この物語の教訓の一つは,直観と“常識”はこと科学問題となるとめったに十分ではありえないということだ。ウィルソンの直観は部分的には正しかったことが判明したが,フランクリンの直観もそうだった。しかしもっと真剣な教訓も引き出せるし,そのうちの一つは今日の多くの科学論争とも密接な関係がある。それはリスクの評価にかかわる。ウィルソンは雲がどれだけの電気を含んでいるかをだれも知らないし,尖った避雷針は一挙に多くの電気を引き寄せるから危険があると論じた。この議論は,原子力から遺伝子操作作物にいたるまで,すべてにつきまとう危険についての今日的な議論に,びっくりするほどよく似ている。ロング・アイランドにあるアメリカの新しい巨大加速器——相対論的重イオン衝突器(RHIC)がブラックホールを生み出し,全地球を飲み込むかもしれないなどという主張すらあるのだ。
新しい加速器に関係している科学者は反論を提出し,そのような破局の危険性は実質的にゼロだと述べたが,私の見るところでは,これは論点を見逃している。だれもリスクが正確にゼロだと言うことはできないし,同様にだれも装置を建設しないリスクが正確にゼロであるとは言えないのだ。未来に待ち受ける未知の破局を回避する唯一の手段が,この装置によって発見されるとしたらどうだろう?
危険は“無視できる”と主張する科学者はうぬぼれに耽っているのだが,危険は冒すに値しないと開き直っている政治家や圧力団体のメンバーたちも同じだ。人間は進歩するには危険を冒さねばならないというのは真実だが,そのリスクの評価およびそれが冒すに値するかどうかを判断するのは,避雷針の場合のようにしばしば不可能なのだ。
レン・フィッシャー 林 一(訳) (2009). 魂の重さは何グラム?—科学を揺るがした7つの実験— 新潮社 pp.121-122
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