忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

極論は無意味

 さて最後に,「それでは,親が子どもにどう接するかは問題ではないというのですか?」だが,これはなんという質問だろうか!もちろん問題に決まっている。ハリスは読者にその理由を思い出させている。
 第一に,親は子どもに対して大きな力を行使し,その行動は子どもの幸福におおいに影響する。育児にはとりわけ倫理的な責任がある。親が自分の子どもを殴ったり,自尊心を傷つけたり,与えるべきものを与えなかったり,無視したりすることが許されないのは,大きくて強い人間が小さくて無力な人間に対してそのような行為をするのは恐ろしいことであるからだ。ハリスが書いているように,「私たちは子どもの明日を掌握してはいないかも知れないが,今日を掌握しているのは間違いないし,明日を悲惨なものにする力も持っている」のだ。
 第二に,親と子の間には人間関係がある。自分の夫や妻のパーソナリティを変えられると信じている人は,新婚夫婦を除けばだれもいないのに,だれも,「それでは,夫(あるいは妻)にどのように接するかは重要ではないというのですか?」とたずねはしない。夫と妻がたがいによくしあうのは(あるいは,そうすべきなのは)相手のパーソナリティを望ましいかたちに作りかえるためではなく,満足できる深い関係を築くためである。夫あるいは妻のパーソナリティを改造することはできないと言われて,「彼(あるいは彼女)に注ぎ込んでいるこの愛情がすべて無意味だなんて,おそろしくてとても考えられません」と応答している人を思い浮かべてみよう。親と子についてもそうなのだーーある人のもう一人に対する行動は,二人の関係の質に影響を及ぼす。人生の時間が過ぎていくあいだに力のバランスが変わり,自分がどのように扱われたかを記憶している子どもたちが,親との関係において発言力を増していく。ハリスはこのあたりのことを,「道徳的要請だけでは,自分の子どもによくする十分な理由にならないと思う人は,こう考えてみるといいでしょう。子どもが幼いときによくしておくこと。そうすれば自分が年を取ったときによくしてもらえます」という言い方で述べている。うまく社会生活を送っているが,子どもの時に親から受けた残酷な仕打ちについて話をすると,いまだに怒りで身が震えるという人たちがいる。かと思えば,一人でいる時間に,母親や父親が自分のしあわせのためにしてくれたやさしい行為や自己犠牲,たぶん本人たちはとっくに忘れているそのような出来事を思い出してしんみりする人たちもいる。子どもがそのような思い出を持って成長できるようにという理由だけからでも,親は子どもにいい接し方をすべきである。
 私は人びとがこうした説明を聞くと,目を伏せていくぶん恥ずかしそうに,「ええ,そうですね」と言うのを見てきた。人びとが子どもを理屈や知識でとらえるようになると,こうした簡単な真実を忘れてしまうという事実は,現代の教養が私たちをどこまで遠くつれてきたかを示している。現代の教養は,子どもたちを人間関係のパートナーとしてではなく,好きな形をつくれるパテのかたまりのように考えるのを容易にする。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[下] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.226-228.
PR

TRACKBACK

Trackback URL:

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]