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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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早稲田の改革

 早稲田文学部は,AO入試の類を導入していないが,それを真剣に検討していた時期がある。2000年頃で,専修によっては定員が埋まらなくなっていたからだ。25〜30人の半分も集まらない場合,その不足分を努力して集めるという発想だった。
 07年度から早稲田大学文学部は以前の第一文学部,第二文学部(夜間)を,新たに二学部に編成し直しての出発となった。文化研究の伝統を継承する「文学部」と,従来の学問領域を超えた新たな文化の領域にいどむ「文化構想学部」だ。この背景には,こうした問題があったのである。またこれは,学生への対応の1つでもあった。
 文学部では教務主任が長期にわたり1年生へのアンケートを蓄積していた。そこにはさまざまな不満が噴出していた。事務の対応の悪さ。英語教育への不満。その中で一番大きかったのが,希望の専修に行けないことだった。第1希望はもちろん,第2,第3希望も無理で,第4希望に進むしかない学生もいて,彼らの不満は大きかった。そこで,少なくとも「第2希望まで」に進めるように小規模の改革を重ねてきた。
 しかし,再編には大きな困難があった。スクラップ・アンド・ビルドには,既得権益を失う教員たちが多数出てくる。反対が多くて進まないことも予想された。
 そこで,人事権とカリキュラム編成権を専修から学部に移すことを試みたのである。それに着手したのは95年頃。土田健次郎が教務主任の時だが,一部の大反対にあってすぐには動かせなかった。しかし次第に危機感が広がっていく。当時,第一文学部,第二文学部では,それぞれに専任を置くのが建前だが,どうしても二文に非常勤が多くなる。そこで文学部所属の全教員を1つの学術院所属として,そこから「第一文学部」「第二文学部」「大学院」に出勤する形を構想した。
 この形が固まったのは03年。こうして,人事委員会とカリキュラム委員会とが,文学学術院全体の人事とカリキュラムを決定できるようになった。これによって学部の再編が可能にもなった。また,こうした体制ができたことで,教育内容やカリキュラムの改革が可能にもなった。1年次では,英語とレポート作成などの基礎をしっかり身につけてもらう。小論文廃止にもそうした背景があったのである。このようにして1年次の「基礎演習」は生まれた。基礎演習は各クラス30人。専任教員だけが担当し,1人が1クラスを見て,それが事実上のクラス担任にもなり,個別の面倒を見ることにした。新設学部の1年次には「基礎講義」として,新たに生まれた各論系・コースから,その分野を紹介する授業がある。すべてDVDによるオンデマンドで,自由な時間に,好きなだけ見ることができる。これは文学部全体で開発したものであるが,時間的制約のある第二文学部で特に有効であり,今回組織的に2つの新設学部に展開することになった。本部の大隈タワー地下にスタジオを持ち,そこで収録されている。講義も,インタビューも,座談会もある。
 こうして,新たなスタートを切った早稲田文学部だが,その背後には次代の変化に対応するべく大きな組織改革が進んでいた。それが教育カリキュラムにも入試にも,変化をもたらしていたのだ。
 なお,この文学部の学術院構想は本部の他学部にも広がった。他学部では関係学部のすべての長を院長が必ずしも兼任していないが,文学部では1人が兼任している。「そうでなければ機能しない」(土田)。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.60-63
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