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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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調査漏れ

 しかし「底辺校」で教育に携わった経験をもつ立場からいえば,これらの調査結果に100パーセント納得することはできない。特に高校生を対象としている場合,偏差値層別があまりに大区分すぎると考える。学力の二極分化に関しても,分析対象が模試を受けることができる生徒の集団であることに疑問を感じる。実は「底辺校」の生徒のほとんどは模試を受けていない。学力面と費用面の両面から受けさせることができないのだ。従って統計にも載ってこない低学力の高校生は見逃されている。彼らを含めた日本の高校生全体を見ると学習時間や学習習慣,学力そのものに関して,きっともっと驚嘆すべきデータが出るのではないかと想像する。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.35
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学力の構成要素

 学力に関する調査が行われると,いつも問われるのは「学力」とは何かという概念である。学力を明快に分析している専門家に,大阪大学の清水宏吉氏がおられる。氏は学力を「知識の詰め込み」で獲得できるA学力,「思考力」「判断力」「考える力」などと呼ばれるB学力,「意欲」や「関心」「態度」といったC学力と3領域に分け,この3つの学力のうちC学力が「根」となり,B学力が「幹」に,A学力が「葉」となる「学力の樹」をイメージしている。そして「3つの学力が文字どおり一体となって,ひとつの学力の樹を形づくって」おり,どの1つでも欠けたら生きた樹とはいえないと明言されている。この魅力的なイメージの学力観を基に「底辺校」の生徒たちの「学力」を見てみたい。すると「底辺校」の生徒たちは既に小・中と9年間学校教育を受けてきたはずなのに,ほとんどの生徒が先の3つの領域の学力を表面的にはまったくといってよいほど身につけていない「無学力」状態であることがわかる。「生きた樹」を形づくっていないのだ。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.32

大学での先延ばし

 大学が先延ばし人間であふれている理由の一端は,キャンパスの住人が若く,衝動に負けやすいことにあるが,キャンパスの環境が及ぼす影響も無視できない。それぞれ単独でも先延ばしを生む強力な要因になりかねないシステムが2つ組み合わさることにより,大学には最悪の環境が出来上がっている。
 問題の原因となっているシステムの1つは,レポート課題だ。私たちは課題を不愉快に感じるほど(つまり,課題をやり遂げることで得られる主観的な価値が小さいほど),課題に取り組むことに消極的になる。レポート執筆を課されると,大半の学生は不安を感じる。嫌悪感をいだく学生もいるだろう。ひとことで言えば,レポートは大学生にとって不愉快な課題なのだ。
 これは,大学生に限ったことではない。文章を書くのは,誰にとってもつらい作業だ。『1984年』や『動物農場』などの傑作を残した作家ジョージ・オーウェルは,こう述べている。「本を書くとは,心身ともに消耗する激務だ。このような行為に乗り出す人間は,抗いようのない不可解な悪魔に取りつかれているとしか思えない」。20冊近い本と脚本を執筆した作家・脚本家のジーン・ファウラーは,逆説的な言い回しでこう書いている。「ものを書くのは難しくない。椅子に腰掛け,真っ白の紙をじっと見つめる。額から血の滴がしたたり落ちるまでそうしているだけでいいのだから」。私は本書を書くうえで,ウィリアム・ジンサーの文章読本『よい文章の書き方』を大いに参考にしたが,この本の87ページでジンサーもこう告白している。「私は文章を書くのが嫌いだ」
 レポート課題は,執筆がつらいだけでなく,評価が恣意的にならざるをえないという問題もある。そのせいで,学生が大きな期待をいだけない。レポートの採点を別の教授にやり直させると,評価が大きく変わるケースがある。「B+」が「A+」になることもあれば,「B+」が「C+」になることもある。教授たちがいい加減に採点しているわけではない。この種の成績評価は,そもそも難しいものなのだ。オリンピックで採点競技のスコアが審判員ごとに大きく異なったり,映画批評家の間で作品の評価が二分されたりするケースを考えれば,納得できるだろう。しかし学生は,これでは一生懸命レポートを書いても報われる保証がないと感じる。
 レポート課題が先延ばしされやすい理由は,もう1つある。それは,提出期限の遠さ,つまり時間の遅れが大きいことだ。たいてい,レポート課題は学期のはじめに言い渡される。その後,提出するまでの中間のステップはいっさいなく,レポートを書き上げたときに提出するだけ。はじめのうち,締め切りはだいぶ先に思えるが,それこそ深い谷底に転げ落ちる急斜面の入り口だ。課題から目をそむけているうちに,数ヵ月あった猶予が数週間になり,それがやがて数日になり,そしてついに数時間になる。そうなると,学生は「次善の策」を考えはじめる。
 課題の提出期限に間に合わなかったり,試験に失敗したりした理由として学生が述べることのざっと7割は,単なる言い訳にすぎない。「先延ばしのせい」本当の理由を認めるわけにいかないからだ。学生たちが最もよく用いる戦略は敏腕弁護士さながらに教授の課題説明の文章をくまなくチェックし,誤解の余地がある表現を探すというものだ。「指示の内容を誤解していたんです」と,あとで弁解しようという魂胆である。
 以上でわかったように,大学のレポート課題は,先延ばしを助長する3つの主要な要素をことごとく備えている。レポートを書くのは苦痛だし(=価値の小ささ),努力が報われる保証がなく(=期待の低さ),しかも締切は遠い先だ(=遅れの大きさ)。そこへもってきて,大学の学生寮ほど,レポートを書くのに不向きな場所は珍しい。レポート課題とともに,大学生の先延ばしを助長しているのが学生寮である。

ピアーズ・スティール 池村千秋(訳) (2012). 人はなぜ先延ばしをしてしまうのか 阪急コミュニケーションズ pp.57-59.

学んでおいて損はない

 遠回しの話になってしまったが,言いたいことは簡単なことだ。
 「コミュニケーション教育,異文化理解能力が大事だと世間では言うが,それは別に,日本人が西洋人,白人のように喋れるようになれということではない。欧米のコミュニケーションが,とりたてて優れているわけでもない。だが多数派は向こうだ。多数派の理屈を学んでおいて損はない」
 この当たり前のことが,なかなか当たり前に受け入れられない。
 しかし,これを受け入れてもらわないと困るのは,日本人が西洋人(のよう)になるというのには,どうしても限界があるからだ。もしこれを強引に押し進めれば,明治から太平洋戦争に至るまでの過程のように,どこかで「やっぱり大和魂だ!」といった逆ギレが起こるだろう。
 身体に無理はよろしくないのであって,私たちは,素直に,謙虚に,大らかに,すこしずつ異文化コミュニケーションを体得していけばよい。ダブルバインドをダブルバインドとして受け入れ,そこから出発した方がいい。
 だから異文化理解の教育はやはり,「アメリカでエレベーターに乗ったら,『Hi』とか『How are you?』と言っておけ」という程度でいいはずなのだ。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 1354-1362/2130(Kindle)

国語の問題?

 1つは,はたしてこういったコミュニケーション教育のための授業が,国語という枠組みの中に収まるのかどうかという問題。文科省は昨今,「聞く,話す」ための力の重視を打ち出してはいるが,現場は戸惑うばかりだ。だいたい,少し考えてみればわかることだが,国語の教師がコミュニケーションが得意とは限らない。そもそも国語教師の半分は,部屋に籠もって本を読むのが好きな人たちだ。彼らは,言葉について多少詳しいかもしれないが,コミュニケーション教育のスペシャリストではない。それを急に,「さぁ,コミュニケーションです。子どもたちに聞く,話すの能力をつけてあげてください」と押しつけるのは,とてもかわいそうな話ではないか。
 かつて技術化にコンピューターが入ってきたときに,中高年の教師たちがパニック状態になったのと似た現象が,いま国語教育の水面下で,その問題の本質が明らかにされないままに,静かに進行しているのだ。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 512/2130(Kindle)

教えすぎ

 私が公教育の世界に入って一番に驚いたのも,実はこの点だった。教師が教えすぎるのだ。もうすぐ子どもたちが,すばらしいアイデアにたどり着こうとする。その直前で,教師が結論を出してしまう。おそらくその方が,教師としては教えた気になれるし,対面も保てるからだろう。だいたいその教え方というのも全国共通で,「ヒント出そうか?」と言うのだが,その「ヒント」はたいていの場合,その教師のやりたいことなのだ。
 義務教育には,子どもたちから表現が出て来るのを「待つ勇気」が必要だ。しかし,この勇気を培うことは難しい。ただの勇気では蛮勇になってしまう。経験に裏打ちされた自信が「待つ勇気」「教えない勇気」を支える。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 404-414/2130(Kindle)

現場で?

 「そんなものは現場で……」という発言には,2つの問題が内包されている。
 1つは,その「現場」というのが,まさに上意下達のコミュニケーションで成り立っている従来型の組織だという点。たしかにそのようなコミュニケーションは,現場で無理矢理学んでいくしかない類のものだったのだろう。しかし,いま求められているのは,対等な人間関係の中で,いかに合意を形成していくかといった能力なのだから,これはやはり教育の中で,ある程度きちんと体系的に身につけさせていく必要がある。
 もう1点は,やはり時代の変化という問題だ。
 いま,医者の卵,たとえば25歳くらいになっても,身近な人の死を1度も経験していないという学生は珍しくない。祖父,祖母が亡くなっても,一緒に暮らしていたかどうかによって感じ方も大きく違うだろう。
 身近な人の死を一度も経験したこともなく医者や看護師になるというのは,一般市民からすれば,たしかに不安なことだ。そんなことで患者や家族の気持ちがわかるのだろうかと思ってしまう。ではしかし,その学生を教育する立場の者が,「身近な人の死を経験もせずに医者なんかなれるか!とっとと経験して来い」と言えるだろうか。いったい,この体験の欠如を,学生個人の責任に帰せるのだろうか。
 「現場で云々」という発言は,実はこの「とっとと経験して来い」という無茶な注文と同質なのだ。こうして時代が変わった以上,あるいは,こういった少子化,核家族化の社会を作ってしまった以上,私たちは,これまでの社会では子どもたちが無意識に経験できた様々な社会教育の機能や慣習を,公教育のシステムの中に組み込んでいかざるをえない状況になっている。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 331-349/2130(Kindle)

慣れの問題

 いま,中堅大学では,就職に強い学生は2つのタイプしかないと言われている。1つは体育会系の学生,もう1つはアルバイトをたくさん経験してきた学生。
 要するに大人(年長者)とのつきあいに慣れている学生ということだ。
 これもまた,「そんなものは企業に都合のいい人材というだけのことではないか」という批判があることは十分に承知している。私もその批判は正しいと思うが,これが就職活動の現実なのだ。
 だとすれば,「そんなものは,慣れてしまえばいいではないか」と私は思う。ここで求められているコミュニケーション能力は,せいぜい「慣れ」のレベルであって,これもまた,人格などの問題ではない。そうであるならば,「就職差別だ」「企業の論理のゴリ押しだ」と騒ぐ前に,慣れてしまえばいいではないか。
 私は,自分のクラスの大学院生たちには,常に次のように言っている。
 「世間で言うコミュニケーション能力の大半は,たかだか慣れのレベルの問題だ。でもね,20歳過ぎたら,慣れも実力のうちなんだよ」

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 313-323/2130(Kindle)

その程度のもの

 理科の授業が多少苦手だからといって,その子の人格に問題があるとは誰も思わない。音楽が多少苦手な子でも,きちんとした指導を受ければカスタネットは叩けるようになるし,縦笛も吹けるようになるだろう。誰もがモーツァルトのピアノソナタを弾ける必要はなく,できれば中学卒業までに縦笛くらいは吹けるようになっておこうよ,現代社会では,それくらいの音感やリズム感は必要だからというのが,社会的なコンセンサスであり,義務教育の役割だ。
 だとすれば,コミュニケーション教育もまた,その程度のものだと考えられないか。コミュニケーション教育は,ペラペラと口のうまい子どもを作る教育ではない。口べたな子でも,現代社会で生きていくための最低限の能力を身につけさせるための教育だ。
 口べたな子どもが,人格に問題があるわけではない。だから,そういう子どもは,あと少しだけ,はっきりとものが言えるようにしてあげればいい。
 コミュニケーション教育に,過度な期待をしてはいけない。その程度のものだ。その程度のものであることが重要だ。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 261-270/2130(Kindle)

コミュニケーション問題の顕在化

 若者全体のコミュニケーション能力は,どちらかと言えば向上している。「近頃の若者は……」としたり顔で言うオヤジ評論家たちには,「でも,あなたたちより,今の子たちの方がダンスはうまいですよ」と言ってあげたいといつも私は思う。人間の気持ちを表現するのに,言葉ではなく,たとえばダンスをもって最高の表現とする文化体系であれば(いや,実際に,そういう国はいくらでもあるだろう),日本の中高年の男性は,もっともコミュニケーション能力の低い劣った部族ということになるだろう。
 リズム感や音感は,今の子どもたちの方が明らかに発達しているし,ファッションのセンスもいい。異文化コミュニケーションの経験値も高い。けっしていまの若者たちは,表現力もコミュニケーション能力も低下していない。
 実態は,実は,逆なのではないか。
 全体のコミュニケーション能力が上がっているからこそ,見えてくる問題があるのだと私は考えている。それを私は,「コミュニケーション問題の顕在化」と呼んできた。
 さほど難しい話ではない。
 どんなに若者のコミュニケーション能力が向上したとしても,やはり一定数,口べたな人はいるということだ。
 これらの人びとは,かつては,旋盤工やオフセット印刷といった高度な技術を身につけ,文字通り「手に職をつける」ことによって生涯を保証されていた。しかし,いまや日本の製造業はじり貧の状態で,こういった職人の卵たちの就職が極めて厳しい状態になってきている。現在は,多くの工業高校で(工業高校だからこそ),就職の事前指導に力を入れ面接の練習などを入念に行っている。
 しかし,つい十数年前までは,「無口な職人」とは,プラスのイメージではなかったか。それがいつの間にか,無口では就職できない世知辛い世の中になってしまった。
 いままでは問題にならなかったレベルの生徒が問題になる。これが「コミュニケーション問題の顕在化」だ。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 225-243/2130(Kindle)

「伝わらない」経験

 私たち言語教育に関わる者は,子どもの表現力をつけるという名目のもと,スピーチだ,ディベートだといろいろな試みを行ってきた。その1つ1つには,それぞれ意味があり,価値があったのだろう。
 しかし,そういった「伝える技術」をどれだけ教え込もうとしたところで,「伝えたい」という気持ちが子どもの側にないのなら,その技術は定着していかない。では,その「伝えたい」という気持ちはどこから来るのだろう。私は,それは,「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。
 いまの子どもたちには,この「伝わらない」という経験が,決定的に不足しているのだ。現行のコミュニケーション教育の問題点も,おそらくここに集約される。この問題意識を前提とせずに,しゃかりきになって「表現だ!」「コミュニケーションだ!」と叫んだところで意味はない。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 201/2130(Kindle)

コミュニケーション教育

 日本でも,この10年,20年,表現教育,コミュニケーション教育ということが,やかましいほどに言われてきた。しかし,どうも私たち表現の専門家の側からすると,日本のこれまでの表現教育というものは,教師が子どもの首を絞めながら,「表現しろ,表現しろ!」と言っているようにしか見えない。そういう教員は,たいていが熱心な先生で,周りも「なんか違うな」と思っていても口出しができない。
 私は,そういう熱心な先生には,そっと後ろから近づいていって肩を叩いて,「いや,まだ,その子は表現したいと思っていませんよ」と言ってあげたいといつも感じる。
 この点が,現在の日本の表現教育が抱える一番の問題点ではないかと私は思っている。いまどきの子どもたちをどう捉えるかの,大事な観点がここにある。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 141-147/2130(Kindle)

洗練されたチェックリスト

 私が見てきた中でも,ひときわ洗練されたチェックリストを1つ紹介しよう。単発のセスナ機での飛行中に,エンジンが停止した時のためのチェックリストだ。ハドソン川の状況と似ているが,この場合はパイロットが1人だけだ。このチェックリストには,エンジン再始動の方法が6つの手順に凝縮されている。燃料バルブを開く,予備燃料ポンプのスイッチを入れる,などだ。だが,1つ目の手順が最も興味深い。そこには「飛行機を飛ばせ」とだけ書いてあるのだ。パイロットは,エンジンの再始動や原因の分析に一所懸命になり,最も異本的なことを忘れてしまうことがある。「飛行機を飛ばせ」硬直した思考を解きほぐし,生存の確率を少しでも上げるためにそう書いてあるのだ。

アトゥール・ガワンデ 吉田 竜(訳) (2011). アナタはなぜチェックリスト使わないのか?:重大な局面で“正しい決断”をする方法 晋遊舎 pp.203-204

シンプルで明瞭に

 チェックリストは長すぎてはいけない。原則として項目の数は5個から9個にしておくと良い。人間の脳が1度に保持できるのもそれくらいだと言われている。だが,ブアマン氏によれば,これは絶対に守らなければならないわけではないそうだ。
 「20秒しかない場合もあれば,数分の猶予がある状況もある。そのチェックリストが使われる状況に合わせて作ればいい」
 ただし,1つの一時停止点に60秒から90秒かかってしまうと,チェックリストはかえって邪魔になってしまうことが多いそうだ。また,ずるをしたり,手順を省いたりされやすくなる。だから,ブアマン氏が“キラーアイテム”と呼ぶ,飛ばされがちだが致命的な手順に絞るべきだそうだ。航空業界では,どの手順が重要でそれがどれくらい忘れられるかというデータを重視する。いつもそのデータがあるとは限らないが。
 チェックリストの文章はシンプルで明確でなくてはいけない。その業界にいる人ならば誰でも知っている言葉のみを使うべきだ。そしてチェックリストの見た目も実は重要だ。理想的には1ページに収まり,余計な装飾や色使いは避け,大文字と小文字を使い分けて読みやすくしてあるものが良い。さらに,ブアマン氏は「ヘルベチカ」のようなサンセリフ書体を推奨しているそうだ。

アトゥール・ガワンデ 吉田 竜(訳) (2011). アナタはなぜチェックリスト使わないのか?:重大な局面で“正しい決断”をする方法 晋遊舎 pp.142-143

データより事例

 心理学のしの字も知らなかった学生たちに心理学を教えるときには,あまり驚かせてはいけない。だが中には,よく効く驚きもある。学生には,驚くべき統計的事実を示しても何も学ばない。だが驚くべき事例(あんなに感じのよい2人が助けに行かなかった)には反応し,ただちにそれを一般化して,助けは自分たちが考えていたより難しいのだと推論することができた。ニスベットとボージダは,この結果印象的な表現でまとめている。
 「被験者は全体から個を推論することには不熱心だが,まさにそれと釣り合うように,個から全体を推論することには熱心である」

 これはきわめて重要な結論である。人間の行動について驚くべき統計的事実を知った人は,友人に話して回る程度には感銘を受けるかもしれないが,自分の世界観がそれで変わるわけではない。だが,心理学を学んだかどうかの真のテストとなるのは,単に新たな知識が増えたかどうかではなくて,遭遇する状況の見方や認識の仕方が変わったかどうかである。私たちは,統計を考えるときと個別の事例を考えるときとで,向き合い方が大きく異なる。因果的解釈を促す統計結果は,そうでないデータよりも,私たちの思考に強い影響をおよぼす。だが説得力の高い原因を暗示するような統計結果であっても,長年の信念や個人的経験に根ざした信念を変えるには至らない。その一方で,驚くべき個別の事例は強烈なインパクトを与え,心理学を教えるうえで効果的な手段となりうる。なぜなら信念との不一致は必ず解決され,1つのストーリーとして根づくからだ。読者に個人的に呼びかける質問が本書に多く含まれているのは,このためである。人間一般に関する驚くべき事実を知るよりも,自分自身の行動の中に驚きを発見することによって,あなたは多くを学ぶことができるだろう。

ダニエル・カーネマン (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?(上) 早川書房 pp.256-257

競争しないための競争

 私たちの国は,高度成長のために「ムラ社会」としての一体感を守りながら,しかし一方では「自由競争」で「能力主義」的な上下の移動を可能しなければならず,国全体としても効率的で的確なエリート養成,社会的な選抜と人員配置を行わなければならなかった。
 そのため絶対的な切り札が,「自由競争」としての大学受験制度だった。すべての人が参加でき,完全実力主義で競争できる。こうした形での「平等主義」と「能力主義」の両面の保証の上で,「ムラ社会」は運営されてきた。それがなければ,社会は活力を失い,高度成長は難しかっただろう。
 入試においてだけは,絶対的「自由競争」行われたが,それは唯一,大学の入り口だけのことであり,それ以外は移動のない「ムラ社会」だ。それによって「ムラ社会」内部の一体感を守ったのだ。これが「競争しないための競争」の実体であり,日本の大学入試の核心部分だ。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.252-253

安上がりに頼った

 1960年代後半から高校進学率が急上昇し,それにつれて大学進学率も上昇した。そこで大学の新設が急務になった。しかし,日本では,大学生の急激な拡大の受け入れはほとんどが私大で引き受けることになった。どこの国と比較しても,大学生の中で私大生の比率が最も高くなったのは日本で,80%に達していた。私大の中に放漫経営を行う大学が増え,500人,1000人のマンモス教室,非常勤講師の増大,水増し入学などが当たり前になっていた。水増しが定員の20倍を肥えるところもあった。
 本来の大学の大衆化とは,「誰でも望む者は,その能力に見合うような大学教育を受けられる」ようにすることだろう。したがって,国公立大を増加させるべきだったのだが,そうしなかった。同規模の大学を作るのに,私立ならば国立大の3分の1の支出で済むのだ。
 小泉前首相以来,「民営化」「民間活力」が錦の御旗になっているが,大学政策におけるそれは,教育に金をかけないという選択の結果だったのだ。そのことを,よく考えるべきであろう。
 この60年代,世界的な高度経済成長の時代に,先進国の中で高等教育のための公財政支出の比率が最も低かったのが日本だ。日本ほど教育をバカにし,私学にそのつけをまわし,その結果,教育全体の状況を悪化させた国はない。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.228-229

いんちき臭い

 日本の教育改革で頻出する「多様化」や「個性化」ほどインチキな言葉はない。「多様化」や「個性化」はいつも,上から強制され,いつも横並びの均一化・画一化しか意味しないからだ。「多様化」や「個性化」の名の下に,実は正反対のことが行われる。「多様化」の中に多様化をしないという選択肢は含まれず,「選択」の中に選択しないという選択肢が含まれない。どこまでも,横並びである。そのために,都立戸山高校のような理系も文系も同じ教養課程を学ぶ「全天候型」カリキュラムが不可能になってしまった。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.219-220

難問・奇問の理由

 大学側(特に国立大)の事情は次のようなものだった。
 国立大では1950年代までは論文入試が普通だった。戦前の旧帝大時代と同じである。しかし,60年代に受験者数が急増しそれが不可能になり,客観テストが一般化する。これは大学の「大衆化」にともなう避けがたい変化だった。
 これは単なる量的な問題だけではなく,大学に押し寄せる学生の中の「どんぐりの背比べ」状態の部分に序列を付ける上でも,その客観性の保証の上で優れていたのである。
 京大,東工大で当時出題の経験を持つ永井道雄は「高校の教科書を詳細に読み,なるべく高校教育の線にそった出題をすることが可能であった」と述べている。それが変わったのは,受験戦争がつぎの段階に入ったからだ。1つの大学が出題する問題の数は巨大になり,それが受験専門の出版社の問題集にも収められていく。そこで,過去に出題されていない,新しくすぐれた問題を作成することが困難になった。こうして「難問・奇問」が増えることになったのだ。
 ここでの変化の核心は,大学入試が高校時代の学習の教育評価の側面よりも,選抜に重きをおくようになったことだ。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.208-209

甘ったれ坊やとか保護ママ

 私は前から,国立大と文科省の関係を「甘ったれ坊や」と「過保護ママ」の関係にたとえている。国立大は親に対して文句ばかり言うものの自立はできず,内心では親を怖がっている。文科省も子どもを自立させることができず,ついつい過保護なまでに手を出しすぎてしまう。共に自立ができておらず,典型的な「共依存」関係だ。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.176

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