東大卒をはじめ学歴の高い信者が組織の中核を担うようになれば,そこには,合理性を追求する官僚制が生み出されていくことになる。ところが,創価学会の場合,会員のほとんどは,あくまで庶民であり,官僚制にはなじまないところがある。そうなると,学歴の高い会員と,庶民である会員との間に意識や行動様式の面でずれが生まれ,それが拡大していく危険性がある。
そのとき,創価学会が選択したのは,組織が官僚化していく道を閉ざし,組織の活動の中心的な担い手があくまで庶民である一般の会員であることを確認する方向だった。池田は,スピーチのなかで,民衆の重要性をくり返し強調している。彼の言う民衆とは,庶民である一般の会員たちのことにほかならない。
そして,幹部会を公開することで,官僚化への道を封じようとした。それに連動して,池田は,幹部会の席上で一般の会員を立て,幹部たちのあり方をくり返し批判するようになった。いくら高い学歴があっても,幹部はあくまで庶民であるっ一般会員に奉仕する存在でなければならないことを徹底して仕込んでいくようになった。
それができるのは,本人自身の庶民の出であり,庶民感覚を忘れてはいない池田だけなのである。しかも彼には,幹部たちを圧倒するカリスマ性があった。幹部会では,「南無妙法蓮華経」の題目を上げる場面があるが,池田の唱題する声は,他を圧倒していた。池田は,カリスマとして組織の官僚化や分裂を防ぐという機能を果たしているのである。
しかし,こうした方向性を選択したことで,創価学会は,自ら限界を設けてしまったことにもなる。庶民である一般会員にとっては,幹部たちが池田から叱られる光景に溜飲が下がるだろうが,学歴の高い幹部たちにとっては,必ずしも居心地のいい状態ではない。幹部たちには,エリートである自分たちが組織を引っ張っていくべきだという自負心があることだろう。ところが,そのプライドは,幹部会の席上で粉砕されてしまうのである。
幹部たちの間には,そうした状況に対する不満が,隠れた形で鬱積しているのではないか。しかし,その不満を解消しようとすれば,会員の大半を占める庶民の願望を満たすことができなくなる。おそらくそこに,創価学会の抱えるジレンマがあるのではないだろうか。
島田裕巳 (2004). 創価学会 新潮社 pp.140-141
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