置づけられている(優越的地位)。それは,表現の自由の保障が,「自己実現」と「自己統治」に不可欠だと考えられているからである。
 つまり,人間は誰しも,自己の意見を形成し他者に伝え,他者の意見にも触れて,自己の意見を再形成する過程で,その人格を形成していく。このような個人の人格の実現のための過程に着目するのが,表現の自由の「自己実現」における価値である。
 また,独裁を否定して平等を建前とし,社会の構成員らが協議して統治する民主主義社会の実現には,政治に関するあらゆる情報が社会全体に流通し,誰もが政治に関する自己の意見を主張できる自由,とりわけ権力に対する批判的な見解を述べる自由が不可欠である。このような民主主義の過程に着目するのが,表現の自由の「自己統治」における価値である。
 これら表現の自由の「自己実現」と「自己統治」における異議は,現在の世界の共通認識といってよい。

師岡康子 (2013). ヘイト・スピーチとは何か 岩波書店 pp.146-147

差別構造の強化

ヘイト・スピーチのもたらすもう1つの害悪は,偏見を拡散しステレオタイプ化し,差別を当然のものとして社会に蔓延させ,差別構造を強化することである。社会心理学者のゴードン・オルポートによれば,それは憎悪を社会に充満させ「暴力と脅迫を増大させる連続体の一部」であり,究極的にはジェノサイドや戦争へと導く。

師岡康子 (2013). ヘイト・スピーチとは何か 岩波書店 pp.61

ヘイト・スピーチがもたらすもの

批判的人種理論の論者であり,自らも民族的マイノリティであるマリ・マツダは,ヘイト・スピーチはマイノリティに対し,「芯からの恐怖と動悸,呼吸困難,悪夢,PTSD(心的外傷後ストレス障害),過度の精神緊張(高血圧),精神疾患,自死にまで至る精神的な症状と感情的な苦痛」をもたらすと指摘する。社会心理学者クレイグ・ヘンダーソンは,被害者に共通する心理的影響として,(1)継続する感情的苦悩,(2)自信喪失,(3)逸脱感情(自分は「普通」とは違いマイノリティであるから狙われたという自己認識),(4)自分を責める,などを具体的に挙げている。

師岡康子 (2013). ヘイト・スピーチとは何か 岩波書店 pp.53

ヘイト・スピーチとは

代表的論者のチャールズ・ローレンスは,ヘイト・スピーチを「人種的烙印の一形態としての攻撃」であり,標的とされた集団が「取るに足りない価値しか持たない」というメッセージ,「言葉による平手打ち」だと表現している。またブライアン・レヴィンは,ヘイト・スピーチは,それ自体が「言葉の暴力」であると同時に,物理的暴力を誘引する点で,単なる「表現」を超える危険性を有すると指摘,ヘイト・スピーチと暴力の関係を,「人種的偏見,偏見による行為,差別,暴力行為,ジェノサイド」の5段階の「憎悪のピラミッド」で説明している。
 このように,ヘイト・クライムもヘイト・スピーチもこの憎悪のピラミッドの中に位置づけられ,人種,民族,性などのマイノリティに対する差別に基づく攻撃を指している。

師岡康子 (2013). ヘイト・スピーチとは何か 岩波書店 pp.39-40

エピジェネティックス

そのうちの1つがエピジェネティックスです。エピという語はエピソード(挿話)という言葉にもあるように,「上」とか「外」という意味です。ジェネティックスは遺伝学です。遺伝学の中心はDNAです。そこでエピジェネティックスとはDNAの上または外に生じた変化,つまりDNAの修飾のことを言います。生体内のDNAの特定の部分(CpGアイランドとも呼ばれる,シトシンとグアニンに富む領域)が加齢や食事,化学物質等の外部環境の影響によってメチル化すると,その遺伝子は活性を低下させて少量のタンパク質しか作らなくなりますし,あるいはDNAと結合しているヒストンがアセチル化すると,アセチル化された遺伝子は逆にタンパク質が多く作られるようになります。このように環境の変化で特定の遺伝子が修飾を受け,作られるタンパク質が増減して,そのタンパク質の作用が弱くなったり強化されたりする現象をエピジェネティックスと呼んでいます。そうするとヒトの特定の性格が強調されたり,目立たなくなったりすることもおこることになります。

土屋廣幸 (2015). 性格はどのようにして決まるのか:遺伝子,環境,エピジェネティックス 新曜社 pp.9-10

熱心の意味

とはいえ,当時の人びとが信仰復興という出来事をみな同じように見ていた,というわけではない。「熱心」(enthusiasm)という言葉は,今日なら肯定的な響きをもつが,当時はとても悪い意味だった。「あの人は熱心だ」というのは,「あの人は常軌を逸した危険人物だ」という意味だったのである。信仰復興運動をめぐっては,賛成派と反対派がくっきりと分けられ,伝統的な価値観をもってこれに反対する保守派は「古き光」,賛成派は「新しき光」と呼ばれた。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.87

反知性主義

「反知性主義」(anti-intellectualism)という言葉には,特定の名付け親がある。それは,『アメリカの反知性主義』を著したリチャード・ホフスタッターである。1963年に出版されたこの本は,マッカーシズムの嵐が吹き荒れたアメリカの知的伝統を表と裏の両面から辿ったもので,ただちに大好評を博して翌年のピュリッツァー賞を受賞した。日本語訳がみすず書房から出たのは40年後の2003年であるが,今日でもその面白さは失われていない。訳者の田村哲夫が「あとがき」に記しているとおり,「説得的な歴史観の下で,正確な叙述で表された歴史書は,どんな時代にも古くささを感じさせるものではないし,どんな時代にも有益なヒントをあたえてくれる」ものである。
 だが,もしそんなに名著であるなら,これが40年も訳出されずに放っておかれたのはなぜだろう,とう問いも湧いてくる。理由の一端は,この本の内容が日本人には理解しにくいアメリカのキリスト教史を背景としているところにある。この本に言及する人もあるにはあるが,よく見てみると,引用されているのは冒頭の数頁だけで,内容的な議論の深みへと足を踏み入れる人は少ない。けっして難しい本ではないが,日本人になじみの薄い予備知識が必要なため,本筋のところが敬遠されてしまうのである。その先に続く議論の面白さを考えると,これは実にもったいない話である。アメリカの反知性主義の歴史を辿ることは,すなわちアメリカのキリスト教史を辿ることに他ならない。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.5

メリトクラシー

ヤングは怒りを買ったショックから立ち直ると,出版しようという人が出てくるような形に仕上がるまで,考えを深めることにした。彼が書くことにしたのは,『動物農場』と『すばらしい新世界』の精神に沿った,新社会秩序の関する暗黒郷をテーマにした作り話。2030年に書かれた社会学のニセ博士論文の形式にするつもりだった。すぐに出てきた問題は,ヤングの言うところの「人間によるというよりむしろ,最も頭の切れる人間たちによる支配」制度に,どういう名前を与えるかだった。アリストクラシーだろうか。ギリシャ語では,最良の人々による支配を意味したが,1950年代の西側世界全域では,逆の意味,すなわち富の相続人による支配と理解されていた。そこでヤングは代案を考えた。「メリトクラシー」である。
 実際は,最初の音節をギリシャ語からラテン語に変えただけで,同じ単語である。ヤングは,友人の哲学者,プルーデンス・スミスに,「メリトクラシー」という言葉を使ってみた。彼女はぞっとして,ラテン語とギリシャ語の語根を1つの単語の中に組み合わせるのは,品の良さを醸し出す言葉のルールにすべからく反する蛮行だ,と言った。彼女が徹頭徹尾反対したので,ヤングは何十年たっても,そのときの様子を克明に覚えていた。2人はロンドンのゴールダーズグリーン墓地の火葬場の外で,「メリトクラシー」の造語が許しがたい掟破りかどうかをめぐって,議論を戦わせた。
 ヤングはこれ以上ふさわしい単語を思いつかなかったので,「メリトクラシー」にこだわった。プルーデンス・スミス以外,だれも不満を言わなかった。「メリトクラシー」は英語に加わった。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.144

自然のアリストクラシー

トーマス・ジェファーソンが1813年に「自然のアリストクラシー」という言葉を用いたのは,「アリストクラシー」という単語がそれまでのあいだに,全面的にではないが,少し変化した証拠だ。コナントが好んで引用したもう1人の提唱者,ラルフ・ウォルドー・エマソンは1848年,「アリストクラシー」という題名のエッセイを執筆し,この単語は,相続で受け継がれた特権を意味するのでなければ,ジェファソンが示したような安心感があると述べた。「上流階級の存在は,優秀さに依存するかぎり有害ではない」実際,エマソンの理想社会は,人選に良い方法があればの条件付きで,プラトンが提唱した正統派の貴族政治であった。エマソンは冗談めかして,だれの優秀さでも測れる「人間測定器」があれば良いのにと表現した。「各人が評価を受け,各人が各成人市民の真の数値や重みを承知し,各人はいるべきところに位置し,実行・使用する強大な権力が各人に委託されるところを見てみたい」

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.57

進化の言葉使用の不用意さ

多くの人は,「進化」という言葉を文化的変化(歴史の変遷)と生物学的変化(世代を経ての遺伝子頻度の遷移)の両方の意味に不用意に使う。たしかに文化的な進化と生物的な進化は互いに作用しあうこともある。たとえばヨーロッパやアフリカの部族が乳汁を得るために家畜を飼う習慣を採用したところ,彼らは大人になっても乳糖(ラクトース)を消化できるように遺伝子変化を進化させた。それでも,この2つのプロセスは別物である。原則として,この2つはつねに区別することができる。たとえば,ある社会で生まれた赤ん坊を養子に出して別の社会で育てる実験をしてみればいい。もしどちらかの社会に特有の文化に対応して生物学的進化が起こっていたなら,養子先の社会で成長した子どもは,その社会で生まれた子どもとは平均して何かが違っているはずだ。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.430

利他主義という言葉

この「利他主義」という言葉も,やはり曖昧だ。共感ー利他主義説における「利他主義」とは,別の目的をはたすための手段としてでなくそれ自体を目的として他の生物に利益を供する動機,という心理学的な意味での利他主義だ。これは,進化生物学的な意味での利他主義とは違う。進化生物学の文脈では,利他主義は動機ではなく行動の面から定義される。自らが損失をかぶって他者に利益を供する行動が,進化生物学における利他主義だ。(生物学者は,ある生物が別の生物に利益をもたらせる2つの方法を区別する一助として,その片方にこの言葉を——実際には「利他行動」という言葉で——適用する。もう片方は,双利共生と呼ばれ,こちらはある生物が別の生物に利益を供しながら,それと同時に自らも利益を得ている場合に用いる。たとえば,昆虫が植物に受粉すること,鳥が哺乳類の背中にいるダニを食べること,趣味の似ているルームメイト同士が互いの聞く音楽を楽しむことなどである。)

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.377-378

共感の歴史

「共感(エンパシー)」という言葉はせいぜい100歳だ。元祖はアメリカの心理学者エドワード・ティチェナーだとよく言われるが,彼がこの言葉を使ったのは1909年の講演で,オックスフォード英語辞典にはイギリスの作家ヴァーノン・リーによる1904年の用例が載せられている。どちらも由来はドイツ語のEinfuhlung(感情移入)で,もとは一種の美的鑑賞能力の表現として使われていた。つまり摩天楼を見て,すっくと立った自分自身を想像するように,「心の筋肉で感じたり動いたりする」ことを意味していたのだ。英語の書籍のなかで「empathy(共感)」の使用頻度が急激に上がったのは1940年代で,すぐに「willpower(意志力)」や「self-control(自制)」といったヴィクトリア朝的美徳を追い抜いていった(前者については1961年,後者については1980年代半ばに抜かれている)。
 その急激な広まりと同時に,「エンパシー」という言葉は新たな意味を帯び,「同情(シンパシー)」や「思いやり(コンパッション)」と似たような意味で使われるようになった。この意味の混ざりあいは,ある心理学の俗説にとてもよくあらわれている。すなわち他者への善行は,その他者になったつもりで,その人が感じることを感じ,その人が体験することを体験し,その人の視点に立って,その人の目を通じて世界を見ることに依存する,というものだ。この説は,自明の真理とは言いがたい。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.361-362

ユートピア思考からジェノサイドへ

ユートピア・イデオロギーがジェノサイドを招く理由は2つある。1つは,功利計算が致命的な結果をもたらすことだ。ユートピアとはすべての人が永遠に幸せになれる社会であり,その道徳的価値は無限大である。5人を轢き殺す恐れのある暴走路面電車を,1人の命を犠牲にするだけですむ側線に迂回させることが倫理的に許容されるのかと問われれば,大方の人は首を縦に振るだろう。だが,迂回させることで1億人,10億人,あるいは不確かな未来のことまで考えれば,無数の人を救えるとしたら?この無限の善と引き換えに,何人までなら犠牲にすることが許されるのか?数百万人なら許容範囲だと考えられる可能性はある。
 それだけではない。完璧な世界が約束することについて知りながらも,それに反対する人たちもいる。彼らは,無限の善を実現するための計画の前に立ちはだかる,唯一の邪魔者である。どのくらい悪者か?ちょっと考えればわかるだろう。
 ユートピアがジェノサイドを引き起こす2つ目の理由は,ユートピアとは整然とした青写真に従うべきものだからだ。ユートピアでは,あらゆるものに存在する理由がある。人間の場合を考えてみると,1つの集団は多種多様な人間で構成されている。なかには完璧な世界には合致しない価値観に,断固として——おそらくは本質的な意味で——固執する人もいる。共有所有を基本とする社会で起業家的な考え方に立つ人もいれば,肉体労働を柱とする社会で本ばかり読みたがる人もいる。敬虔であることに価値を置く社会で図々しく生意気であったり,調和を重視する社会で排他的だったり,自然回帰的な社会で都会的で商業主義的であったりする人もいるかもしれない。まっさらな紙に完璧な社会を設計しようというとき,こうした目障りな存在は最初から消してしまった方がいいではないか?

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.571-572

かならず終わりが

だがここで思い出してほしい。どんな災厄,どんな不幸にもかならず終わりがあることを。文字を読む能力が乏しい人は,話を聞く能力が育つ。町が爆撃を受けても,死と破壊をかろうじて免れた人びとが新しい共同体をつくるだろう。幼いころに父親や母親を失った人は,耐えがたい苦悩と絶望にさいなまれる。けれども10人にひとりは,それをばねに不屈の精神力を発揮する。エラの谷で巨人と羊飼いがにらみあっていたら,注目を集めるのは,光りかがやく鎧に身を固め,剣を構えた巨人のほうだ。しかしこの世界に美しいもの,価値あるものをもたらすのは,意外なほどの強さを内に秘め,尊い目的を掲げる羊飼いなのである。

マルコム・グラッドウェル 藤井留美(訳) (2014). 逆転!強敵や逆境に勝てる秘密 講談社 pp.252-253

naches

1000人以上のゲーマーを対象とした最近の調査で,「ナヘツ(naches)」と呼ばれるあまり知られていない向社会的感情が,お気に入りのゲームをプレイして味わいたい感覚の上から8番目にランクインしていました。
 「ナヘツ」とは,イディッシュ語の単語で,自分が何かを教えたり,アドバイスしたりした相手が成功を収めたときに感じる誇らしい感情を意味する言葉です。驚きやフィエロ(快哉感)の次に味わいたい感覚としてランク付けされています。

ジェイン・マクゴニガル 妹尾堅一郎(訳) (2011). 幸せな未来は「ゲーム」が創る 早川書房 pp.127

ごく普通

「事情を聞いても,本当のことを話しているかどうかわからない。本人でさえ,わからないんだ。自分の気持ちも整理がつかない。自分がやったわけではないのに,やりましたと言ってしまう。愛しているのに,殺してしまうこともある。こんなことをしてはいけないとわかっていても,やらずにはいられない」
 「そうですね。そういうのって,普通のことなんですよね」
 「そう。ごく普通だね。異常な人間だけが,そんな変な行動をとる,とみんな思っているけれど,そうじゃない。みんな普通の人間だ。普通の人間というのが,もうだいぶ変なんだよ。変だからこそ,変じゃないように,理屈とか道徳とか,そういうものを考えて,それになるべく添った思考や行動を選択しようと努力をしている,といった感じかな」

森博嗣 (2014). サイタ×サイタ 講談社 pp.180

公表

「うん,だから,犯人を捕まえたらね,ただ,犯行を立証するだけにして,動機とか,そういう感情面のことはきいても,公表しない方が良いと思う。じゃないと,社会のみんなに理解してもらえるという,一種のご褒美を与えるようなものでしょう?」
 「そういう考えもあるわね」小川は頷いた。「だけど,それじゃあ,裁判にもならないでしょう?あと,犯罪者であっても,人権はあるし,その人を更生させなきゃいけないわけだし,その責任が社会にあるわけ。となると,やっぱり事情を聞いて,理解してあげないと」
 「そうか,そうですね」真鍋は頷いた。「そういう優しさが,必要とされているんでしょうね。だけど,連続殺人犯とか,凶悪犯になると,更生させるわけじゃなくて,死刑とか無期懲役とかになるわけですから,やっぱり,犯人を満足させてしまってはいけないんじゃないですか。そうしないと,同じことをする人間があとから出てきますよね。ああすれば,自分のことをみんなに聞いてもらえるんだって考えて,真似をする人が現れます。ありましたよね,そういうの」

森博嗣 (2014). サイタ×サイタ 講談社 pp.63

人が変わる

それは気分じゃろと助四郎は言う。
 「へえ。気分だす。せやけどな,助四郎はん。生まれてから死ぬまで,一度も笑わんような遣り難いお方かて居りますのやで。洒落の通じん堅物ゆうのは何処にでも居りまっしゃろ。一方で,冗談しか口にせんような,底の浅い連中かて仰山おるやないですか。肚の立つ程調子のええ阿呆ゆうのも居る。笑う笑わん,それは人次第や。同じ者が同じもの観て聞いて笑うたり笑わなんだりするて,こら,一時的にでも人が変わっておるちゅうことでっせ」
 そうかもしれない。

京極夏彦 (2013). 西巷説百物語 角川書店 pp.199

不寛容の許容

後になって彼は,この授業はもっとも重要な学習経験のひとつだったと述べている。しかし,そのときは悩み傷ついた。21世紀の現在,私たちは人と人との違いに対して寛容になろうと腐心しているので,つい忘れてしまうのだが,かつてはそのような違いに対する不寛容が文化的に許容されていたのだ。たとえばターマンは,価値ある有能な階級と価値のない愚鈍な階級のどちらかに人間を二分しようとしたが,当時それを疑問視する人などほとんどいなかった。スタンフォード・ビネー式知能検査で,相対的に数値が低い人をターマンが「精神薄弱」と呼んだことは先に書いたが,それはまだ婉曲な表現だったのである。「精神欠陥」や「軽愚」,さらには「有害な者」と呼ぶ人までいた。足の不自由な人は「びっこ」,ホームレスは「ルンペン」,しゃべれない人は「阿呆」と呼ばれた。そして,実在するエルマー・ファッドたち,つまり,ハリーのようにしばしばRの発音に苦労する人は,「マヌケ」と呼ばれた。先生が下手で話にならないと思ったら,学生がブーイングするというのは,よくあることだったのだ。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.92

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