忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「パーソナリティ・個人差」の記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

ヘルマン・ロールシャッハの関心は

 心理学者の中にはロールシャッハテストをこのように精神分析的に解釈する人がいるが,ヘルマン・ロールシャッハが考えていたのはまったく違うことであった。彼は人々が見る性的あるいは攻撃的イメージにはあまり関心がなく,それらのイメージの動きと色彩のほうに関心があった。ある女性が図版の中に彼女の父親を思わせる怪物を見たとすると,おそらくロールシャッハは,そのモンスターが動いているように見えたかどうか,この女性のイメージの選択に図版の色が影響していたかどうかにもっとも関心を向けたことだろう。動きと色の知覚が現実に対する人の基本的な態度を表すということが彼の中心的な考えであり,『精神診断学』のほとんどのページがそのことにあてられていた。

J.M.ウッド,M.T.ネゾースキ,S.O.リリエンフェルド,H.N.ガーブ 宮崎謙一(訳) (2006). ロールシャッハテストはまちがっている—科学からの異議— 北大路書房 p.27
(Wood, J. M., Nezworski, M. T., Lilienfeld, S. O., & Garb, H. N. (2003). What’s Wrong with the Rorschach?: Science Confronts the Controversial Inkblot Test. New York: John Wiley & Sons.)
PR

『精神診断学』出版とロールシャッハの死

 ロールシャッハの本,『精神診断学(Psychodiagnostics)』は1921年6月に出版された。これは彼の最初で最後の著書となった。その後の数カ月間,彼はこのテストについての考えをさらに発展させ,チューリヒ精神分析学会で臨床現場でのインク図版の有用性についての講演を行なった。しかしロールシャッハの親しい友人たちを除いて,彼の新しいテストに注意を向ける精神医学者はほとんどおらず,彼の本はわずかに数冊が売れただけだった。この冷淡な反応のために,彼は落胆し,いつになく落ち込むようになった。そして,『精神診断学』が出版されてから9ヵ月後,ロールシャッハは腹部の痛みを訴えて病院に入院したが,翌1922年4月2日,虫垂破裂による腹膜炎の併発で亡くなった。37歳であった。
 ロールシャッハがインク図版テストについて書いたものはきわめてわずかしかない。彼が残したのは,図版そのものと,1冊の著書『精神診断学』,死後に出版された精神分析学会での講演だけである。オイゲン・ブロイラーはロールシャッハを「スイス精神医学の一代のホープ」として賞賛したが,早すぎる死のために,彼の仕事が後に大きな影響を与えることはありそうもないと思われた。チューリヒの彼の同時代の人々で,彼が以後80年にわたって,心理学者にもてはやされ,また非難されることにもなる遺産を残したことを予見していた者はほとんどいなかった。

J.M.ウッド,M.T.ネゾースキ,S.O.リリエンフェルド,H.N.ガーブ 宮崎謙一(訳) (2006). ロールシャッハテストはまちがっている—科学からの異議— 北大路書房 p.26
(Wood, J. M., Nezworski, M. T., Lilienfeld, S. O., & Garb, H. N. (2003). What’s Wrong with the Rorschach?: Science Confronts the Controversial Inkblot Test. New York: John Wiley & Sons.)

脳機能によるパーソナリティ・レッテル

 さらに,非言語的な手がかりを読みとる機能が弱いために,人とうまくつきあえない場合もある。バーバラは,その子たちのためにも脳の訓練を考えだした。さらに,前頭葉に欠陥があるために衝動的になってしまう生徒,計画や戦略を立てる能力に問題がある生徒,関係するものを区別したり,目標を立てて,それを覚えておくことができない生徒向けの訓練もある。こうした問題をかかえると,支離滅裂で,気まぐれで,失敗から学ぶことができないと思われがちである。バーバラによると,「ヒステリック」とか「人間嫌い」などのレッテルを貼られている人の多くは,この領域が弱いのだという。

ノーマン・ドイジ 竹迫仁子(訳) (2008). 脳は奇跡を起こす 講談社インターナショナル p.60

ロールシャッハ図版は公開しても良いか

 ロールシャッハ図版が心理学を専門としていない人々に知られてしまっても問題がないかどうかについては,心理学者の考えは決まっていない。心理専門職に携わる人々は,心理検査の材料が一般の人々に知られると,そのテストが役に立たないものになってしまうかもしれないので,それを知られないようにしておく必要があると考えている。たとえば,本書でロールシャッハ図版を見たことがある読者が,後にこのテストを受けることになった場合には,おそらく図版を見たことがない場合とは違う反応をして,テスト結果は妥当なものではなくなってしまうだろう。時々あるように,ロールシャッハ図版のコピーがウェブ・ページに掲載されたり,その他の手段で一般の人々の目にふれるようにされたりすると,心理学者が激怒することがあるのは,この理由からである。

J.M.ウッド,M.T.ネゾースキ,S.O.リリエンフェルド,H.N.ガーブ 宮崎謙一(訳) (2006). ロールシャッハテストはまちがっている—科学からの異議— 北大路書房 p.19
(Wood, J. M., Nezworski, M. T., Lilienfeld, S. O., & Garb, H. N. (2003). What’s Wrong with the Rorschach?: Science Confronts the Controversial Inkblot Test. New York: John Wiley & Sons.)

IQ値を上げる?

 つまり,経済的梯子の一番下にいる人種や社会階層の人たちの上げようにも上げられないIQ値を上げるために,骨を折り,金を出す理由があるのだろうか?それよりも,ただ自然の不運な命令を受け入れ,多額の連邦準備金を節約するほうが好ましい(そうすれば,金持ちへの税制優遇措置をより簡単に維持できる!)。あなたが住んでいる高級住宅地内の不利な境遇にある人々の過小評価をなぜあなた自身が悩む必要があるというのだろうか。もし次のような欠如,つまり拒絶されたグループの多くの人々の能力あるいは一般道徳が低下していることは,生物学的に刻印されており,社会的偏見の遺産でもなく,現実の実状でもないとするならば,悩む必要などないのではないか(そのように刻印を押されたグループとは,人種,階級,性別,行動上の性癖,宗教,出身国である。生物学的決定論は一般理論であり,現在の軽蔑の対象となる特定の担い手は,どこでも,いつでも,似たような偏見の対象となるすべての他者の代理となる。その意味で,名誉を傷つけられたグループ間の団結を要求することは単なる政治的レトリックとして避けられるべきではなく,むしろ虐待という共通の理由に対する正しい行動であると,称賛されるべきである)。

スティーヴン・J・グールド 鈴木善次・森脇靖子(訳) (2008). 人間の測りまちがい:差別の科学史 上 河出書房新社 p.29

問題への完全な没入

 私が思うに,創造性というのは,効率的で感情移入的な問題解決である。この系統だった過程において感情移入がはたす役割は,個人と問題との交流を象徴することである(私は「問題」という言葉を,ゲスリンがそうしたように,大まかな意味で使っている。ある芸術家にとっての問題とは,1個のリンゴをどう描くか,ということかもしれないのだ)。創造的な人間は,自分の視点を問題のなかに移入し,持ち前の知性と性格にある何かでその問題をつぶさに調べ,そこから見通しを導きだしさえする。彼は,問題の難解さそのものと自己を同化させる。ジョルジュ・ブラックは,同じような概念を別の言葉で簡潔に説明している。「人は,対象物をただ描くだけではいけない。そのなかに入りこみ,自身が対象物にならなくてはいけない」
 この,問題への完全な没入が意味しているのは,どうしても理解したいというひじょうに強い,底なしの関心があることである。場合によっては,それに起因する行動が,一般の基準にくらべて行きすぎと思われることもある。たとえば,日系カナダ人の建築家キヨシ・イズミは,精神分裂病患者用の病院を設計したとき,そこで生活することになる人びとの知覚的なひずみを理解するために,分裂病とよく似たいくつかの効果が得られるLSDを服用した。この完全な没入という現象は,奇人に特有のものである。極端に走ることこそ,ほとんどの奇人たちが唯一,進みかたを知っている道なのだ。

デイヴィッド・ウィークス,ジェイミー・ジェイムズ 忠平美幸(訳) (1998). 変わった人たちの気になる日常 草思社 p.72

強烈な好奇心

 創造性と密接に結びついているのが,奇人の強烈な好奇心である。われわれが接した奇人のほとんどは次のように語った。他のみんなとちがっているのを最初に自覚したのは子どものころだった,というのも自分はいつも根源的な答えを探していたからだ,と。親に「なぜ?」とたずねるとき,かれらは答えが「……だから」ではけっして満足せず,ましてや「私がそう言うからそうなの」でよしとはしなかった。好奇心は人間だけの動機づけであり,もともと知的なものである。心理学者によっては,それを固有の動機づけとよぶ。なぜなら,発見のプロセスはそれに特有の報酬だからである。人はだれでもいくつかの物事に好奇心を——おそらくは強烈なまでに——もつが,いっこうに答えが見出せない場合,その興味はしだいに薄れていくだろう。ところが奇人の場合は,答えを見つけることが頭から離れなくなる。19世紀のイギリスの博物学者チャールズ・ウォータートンは,南米の熱帯雨林での学術調査を指揮する一方で,数カ月ものあいだハンモックから足を出してぶらぶらさせながら眠り,吸血コウモリに噛まれるのを心待ちにしていた。彼は「その挑発的な畜生どもに」まるで相手にされず,「ものすごくがっかりした」そうだ。ウォータートンは髪をクルーカットにした最初の人でもある。

デイヴィッド・ウィークス,ジェイミー・ジェイムズ 忠平美幸(訳) (1998). 変わった人たちの気になる日常 草思社 pp.36-37

(引用者注:「固有の動機づけ」とは,“intrinsic motivation”で「内発的動機づけ」のことだと思われる。誤訳。)

奇人の性格プロフィール

 この調査の結果は,社会全般と同じほど多種多様な,にもかかわらず共通する性質を数多くもちあわせた一群の人びとのポートレートとなって現れた。ほとんどの奇人に該当する15の——きわだったものから些細なものまで,多岐にわたる——特徴をそなえた1つの性格特性表が浮かびあがった。そして,奇人の特徴をおおよその頻度順に列記すると,以下のように表現できることがわかった。

♦非同調的,すなわち一般の社会規範にしたがわない。
♦創造的。
♦好奇心に強く駆りたてられる。
♦理想主義的。世界をより良いものにし,世の人びとをより幸福にしたいと思っている。
♦1つあるいはそれ以上(ふつうは5つか6つ)の趣味に没頭している。
♦自分が風変わりであることを幼いころから自覚している。
♦知的。
♦自分は正しくて世間こそが歩調を乱しているのだと信じこみ,自説に固執し,ずけずけとものを言う。
♦競争心がなく,社会からの励ましや力添えを必要としない。
♦食習慣や生活様式が変わっている。
♦他人の意見や交友にはとりたてて興味を示さない。ただし,かれらを説き伏せて自分の——正しい——見解を認めさせようとする場合は別である。
♦お茶目なユーモアのセンスをもっている。
♦独身
♦たいてい長子かひとりっ子。
♦単語の綴りをよくまちがえる。

デイヴィッド・ウィークス,ジェイミー・ジェイムズ 忠平美幸(訳) (1998). 変わった人たちの気になる日常 草思社 pp.30-31

正常からの逸脱

 正常からどれくらい逸脱していれば真の奇人と認められるかは,容易に答えの出せない問題である。奇矯が何であるかを質的に立証しないかぎり,量的な考察はできない。というのも,人はみな多かれ少なかれ変わっているところがあるからだ。絶対的,均質的な一致は——そんなものがあるとすれば——それ自体が一種の奇矯だろう。したがってわれわれは,客観的に検証できる対照標準,すなわち異常を定義づけるための行動上の標準という概念を,当然あるものだと見なすわけにはいかない。「正常」がどんな要素で成りたっているかは,生活におけるもっとも主観的な問題の1つである。友人が話をしているとき,その友人が,世にも奇妙な習慣をもつ人間を目撃したと語った——けれどもよくよく聞いてみれば,それはわれわれ自身がつね日頃実行している,あるいは実行したいと思っている習慣にすぎなかった,という経験はだれにでもあるものだ。


デイヴィッド・ウィークス,ジェイミー・ジェイムズ 忠平美幸(訳) (1998). 変わった人たちの気になる日常 草思社 p.15

波多野完治の指摘

 ビネは知能テストの創案者であったために有名になり,知能テストの創始者であったために誤解された。波多野完治は「どんな構想のもとに彼がこのテストを考え出したのか,それについては,背後にどんな教育的配慮,識見があるのか,などの点は,ぜんぜん知られていない。それどころかテストが乱用されるにつれ,彼はそのわるい道具をつくり出した心理学者として,悪名の方が高くなった。彼がテストをつくった真意は完全に忘れられてしまい,その現代的堕落の面の上に,彼自身の評価がおこなわれている」と指摘している。ビネの正しい評価が必要なのではないだろうか。

ビネ, A. & シモン, T. 大井清吉・山本良典・津田敬子(訳) (1977). ビネ知能検査法の原典 日本文化科学社 P.107

ビネの追悼文

 シモンは,1961年9月4日,パリで88年の生涯を閉じた。
 American Journal of Mental Deficiencyの67巻3号(1962)に,シモンのメモリアムを寄せたイオネル・ラパポール博士(フランス人類学学校)はその文を,次のようなことばで結んでいる:
「しかし,このような名声は,シモンの科学的態度とも,その謙虚さとも矛盾することがなかった。彼はそのテストの節度のない使用に批判的であった。さらに,その尺度の成功が,仲間の心理学者たちがビネの大きな目標----すなわち,人間,その本性,その発達を理解すること----を理解するのを妨げていると考えるようになった。ビネに忠実なシモンは,彼の師ビネとの緊密な共同研究の際に彼を引きつけたこのような目的をさらに進めようとした。ビネの死後シモンの論文,彼の講演はそのような目標をめざしていた。
 このような考え方は,シモンがアルフレッド・ビネ協会を主催した47年間の間に完全な勝利を収めた。知能は単に測定されるだけでなく,教育されなければならないというのがビネの見解であった。遅滞児のための『精神整形学』がビネ・シモン尺度の創案者の一貫した目標であり,この点でもまた,シモンはビネの教えに忠実であった」

ビネ, A. & シモン, T. 大井清吉・山本良典・津田敬子(訳) (1977). ビネ知能検査法の原典 日本文化科学社 Pp.109-110

ビネが示した方法に従うべき

 ところで,われわれは,人間の価値についての知識と,さらにそれによってその価値を利用することとは,全く相いれないものなのに,それぞれのテストに,求めることができるものだけを求めようとしないで,何もかも求めようとする,きわめて重大な動きに直面している。私はこのような手段がそのためのふさわしい唯一のものであるとは全く考えていない。しかし,それは1つのモデルであり,飛躍となった。これは個人の心理学的価値の直接的測定の最初の例である。漠然とした感じ以外の基礎にもとづいて,人間の不平等性という考えが確かめられた。これはその普遍的役割を示すことを可能にし,このような不平等性を評価することができるようにした。テストが要求している注意深さと特別な実験室の統制のもとにそれを実施したすべての人々にとってそのことが確信となった。試みがくり返されるにつれて,理論的なもっともらしい反対の空しさがいっそうはっきりしてきたように思われる。天才はいつもぬきんでているが……そのような前途有望な子どもが落第生になるかもしれない……安逸はどんな変化にも反対するものであるが,これら反対のすべてが事実により一掃された。そして疑いもなく,この方法はある種の熱狂をもって用いられ,おそらくそれには危険もともなう。疑いもなく,テストを用いるにあたっては,とりわけ慎重に秩序だてて注意深く行うのがよいが,しかしおそらく,それに従わなかったり,ビネが示した方法に従わなければ非常に危険である。

(1921年9月 Th.シモン)

ビネ, A. & シモン, T. 大井清吉・山本良典・津田敬子(訳) (1977). ビネ知能検査法の原典 日本文化科学社 Pp.19-20

優生学者と知能

 大部分の優生学者は,とりわけ俗に言うIQテストによって示されるような心的機能の遺伝に,多大の関心を向けるようになった。優生主義の一般の支持者たちは,犯罪やアルコール依存症のような形質の遺伝について議論を繰り広げたが,科学者たちは,一見知能が客観的に測れそうな道具をもっていたので,もっぱらIQテストの成績に注目した。1930年ごろまで用いられていたIQテストはかなり粗雑で,結果から何かが言えるようなしろものではなかった。ある民族集団が全般的にIQテストでは成績が悪いという,政治的意図を含んだ主張は,最初,さまざまな外国人排斥運動を正当化するために使われた。しかし,こういう主張は最終的には,次のような研究結果によって決着した。これらの民族集団の移民者の第1世代か第2世代あとの子孫では,テストの成績が「主流(メインストリーム)」の成績となんら違わなかったのだ。コチコチの優生主義者でさえ,これらの変化が遺伝では説明できないということを認めざるをえなかった。ほかの研究は,栄養不良や言語ができないことがテストの成績に影響をおよぼすことを示した。テストを受ける者にとって馴染みのない問題や概念をとりあげているという点で,大部分のIQテストには明らかに文化的バイアスのあることが,1970年まで盛んに議論された。しかし,ほかの研究が示し続けたのは,次のようなことだった。各民族・人種集団内でのIQテストの成績の標準偏差は,主流の集団の場合と同じであった。また,IQテストの成績のレベルは,アメリカ社会の主流に入ってしまうと,民族・人種集団間の統計的な差がなくなった。これは不思議でもなんでもない。人種を定義するのに使われる形質----それらはもっぱら目に見える身体的特性にもとづくものだ----はごく少数であり,しかも,これら少数の身体的特徴に関係している可能性のあるほかの形質は,さらに少数しかないからだ。



ウィリアム・R・クラーク&マイケル・グルンスタイン 鈴木光太郎(訳) 遺伝子は私たちをどこまで支配しているか DNAから心の謎を解く 新曜社 pp.292-293
(Clark, W. R. & Grunstein, M. (2000). Are We Hardwired?: The Role of Genes in Human Behavior. New York: Oxford University Press.)

攻撃性の遺伝

 攻撃性は,選択的交配を通してマウスの系統内で強めることができるものであって,系統内の大人の個体から学習されるものではない。というのは,生まれたばかりの攻撃性の高いマウスの赤ん坊を攻撃性の低い養母のもとで育て,その後攻撃性の低いマウスと同じケージで育てても,おとなになると,攻撃性を示すからだ。同じことが攻撃性の低いマウスにも言える。彼らも,攻撃性の高い養母のもとで育ち,攻撃性の高い仲間と一緒に成長しても,おとなになったときには攻撃行動を示さないのだ。このことは,マウスの攻撃性には明らかに遺伝的要素があるという強い証拠になる。
 攻撃性が人間でも遺伝することは,一緒に育った一卵性双生児,二卵性双生児についての研究から示唆される。ヴェトナム戦争時に兵役についていた双生児の登録者を用いた研究では,300組を越える一卵性と二卵性のふたごのデータが,攻撃性に関連した4つの行動をテストしたあと,分析された。遺伝的な要素は,どの行動にも見られた。遺伝率は,直接的(身体的)攻撃が47%,ことばによる攻撃が28%,間接的攻撃(癇癪発作や悪口)が40%,攻撃行動と高い相関があることが示されている怒りっぽさが37%である。攻撃のこれら4種類の下位行動は,衝動的とみなされている。攻撃行動の個人差には非共有環境の影響が見られ(共有環境の影響は見られなかった),その程度は,直接的攻撃の53%からことばによる攻撃の72%におよんだ。


ウィリアム・R・クラーク&マイケル・グルンスタイン 鈴木光太郎(訳) 遺伝子は私たちをどこまで支配しているか DNAから心の謎を解く 新曜社 pp.210
(Clark, W. R. & Grunstein, M. (2000). Are We Hardwired?: The Role of Genes in Human Behavior. New York: Oxford University Press.)

複数の遺伝子の影響・単一の遺伝子の影響

 遺伝学は伝統的に,突然変異による生物の変化を観察することによって,個々の遺伝子を特定するという方法をとってきた。人間の遺伝学の初期には,行動などの違いを説明する単一遺伝子の違いを探すというやり方が一般的だった。しかし,この50年間に行われてきた研究から明らかになったのは,人間のどんな行動であれ,単一遺伝子だけが関係していることはほとんどない,ということである。図1.1にあげたような,性格の個々の要素でさえ,単一遺伝子によって説明するにはあまりに複雑すぎる。行動に関してわかっていることから言えるのは,さまざまな時と場所で,そして私たちの気づきもしないやり方で,相互に,そして環境と作用し合うのであって,行動をもっともよく説明するのはこの相互作用だということである。
 一方,有害な単一遺伝子が,性格や行動を「壊して」しむこともある。たとえば,慢性の痛みを引き起こす単一遺伝子の欠陥が,行動にも大きな変化を引き起こすことがある。ハンチントン病は単一遺伝子によって引き起こされるが,この病気になると,まず人格障害が始まる。遺伝する確率の高い早発性のアルツハイマー病は,突然変異による単一遺伝子の機能欠損によって生じるが,これも人格障害をともなう。しかし,単一遺伝子の欠陥が特定の性格特性を壊すという事実からは,その遺伝子がその性格特性に関与しているということまでは言えるが,その遺伝子がそれに関与する唯一の遺伝子だということは言えない。


ウィリアム・R・クラーク&マイケル・グルンスタイン 鈴木光太郎(訳) 遺伝子は私たちをどこまで支配しているか DNAから心の謎を解く 新曜社 pp.23-24
(Clark, W. R. & Grunstein, M. (2000). Are We Hardwired?: The Role of Genes in Human Behavior. New York: Oxford University Press.)

ミツバチにみられる個体差

 そう,答えはイエスだ。『ミツバチの知恵』の中のもっともチャーミングな実験で,シーリーは10匹のミツバチの尻振り傾向を観察した。まず最初に,給餌器で薄いショ糖を蜂に与えてから,シーリーは給餌器を濃いショ糖液の入ったものと交換した。蜂の反応には大きなばらつきがあった。ある蜂(BBと名づけられた)は,この10匹が行った尻振りダンスの総合計の41パーセントにもあたる回数のダンスを行ったが,もう1匹(OG)の回数は5パーセントにしかならなかった。この美食に慣れた辛口レストラン批評家OGは,まったくダンスをしないことさえあり,最高に濃いショ糖液に対してさえ,たった30回しか尻振り走行を行わなかった。30回とは,BBが低品質のショ糖液に対して尻振り走行を行った回数である(「お昼にビッグマックを食べたんだけど,最高においしかった!」)。そしてBBは,最高に濃いショ糖液に対しては完全に舞い上がり,100回以上も尻振り走行を行った。
 この遺伝的な個体差は,資源を効率的に活用しようとする巣の能力を損なう要因のように見えるかもしれないが,結果的にはおびただしい蜂の数によって均される。もちろん,BBは一握りの蜂をリクルートして,彼女が良いと思っている蜜源に連れて行くことになるかもしれないが,連れて行かれた蜂は失望して,その蜜源が結局たいしたものではなかったと報告するだろう。つまり,尻振りダンスは行わない。その頃までには,おそらくBBも巣に戻り,ビッグマック狩りに疲れて眠りに落ちていることだろう。過熱した興奮状態もおさまっているはずだ。
 実はコロニーには,BBのような蜂も必要だ。というのは,食料が少ないときには,ビッグマックだって大発見なのだから。そして,食料が潤沢に得られるときには,ほんとうに最高の場所に連れて行くためにリクルートを行うOGのような懐疑的な蜂も必要だ。大きな釣鐘曲線に示される蜂の興奮状態のばらつきがあるおかげで,コロニーは,常に変化する花蜜の供給状態に賢く対応することができる。


ローワン・ジェイコブセン 中里京子(訳) (2009). ハチはなぜ大量死したのか 文藝春秋 pp.62-63.
(Jacobsen, R. (2008). Fruitless Fall: The Collapse of the Honeybee and the Coming Agricultural Crisis. New York: Bloomsbury USA.)

パーソナリティの遺伝に関する但し書き

 行動や精神の特色をつくりあげるのに遺伝子が果たす役割を,最も明確に表現しているのは生物学的特性理論による人格についての説明で,人の永続的な性質はその人の遺伝子的背景によるというものだ。個人が外向的(社交的)であるか内向的(内気,臆病,引っ込み思案)であるかの程度など,いくつかの特性が遺伝子的歴史に強く影響されるという見かたを支える証拠はかなり集まっている。とはいえ,遺伝学的人格理論には2つの重要な但し書きがついている。
 第1に遺伝子は特定の人格的特性に約50パーセントしか関与していないことがわかっている。つまりある特色について遺伝子で説明がつくのはせいぜい半分だということだ。それぞれの特性の半分であって,人格全体の半分でないことに注意してほしい。特性によっては遺伝的影響が50パーセントよりずっと少なく,しばしば測定不可能だ。内向性はおそらく遺伝的影響が最も強い特性だ。極端に引っ込み思案で内向的な子どもの多くが不安の強い暗い気質の大人になる一方で,うまくやっていける人もいる。後者のグループでは遺伝的影響が一時的なものにすぎなかったのだろうか,それとも遺伝的傾向が押しつぶされたのだろうか。極端な内向性が幼い子どものうちから目につくとき,家族の理解と励ましによってその子をある程度,外向的にすることができるという事実から,その子が心理的にどんな人になるかは遺伝子によって全面的に定められているわけではないことがわかる。人生経験が学習や記憶の形をとって,どの人の遺伝子型がどのように表現されるかを決めていく。遺伝子が行動を決定すると熱心に主張する研究者たちでさえ,遺伝子と環境の相互作用が特性の表現型を形成することを認めている。問題は双方が寄与しているのかどうかではなく,それぞれがどの程度寄与しているかということだ。
 人格の永続性への遺伝子の関与に付される第2の但し書きは,人が常にいわゆる性格特性に従っているわけではないと立証した研究に由来する。たとえば職場の社会的集団内では引っ込み思案な人が家庭では暴君だったりする。実際,心理学者による検証でも,人がさまざまな異なる状況で一貫した行動をとるという説を裏づける結果は出ていない。このような知見にヒントを得たウォルター・ミッシェルは,行動と精神状態は生得的な要素に支配されるのではなく,状況によって定まると主張する。ミッシェルの主張によれば,特定の環境条件のセットに対するその人の思考・動機・情動がわかれば,そのような環境ではどのような行動をとるか予測できる。彼はそれを「もし……ならば関係」と呼ぶ。あなたが「もし」状況Aにいる「ならば」,Xをおこなう。しかし,「もし」状況Bにいる「ならば」Yをおこなう。ミッシェルによると,人には永続的な性格特性はなく,いくつかの永続的な「もし……ならば」態度セットがあるのだという。
 心理学における両極端の意見がたいていそうであるように,状況理論と特性理論も双方にいくばくかの真実がある。ある特性について遺伝子の寄与が大きければ大きいほど,その特質は異なる状況でも一様な現れ方をしやすい。一方,状況によって私たちの行動への影響力が違う。赤信号だとほとんどの人が止まる。ふだん攻撃的か臆病かということとは関係がない。だが黄信号の場合は攻撃性とか臆病さなどの傾向が表に出てきやすくなる。

ジョゼフ・ルドゥー 森 憲作(監訳) (2004). シナプスが人格をつくる:脳細胞から自己の総体へ みすず書房 pp.44-46
(LeDoux, J. (2002). Synaptic Self: How Our Brains Become Who We Are. New York: Viking Penguin.)

何をもって「正常」とするか

 「正常性」という言葉の2つの主な使い方というのは,少し考えればよくわかる。まず「正常な」ということは,大多数の人の行為を意味すると考えられ,これを正常性の統計的定義と呼ぼう。正常な身長の人というのは,平均にくらべてそれほど高くも低くもない人のことである。体重に関して正常な人というのは,ほかの大部分の人より重くも軽くもない人である。この使い方は,大へんはっきりしていてわかりやすい。しかし知能とか,美醜とか,健康のような特性を考えると,ちょっと困ったことが起こる。
 知能について考えよう。統計的にいって正常な人というのは,知能指数が平均前後の人のことで,この定義に従えば,知能指数60の精神薄弱も180の天才も,どちらも「異常」である。また,統計的に正常な人というのは,美しくも醜くもない人で,美人は醜女と同じように異常ということになる----大ていはもっと異常だが。このようなあいまいさが一番ひどいのは,健康に関してである。正常な人というのは,平均の回数ほど病気や故障を起こし,なるべくありきたりの病気で死ぬ人である。健全に健康で老齢になるまでほとんど何の病気もしない人は,この見地からすれば大へん異常だということになる。
 健康や美醜や知能についてこのような見方はしないのが普通である。大てい統計的基準のかわりに理想的基準を用いる。ある人が理想に近いほど,それが知能の高さであれ,美しさであれ,健康なことであれ,それを正常な人と呼ぶ。しかし理想的な基準は統計的には全くまれなもので,多数の人を調べても実際には全くみつからないかもしれない。
 この2つの使い方はよく混同されるが,特に精神の健康に関して著るしい。精神分析家がおよそ正常な人はいないと断言するとき,正常性の理想的な概念を頭においていっている。しかし読む方はこの言葉を統計的基準の意味に解し,矛盾したばかげた言葉だという。同じような誤解は,ほかにもいくらでも起こる。この明らかな落とし穴を避けるには,言葉の意味の出どころに注意する必要がある。

H・J・アイゼンク 帆足喜与子・角尾 稔・岡本栄一・石原静子(訳) (1962). 心理学の効用と限界 誠信書房 p.195-196
(Eysenck, H. J. (1953). Usen and Abuses of Psychology. London: Penguin Books.)

「どんどん国民がバカになる」という論法(日本でもどこかで目にしがち)

 過去20年の間,信頼すべき心理学者たちが,「多くの西欧諸国と同様に,英国国民の平均知能が低下しつつある」といって,警告とうれいのつぶやきや叫び声を出すのが聞かれてきた。この主張は,驚くほど単純な一連の推論にもとづいている。第1は,知能は主として遺伝によって受け継がれたものであるという論である。第2は,知能の高い人たちは知能の低い人たちより,子どもが少ない傾向があるという,すでに知られている事実である。もしもこの傾向が長い期間にわたって続くならば,高い知能を作るように遺伝的に決定する遺伝子は,国民の血の中から減ってゆき,したがって知能の一般的低下はさけられないであろう。この低下がすでにはじまっているということを示すために,最近,精神欠陥者の数が増加しているといった証拠が示される。こうした議論は,軽く片づけることができない。それというのも,これらの議論が,多数の実験的研究によってささえられているからなのである。もしもこうした議論が真実であるならば,大変な問題であって,このことにくらべればドルの低下とか,インフレーションの恐怖とかは,最終的に重要な問題ではないとして,肩をすくめてあしらえばいいぐらいのちょっとした不都合なのである。

(引用者注:このあとで,第1と第2の点の根拠が示される。しかし,それらが正しいとしても,知能の一般的低下は生じていない。むしろ,フリン効果として知られるように,知能検査の平均値は時代を経るに従って上昇する傾向にある。したがってこれは,三段論法が成り立たない例と考えるのが適切なのかもしれない)

H・J・アイゼンク 帆足喜与子・角尾 稔・岡本栄一・石原静子(訳) (1962). 心理学の効用と限界 誠信書房 p.90
(Eysenck, H. J. (1953). Usen and Abuses of Psychology. London: Penguin Books.)

作品から分かる人物像なんて……

 今日シェイクスピアの人物像がわからないと思えるのも,その作品が多く残っているせいだ。もし,喜劇しか残っていなかったら,軽薄なやつだと考えただろうし,ソネットしか残っていなかったらずいぶん鬱陶しい情熱の持ち主だと考えただろう。他の作品にしても一部を取っただけなら,八方美人タイプだとか,思索的な男だとか,理屈っぽいやつだとか,憂鬱症だとか,策謀家だとか,ノイローゼだとか,のんき者だとか,愛情深い男だ,などなど考えただろう。もちろん,シェイクスピアはこうした要素すべてを持ち合わせている----作家としては。わからないのは,1人の人間としてはどうだったのか,である。

ビル・ブライソン 小田島則子・小田島恒志(訳) (2008). シェイクスピアについて僕らが知りえたすべてのこと 日本放送出版協会 p.31

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]