ふたりは数年前,イスラエルの託児所で,子供の迎えに遅れてくる親に罰金を科すのが有効かどうかを調査した。そして,罰金はうまく機能しないばかりか,長期的に見ると悪影響が出ると結論づけた。なぜだろう。罰金が導入される以前,先生と親は社会的な取り決めのもと,遅刻に社会規範を当てはめていた。そのため,親たちはときどき時間に遅れると後ろめたい気持ちになり,その罪悪感から,今度は時間どおりに迎えにこようという気になった(イスラエルでは,罪の意識が人を説きふせるのに有効なようだ)。ところが,罰金を科したことで,託児所は意図せずに社会規範を市場規範に切りかえてしまった。遅刻した分をお金で支払うことになると,親たちは状況を市場規範でとらえるようになった。つまり,罰金を科されているのだから,遅刻するもしないも決めるのは自分とばかりに,親たちはちょくちょく迎えの時間に遅れるようになった。言うまでもなく,これは託児所側の思惑とは違っていた。
しかし,ほんとうの話はここからはじまる。もっとも興味深いのは,数週間後に託児所が罰金制度を廃止してどうなったかだ。託児所は社会規範にもどった。だが,親たちも社会規範にもどっただろうか。はたして親たちの罪悪感は復活したのか。いやいや。罰金はなくなったのに,親たちの行動は変わらず,迎えの時間に遅れつづけた。むしろ,罰金がなくなってから,子供の迎えに遅刻する回数がわずかだが増えてしまった(社会規範も罰金もなくなったのだから無理もない)。
この実験は悲しい事実を物語っている。社会規範が市場規範と衝突すると,社会規範が長いあいだどこかへ消えてしまうのだ。社会的な人間関係はそう簡単に修復できない。バラの花も一度ピークが過ぎてしまうともうもどせないように,社会規範は一度でも市場規範に負けると,まずもどってこない。
ダン・アリエリー 熊谷淳子(訳) (2008). 予想どおりに不合理:行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 Pp.116-117
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