私たちの経験する事柄は,意識される前に意味を獲得している。
神経系の配線の具合だけが,こうした錯覚の原因ではない。文化的要因の占める比重もきわめて大きい。たとえば,西洋以外では,絵に遠近法を用いない文化が多い。したがって,錯覚には,絵をどう「読む」かという文化的慣習がしばしばかかわってくる。だからといって,そうした慣習が意識されやすくなるわけではない。生まれ育った背景から自分自身を切り離すのは難しい。絵を意識的に「見る」ことを始めるずっと前に,大量の情報が処分されているからだ。
エチオピアのメ・エン族を対象に,画像知覚を調べた文化人類学の研究がある。絵を見る際に処分される情報の一例として,この研究を引いてみよう。学者たちはメ・エン族の人に絵を見せ,これは何かと尋ねた。「彼らは紙に触り,匂いをかいだ。紙を丸め,クシャクシャという音に耳を傾けた。それから,少しちぎって口に入れ,噛んで味わった」紙に描かれた図柄は彼らの興味を引かなかった。メ・エン族の人にとって,絵とは布に描かれたものだからだ。(もっとも,布に描かれた西洋画をメ・エン族に見せたところ,西洋人の基準からすれば読み取れて当然の情報が読み取れずに苦労していた。)
文化人類学者コリン・ターンブルは,コンゴのピグミー族の研究を行った。ピグミーは一生を森の中で過ごすため,遠くにある物体の大きさを判断するという経験がない。ターンブルは一度,案内人のケンゲを森の外に連れ出した。「ケンゲは平原を見渡し,数マイル先のバッファローの群れに目を留めた。あれはなんという虫か,と訊くので,あれはバッファローだよ,と言って,君も知っているフォーレスト・バッファローの2倍はある,と答えた。ケンゲは大声で笑い,そんな馬鹿な話はよしてくれ,と言った。……車に乗り込み,バッファローが草を食んでいる場所に向かった。ケンゲはバッファローがだんだん大きくなるのをじっと見ていた。そして,どのピグミーにも劣らぬ勇敢な男性でありながら,席を移って私に身を寄せ,これは魔法だ,とつぶやいた。本物のバッファローとわかった時には,もはやおびえていなかったものの,どうしてあんなに小さく見えたのかを判じかねていた。最初は本当に小さかったのに突如大きくなったのか,それとも何かのまやかしなのかと,すっかり当惑していた」
西洋人にしても,西洋画の理解に苦しむ時がある。それが芸術という隠れ蓑を着ているときはなおさらだ。
パブロ・ピカソはあるとき,列車で同じコンパートメントに乗り合わせた乗客から,なぜ人を「ありのままに」描かないのか,と尋ねられた。ピカソがそれはどういう意味か,と問い返すと,男は札入れから妻の写真を撮り出して言った。「妻です」ピカソは答えた「ずいぶん小さくて平べったいんですね」
トール・ノーレットランダーシュ 柴田裕之(訳) (2002). ユーザーイリュージョン:意識という幻想 紀伊国屋書店 p.234-235
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