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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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人間の階層化

なんで高校のクラスって,こんなにもわかりやすく人間が階層化されるんだろう。男子のトップグループ,女子のトップグループ,あとまあそれ以外。ぱっと見て,一瞬でわかってしまう。だってそういう子達って,なんだか制服の着方から持ち物から字の形やら歩き方ややら,前部が違う気がする。

朝井リョウ (2012). 桐島、部活やめるってよ 集英社 No.597 (Kindle)
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質を高める

教職員の採用選考は非常に注意深く行われる。それはあたかも,一流の料理人が市場で魚や野菜を吟味する時のように。そして,一旦新しい教職員が採用されると,オリエンテーション,研修,アドバイザー制度を通じての育成が即座に始まるのである。学生についても同様で,リクルート活動には明確な目標を設定し,高校の進路カウンセラーに対して穏やかかつ粘り強く働きかけ,また奨学金の受給者を慎重に選考した結果,現在の質の高さが得られたのである。ヤング前学長の後継者となるランバート氏の選考も,徹底的だった。ヤング前学長と同様,ランバート学長は強い意志を備えた魅力的なリーダーである。学長と理事によるリーダーシップは先進的で力強く,その力がイーロンをより価値ある事業体へと押し上げたのだ。

ジョージ・ケラー 堀江未来(監訳) (2013). 無名大学を優良大学にする力:ある大学の変革物語 学文社 pp.110

教職員採用は一番大切

ビジネス・財務担当副学長ジェラルド・ウイッティントンは次のように語る。「教職員の採用は,我々にとって一番大切な仕事です。確かに,良いプログラムや素晴らしい施設も重要です。しかし,イーロンの特別な『校風』,これこそわれわれの優位事項であり,この『校風』を保つためには,それにふさわしい人材が不可欠なのです」。

ジョージ・ケラー 堀江未来(監訳) (2013). 無名大学を優良大学にする力:ある大学の変革物語 学文社 pp.66-67

能力の見方

学級集団の中であるように見える「能力」は,「もしかしたら,あるように見えているだけなのかもしれない」とか,「違う場所だったら,この子は少し違うかもしれない」というような見方をすると,児童さんや生徒さんの別の一面が見えてきます。そのことが,もしかすると,彼らの「スクールカースト」の固定性を,少し緩和させる効果を持つことがありそうです。

鈴木 翔 (2012). 教室内カースト 光文社 pp.283

意見を押し通す

これまで,おとなたちは,「スクールカースト」はコミュニケーション能力によって決まってくる,としてきましたが,じつはそうではなく,何らかの理由から「自分の意見を押し通す」ことができる生徒が,コミュニケーション能力があるとされてきた可能性があります。

鈴木 翔 (2012). 教室内カースト 光文社 pp.131

教師も利用

その結果,おおざっぱにまとめると,教師が見ている「スクールカースト」の風景は,生徒に見えているそれとほとんど変わらないと言えることがわかりました。
 しかし,生徒が「権力」として「スクールカースト」を把握していたのに対して,教師は「スクールカースト」による「地位の差」を,「能力」として把握しているということもわかりました。
 彼ら教師は,「スクールカースト」を,「生きる力」や「コミュニケーション能力」によって成り立っていると解釈することによって,「スクールカースト」があることそれ自体を,肯定していることが明らかになりました。
 また,肯定しているがゆえに,その「スクールカースト」を積極的に学級経営の戦略として利用しているということも明らかになりました。そのため,教師は,学級担任を持つ際には,「スクールカースト」を把握することを重要視しており,把握できることを教師の力量であると考えている教師もいることもわかりました。

鈴木 翔 (2012). 教室内カースト 光文社 pp.263

地位

復習しますと,小学校では,クラス全体の中で,いじめられている児童や嫌われている児童を「地位」の低い児童と捉えており,「地位」の高い児童は,みんなから人気のある,みんなでする遊びのうまい生徒と捉える傾向があります。
 一方で,特に中学校以降になると,個々の生徒が何らかのグループに所属し,それぞれのグループに名前をつけて,グループ間で「地位の差」を把握していることがわかります。
 そこでの「地位の差」は,「いじめ」として表現されることはなく,日常的な教室の風景として語られていく傾向があります。ここにこそ,「いじめ」とされない「スクールカースト」独特の問題があるような気がしてなりません。

鈴木 翔 (2012). 教室内カースト 光文社 pp.101-102

何をしに行くのか

「スクールカースト」の中で感じる劣等感,そして優越感さえも,きっとこうした小さな小さな事柄の積み重ねでできています。おとなたちから見れば,非常にささいなことかもしれませんが,彼らにとって,学校は行くことが当然で,逃げることが難しい場所ですから,こうしたことが「ささいなこと」では済まされないということも容易に想像できます。
 こうした現状を考えると,学校はどのような意味を持つ場なのか,ということを,今いちど考え直さずにはいられません。彼らはいったい,「学校へ何をしに行っているのか?」……そう言い換えることも可能だと思います。

鈴木 翔 (2012). 教室内カースト 光文社 pp.67

いじめられていると言えるか

なるほど。それならば,学校に「いじめ」が蔓延することは,ごくあたりまえで自然な出来事のように思えてきます。しかも,スクールカウンセラーがいじめられた子の心のケアをすべく待機していてくれます。それに,今や「いじめ」は立派な社会問題ですから,「いじめ」だという認識さえ得られれば,先生やご両親,友だちが,いろいろ協力してくれる可能性は大いにあります。
 しかし,そう簡単に,「いじめ」を「いじめ」だと認めてもらうことはできるのでしょうか。いじめられた子どもが「自分がいじめられています」と語ることは,果たして容易なのでしょうか。

鈴木 翔 (2012). 教室内カースト 光文社 pp.61

閉じた空間

周知のとおり,日本の学校というのは,なぜだかよくわからないまま,かなり長い時間,決められた部屋の中の決められた席で,決められたメンバーと,クラス替えや席替えが行われるまでずっと過ごさなければなりません。
 「コミュニケーション操作系」の「いじめ」が日本で蔓延している理由には,こうした「閉じた空間」とでも呼べるような空間のあり方が関係している可能性もあります。

鈴木 翔 (2012). 教室内カースト 光文社 pp.55

教室で起きる

絶対的な優劣関係が生じやすい,学年を超えた「縦のつながり」の場面(たとえば部活動など)ではなく,同じ学年の児童生徒が集められた「教室」で「いじめ」が多く起こるというのは,他の国には見られない大きな特徴です。

鈴木 翔 (2012). 教室内カースト 光文社 pp.53

マジックワード

もちろん「いじめ」にも定義はあります。とてももっともらしい定義です。
 しかし,どんなことでもあてはまりそうな「もっともらしい言葉」には,「都合のいいように置き換えられて解釈されてしまう」という危険性がともないます。
 このような言葉を,「マジックワード」と呼びます。直訳すると「魔法の言葉」とでもいったところでしょうか。だいたいの人が理解している言葉だけれど,突き詰めていくと,だんだんうまく説明できなくなってくる「魔法の言葉」です。

鈴木 翔 (2012). 教室内カースト 光文社 pp.45-46

勉強していない学生を雇えるか

いくら仕事に直接関係ない,座学などくだらないと言っても,授業の課題でレポートを書けば文章力・書類作成能力に多少はつながるし,ゼミでの討論は,就活でのグループディスカッション,社会に出たときの交渉能力に多少なりともつながるだろう。少なくとも,くだらない有料セミナーに金をつぎ込むよりははるかにましなはずだ。
 実際,2010年代の勉強をしている学生は,たとえばゼミの予定が企業の説明会・選考などに重なると,気軽に電話して日程をずらすように交渉する。この学生に話を聞くと「いや,勉強のほうが大事ですし,電話してダメならご縁がなかったと思うしかないです」とこともなげに言った。
 一方,2010年代の勉強していない学生は,本当に勉強していない。インフレ・デフレの違いがわかっていないなど基礎教養がボロボロである。文章もろくに書けない,コミュニケーションとは相手を言い負かすか,SNSで標的を罵倒することであると勘違い……。こういう学生に対して「勉強はムダ,うちの社に来なさい」と言える採用担当者が何人いるだろうか。

石渡嶺司 (2013). 就活のコノヤロー:ネット就活の限界。その先は? 光文社 pp.169

可能性を買う

前提条件として整理しておきたいが,大卒採用——特に事務総合職の場合,大学・学部・研究内容などは,その学生の評価とは無関係である。では,特定の資格・技能などを見ているか,と言えばそれもない。そういうのが重視されるのは転職市場においてであって,大卒採用市場(特に事務総合職)では無関係だ。
 採用側が何を見るかといえば,学生の将来の見込み・可能性である。この曖昧な概念において,大学の勉強は何を意味するのか?
 大学・学部・研究内容はともかく,何か1つのテーマをしっかり勉強していれば,多少なりとも論理的思考能力は身に付くだろう。それは,教養や社会常識などについても同様だ。そういうものが身に付いていれば,仕事において大所高所から色々なことを判断するのに役立つだろう。それなら高い給料を払う価値がある——このように採用側は考えるのだ。

石渡嶺司 (2013). 就活のコノヤロー:ネット就活の限界。その先は? 光文社 pp.164

勉強なんかムダ?

このように,大学の勉強が企業ではあまり評価されないということが,学生の間で広まっているところに,キャリア講義のゲスト講師として来た社会人や大学教員が「大学の勉強なんかムダ」論を語れば,事情を知らない学生は真に受けてしまう。
 しかし,これを学生が真に受けると実に危険だ。
 勉強をしなくなることで,基礎的な教養がボロボロのまま就活に突入することになるが,2010年代に入ってから,採用側もやたらと大学の勉強について聞くようになったからだ。
 その学生の学部や研究内容が企業の事業内容に関連するかどうかは,別にどうでもいい。知りたいのはちゃんと勉強をしているかどうか,そして基礎的な学力や教養が身についているかどうかだ。案の定というか,勉強していない学生は,面接での想定外の質問に言葉を詰まらせることになる。

石渡嶺司 (2013). 就活のコノヤロー:ネット就活の限界。その先は? 光文社 pp.163

したたかな質問

したたかな女子学生は,こんな質問をしているようにしている,と話す。
 「女性社員を登用している企業の見分け方ですか?簡単ですよ。会社説明会で聞くんです。グローバル企業なら女性の海外駐在員がどれくらいいるか。それ以外の企業でも出産・育児休暇を取得,あるいは時短勤務で働いている女性総合職の数を聞くんです。それから,育児休暇から復職した社員の比率も。タテマエでしか女性登用を掲げていない企業だと大体はしどろもどろになります」
 実際に,このことを取材先の採用担当者に伝えたところ,顔面蒼白となる例が続出した。

石渡嶺司 (2013). 就活のコノヤロー:ネット就活の限界。その先は? 光文社 pp.155

キャリア・アンカー

キャリアアンカーとは,自分のキャリアを決めるとき,自分が変えたくない価値観や欲求のことです。キャリアアダプタビリティとは,仕事をしていく上での適応能力のことです。プランドハプンスタンス理論は「計画された偶発性理論」とも言いまして,キャリアは偶然の出来事の積み重ねなのだから,ダメ元でも準備しておこう,というものです。

石渡嶺司 (2013). 就活のコノヤロー:ネット就活の限界。その先は? 光文社 pp.70

就職課へ行こう

学生を採用しようとする企業は,就活の序盤ではナビサイトに求人広告を出す。もちろん,有料である。数十人を採用する企業であれば,就職情報会社に8桁の金額を払っていてもおかしくはない。
 その後,中盤にかけて内定を出すわけだが,当然ながら内定辞退者が出て欠員が発生する。この場合,企業はどうするか?
 まず,最終選考に落ちた学生に声をかけ,再面接をする。もっとも,数はそう多くとれず,欠員はそうそう埋められない。もともと中盤以降に二次募集をかける予定だった企業は,そこで欠員を補充するが,二次募集の予定がなかった企業はどうするのか?
 仮に100人採用する企業に5人,欠員が出たとしよう。序盤であればナビサイトに大金を払ってでも求人広告を出す。
 では,中盤以降は?
 企業からすれば,たかだか5人のためにナビサイトへ求人広告は出せない。費用対効果が悪すぎるからだ。そのため,中盤以降,ナビサイトは開店休業状態が続くことになる。毎日,絶えず見ても出てくるのは公務員試験の案内か,派遣社員の求人広告くらい。前者は多くの就活生には無関係だし,後者は条件を下げてもいいから,とあきらめた学生が殺到。説明会はあっという間に満席となってしまう。
 話を戻すと,欠員が出てもナビサイトに求人広告を出さない企業は,費用がかからない方法を選択する。それが,大学就職課(キャリアセンター)への求人依頼だ。過去に内定者の出た大学や関係の深い大学に,ピンポイントで依頼をする。費用がかからず,しかも大学側もそうそう下手な学生は勧めてこない。初期選考を大学に丸投げしたも同然だ。こういう求人依頼があるのだから,大学就職課も捨てたものではない。

石渡嶺司 (2013). 就活のコノヤロー:ネット就活の限界。その先は? 光文社 pp.46-47.

価値観の押し付け

ところで,学生以外にも,マスメディアの報道や就活マニュアル本における就活生の類型化を,簡単に信じてしまう集団が存在する。それは他ならぬ就活生の親である。親が気にして需要があるからこそ,マスメディアの報道や就活マニュアル本は存続しているのだ。
 後者のマニュアル本については,2000年代に入ってから,就活生向けではなく就活生の親を対象としたものが何冊も刊行されるようになった。
 親は「どこでもいいから就職してくれ」「できれば親戚に自慢できるところに就職してくれ」「安定した仕事を選んでくれ」など,自分の都合や価値観をわが子に押し付けようとする。ついでに言えば,「うるさいことは言わないから好きにしろ」も,親の願望の押し付けを巧妙に隠しているに過ぎない。そして価値観を押し付けるための材料として,マスメディア報道やマニュアル本は欠かせない。

石渡嶺司 (2013). 就活のコノヤロー:ネット就活の限界。その先は? 光文社 pp.20-21

受験競争と就活の混同

この「受験競争」との誤解こそが,日本の就活の問題点の1つではないだろうか。
 発見した法則なのだが,学生は内定を「もらう」と言い,選考に「受かる」と言う。これはよく考えると不思議なことである。内定は互いに決定するものであるから,もらうものではない。第一,学生が「内定」と呼んでいるものは,「内々定」なのだが。「受かる」というのも,少しズレているように感じる。ただ,それだけ学生の立場が劣位で,企業の立場が上になっていると考えられているのだろう。

常見陽平 (2013). 「就社志向」の研究:なぜ若者は会社にしがみつくのか 角川書店 pp.206

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