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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「パーソナリティ・個人差」の記事一覧

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機能と遺伝

 実はこれに関連して,トゥービイとコスミデスがいくつかの主張を展開している。第1に,人間をはじめどの生物集団においても,質の異なる心的メカニズムをもった個体が含まれることは考えられない。なぜならメカニズムは,最終的に複雑なデザインを作り出すために協力して働く何ダースもの遺伝子の組み合わせからできているからだ。たとえば,あなたがネガティブ情動システムをひとつしかもたず,それを環境のなかのあらゆる種類の脅威を避けるのに使っていたとする。一方,私のほうはそのシステムを2つもっている。ひとつは人々からの脅威を検知するためにデザインされ,もうひとつは完全に別個の脳の領域を使って,無生物環境からの脅威を検知するためにデザインされたシステムである。ひとつのシステムからなるデザインも,2つのシステムからなるデザインも,ともにきわめて理にかなっており,どちらかが他のものよりよりよいというアプリオリな理由はない。ここで,この2つのタイプが両方含まれている集団を考えてみよう。私たちは赤ん坊を作るたびに,父親と母親の遺伝子パックを混ぜあわせる。だが,前述の集団の中の不運な子供たちは,2つの別個の脅威検知システムを作るのに必要な遺伝子材料のおよそ半分と,単一の統一システムを作るのに必要な材料のおよそ半分をもつことになるかもしれない。おいしいスフレを作る食材の半分と,おいしいチキンカレーを作る食材の半分を用意して,出来上がるのはおいしいスフレでもなければおいしいカレーでもない。どうしようもないごちゃ混ぜである。このことがもっとはっきりするのは,情動回路を作るための2つの完全な遺伝子体系を半分ずつもった場合である。どちらの遺伝子体系にしても,50パーセントだけでは100パーセントの場合ほどは働かないし,おそらく50パーセントほども機能しないだろう。いや,それどころかまったく役に立たないだろう。そうなると繁殖の際の選択は当然,種特異的な基本デザインに強く向かうことになる。つまり,自分と同じ基本的なタイプの青写真をもつ相手を選ぶのである。そうすれば,両親の2つのゲノムが赤ん坊のゲノムの中に複製されるとき,結果として出来上がる混合物はスフレでもカレーでもなく,機能をまるごと備えた統一体となるからだ。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.68-69
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)
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長期予測研究

 予測するという証拠を示した研究成果はふえているが,ここでは2,3の例を挙げるにとどめよう。ひとつは,E・ローウェル・ケリーとジェイムズ・コンリーによる研究である。ケリーがこの研究に注いだ努力には,頭が下がるばかりだ。最初の時点でのデータ収集から論文の発表に至るまで,経過した時間はなんと52年だった。これほどの時間的奥行きをもったデータは,人生の長期的パターンに関心をもつ私たちにとって,きわめて貴重な資源である。1935年から1938年までに,ケリーは主としてアメリカのコネティカット州から婚約中の300カップルを調査対象として募集した。ケリーは彼らと接触しつづけ,その結婚の状態について——結婚生活が破綻なく続いてるか,結婚生活が幸せか——追跡調査を行った。データは,結婚直後と1954〜5年の時期,そして最後に1980年〜1年の3回にわたって集められた。1930年代には,1人1人の被験者につきそれぞれ5人の知り合いに依頼して,パーソナリティ尺度評定を行っている(このパーソナリティ尺度は,今日私たちが使っている尺度のさきがけであり,基本的に,外向性,神経質傾向,誠実性そして調和性からなる)。集められた評定の結果から,ケリーはこの4つの次元について平均的パーソナリティ・スコアを引き出した。
 結果として,このパーソナリティ・スコア——1930年代に被験者の友人たちによってなされた単純な評定——は,現実に彼らの結婚の成り行きをかなり強く予測するものだった。カップルのどちらか(男女を問わず)の神経質傾向が高ければ,離婚の確率は平均よりはるかに高かった。別れなかった場合には,その結婚生活は,40年後になされた各自別々の評定平均が示すように,あまり幸福なものではなかった。神経質傾向の高い人々が陥りやすいネガティブな情動は,現実の生活のなかで,また長い期間にわたって,確実に違いをもたらしたのである。ほかにもまた興味深いパターンがいくつかある。男性の誠実性スコアは,離婚を予測していた(誠実性のスコアが低ければ低いほど,離婚の可能性は高くなる)。ケリーとコンリーが集めた離婚理由からは,誠実性の低い男性は基本的に家長として落第だという傾向が見てとれる。ある者は大酒飲みであり,ある者は金銭的にだらしなく,またある者はその両方だったりする。ここで注意すべきなのは,彼らが戦前に結婚したカップルであり,当時は伝統的な性役割分担意識があったことである。女性の場合にこの効果が見られないのは,この時代の女性がおおむね家計の担い手としての役割を果たしていなかったことによる。


ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.40-41
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

ゴールトンと測定

 最後にもう1つ,ゴールトンに注目する理由は,彼が測定についてきわめて現代的な関心をもっていたことである。ゴールトンは,曖昧でとらえがたい行動を測るための現実的な測定法を見出すことに熱中した。1885年,彼は「ネイチャー」誌に,「落ち着きのなさの測定法」と題する論文を発表した。このなかで彼は,長期にわたる観察から得た結論を紹介している。講演のような大きな集まりにおいて,聴衆は1分につき平均1回身動きする。講演者が聴衆の注意をひき始めると,その段階でこの率は半分ほどに減少し,同時に身動きする様子も変化する。動きの時間は短くなり(関心をもった聴衆はすぐに体を動かすのをやめる。退屈していると動きが長びく),そして上体の振れの角度(船乗り用語でヨー[船首を左右に振ること])もまた減少する。したがってどの時点においても,聴衆がどれほど退屈しているかを手っ取り早く知るには,まっすぐな姿勢からどれほど身体が傾いているかが指標となるだろう。ゴールトンはこれを,「何らかの回顧録を読むようなときに,聞き手の退屈度を数値に表す」ための有望な手段になりうるとして,読者に推薦している。
 一風変わってはいるものの,この論文はきわめて現代的である。ゴールトン以前にも多くの哲学者が,人間の特性について思いめぐらせてきた。だがその特性も,測定できなければ何一つ(少なくとも科学的には)意味をなさないことに気づいた人は,ほとんどいなかった。科学としての心理学の仕事の大部分は,すぐれた測定を考え出すことと,その測定の優秀さを示すことの2つの柱からなっている。事実,「学問として尊敬される」心理学をそれ以外の心理学から区別するのは,この測定への関心なのだ。ゴールトンは売春婦と貴族の体重,反応速度,頭のサイズ,指紋の形態,そのほか多くの特徴を計測している。ゴールトンが人格理論に対して行った特別な貢献は,パーソナリティがどのように測定されうるかをはじめて考え,それを科学的に研究できる領域に持ちこんだことであった。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.24-25
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

経度のナルシシズムの利点

 一方,準臨床的なナルシシストは,ストレスを楽々と切り抜ける幸運な人々であることがしばしばである。「サイコロジー・トゥデイ」誌のライター,カール・ヴォーゲルは書いている。「経度のナルシシズムは自己やその他のトラウマから回復するのにも役立っているようだ。自分自身は不死身であるという非現実的な感覚を与え,彼らは人生において投げかけられるものになんであれ対処できると信じる。ある研究者によると,いくらかナルシシズム的であることは,大型のスポーツ車に乗っているようなものだ。おおいに楽しみ,堂々と道路の真ん中を通り,気ままにふるまい,他のドライバーを高いリスクにさらす」

バーバラ・オークレイ 酒井武志(訳) (2009). 悪の遺伝子:ヒトはいつ天使から悪魔に変わるのか イースト・プレス pp.269

異常なナルシシズム

 ナルシシズムは,境界性パーソナリティ障害と反社会性パーソナリティ障害にしばしば見られる。しかし毛沢東のナルシシズムはあまりに異常で,宗教の域にまで達し,自らの指導者としての役割にほとんど神秘的な信仰を抱いていた。彼は自らのリーダーシップを疑ったことはなく,自分のリーダーシップだけが変わりゆく中国を救い,変えることができると信じ,毛沢東が国家の救世主であるという社会通念を自分でも信じていたのだ。毛沢東に対する個人崇拝は彼が陰から強く促しており,1940年代にはすでに表に現れ,共産党綱領の新たな前文には,最終的にはこう書かれている。「中国共産党は毛沢東の思想を……すべての仕事を導くものとして採択し,独断的,あるいは経験論的な逸脱はいっさい認めない」。毛沢東自身がこう述べている。「問題は,個人崇拝をするべきかどうかではなく,その人物が真実を表しているかどうかだ。もし表しているなら,彼は崇拝されるべきだ」

バーバラ・オークレイ 酒井武志(訳) (2009). 悪の遺伝子:ヒトはいつ天使から悪魔に変わるのか イースト・プレス pp.264-265

コーチングと神秘的思考

 コーチングに携わる人びとは神秘的なパワーに引きつけられる。それはどうしてだろう?そう,それ以外に伝授できることがないからだ。「キャリアコーチ」の場合,履歴書の書き方や簡潔で容を得た自己アピールの仕方を教えはしても,そういうこと以外には,確固たる技能をもって提供できるものがない。「キャリアコーチ」も,槍投げの距離を伸ばしたり,コンピュータの技能を磨いたり,大人数をかかえる部署内で情報を管理したりする役には立たない。彼らにできるのは,個人の態度や考え方に働きかけることだけだ。だからこそ,自分の態度をどうにかすれば成功が保証されるなどという抽象的な考え方を拠りどころにする。成功をつかめなくとも,また,それまでと変わらず金欠状態におちいっていたり,先の見えない仕事に縛られていたりしても,それはコーチではなく本人のせいである。自分の努力が足りないのだから,もっと一生懸命にやる必要があるというわけなのだ。

バーバラ・エーレンライク 中島由華(訳) (2010). ポジティブ病の国,アメリカ 河出書房新社 pp.78

笑顔あふれる世界への引きこもり

 心のパワーがほんとうに「無限」であるならば,自分の人生からネガティブな人を追い払う必要すらないではないか。たとえば,相手の行動をポジティブにとらえることもできる。彼は私のためを思って批判するのだとか,彼女は私への好意に気づいてもらえないから不機嫌なのだとか。ネガティブな人やニュースを排除するなどして環境を変えるべきだとアドバイスするのは,われわれの願望にまったく影響を受けない「現実世界」が存在すると認識しているからこそである。この恐ろしい事実に直面しても「ポジティブな」反応をしようとするならば,自分で慎重に作りあげた,いつでも賛同され肯定される世界,晴れやかなニュースと人びとの笑顔のあふれる世界に引きこもるしかない。

バーバラ・エーレンライク 中島由華(訳) (2010). ポジティブ病の国,アメリカ 河出書房新社 pp.73-74

創造性を働かせる方法

 アプ・ダイクステルホイスは,意識をそらせることで創造力が高まるかどうかを調べるため,いくつか実験をおこなった。なかでも有名なのが,参加者に新しいパスタの名前を考えてもらうというものだった。ヒントとして,実験者はまず5つの名前を例に挙げた。どれも最後が“i(イ)”で終わる,いかにもパスタらしい響きをもつ名前だった。そして参加者の半数には,3分間考える時間をあたえたあと,思いついた名前を書き出してもらった。「部屋の中の2人の男」の比喩と同じく,参加者たちは自分の頭の中の,声は大きいが創造力に欠ける男の言葉に耳を貸していた。参加者のもう半数にはパスタのことは忘れてもらい,かわりに3分間コンピュータスクリーンを動く1つの点を目で追って,点の色が変わるごとにマウスをクリックするよう頼んだ。これは部屋の比喩で言えば,声の大きな男の気をそらさせ,無口な男に話させる作業だった。この集中が必要な作業のあとで,実験者は彼らにパスタの新しい名前を書き出してもらった。
 実験者は,参加者たちが書き出したパスタの名前の創造性を測るために,簡単で有効な方法をとった。すべての回答を集めて,最後が“i”で終わる名前と,そうではないものとを数えたのだ。実験の最初にヒントとしてあたえた5つの例はすべて“i”で終わる名前だった。だから“i”で終わる名前は,参加者がお手本通りにしただけで,創造性はない。かたやべつの文字で終わる名前には,独創性があると考えたのだ。
 結果は驚くべきものだった。意識して作業に取り組んだ参加者が考え出したパスタの名前は,パソコンスクリーンで点を追った参加者より,最後が“i”で終わるものが多かった。そして,名前のユニークさをくらべてみると,点を追っていた参加者のほうが,もう片方のグループの2倍も斬新な名前を考えだしていた。声の大きな男が気をそらしていれば,無口で創造的な男の声が聞こえてくる。「部屋にいる2人の男」の理論が,実験で証明されたのだ。

リチャード・ワイズマン 木村博江(訳) (2010). その科学が成功を決める 文藝春秋 pp.113-114

同時に成り立ちうる

 ビッグファイブについての議論の最後に,こうした因子構造と一貫性論争との関係について整理しておく。ビッグファイブの普遍性,とくに文化を超えた安定性を根拠にして,ビッグファイブの性格論が一貫性論争を止揚したような議論が散見されるが,それは正しくない。端的に言って,一貫性論争とビッグファイブは関係がないのである。先にも述べたようにビッグファイブの因子は,その因子の次元上で人の性格が個人差を示す,あるいは個人内で変動する,変化の次元であり,その次元が安定していることと,その次元上に布置される個人や個人の性格,性格関連行動が一貫していることとはまったく無関係である。個人とその性格は5次元で表現される空間内の一ヵ所に長くとどまることもできるし,状況の変化に応じて空間内を自由に動き回ることもできる。一ヵ所にとどまる個人には通状況的一貫性があると言えるし,動き回る個人には通状況的一貫性がない。極端な場合,一貫性論争におけるミッシェルの主張と,ビッグファイブの特性論の両方が同時にまったく正しいということも,何ら矛盾なく想定できる。

渡邊芳之 (2010). 性格とはなんだったのか:心理学と日常概念 新曜社 p.153

一貫性論争は擬似問題

 しかしここまで分析してきたように,客観的な観察データを用いて,行動の通状況的一貫性を示すことは,ひとつは観察データ自体が観察できなかった,観察しなかった状況要因から自由になれないこと,もうひとつは観察対象である学習された行動自体が通状況的一貫性をもたないものであることから,じつは非常に困難なことだった。行動観察データだけを指標とする限り,性格概念は状況要因から独立にはなれないし,傾性概念としての性質しかもたない。また心理学的測定では,測定する性格概念が理論的構成概念であったとしても,それを操作的に定義して行動観察に置き換えた時点で,概念が傾性概念になってしまい,その測定値からの性格関連行動の状況を超えた予測や原因論的説明の根拠が揺らぐことについても論じた。
 こうした観点から見直すと,一貫性論争では,性格心理学がその基礎とするデータを行動の観察だけにおく限り反論のしようのないテーゼに対して,できるはずのない方法による反論が試みられたわけで,そこから意味のある成果が得られることはそもそも期待できなかったのである。その意味で渡邊・佐藤は,一貫性論争が「擬似問題」であったと指摘している。

渡邊芳之 (2010). 性格とはなんだったのか:心理学と日常概念 新曜社 p.112

それはむしろ問題行動

 多くの研究者は発達過程で学習によって形成された性格が,成人になると通状況的一貫性をもって行動を決定するようになる,というヴィジョンをもつ。しかし実際には,そうした「学習された行動の内在化」には実証的な根拠がないし,成人の性格や性格関連行動の安定性も,役割や社会的関係などの状況要因に依存している可能性が大きく,状況が変化すればそれにつれて変化すると思われる。むしろ,もし周囲の状況が大きく変化しても乳幼児期・青年期に学習した行動パターンが堅持されているような場合,それは環境への不適応につながるし,客観的には「一貫性のある行動」というよりも,「問題行動」とみなされることが多いだろう。

渡邊芳之 (2010). 性格とはなんだったのか:心理学と日常概念 新曜社 p.106

一貫性論争の教訓

 心理学は性格以外の分野でも,人の行動や心的活動を指し示す日常的な概念を,ほとんどそのまま科学的分析の中に取り入れていることが多い。記憶,忘却,感情,欲求や意欲,不安,攻撃,自尊心といった心理学的概念のほとんどが,心理学が誕生する以前から日常的に人の行動や心的活動を意味するために使われていた日常概念そのものであるか,少なくとも,日常概念と密接に結びついている。
 一貫性論争の教訓は,そうした日常概念を心理学の中に取り入れるときに,そもそもその概念が日常的に用いられている時の用法や,その用法の根拠となっている論理をきちんと分析し,その用法や論理に心理学的な妥当性や根拠が与えられるかどうかを明らかにすることの必要性を示している。そうした分析によって,もしその概念の用法の根拠が心理学的に妥当化されない場合には,その概念を心理学で用いることをやめるか,さもなくば,その概念を心理学的に明確に定義し直し,心理学ではどのような根拠に基づいてどのように使用するのかを明確に定めることが必要である。性格概念においては,そうした再定義や根拠の明確化が不十分なまま,心理学者が一般人と同じ素朴実在論の上に立っていたために,大きな混乱が生じたと考えるべきだろう。

渡邊芳之 (2010). 性格とはなんだったのか:心理学と日常概念 新曜社 pp.87-88

性格と内的実体

 性格概念と対応する内的要因が生理的要因や解剖学的要因のように,客観的に観察可能な要因である場合には,それと性格概念との対応は(性格概念が客観的に測定可能になっているという条件で)実証的に確認することができる。しかし,心理学において性格概念と対応させられている内的要因は,ほとんどが心理学的な実体(つまり「こころ」の構成要素)であり,客観的に観察可能ではない。
 性格概念と内的実体との対応が実証的に確認できない場合に,その対応の根拠となるのは,性格概念と関係する性格関連行動が通状況的に一貫することだけである。状況と対応しない(状況から独立である)以上,内的であるだろう,という排中律的な判断が行われる。ただし,そうした判断によって明らかになるのは,その性格概念が何らかの内的実体と対応している,ということだけであり,どのような内的実体と対応しているかは理論的にしか説明されない。

渡邊芳之 (2010). 性格とはなんだったのか:心理学と日常概念 新曜社 pp.52-53

性格概念から性格関連行動への説明

 同僚が仕事に集中して大きな成果を上げたときに,それを評して「彼は努力家だからね」と述べたとする。このとき「努力家」は性格概念であるので,その性格概念から「仕事に集中して成果を上げる」という行動が,性格関連行動として説明されたことになる。
 ただし,このときこの説明が意味するのは,これまでの彼の行動から彼に帰属された「努力家」という性格概念について,新たな行動的レファレントが追加された,ということを記述しているにすぎない。彼は努力家である,なぜならこれまで仕事その他の活動に集中し,大きな努力を注ぐ,そうした努力が人一倍であるという行動が見られたからである。そして今回またその行動リストに新たにひとつが加えられた。つまり過去の行動によって帰属された性格概念から論理的・意味的に演繹される行動が実際に観察され,性格概念の帰属がより妥当性を高めたことが確認されたのである。「彼は努力家だからね」という説明には,それ以上の意味はない。
 ここでは,「努力家」という性格概念と,そこから演繹される性格関連行動とは論理的にも時間的にも並立の関係にあって,性格概念が論理的または時間的に行動に先行することは特に意識されていない。また,こうした説明における性格概念は完全に観察に還元されるもので,その意味で,性格概念から性格関連行動を説明することはトートロジーである。

渡邊芳之 (2010). 性格とはなんだったのか:心理学と日常概念 新曜社 pp.49-50

尺度と検査

 性格を心理学的に測定するために,知能検査の構成を通じて確立された心理学的測定の論理が用いられることは先にも述べた。性格についての心理学的測定用具は,性格尺度と性格検査に分類することができる。おもに特性論的な考えに依拠して,特定の性格特性だけを測定するために構成された測定用具を性格尺度(personality scale)と呼ぶ。不安尺度,外向性尺度,カリフォルニアFスケール,刺激欲求尺度などは,いずれも性格尺度である。
 特定の性格特性だけを測定することではなく,ひとりの人の性格全体か,全体ではなくても複数の性格特性を同時に測定することを目的とした測定用具を,性格検査(personality inventory)と呼ぶ。たとえば類型論に基づいて人をいずれかの類型に当てはめることを目的としたテストは,性格検査である。特性論に基づいても,性格尺度のように特定の性格だけを測定するのではなく,複数の特性を測定することでより広範な性格を測定しようとするものは性格検査である。MMPI,YG性格検査などが典型的な性格検査であり,一般にパーソナリティ・アセスメントと呼ばれるものの大半もそうである。

渡邊芳之 (2010). 性格とはなんだったのか:心理学と日常概念 新曜社 p.32

性格概念の定義

 本書では,あえて性格観や人間観,世界観を持ち込まずに,このあとの議論を明確にすることだけを目的に,性格ということばが現実に指し示しているもの(概念のレファレント)の最大公約数を具体的に示すことによって性格を定義する。すなわち性格とは,「人がそれぞれ独自で,かつ時間的・状況的にある程度一貫した行動パターンを示すという現象,およびそこで示されている行動パターンを指し示し,表現するために用いられる概念の総称」である。
 性格概念(personality constructs)とは,先の性格の定義で述べたような,個人が示す独自で,かつ時間的・状況的にある程度一貫した行動パターンを指し示す構成概念,ならびにそうした個々の行動パターンを統合した上位概念のことである。
 ただし,性格概念はそうした行動パターンを構成する行動そのものを指すことばではなく,それらを抽象化した概念である。性格概念は,性格という「現象」を指し示すだけのために用いられることもあるし,人間の内部にあって性格という現象を引き起こすような実体を指し示すために用いられることもあるが,本書ではどちらも性格概念と呼んで,特に区別しない。「太郎君は引っ込み思案である」というとき,「引っ込み思案」が性格概念である。「引っ込み思案」自体は具体的な行動ではなく,目に見えない抽象的な概念である。引っ込み思案,恥ずかしがり,人見知りなどの性格概念を統合して「非社交性」と呼ぶ場合,この「非社交性」も性格概念であるし,非社交性を敏感性,非活動性などと統合して「内向性」といった,より上位の概念に表した場合も,この「内向性」が性格概念である。

渡邊芳之 (2010). 性格とはなんだったのか:心理学と日常概念 新曜社 pp.23-24

対人志向性と自律性

 うつ理論を再構築するなかでベックは,ストレスとして影響を受けやすいでき事の種類は,人のタイプによって異なる,という仮説を立てた。そしてクリニックの外来患者を対象とする研究をしたところ,対人志向性(sociotropy)と自律性(autonomy)という2つの大きなパーソナリティのタイプあるいはモードを確認した。両者は環境中の異なったタイプのでき事に反応し,それがうつの病因となると考えられた。対人志向性タイプは,積極的な社会的交流に充足感を求めるという特徴を持つ。このタイプの患者の場合,社会的絆の破綻がきっかけでうつ病になることが分かった。これは,社会的絆の破綻がうつ病の主要素だとするボウルビーの研究結果と一致する。また,もう一方の患者群は,第2のパーソナリティモードである自律性を示した。自律性タイプの特徴は,達成への欲求,可動性つまり他舎の支配からの自由,そして孤独を好むことである。自律性タイプの場合は,目標達成が妨げられるとうつになることが分かった。この2つのパーソナリティタイプあるいはモードは,一側面の両極端を表すもので,二分法的分類でも絶対的分類でもない。

マージョリー・E・ワイスハー 大野 裕(監訳) 岩坂 彰・定延由紀(訳) (2009). アーロン・T・ベック:認知療法の成立と展開 創元社 pp.97

特性不安と酸素マスク

 それでは酸素供給源をはぎ取ろうとするのはどんな人たちだろうか?このような行動を予測する何らかの方法はあるだろうか?モーガンは25人の消防士を研究所に招いてテストした。それぞれに呼吸装置を付けて,(トレーニング用の)トレッドミルを10分間高速で走らせた。案の定,そのうちの何人かが苦しんで突然酸素マスクをはぎ取り,空気が十分に吸えないと文句を言った——酸素マスクが正常に機能していたにもかかわらず。モーガンは,酸素マスクをはぎ取る6人の人物をあらかじめ予測していた。が,予測ははずれた。はぎ取ったのは5人だけだったのだ。とはいうものの,それはかなり見事な予測ではあった。
 どうして彼はわかったのだろう?トレッドミルに乗せる前に,モーガンは消防士たちの不安度を測定するためにありふれた心理テストをした。概して不安は2種類に分類される。1つ目は「状態不安」で,人が大事な試験や交通渋滞のようなストレスの多い状況にいかに反応するかを表わしている。もう1つは「特性不安」で,そもそも物事をストレスに満ちているとみなす一般的な傾向をさす。つまり,特性不安は,いかなる日にも存在している平常時の不安ともいうべきである。
 より大きな特性不安を抱えている人は,酸素マスクをはぎ取る可能性が高くなっていることを,モーガンは発見した。幸運なことに,スキューバ・ダイバーや消防士になっている人のほとんどには,もともと特性不安が少ない。だが全員がそういうわけではない。スキューバ・ダイバーに同じテストをすると、83パーセントの確率でだれがパニックに陥るかを予測できることがわかった。特定の人々は、肉体的なストレスを受けると、本質的に現実に少し疎くなりがちであることが判明した。彼らの脳は、状況に圧倒されて、さまざまな反応のデータベースを仕分けし——その上で不適切なものを選んでしまうのだ。そのような人々は将棋倒しや集団パニックを引き起こすことはないかもしれないが,少なくとも突発的な極度の危険に身をさらすことにはなるだろう。パニックのもっとも純粋な形である過剰反応を起こしてしまうのである。

アマンダ・リプリー 岡真知子(訳) (2009). 生き残る判断 生き残れない行動:大災害・テロの生存者たちの証言で判明 光文社 pp.279-280

自信のある人は回復する

 答えはわたしたちが予測しているようなものではない。回復力がある人々は,必ずしもヨーガを実践している仏教徒たちではない。彼らが十二分に持っているものの1つは,自信である。恐怖に関する章で見てきたように,自信——現実的な練習や笑いからでも生じるものだが——は極度の恐怖の破滅的な影響を和らげてくれる。最近のいくつかの研究で,ありえないほどの自信にあふれている人は,災害時に目を見張るほどうまくやっていく傾向があることがわかった。心理学者はこのような人々を「自己向上者」と呼ぶが,一般の人なら彼らを傲慢と称すだろう。この種の人々は,他人の評価よりも高く自分自身を評価し,自己陶酔したはた迷惑な人間になりがちなのだ。ある意味では,現実の生活よりも危機にうまく適応できる人々なのかもしれない。

アマンダ・リプリー 岡真知子(訳) (2009). 生き残る判断 生き残れない行動:大災害・テロの生存者たちの証言で判明 光文社 pp.169-170

引用者注:「自己向上者」は何を訳したものだろうか?と思い,amazon.comの「Look Inside」で検索したところ“self-enhancers”であった。self-enhancementは「自己高揚」なので「自己高揚者」のほうが「自己が膨張している」ニュアンスではないだろうか。ちなみにこの章の日本語タイトル「非常時の回復力」は“Resilience”である。日本語ではカタカナで「レジリエンス」とか「弾力性」とか。

個人差が生きてくるとき

 個人の性格やリスクに対する認識が重要であるなどといった言い逃れをする前に,屋根や道路や保健医療が必要とされている。そしてその効果は幾何級数的である。タフツ大学のマシュー・カーンが行なった研究によると,大国が1人当りのGNPを2千ドルから1万4千ドルに引き上げれば,1年間に530人の天災による死者を救うことが期待できるという。しかも被災者たちにとって,金は融通のきく一種の元気回復剤である。治療することもできれば安定した生活や復旧ももたらしてくれるのだ。
 しかし1人あたりのGNPが約4万2千ドルであるアメリカのような豊かな国においては,相違は個人の特性によって生じる。実際のところ,個人の性質のほうが災害の現実よりも重要になりうるのだ。「個々の出来事で慢性的なストレスを確定するものは,結局は出来事の詳細よりも遺伝子や個性だろう」とイスラエルの心的外傷専門家であり精神科医でもあるイーラン・クッツは言っている。すべての明白な要因(性別,体重,収入など)が同じでも,人より優れている人々もいる。他人よりずっと頑健なのだ。理由は大きな謎である。

アマンダ・リプリー 岡真知子(訳) (2009). 生き残る判断 生き残れない行動:大災害・テロの生存者たちの証言で判明 光文社 pp.167-168

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