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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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子どもも向上したい

 筆者は,「通常学級がダメだったら特殊学級へ」という指導にはこれまでも反対してきた。なぜなら通常学級でダメで特殊学級に移行するという状況は,子どもにとって挫折体験となり,子どもの自尊感情をいたく傷付けるからである。人生の早期にあまり挫折体験などさせるものではない。強引に40人態勢でがんばるよりも,子どもが参加できる形態,そしてカリキュラムを探し,そのような個々の必要に応じた教育を先に行って,その上で大きな集団での授業参加が十分に可能になった段階で,通常クラスへと送り出せばそのほうがよほど問題が少ない。これまでこのような対応は学校教育のシステムの不備によって実現できなかった。しかし現在進行している特殊教育から特別支援教育への移行は,まさにこの個別の必要に応じた対応を可能にするものである。

杉山登志郎 (2007). 発達障害の子どもたち 講談社 pp.199-200
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「何が何でも通常学級」はダメ

 「参加してもしなくても,何が何でも通常学級」と言われる保護者の方々は,自分がまったく参加できない会議,たとえば外国語のみによって話し合いが進行している会議に,45分間じっと着席して,時に発言を求められて困惑するといった状況をご想像いただきたい。これが1日数時間,毎日続くのである。このような状況に晒された子どもたちは,着席していながら外からの刺激を遮断し,ファンタジーへの没頭によって,さらには解離によって,自由に意識を体外へ飛ばす技術を磨くだけであろう。

杉山登志郎 (2007). 発達障害の子どもたち 講談社 p.198

ものわかりがいいことはいいことか

 最近いかにも「ものわかりのいい」子供たちや若者たちが増えているが,わたしは彼らを見て,本当に「わかっている」とは思えない。ちっとも「わかっていない」のに,「わかった風」をしていると思う。それは大人の考えが本当にわかっていたり,大人のいうことにしたがおうとしているのではなく,「どうせわかり合えないのだ」と割り切って,無用な摩擦を避け,適当に「良い子」になって,生活と気分の安定をはかっているのだと思う。
 親は安心するであろうが,結局は本当に「わかり合う」ための努力を,両方とも放棄しているのである。これはいまの子供や若者が,ずるいとか老成しているということではない。彼ら自身が少し後の世代について同じことを感じているはずで,いまの大人が(年齢が上になるほど),自分と同じ分類体系が通用していると思い込んでいるのに対し,若い人ほど実状が見えているのだと思う。
 以上は,日本のなかでの世代間の話であるが,同様の関係が,日本と外国,アメリカとソビエト,欧米諸国とイスラム圏,イスラエルとアラブ諸国,先進国と開発途上国などのあいだにあると思う。これらの当事者が,自分の分類体系だけが唯一の真理であると信じ,それ以外のものを排撃しているかぎり,相互理解は不可欠で,「わかり合える」ことはできず,結局は武力にものをいわせて相手をしたがわせるしかないという結果になる。世界全体がそういう方向に進みつつあって,本当にわかり合う努力が放棄されていっているのが,現在の危機的状況ではないかと思われる。

坂本賢三 (2006). 「分ける」こと「わかる」こと 講談社 pp.217-218

(引用者注:本書の原本は,1982年に刊行されたものである)

工学部が置かれたのは日本が最初

 工学部という学部が大学におかれたのは,日本が世界で最初である。基礎科学の教育をがっちりやってそのうえで,技術に応用するという悠長な道は,明治初年の日本ではその余裕がなかった。すでに19世紀も後半に入って,ヨーロッパで「工学」が成立していたということもあり,日本では科学教育は,工学教室から出発したのである。

坂本賢三 (2006). 「分ける」こと「わかる」こと 講談社 p.201

ネット世代へのアドバイス

 最後にネット世代に向けたアドバイスを送りたい。

1.大学へ行こう。そこは,高校よりはるかにおもしろい。そして,知識経済の中で成功していくためには学歴が必要だ。いずれにせよ勉強は一生を通じてしていかなければならない。小説を読んで心を豊かにしよう。ライティングと文法のスキルを磨こう。ネットでのスラングを学校や職場で使うのはやめよう。場を考えることが大事だ。
2.職場では忍耐強くしよう。特に旧式のテクノロジーそして,官僚主義的なものの進め方について言えることだ。すぐに辞めてしまうのではなく,しばらくは会社に留まり,変化のために行動しよう。ネット世代には価値がある。ネット世代のコラボレーションに関する知識がイノベーションと今世紀の成功を推進する。ベビーブーム世代は良き仲間だ。彼らにはネット世代の子供がおり,そのテクノロジーの活用法を理解している可能性が高い。仕事と生活を分離すべきでないという考え方は正しい。2つは両立するものだ。
3.悪い製品を買ってはいけない。企業に誠実に行動させるようにしよう。ネット世代には,企業のやり方を精査して,共同で対抗できる力がある。企業を丸裸にできる。これは企業にとっても良いことだし,他の誰にとっても良いことだ。企業が自らを磨くことになるからだ。
4.家族で夕食を取ろう。子供たちといろいろな価値観について話すには最適な場所だ。子供たちのオンラインでの安全性とプライバシーを守るために,そして,子供たちが適切な生活バランスを維持していけるように,子供たちと話し合うことが必要だ。子供たちは不適切な行動を取らなくなる。そして親は子供たちの行動を詮索したり,過保護になったりしないことを約束すべきだ。
5.経験を軽視してはいけない。何か重要なことの権威者であっても,すべてのことの権威であることはない。企業に入社すれば,年長世代に教えることも数多くある一方で,彼らから学ぶことも数多くある。もし,その組織でうまくやっていけない場合には,起業家,活動家,教師などその経験を生かせる選択肢はいくらでもある。
6.“かけがえのない人生”の原則に従って生きよう。人生は一度きりだ。大切にしよう。金がすべてでないというのは正しい。もちろん,経済的に豊かになるのは重要だが,未来にはそれ以上のものがある。子供が引き継ぐことになる世界について考え,良い場所にするために何ができるかを考えよう。地域コミュニティに参加しよう。政治活動に参加しよう。正しいことを実行しよう。
7.最後まであきらめてはいけない。年長者がネット世代を批判する時はそれを個人的な悪口と受け取ってはならない。ネット世代は最も賢い世代だ。本当だ。そして,最初のグローバルな世代でもある。この世代ならば世界をより良くしていくことができるはずだ。他者に手を差し伸べ,辛抱強く,理想を実現していこう。

ドン・タプスコット 栗原潔(訳) (2009). デジタルネイティブが世界を変える 翔泳社 pp.457-458

従来通りのやり方でやれば良い

 これは親にとって大きな課題だ。子供たちが道を誤り,危険な領域に進み始めてしまったら,彼らのインターネット上での冒険にどう対応すればよいのだろう。まずはものごとを大局的にとらえることから初めてみよう。子供の死亡原因で最大のものは交通事故だ。2000年から2005年の間に米国では8歳から17歳の子供およそ9807人が自動車事故で亡くなった。そのうち10代が運転する車に乗っていたのは半数以上,また死亡した子供の3分の2がシートベルトをしていなかった。であれば,世の中の親がシートベルトに関して神経をとがらせるのであれば納得がいく。ところが私たちは,この目の前にある共通の殺人要因については恐れを感じていない。自分たちの制御できないところに潜む,目に見えない脅威への恐怖の方がずっと大きいのだ。とはいえ私は,子供を世界での冒険に送り出すための準備としては,従来通りのやり方が有効だと信じている。
 賢い親は,たとえそれが可能であったとしても,家の外での冒険に出かける子供に毎回同伴したりはしないし,すべての電話をモニターしたり,パンフレットや本を全部見たり,家の中のテレビやパソコンの画面をいちいち調べたりはしない。同様に知らない人が校庭に潜んでいたり,恐ろしい画像が家のパソコンに表示されるかもしれなかったりする不完全な世界で,自分を守るための最善の手段を子供たちに教えるのがインターネット的に言って賢い親だ。しかし2002年の時点では,インターネット上での安全を守るための習慣について子供と話したことのある親は半数にも満たない。

ドン・タプスコット 栗原潔(訳) (2009). デジタルネイティブが世界を変える 翔泳社 pp.343-344

フィルタリングソフトよりも大切なこと

 アレックスが12歳の時,私は本音で父親と息子の会話をしようと一緒に座った。
 「ポルノって何なのか知ってるかい」と私は質問した。「知ってる」と息子が答える。「ポルノサイトに行ったことはあるかい」「ううん,ないよ」「そうか,ポルノについて話をしたいんだが」と私は言う。「パパ,ああいうのって,女の子をデートに誘えない負け組のためのものじゃないの」
 これは幸先が良いぞと私は思った。結果的に私たちは,ポルノがいかに女性を傷つけ,本当に好きな女性との性的な喜びを台無しにするか話し合った。そうして私たちは前述のような契約を結び,握手した。
 1年後,私たちの対処法に反対の立場を取るジャーナリストにインタビューを受けた。
 「けれどもドン,フィルタリングソフトの機能は大きく向上しているんですよ。どうして使わないんですか」と彼女は言った。それから「子供が親のクレジットカードで2千ドルもするソフトをインターネットで買ってしまうことを未然に防止する」ために使えるというプログラムについて説明してくれた。ちょっと考えてから私はこう答えた。「自分の子供が勝手に親のクレジットカードを使って金を盗んでしまうなら,それ自体が大きな問題です。解決策はソフトではないでしょう」。そういう行為をする子供には,正しい価値観や親との関係など,別のものが必要なのは明白だ。
 子供にポルノを見てもらいたくないならそのことを子供と話しましょう,というのがこの問題に対する私の結論だ。

ドン・タプスコット 栗原潔(訳) (2009). デジタルネイティブが世界を変える 翔泳社 p.342

一般教養や科学を学ぶべき理由

 大学生にとってみれば,1年生の時に習った技術的内容が卒業時点では古くなっている可能性もある。これこそが,一般教養と科学を教えるべき重要な理由だ。どう学ぶかを学び,変化する物事を理解する能力を身につけられるからだ。私の場合も一般教養課程での勉強は役に立っている。私がデジタルの世界で成功できたことは私の一般教養課程での経験によるところが大きい。

ドン・タプスコット 栗原潔(訳) (2009). デジタルネイティブが世界を変える 翔泳社 pp.211-212

覚えなくても調べればいい

 ここで,大学卒業後にエンジェネラに入社し,今はデトロイトの花形コンサルタントになった20代の優秀な若者のことが思い出される。彼のGMATのスコアは群を抜いており,会社でも高く評価されていた。しかし,彼は米国の地理をほとんど知らないそうだ。グーグルで調べることができるからだ。さらに,もし米国地理に関するテストを受けることになっても,1時間あれば記憶できるそうだ。であれば,なぜその情報を覚えておく必要があるのだろうか。高度な思考作業に集中した方がよいというわけだ。
 ここで,地理を覚えたり,知っていたりする必要がないと主張したいわけではない。18歳から24歳の若者のおよそ半数がニュースに出てきた国がどこにあるかを知る必要はないと言い,大学で勉強した若者のおよそ4分の3がイラク,イラン,サウジアラビアを地図で示すことができないというのは滑稽以外の何者でもない。ヘースティングスの戦いという歴史的事実があったこと自体を知っていなければウィキペディアで調べることもできないだろう。しかし,詳細を覚えるために苦労する必要はない。調べればすぐわかるからだ。

ドン・タプスコット 栗原潔(訳) (2009). デジタルネイティブが世界を変える 翔泳社 pp.170-171

インターネットの方が創造的

 明らかに,テレビの前に座っているよりも,インターネットで調べものをしている方がはるかに創造的だ。若い作家にとっては,これは願ってもないことだ。たとえば,私の家の数ブロック隣に住んでいる13歳の少女ゾー・ノウルズの例を挙げてみよう。ゾーは生まれて初めて小説を書き,FicWadというウェブサイトに投稿している。このウェブサイトの作品はテレビ番組,映画,漫画の派生作品であることもあるし,まったくオリジナル作品であることもある。彼女の作品のひとつは,1400人以上の子供たちに読まれた。読者から多くのフィードバックが寄せられている。創造的な若者にとってこのようなフィードバックがどのような意味を持つかを考えてみてほしい。作品をただ紙に書いて,いつか出版されることを夢想するよりもはるかにすばらしいことではないだろうか。

ドン・タプスコット 栗原潔(訳) (2009). デジタルネイティブが世界を変える 翔泳社 p.170

調査能力に長ける

 ネット世代は調査能力に長けている。信頼できない情報,スパム,フィッシングサイト,虚偽,いたずら,詐欺,なりすましなどにあふれたウェブ上の膨大な情報を考えれば,今日の若者は真実と嘘を見抜けるだけの能力を身につけていることがわかる。自分の周りの状況をよく認識しており,何が起きているかを常に知りたがっているようだ。そして,真実を知るためにデジタルテクノロジーを活用する。今,オーソン・ウェルズが宇宙戦争のラジオ版を監督したと想像してみよう。1938年には,このラジオドラマを聴いて本当に火星人が来襲したと考えた多くの人々によってパニックが広がった。ネット世代ならば,何回かのマウスクリックで,これはドラマであり,ニュース放送ではないことを知ることができるだろう。

ドン・タプスコット 栗原潔(訳) (2009). デジタルネイティブが世界を変える 翔泳社 p.116

インターネットの記憶は長い

 ネット世代は目覚めるべきだ。一見無害に思えるウェブサイトに疑いもなく本音をさらけ出すことで人生が台無しになってしまったケースは多い。インターネットの記憶は長い。たとえば,テキサスで重大な自動車事故に関与したドライバーは,刑事裁判における証拠としてマイスペースの投稿(「自分はアルコール中毒ではない,酒中毒だ」)を使われてしまった。ソーシャルネットワークへの投稿内容のために職を失ったり,就職の時に採用を断られたりするケースは枚挙に暇がない。フロリダ州の郡保安官代理は,マイスペースで飲酒と巨乳フェチについて書いた投稿を上司に見つかり,解雇されてしまった。ラスベガスのカソリック系学校の教師は,オンラインで自分がゲイであることを告白したために解雇されてしまった。大学や高校は「不適切」な投稿がないかマイスペースやフェイスブックを常にチェックしている。その結果,懲罰を受けたり,退学になったりする学生もいる。
 英国における調査では,企業の62パーセントが応募者のソーシャルネットワークへの投稿をチェックすると述べており,4分の1の企業がその結果として候補者を却下したと述べている。理由としては,過度の飲酒,非道徳的行為,反社会的行為などである。私の息子のアレックスは雇用主がそれほど真剣になる必要はないと考えている。「もし,ぼくがパーティでビールを飲んでいる写真があったとして,それは何を示しているのだろう。ぼくがアルコール中毒になる可能性があることを意味するのか,それとも,ぼくが人生を楽しむ社交的な人物で友だちもたくさんいることを示しているのか」

ドン・タプスコット 栗原潔(訳) (2009). デジタルネイティブが世界を変える 翔泳社 pp.97-98

協業による学習

 2004年1月のことだった。マーク・ザッカーバーグは,いかにも悪夢にありがちなパターンを現実に体験していた。ハーバード大学の最初の試験期,「アウグストゥス時代のローマ」という歴史の授業で教授が指定した本をまったく読んでいなかったのだ。実のところ,授業にも一度も出ていなかった。ザッカーバーグは「フェイスブック」というプログラムの開発で多忙だったのだ。フェイスブックは,学生たちが互いに知り合い,情報を交換するよう支援してくれるプログラムである。そして,試験の数日前になり,ザッカーバーグは彼自身の言葉によれば「どつぼにハマっていた」(just completely screwed)のである。
 しかし,彼には21世紀のコンピュータサイエンスを活用したアイデアがあった。まず,ウェブサイトを構築し,授業で使う図を置き,それぞれの図の横に議論を行なうためのスペースを設けた。ひょっとして,他の学生がそのスペースを埋めてくれるかもしれない。結局,24時間もしないうちに級友たちが適切な援助を行なってくれた。こうしてすばらしいノートが作成されたおかげで,ザッカーバーグを含むクラスの誰もがテストを優秀な成績で通過することができた。そして,ザッカーバーグによれば,教授はこれを不正行為とは考えなかった。教授は,学生がこのように独創的な方法で協業したことを高く評価したのだった。

ドン・タプスコット 栗原潔(訳) (2009). デジタルネイティブが世界を変える 翔泳社 p.57

老犬に芸を仕込むのは難しい

 老犬に新しい芸を仕込むのは難しい。コミュニケーション,情報アクセス,娯楽などにおいてまったく新しい方法を学ぶのは困難な作業だ。そして,新しいテクノロジーに順応するためには,すでに確立した思考パターンを変更する必要がある。今日では,旧世代の大部分もテクノロジーをうまく使いこなせるようになってはいる。しかし,使いこなせるようになるまでの行動がどのようなものであるかを覚えている人は少ないだろう。パソコンが最初に登場した時に,旧世代がそれを使いこなせなかったことで生まれた逸話は多数ある。実際,冗談としか思えないようなとんでもない話も数多い。マウスが足踏みペダルだと思った人から,うまく使えないという報告を受けたヘルプデスクの話がある。フロッピーディスクをコピーしてくれと頼まれて,コピー機でコピーを取ってきた秘書の話もある。“Hit any Key”というメッセージを文字通り受け取り,キーボードを叩いて壊した人もいる。サポートスタッフにウィンドウズを使っているかと聞かれて,「この部屋に窓はない」と答えた人もいる。修正液でフロッピー上のデータを消去しようとして人もいる。このような話は枚挙に暇がない。私の友人は,マウスをコンピュータの画面に向け,あたかもテレビのリモコンであるかのように操作しようとした。このような出来事から何を学ぶことができるだろうか。大人とは愚かな存在であるということだろうか。
 これらの大人たちの行動は笑えるものではあるが,十分理解できる。ベビーブーム世代は,テレビのリモコン,フットペダル,コピー機,窓,修正液,ドアなどに慣れている。これらは生活の中に何十年間も存在し,その使い方が頭に染みこんでいる。一方,ネット世代には過去の蓄積が少ない。ゆえに,デジタルメディアを容易に吸収することができる。
 コンピュータ科学者のアラン・ケイは「(テクノロジーは)発明される前に生まれた人にとってのみテクノロジーとして意識される」と述べている。学習とテクノロジーに関する研究のパイオニアであるセイモア・パパート教授もこれに同意し,「これが,ピアノがテクノロジーで音楽を破壊したか否かを我々が議論しない理由だ」と述べている。

ドン・タプスコット 栗原潔(訳) (2009). デジタルネイティブが世界を変える 翔泳社 pp.30-31

web上の情報が信頼できるかのチェックリスト

 異論の多い考えを評価する上で,幅広い資料にあたるのは有益である。インターネットはそれをきわめて容易にしてくれるが,しかし同時にエセ専門家のウェブサイトにたどりついてしまうこともよくある。ウェブサイト上の情報が信頼できるかどうかをチェックする非常に役に立つ方法についての要約を,サウスウエスト州立大学図書館の司書であるジム・カパウンが作成している(彼のサイト www.ala.org/acrl/undwebev.html を参照(引用者注))。カパウンのチェックリストは,大学生がサイトの信頼性を評価する際の助けになるようにつくられたものだが,その方法はどんな人間にとっても適切なものである。どんな話題についても,本物の専門家とエセ専門家を見分ける技量を,カパウンの問いに答えることによって磨くことができる。カパウンはあらゆるサイトに対して,特定の問いを提起している。誰でも使える判定基準をいくつか示しておこう。たいていの場合,エセ専門家のサイトは次のような特徴をもつ。

(1)エセ専門家はふつう自分が主張することのすべてに確信をもっている。
(2)自分の研究を頻繁に引用する。
(3)奇妙なタイトルで強い印象を与えようとする。
(4)自分の考えが学界から抑圧を受けていると述べる。
(5)明確な政治課題をもち,金銭的な動機をもっていることさえある。

ロバート・アーリック 垂水雄二・阪本芳久(訳) (2007). 怪しい科学の見抜きかた:嘘か本当か気になって仕方ない8つの仮説 草思社 Pp.10-11

注:現在サイトは閉鎖されている。「ジム・カパウン」は“Jim Kapoun”と綴るので,興味のある人は検索を。

武士道から学ぶべきこと

 武士らしい武士とは何かを追求するのが,武士道である。この追求は,頭の中で納得されて終わるものではなく,ここの武士がその一生の上に実現することで答えが出されるものである。だから,武士道とは,結局のところ,一人一人の武士の,「俺は武士である」という自覚の形であるということができる。
 武士は,あくまでも武士たらんとしたのであって,決して人間とか市民とかになろうとしたわけではない。しかも,武士とは,殺し,殺されることを当然のこととして承認するきわめて特殊な稼業である。その意味では,武士道の思想は,武士社会内でのみ通用する,普遍性を持たない思想であるということもできる。
 刀を抜いて切りかかってくる武士は,今日の私たちにとっては,理解不能な他者である。しかし,そもそも「他者」とは,そういう理解不能な何者かのことである。殺し合いを前提として生きている武士たちは,まさに,他者というものをその本質的な極限において認め,それと関わり合っていた者であったわけである。他者とは,ついに届かぬ何者かであり,自己とは,切られて血を流し,痛みを覚えるこの己れである。こういう自他のとらえ方を,身をもって示す武士の思想は,今日の常識的な自・他のとらえ方を,根本から問いただすための手がかりを与えてくれるかもしれない。
 今日の社会では,一応の建前として,自他の対立は,話し合いによって解くべきであるという考えが主流を占めている。理性的な対話こそが無垢・絶対であるとする立場に固執するならば,たとえば問答無用で切りかかってくる武士に対して,どのような言葉を投げかけうるのかを考えてみる必要があるように思われる。自分と他人は異なっているということの深さは,何によっても埋めがたい。どうしても対立を解消したいのなら,刀を抜いて相手を倒す以外にない。こういう考え方を,野蛮であるといって片付けるのは簡単である。しかし,そういったからといって,自他の隔たりの深さという問題自体がなくなるわけではない。むしろ,武士を野蛮と笑うそのときに,私たちは,他者の他者性という問題自体を見失っているかもしれないのだ。

菅野覚明 (2004). 武士道の逆襲 講談社 Pp.225-226

数学は能力ではなく態度である

 私たちは往々にして,「数学が得意なこと」を生まれつきの才能だとみなす。“その能力”があるかないか。だがショーンフェルドにとって,数学は能力ではなく態度である。試みることを厭わなければ,数学が得意になる。ショーンフェルドはまさに,そのことを学生に教えようとしている。成功とは,粘り強さ,辛抱強さ,勤勉を厭わない意思の結果であり,それらがあれば,たいていの人が30秒で投げ出すことに22分もかけて取り組める。たくさんのレニーをクラスに投入し,数学の世界を探検する場所と時間を与えれば,大きな成果が望めるだろう。

マルコム・グラッドウェル 勝間和代(訳) (2009). 天才!成功する人々の法則 講談社 pp.279

好機が成功をもたらす

 「アイスホッケーの選手には,同年齢の仲間たちの間で早く生まれた者が多い」という話は,「成功」について何を教えてくれるのだろう?
 私たちは,苦もなくトップに登りつめるのは才能ある精鋭たちだと考える。だがホッケー選手の話は,そのような考えが単純すぎることを教えてくれる。もちろん,プロになる選手は,私たちよりもずっと才能に恵まれている。だが,同時に早く生まれた選手は,同じ年齢の仲間たちよりもはるかに有利なスタートを切ってもいる。それは与えられて当然なわけでも,みずから勝ち取ったわけでもない「好機」だ。そしてその好機こそが,選手たちの成功に重大な役割を果たした。


マルコム・グラッドウェル 勝間和代(訳) (2009). 天才!成功する人々の法則 講談社 p36.

クラスに囲い込むことの問題

 学校のクラスに朝から夕方まで囲い込むことは,酷い「友だち」に悩む者に対して,次の二者択一を迫ることを意味する。この苦しさは,友を選択できる自由な人間には理解しがたい苦しさである。
 すなわち,ひとつめの選択肢は,過剰接触的対人世界にきずながまったく存在しない状態で数年間,毎日朝から夕方まで過ごす,というものだ。迫害してくる「友だち」とつきあうのをやめる。そして,数年間,朝から夕方まで,人間がベタベタ密集した狭い空間で,人との関係がまったく遮断された状態で生きる。声,表情,身振り,その他,さまざまなコミュニケーションが過密に共振し接触する狭い空間で,ひとりだけ,朝から夕方まで,石のように感覚遮断をしてうずくまっている状態を,少なくとも1年,長ければ数年間続けるのだ。これは,心理学の感覚遮断実験と同じぐらいの耐え難い状態だ。
 もうひとつの選択肢は,ひどいことをする「友だち」に,魂の深いところからの精神的な売春とでもいうべき屈従をして,「仲良く」してもらえるように自分の「こころ」を変える,というものだ。つまり,過酷な集団生活を生き延びるために,自己が自己として生きることをあきらめ,魂を「友だち」に売り渡す。そして,残酷で薄情な「友だち」のきずなにしがみつく。
 大部分の生徒は,後者を選ぶしかない。
 学校に限らず,人間にとって閉鎖的な生活空間が残酷なのは,このような二者択一を強いるからだ。
 また,しかとや悪口(ぐらいのこと!)で自殺する生徒がいるのは,このような生活空間で生きているからだ。市民的な空間で自由に友を選択して生きている人にとっては痛くもかゆくもないしかとや悪口が,狭い空間で心理的な距離をとる自由を奪われ,集団生活のなかで自分を見失った人には,地獄に突き落とされるような苦しみになる。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.178-179

教育と社会規範・市場規範

 同じ考えが教育の世界にどう応用できるか考えてみよう。わたしは最近,公教育における意欲刺激と説明責任に関する連邦委員会に参加した。社会規範と市場規範のこの側面は,今後わたしが探究したいと考えている課題のひとつである。委員会の任務は,「落ちこぼれゼロ」政策の見なおしと,生徒,教師,学校管理者,親の意欲を高める方法を見つける手助けをすることだ。
 これまでの感触では,共通試験や能力給によって教育が社会規範から市場規範へ押しやられてしまう可能性が高いように思う。すでにアメリカでは,生徒ひとりにつき,どの西洋社会より多くのお金を注ぎこんでいる。ここへきて金額をさらに増やすのは賢明だろうか。試験についても同じような検討が必要だ。すでに頻繁に試験をおこなっているのだから,これ以上増やしても教育の質が向上する見込みは少ない。
 わたしは,社会規範の領域に答えがあるのではないかと考えている。これまでの実験から学んだように,現金ではある程度のことしかできない。社会規範こそ長い目で見たときにちがいを生む力だ。教師や親や子どもの関心を試験の点数や給料や競争に向けさせるかわりに,教育の目的や任務や誇りの感覚を吹きこむほうがいいかもしれない。そのためには市場規範の道を進むわけにはいかない。しばらく前にビートルズが「キャント・バイ・ミー・ラブ(お金じゃ愛は買えない)」と高らかに歌ったが,これは学問への愛にもあてはまる。向学心はお金では買えない。ためせば消してしまうかもしれない。

ダン・アリエリー 熊谷淳子(訳) (2008). 予想どおりに不合理:行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 Pp.126-127

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