I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

対人鉄条網

 100年近くほとんど変わらなかった鉄条網は,トゲの部分が尖らせた針金からカミソリ(レザー)の刃のような鋭利なものに進化した。「レザー・ワイヤー」「対人鉄条網」とよばれ,1970年代に米国の刑務所の塀に設置されはじめたが,やがて紛争の激化とともに中東に普及していった。もっとも目立つのが,イスラエルとパレスチナとを隔てる長大な壁である。



石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 183


「社員」とは

日本の法律で,「社員」という言葉が使われている箇所をすべて抜き出したら,それらはすべて出資者という意味の言葉なのです。エンプロイ-という意味で「社員」という言葉を使っている法律は一つもありません。多くの読者の常識からすると,こちらの方がずっとびっくりする話かもしれませんね。


 現在の日本の会社法という法律には,株式会社と並んで持分会社というのが規定されています。合名会社,合資会社,合同会社といった小規模な会社のための制度ですが,そこでは「社員」という言葉が,会社を設立するために出資する人という意味で使われています。この持分会社における「社員」に当たるのが,株式会社における「株主」です。会社法のどこを読んでも,会社のメンバーは出資した人,つまり持分会社の「社員」であり,株式会社の「株主」です。それ以外にはありません。



濱口桂一郎 (2013). 若者と労働―「入社」の仕組みから解きほぐす 中央公論新社 pp. 49


メンバーシップ型

 日本では,会社というのは「社員」という「人」の集まりだが,その「社員」というのは英語でいうエンプロイ-のことを指す,と。つまり,初めに「人」ありきというときのその「人」は,会社のメンバーである「人」という意味なのですね。初めに「メンバー」としての「人」ありき,という意味で,これを私は「メンバーシップ型」と呼ぶことにしました。欧米においては会社のメンバーなどではあり得ないエンプロイ-が日本では会社のメンバーになっているということ,そしてそのメンバーに仕事を当てはめるというのが日本の仕組みであるということを一言で表現する言葉として,なかなかよくできているのではないかと思っています。



濱口桂一郎 (2013). 若者と労働―「入社」の仕組みから解きほぐす 中央公論新社 pp. 37


人工言語の目的

 ザメンホフが計画言語を創案する必要を感じたのは,前述のように,複数の民族がいがみ合う後継が日常茶飯事だった故郷の土地柄が影響していた。しかし今日,同じ用語を用いながら敵対関係にある国家も存在するのだから,共通言語があれば事足りるという単純な話ではない。エスペランティスト(エスペラント話者)の中には,島でも購入し,独立国を興し,そこの公用語をエスペラントにしたらどうだろうと考える人もいる。この場合,次世代以降ではエスペラントはピジン・クレオール語化し,ごくふつうの民族語の一つとなることだろう(異言語間コミュニケーションの産物として生まれた言語がピジン語・それが次世代で母語となったものがクレオール語)。そうなれば,複数民族の橋渡し的言語としてのエスペラントの理念は失われることだろう。



渡辺克義 (2017). 物語 ポーランドの歴史 中央公論新社 pp. 88


エスペラント

 エスペラントに懐疑的な人からの質問で最も多いものに,「エスペラントで感情の機微が表現できるのか」「エスペラントに(創作)文学はあるのか」「エスペラントに文化の名に値するものはあるのか」が挙げられる。最初の質問については,「ほぼ可能」というのが私見である。第二の質問に対する答えは「ある」が正解で,それ以外の答えはない。エスペラントでは,その誕生の瞬間から創作文学が存在する。第三の質問に対する答えも「ある」が正解である。130年余りの使用の歴史を経て,エスペラントにも独自の文化がある。一例として,創作文学などに垣間見えるコスモポリタニズムを指摘できるだろう。



渡辺克義 (2017). 物語 ポーランドの歴史 中央公論新社 pp. 88-89


クリティカル・マス

 いま挙げた例すべてに共通するのは,人々の行動が,どれだけ多くの人がその行動をとるか,あるいはどれだけの頻度でその行動をとるかに左右されることである。どれだけ多くの人がどれだけの頻度でセミナーに出席するか,どれだけ多くの人がどれだけの頻度でバレーボールに参加するか,どれだけ多くの人が喫煙するか,二重駐車するか,どれだけ多くの人がどの程度力強く拍手するか,どれだけ多くの人がさびれた地区を離れるか,どれだけ多くの生徒が転校していくか,といった具合に。


 これらの行動を総称して,クリティカル・マスと呼ぶ。社会科学者はこの名称を原子力工学からとった。原子力工学では,原子爆弾に関連してこの言葉がよく使われる。ウラニウムのような物質の中で放射性崩壊が発生すると,中性子が大気中に放出される。中性子が他の原子核に衝突すると,核が分裂して2,3個の中性子が飛び出し,それがまた同じことを繰り返す。ウラニウムが少量の場合には,中性子からすれば空間はほとんど「空っぽ」で他の原子と衝突する可能性はごく小さいため,新たな中性子の放出はごく少量にとどまる。だがウラニウムが大量であれば,衝突する可能性が高くなり,2個以上の中性子を生み出すことになる。さらに,中性子の半分以上が新たに2個の中性子を生み出せるだけの量のウラニウムが存在すれば,この分裂反応は自律的に維持されるようになる。このときにウラニウムの量を「臨界質量(クリティカル・マス)」と呼ぶ。臨界質量を上回るウラニウムが蓄積されれば,1個の中性子が平均して1個以上の中性子を生み出す。爆発的な連鎖反応が起きると(密閉空間の中で火薬1粒の爆発が他の爆発を誘発する現象と似ている),ウラニウムは一瞬で全部消費される(ウラニウムがばらばらに飛び散って反応が止まる場合を除く)。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 103-104


命題とは

 とはいえ命題にとって重要なのは,その妥当性が定義次第であるにしても,ともかくそれまで私たちが知らなかったことを語っているかどうか,ということだ。あるいは,誰か(その誰かは定義のことなどよく考えないかもしれない)にとって,その人の知らなかったことを語っているかどうか,ということである。この点に関しては,誰でも自分で判断できる。ある命題が,あなたの知らなかったこと,あなたが経験していないことを教えてくれるなら,あなたは一歩前進したことになる。なぜならその命題を通じて,あなたは世界について何かをひとつ知ったことになるからだ――たとえそれが,実証的に裏付けられた科学的事実として普遍化することはできないとしても。たとえば,死亡原因に占める非感染性疾患の割合が50年前より増えたのは,感染性疾患による死亡が減ったからであって,必ずしも他の病気の死亡率が上がったからではない。このことをもしあなたが知らなかったとしたら,この命題に注意を払ったおかげですこし賢くなったわけである。こんなことも知らなかったのかと,少々いまいましく感じるかもしれないが。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 53-54


素敵な成り行き

成り行きって 、恐ろしいものだ 。でも 、恐ろしく素敵な成り行きもある 。



森博嗣 (2017). ダマシ×ダマシ 講談社 2894/3490 (kindle)


問題解決

人間は 、自分が話したいことを探して言葉にする 。自分の意思で 、そのハ ードルを越えること 、その決断が 、その後の自信になるし 、言ったことの責任も感じる 。だから 、人に話すだけで自分の問題が解決することだってある 。



森博嗣 (2017). ダマシ×ダマシ 講談社 100/3490 (kindle)


時限爆弾事例への反応

 道徳哲学の文献の一つのセクションにざっと目を通すと,カチカチという時計の耳障りな音が聞こえてくる。カチカチと音を立てる時計のシナリオは,拷問の許容範囲―あるいはその逆―について論じる倫理学者のあいだで人気がある。一人のテロリストが捕まっている。彼がある大都市に仕掛けた小型の原子爆弾が,二時間後に爆発することがわかっている。テロリストは爆弾を仕掛けた場所を言おうとしない。情報を吐かせるために拷問をしなければ,数千人が命を落とす。どうすべきだろうか?


 9・11の同時多発テロで明らかになったのは,世界には民間人の大量殺害という目的に夢中になっている人がいるということだった。それ以降,倫理をめぐる討論に登場する時限爆弾は,一般の人たちにとって現実味を帯びることになった。著名な法律学教授のアラン・ダーショヴィッツは,ある本を書いてリベラル派の人々を憤慨させた。彼はそこで,極端な状況では政府から拷問者に「拷問許可証」を与えてはどうかと提案したのだ。その後,拷問スキャンダルが起こっては広く報道されてきた。たとえば,アルカイダの工作員で9・11テロの黒幕だと考えられるハリド・シェイク・モハメドへの水責めだ。


 時限爆弾の事例に対する義務論者の反応には,以下の五つのパターンがある。


 一つ目。時限爆弾が経験的実在に対応している可能性を否定するもの。実際には,脅威は差し迫っていないのがふつうで,明確な期限は存在しないし,避けられない脅威も存在しない。命が失われることが確実にわかるわけでもない。そのうえ,拷問は効果がない,さらに悪いことには逆効果―偽りの自白を招く―かもしれない。信頼できる情報を引き出す,あるいは別の方法で危機を脱するための代替的で合法的な手段があるかもしれない。


 二つ目。一部の義務論者は,絶対論者の立場からの論理的帰結を受け入れる覚悟がある。いかに多くの命が失われようとも,彼らは拷問に許容範囲があることを否定しつづける。


 三つ目―おそらく標準的な見解。義務論者にもこう主張する人がいる。誰かを拷問しなければ,結果として本当に厄災を招く(たとえば数千人が命を落とす)という場合,拷問への制約は無視してかまわない。


 四つ目。一部の義務論者はこう主張する。重要な情報を入手する方法が拷問しかない場合,時限爆弾を仕掛けたテロリストは,道徳的観点からして拷問に服す義務がある。言い換えれば,この人物を拷問にかけることにはいかなる制約も存在しない。爆発によって想定される帰結のほうが,拷問への制約よりも重要だということではない。むしろ,テロリストはみずからの行動のせいで,拷問されない権利を没収されてしまったのだ。彼が仕掛けた爆弾が一人の命を脅かしているだけだとしても,拷問は許される。


 五つ目。このシナリオにかかわることを断固として拒否する。拷問の正当化の可能性を論じること自体が認められないと考える人もいるのだ。その可能性がとりあげられるだけで,心が病み,文化が堕落している証拠だ。ある哲学者が言うように「社会とは,そのなかで何が議論にふさわしくないとされているかによって,ある程度まで定義される。たとえば,われわれの社会では,黒人を奴隷にすべきか否かは議論の対象とならない……議論にふさわしくないと考えられるものは,それに関して二つの見方はないとして扱われるものである」。拷問はそうしたテーマの一つであり,一つの見方しかありえないというのだ。



デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.77-80


二重結果論


 二重結果論はもっとも正確に定式化できる。この定式化は一般に受け入れられているわけではない。とはいえ通常,二重結果論は四つの構成要素からなっていると見なされている。



・行為はその有害な結果から独立していると考えられ,行為自体は間違っていない。


・行為主体は悪い事態を予見してはいても,手段としてであれ目的としてであれ,善行をなす意図はあるが悪事を働く意図はない。


・悪い結果を招かずに善行をなしとげる方法はない。


・悪い結果は,求められている善行と比較して不釣り合いなほど甚大ではない。



 特定の軍事施設を攻撃目標とすることが正当化できるか否かを考えてみると,二重結果論の応用の仕方がわかる。巻き添え被害が予見されるにもかかわらず,ある施設を攻撃することを正当化するには,二重結果論によれば以下の条件が満たされる必要がある。この施設を攻撃すること自体は間違いであってはならない。この施設への攻撃は意図された行為でなければならないが,巻き添え被害は意図されたものであってはならない。この施設への攻撃から帰結する善に対して,巻き添え被害の悪が不釣り合いに大きくてはならない。



デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.52


路面電車学

 ほとんどのシナリオで,死の危機にさらされている五人には何の罪もない。そんな危険な状況に置かれる謂れはないのだ。五人を救うために殺されるかもしれない一人にも,いっさい悪いところはない。これらの一人と五人のあいだには何のつながりもないのがふつうだ。友人でもなければ同じ家族の一員でもない。唯一の共通点は,同じ悲惨な状況にたまたま巻き込まれたことだけである。


 やがて,われわれは「太った男」と出会うことになる。彼の扱い方をめぐる中心的な難題は,一世紀近くものあいだ哲学者を悩ませてきた。いまではそのトピックに関する論文が非常に多く存在するため,「路面電車学(トリオロジー)」なる冗談めかした新語が定着している。



デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.22


プライバシーと公共性

 プライバシーは固定化した構成概念ではない。それは何かの情報あるいは環境に自ずと備わっている特質ではない。それは人々が印象や情報の流れや文脈を管理することにより社会的状況をコントロールしようとするのに用いられるプロセスなのだ。皮肉屋はしばしばプライバシーを必要とするのは何か隠すものがある人間だけだと言う。しかし,その考え方は論点を紛らわしくさせるだけだ。プライバシーは個人の成長に必要不可欠であり,価値あるものだ。大人になりつつあるティーンエイジャーは,自分が重要な存在であると感じたいものだ。プライバシーは,社会の中で周縁化された,もしくは比較的恵まれていない者たちにとって,特に大きな意味がある。プライバシーを守ろうとするティーンエイジャーの努力はしばしば彼らに力を及ぼす存在によって弱体化されているが,彼らは決してプライバシーを放棄してはいない。それどころか,ティーンはこれまで無力な人々が脈々と用いてきた戦略を現代化し,利用して,常にプライバシーを守るための新しい方法を試みている。コンテンツへのアクセスをコントロールすることでプライバシーを見出す代わりに,多くのティーンは意味へのアクセスをコントロールしている。


 プライバシーと公共性は相反する概念と考えるのは簡単であるし,多くのテクノロジーは,利用者がプライベートでいるか公的でいるかどちらかを選ぶ前提で組み立てられている。しかし現実には,プライバシーも公共性もどちらもあいまいなものだ。多くのティーンは,公共空間を前にプライバシーを退けるのではなく,ネット上のパブリックの中でプライバシーを守る新しい方法を探っている。このようにプライバシーを守るために革新的な戦略を開発することで,ティーンはしばしば力を手にする。プライバシーはただ主体に依存しているわけではない。プライバシーを守ることができるということは,ひとつの主体性の表現なのだ。



ダナ・ボイド 野中モモ(訳) (2014). つながりっぱなしの日常を生きる:ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの 草思社 pp.122-123


良い質問とは

 良い質問とは,正しい答えを求めるものではない。


 良い質問とは,すぐに答えが見つからない。


 良い質問とは,現在の答えに挑むものだ。


 良い質問とは,ひとたび聞くとすぐに答えが知りたくなるが,その質問を聞くまでそれについて考えてもみなかったようなものだ。


 良い質問とは,思考の新しい領域を創り出すものだ。


 良い質問とは,その答えの枠組み自体を変えてしまうものだ。


 良い質問とは,科学やテクノロジーやアートや政治やビジネスにおけるイノベーションの種になるものだ。


 良い質問とは,探針であり,「もし~だったら」というシナリオを調べるものだ。


 良い質問とは,ばかげたものでも答えが明白なものでもなく,知られていることと知られていないことの狭間にあるものだ。


 良い質問とは,予想もしない質問だ。


 良い質問とは,教養のある人の証だ。


 良い質問とは,さらに他の良い質問をたくさん生み出すものだ。


 良い質問とは,マシンが最後までできないかもしれないものだ。


 良い質問とは,人間だからこそできるものだ。



ケヴィン・ケリー 服部 桂(訳) (2016). <インターネット>の次に来るもの:未来を決める12の法則 NHK出版 pp.380-381


残響

 「残響」とは,言葉や音楽がやんだあとも室内で反射して聞こえる音をいう。ミュージシャンやスタジオエンジニアは部屋が「生きている(ライブ)」とか「死んでいる(デッド)」などと言うことがある。ライブな部屋とは,たとえば声が響いて気分よく歌える浴室のような部屋だ。デッドな部屋とは,ホテルの豪華な客室のように,柔らかい調度品やカーテンやカーペットなどに声が吸収されて響きにくい部屋だ。部屋が音をよく反響させるか,それとも静まり返るかは,主に反響によって決まる。短い残響が生じる部屋では音がすぐには消えず,言葉や音楽が微妙に強調されて華やかになる。大聖堂などの非常にライブな場所では,残響がまるで生命をもつかのごとく鳴り響き,細部まで堪能できるほど長く持続する。残響は音楽の質を高め,壮大なコンサートホールでオーケストラの奏でる音の厚みを増すのに重要な役割を果たす。適度な残響があれば声が増幅され,部屋の両端にいる人が互いの声を聞き取りやすくなる。残響などの音響的な手がかりから感じられる部屋の広さが,ニュートラルな音や快適な音に対する情緒反応に影響するということを示す証拠も存在する。私たちは,広いスペースよりも狭い部屋のほうが静穏で安全,そして快適だと感じやすい。



トレヴァー・コックス 田沢恭子(訳) (2016). 世界の不思議な音 白揚社 pp.24


劣等な人々の永続への不安

 劣等人間が世代を超えて永続することに対する不安は,「彼らが持っている何かが彼らの子孫も確実に劣等人間にする」という仮説に基づいている。1870年の時点では,まだ「遺伝子」の存在は知られていなかった。しかし当時のエリート階級の人々の多くは,大多数の人々は救い難い遺伝的形質を持っていると信じていたことに間違いはない。今日でこそ「劣等」という差別的用語を使う失礼な人はいないだろうが,こうした考え方自体は,現在もなお根強く生きている。社会の大多数の遺伝子と言うとき,それは彼らのIQや教育困難性,福祉依存傾向,犯罪傾向などの個人的特性がその時代に固定しており,社会的条件が新しくなっても変化することはないという考えを意味している。


 私は当時使われていた言葉をあえてそのまま使うことにする。すなわち大多数の人間は「劣等」である。「除去すべき人」と言い換えてもよい。端的に言えば,「おまえたちはおまえたちのような子孫を作ってしまうだろうから,我々はおまえたちの遺伝子を除去したいのだ」ということである。言い方はどうあれ,ここには私たち人類の心と人間性は凍結されているという仮定がある。しかし,この過程は間違いであることを歴史が証明している。かつて私は,一人親になってしまう黒人女性の割合は,自立できる黒人男性配偶者の割合が変化するのに応じて変化するだろうと述べたことがある。自立可能な男性が多ければ,より多くの黒人女性が夫を見つける。一方,自立可能な男性がわずかしかいなければ,黒人女性のわずかしか夫を見つけることができず,彼女たちの多くが,一人親(シングルマザー)になるのである(Flynn, 2008)。


 私は「今日の劣等人間は明日の劣等人間」という考え方を否定する。もし,ある社会に一定の割合でIQの低い人々がいれば,彼らはIQの低さのために「劣等人間」の烙印を押されるだろう。そして,世代を経るごとにIQが低下すれば,その社会の「劣等人間」の割合は増加することになる。逆に,もし世代を経るごとに下層階級の人々が「劣等人間」でなくなれば,つまり,もし彼らが永久に「劣等人間」でないのであれば,IQの低い人々,すなわち望ましくない個人的特性を持つ人々の割合が次第に減少することになる。本書の趣旨は,社会が近代化するのに伴って,時代とともに,人々の精神や能力がどのように変容してきたのかを跡づけることに外ならない。



(Flynn, J. R. (2013). Intelligence and Human Progress: The Story of What was Hidden in our Genes. New York: Elsevier.)


ジェームズ・ロバート・フリン 無藤 隆・白川佳子・森 敏昭(訳) (2016). 知能と人類の進歩:遺伝子に秘められた人類の可能性 新曜社 pp.54-55


赤の女王仮説

 すべての進歩は相対的である,というこの概念は,生物学の分野では「赤の女王仮説」として知られるようになった。『鏡の国のアリス』のなかで,アリスが出会うあの女王のことである。赤の女王は走り続けるが,永遠に同じ場所にとどまっている。風景が彼女についてくるからだ。この考え方は,進化の理論にますます大きな影響を与えるようになってきており,本書でも再三繰り返されることになるだろう。速く走れば走るほど,世界もまた速度を増し,それだけ進歩は少なくなる。人生はチェスのトーナメントだ。ゲームに勝ったところでまた次のゲームに進まなければならない。しかも「駒落ち」というハンディを負って。



マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.39


悪口・陰口

悪口や陰口というのは,物事やひとの行動が嫌だと思ったときに,それが変わってほしいという思いがフラストレーションとなって,それを本人に直接言えないときに,別の分かり合えているひとに話す行動である。これが繰り返されれば,派閥が生まれたり,孤立するひとが出たり,弱い側のひとがつぶれていく。自殺につながる可能性もある。

森川すいめい (2016). その島の人たちは,ひとの話をきかない:精神科医,「自殺希少地域」を行く 青土社 pp.76

ペットの定義

わたしのお気に入りは,ペンシルバニア大学の人類動物学者,ジェームズ・サーペルによるペットの定義だ。サーペルによると,ペットとは明白な役割を持たないままわたしたちがいっしょに暮らす動物を指すのだという。でも,この幅をもたせた定義ですらも,その境界線のあたりではおかしなことが起きる。比較的最近まで,アメリカの家庭で飼われる多くの動物には何かの仕事が与えられていた。たとえばイヌだったら,家畜の群れを追い,狩りをし,番犬になり,荷車を引き,ときにはバターをかき混ぜるのを任されたりもした。ネコだって,愛情の対象としてよりもむしろ,生きたネズミ捕りとしての立場に甘んじていたのだ。アメリカでは,カナリアを筆頭に,カゴのなかで飼われる鳥の数が爆発的に増加する19世紀半ばまでは,飼い主を楽しませるのが唯一の役目という動物はほとんどまれだった。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.103-104

名前と分類

動物に名前をつけたり,特徴を言いあらわしたりするときにわたしたちが使う言葉は,動物についてどう考えるかという問題にかかわるもうひとつの要素——すなわち,動物をどのように分類するか,ということとも深く関係している。たとえば「ペット」に分類される動物には名前をつけるけれど,「研究対象」に分類される動物にはふつう名前はつけない。最近,ある生物学者に,実験室のマウスには名前があるのかどうか尋ねてみたら,こいつは頭がおかしいんじゃないかという顔でこっちを見ていた。そりゃそうだ。だって,生物学者が突いたり,深針を挿したり,注射したりする白いマウスは,本質的にどれも同じなんだから。名前なんかつけてどうするって言うんだ?

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.61-62

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