科学的知識によって人間の価値が損なわれるのではないかという不安について考えると,私は映画『アニー・ホール』の冒頭で,主人公のアルビー・シンガーが子どもの頃に,かかりつけの医師のところに連れてこられたシーンを思い出す。
母親 気が落ち込んでいるんです。急に何もできなくなってしまって。
医師 どうして落ち込んでいるの,アルビー。
母親 フリッカー先生にお話しなさい。(息子の代わりに答える)何か読んだらしいんです。
医師 何か読んだ?
アルビー (うつむいて)宇宙は膨張している。
医師 宇宙は膨張している?
アルビー 宇宙はすべてでしょ。それが膨張しているなら,いつかばらばらになって,何もかも終わりになってしまうんだ。
母親 それがあなたになんの関係があるの?(医師に向かって)宿題もしなくなってしまって。
アルビー 宿題なんかに,なんの意味があるのさ。
このシーンがおかしいのは,アルビーが分析の二つの水準ー宇宙をはかる何十億年という尺度と,数十年,数年,数日という人生の尺度とを混同しているからだ。アルビーの母親の言うとおり,「宇宙があなたになんの関係があるの?あなたはブルックリンにいるのよ。ブルックリンは膨張していません!」なのだ。
私たちの動機がすべて利己的であるという考えに出会って落ち込む人は,アルビーと同じくらい混乱している。究極要因(何かが自然淘汰で進化した理由)と至近要因(それが,いまここでどのように働いているか)とを混同しているのだ。二つの説明は良く似ているように見える場合があるので,混同されるのも無理はない。
リチャード・ドーキンスは,遺伝子を利己的な動機をもつ行為主体としてイメージすると,自然淘汰の論理を理解しやすいことを示した。彼がこれを思いついたことをだれもねたむべきではないが,このメタファーには,うっかりしているとひっかかるワナがある。遺伝子はメタファーとしての動機(自分のコピーを作ること)をもち,遺伝子がデザインする生物個体は現実の動機をもっている。しかしこの二つの動機は同じではない。ある遺伝子のもっとも利己的なふるまいが,人間の脳に非利己的な動機ー惜しみない深い利他心ーを組み込むことだという場合もある。子ども(自分の遺伝子を後世に伝える人)や,忠実な配偶者(遺伝子の運命をともにする人)や,友人や同盟者(あなたが信頼に値する人間であればあなたを信頼する人たち)に対する愛情は,どこまでも深くなりうるし,遺伝子(究極レベル)はメタファーとして利己的であっても,人間(至近レベル)については非難すべきところはない。
説明がこれほど混同されやすい理由はもう一つあるのではないか,と私は感じている。だれでも知っているように,人はときに秘めた動機をもつ。表向きは寛大だが内心は欲が深いということもあるだろうし,表向きは信心深いが内心はシニカルだとか,表向きはプラトニックだが内心は欲望を感じているということもあるだろう。私たちはフロイトのおかげで,秘められた動機が行動に浸透し,意識にのぼらない心の部分でその影響力を行使するという考えに慣らされている。それと,遺伝子はいわばその人の本質あるいは中核だというよくある誤解が一緒になって,ドーキンスとフロイトのあいのこができる。メタファーとしての遺伝子の動機は,その人の深いところにある無意識の秘められた動機だ,という考えである。これは誤りである。ブルックリンは膨張していない。
スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[中] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.105-107.
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