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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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反省文の書き方講座

刑務所で面接をしていると,少年院に入っていたときにロールレタリングを書いた経験のある受刑者に数多く出会います。彼らの口から,「そんなものを書いた記憶がある。とりあえず反省文を書いておけばいいのだろう」という言葉が出るたび,「やっぱりな」との思いを抱きます。ロールレタリングが「反省文の書き方講座」になっているのです。ロールレタリングは嫌な感情や思いを吐き出して「心の整理」をする技法なのに,これでは本末転倒と言わざるを得ません。

岡本茂樹 (2013). 反省させると犯罪者になります 新潮社 pp.106-107
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内面を考えよ

反省させるだけだと,なぜ自分が問題を起こしたのかを考えることになりません。言い換えれば,反省は,自分の内面と向きあう機会(チャンス)を奪っているのです。問題を起こすに至るには,必ずその人なりの「理由」があります。その理由にじっくり耳を傾けることによって,その人は次第に自分の内面の問題に気づくことになるのです。この場合の「内面の問題に気づく」ための方法は,「相手のことを考えること」ではありません。親や周囲の者がどんなに嫌な思いをしたのかを考えさせることは,確かに必要なことではありますが,結局はただ反省するだけの結果を招くだけです。私たちは,問題行動を起こした者に対して,「相手や周囲の者の気持ちも考えろ」と言って叱責しがちですが,最初の段階では「なぜそんなことをしたのか,自分の内面を考えてみよう」と促すべきです。問題行動を起こした時こそ,自分のことを考えるチャンスを与えるべきです。周囲の迷惑を考えさせて反省させる方法は,そのチャンスを奪います。「しんどさ」はさらに抑圧されていき,最後に爆発,すなわち犯罪行為に至るのです。

岡本茂樹 (2013). 反省させると犯罪者になります 新潮社 pp.76

反省慣れている

しかし,皆が見事に「りっぱな反省文」を書いてくることは,ちょっと恐くないでしょうか。「りっぱな反省文」が書けるということは,普段から学生は叱られることに慣れていて,しっかり反省させられているということです。ということは,「りっぱな反省文」が生まれる原点は,家庭でのしつけや教育にあるということです。悪いことをしたら,しっかりと反省させるしつけや教育が行き届いているのです。こうしたしつけや教育が,実は犯罪者を作り出す要因にもなっているのです。そうすると,私たちはしつけや教育のあり方を根本から見なおさないといけないことになります。

岡本茂樹 (2013). 反省させると犯罪者になります 新潮社 pp.75

反省文はお手軽な方法

とはいえ,未成年にとって,万引きはもちろん,飲酒や喫煙は違法行為です。したがって,罰を受けることは避けられません。言いたいことは,罰を与える前に,問題行動は「必要行動」と捉え直しをする視点を持って,「手厚いケア」をしてほしいということです。ケアをしないで,ただ反省させるだけの方法は,最悪の場合,犯罪者になるということです。少なくとも,問題行動が起きた直後の「反省文」はまったく意味がありません。意味がないどころか,さらに抑圧を強めて,大きな犯罪行動に至るリスクを高めます。
 しかしながら,中学や高校だけでなく,およそ学校と名の付くところでは,今でも問題行動が起きたときには反省文を書かせているでしょう。反省文は,ある意味,「お手軽」な方法であるとともに,「りっぱな反省文」を読めば誰もが納得するからです。しかし,それでは問題を悪い形で先送りさせているだけです。

岡本茂樹 (2013). 反省させると犯罪者になります 新潮社 pp.69

反省させてはいけない

それでは,どうすればいいのでしょうか。方法は1つしかありません。反省させてはいけないのです。被害者に対して不満があるのであれば,まずはその不満を語らせるのです。不満を語るなかで,なぜ殺害しなければならなかったのか,自分自身にどういった内面の問題があるのかが少しずつみえてきます。一見,非常識なことをしていると受け止められるかもしれませんが,本音を語らないかぎり,受刑者は自分の内面と向きあうことはできません。

岡本茂樹 (2013). 反省させると犯罪者になります 新潮社 pp.38

時間がかかる

誤解がないように言っておきますが,私は何も被告人に対して「反省しなくていい」と言っているわけではありません。言いたいのは,裁判という,まだ何の矯正教育も施されていない段階では,ほとんどの被告人は反省できるものではないということです。人間の心理として,反省する気持ちになれない状況において,目に見えない「人間の心」を判決や量刑を決めるための条件にすることには無理があります。被告人が犯罪を起こした事実が間違いないのであれば,客観的事実に基づいて,淡々と判決や量刑を決めるしかありません。なぜなら,裁判という場でどんなに反省の弁を述べたとしても,被告人は自分の起こした罪と向き合っていないからです。自分の罪と向きあうのは,長い時間をかけて手厚いケアをするなかではじめて芽生えてくるものなのです。

岡本茂樹 (2013). 反省させると犯罪者になります 新潮社 pp.36

罰を避けようと

幼少の頃のことを思い出してください。親が怒るような悪いことをしたとき,できるだけ親から叱られないようにするため,どうすればいいか悩んだことはないでしょうか。もちろん親から叱られるような些細なことと犯罪は比べられませんが,人間の心理としてはつながっています。罰はできるだけ受けたくない。受けるとしても罰はできるだけ軽いものであってほしい。それは人間の本能なのです。

岡本茂樹 (2013). 反省させると犯罪者になります 新潮社 pp.32

息を止めるな

「スイミングは,いつ呼吸するかに積極的に意識を集中しなくてはならない唯一のスポーツです。そうしないと,うまくいかなくなる」とは,米国水泳連盟でコーチ長を務めるスコット・ベイの言葉だ。
 数カ月後に電話で話したときに彼が言っていたが,問題は私たちが「まだほんの子供のときに,息を大きく吸って,止めて,それから水に入るように言われたときに」始まった。わたしたちは一生,それを守り続けがちなのだそうだ。その結果が上達の大きな障害になりかねない。「もし,たったの0.5秒息を止めたら——」とベイは続ける。「たったそれだけの間,息を止めただけで,体の中心部のすべての筋肉,特に横隔膜の筋肉を収縮させてしまう。そして,筋肉は収縮するたびに,いくらかの酸素を燃焼する。したがって,中心部の筋肉が燃料の酸素を燃やし,血液のなかに酸素を注ぎ込む代わりに,そこから酸素を奪ってしまう」。さらに,泳ぐために酸素を必要としている筋肉からも奪う。「息を止めてはいけません。顔が水に浸かっているときに,ゆっくり息を吐き出しなさい。できるだけ普通に。リズミカルに呼吸するよう試みて」

リン・シェール 高月園子(訳) (2013). なぜ人は泳ぐのか?水泳をめぐる歴史,現在,未来 太田出版 pp.133-134

ローリング

泳ぎ方が変わった時にはなおさらだ。たとえば,わたしが子供だったときには,クロールは身体を平らに,それもヒラメのように真っ平にして泳ぐよう教わった。地上で手本を見せてくれるようインストラクターに頼むと,彼らはじっと立って腕だけを動かした。右,左,右,左。呼吸についても同じ。体全体ではなく頭だけをターンしながら,胸いっぱいに息を吸い込めと教わった。
 今日,すべてはローリングにつきる。頭と背骨を一直線に保ち,前方に手を伸ばすとき,体はパンケーキよりはナイフのようでなくてはならない。手本を示す人はデッキに立って,ヒップと反対側の腕を前へ後へと動かす,まるでジルバでも踊っているかのような動作をするだろう。
 「水中でピラティスでもするように,身体のすべての部分を一直線に並べることを習得しなくてはならない」。説明が抜群に上手いからと推薦された,テキサス州サンアントニオの有名な元クラブコーチ,ジョージ・ブロックは助言する。「体幹を使って流線形を作り,次に腕と脚で推進力を加えなさい」と。

リン・シェール 高月園子(訳) (2013). なぜ人は泳ぐのか?水泳をめぐる歴史,現在,未来 太田出版 pp.100-101

悲観論と思考放棄

悲観論をとなえるのは,賢明さを装いたい人にとってとくに便利な方法のひとつだ。そして,悲観的になる材料は山ほどある。だが,いつも悲観論をとなえていては,考えることを放棄する結果になる。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 下 講談社 pp.330

独学の効果

独学とグルから学ぶ方法がとくに生産能力を高める点で効果的なのは,最先端の新技術を使うスキルを学ぶためのもので,有料の公式のコースがまだあまりない時期である。公教育の学校がパソコンを買い,新しい教科を開発し,カリキュラムを変更し,教師を訓練し,これらすべてのために資金を調達するのを待たなければパソコンの使い方が学べなかったとすると,パソコンが企業と経済全体に普及するのは,はるかに遅れていただろう。したがって,パソコンの初心者がとった行動は,ほんとうに生産能力を高めるものだった。自主的に知識を広め,遅れが出ないように近道を通って,金銭経済での技術の進歩を早めたのである。
 この大学習運動によって,富の基礎的条件の深部にある多数の要因との関係が変化した。時間を使う方法と時が変わった。仕事をする場所が変わり,空間との関係が変わった。社会の中の共通知識の性格が変わった。
 生産消費者は生産を行うだけではない。生産能力を高めてもいる。そして,明日の革命的な富の体制を成長させる一助になっているのである。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 上 講談社 pp.367-368

論文は言葉で記述する

概念にそれぞれの定義を書くように求めると,「言葉にするとニュアンスが変わってしまうから,生データをもって示したほうがよい」と言う人がいる。しかし,論文は言葉によって作り上げられるものであり,言葉にできないなら存在しないのと同じなのだ。

萱間真美 (2013). 質的研究のピットフォール:陥らないために/抜け出るために 医学書院 pp.98

書きたいことから書く

楽しいことがあったとき,おもしろいものを見たときに,誰かに話したいと思う。それは,わくわくするような気持ちではないだろうか。論文は,伝えたいことから書き始めよう。「はじめに」や「研究の背景」から書き始めなくてはならないということはない。それらは,最後に書くこともある。まず,自分がいちばん確信をもって書けること,書きたいことから書き始めよう。最後に整理がつけば,書く順番は自由であることを知っておこう。

萱間真美 (2013). 質的研究のピットフォール:陥らないために/抜け出るために 医学書院 pp.91

安心感は必要か

人が言った言葉を,自分が知っている言葉に置き換えると,安心感が得られる。意味がわからない状態を脱して,なじみがある,理解できるところに引き寄せられるからだ。
 しかし,それではなんのためにわざわざ研究をしているのだろうか。意味がわからないけれど相手はそう言っているという言葉や,理解できなくて不安である状態に自分を置くことができないのなら,研究には向いていないかもしれない。

萱間真美 (2013). 質的研究のピットフォール:陥らないために/抜け出るために 医学書院 pp.79

半分は調整

しかし,研究者の仕事の半分以上は,こうした調整なのだ。このような調整と実務が並行できなければ,将来にわたって研究の仕事をしていくことはむずかしい。このようなことにも,訓練が必要だ。
 調整が苦手な人に共通する考えは,「自分の都合はみんながわかっているはず」という非現実的な確信のように思われる。あなたの予定を,説明しないで人がわかっているわけがない。論文の提出期限を,誰もが配慮してくれるわけでもない。それに向かってすべてを調整するのは研究者自身であり,他人は誰もそれをしてくれない。

萱間真美 (2013). 質的研究のピットフォール:陥らないために/抜け出るために 医学書院 pp.65

「対象者が多すぎる」

筆者が博士論文を作成した当時は,大学院の学位論文としては量的研究が主流であった。その大学院で博士論文として認められるためには,質的研究方法を用いた場合でも,最低限30例の対象者数が必要であると指導を受けた。学位論文はその研究科で認められる必要があるので,筆者は30例のインタビューデータを収集・分析して,海外の学会で発表した。
 学会では,「30例の対象者数が本当に必要だったのか?」「理論的飽和との関連はどうだったのか」「30例のデータを分析しきることができたのか」と,対象者数が多すぎるという批判を受けて驚いた。
 データ収集には,研究対象者の協力が不可欠である。対象者の貴重な時間を費やしていただくのだ。なぜ,この対象者からデータを得ることが必要なのか,一例一例,その理由をもってデータ収集にあたっているかどうか,研究者自身が問い続けることが必要だろう。

萱間真美 (2013). 質的研究のピットフォール:陥らないために/抜け出るために 医学書院 pp.44-45

類義語の羅列

大学院生が質的研究をするとき,研究計画書の方法論の部分に,みな同じ文章をコピーしていることに気づく。「この研究は因子探索的,質的帰納的方法論を用いた記述的研究である」というものである。
 見覚えのある単語が並んでいて,一見,文章のように見える。しかしこれは,類義語の羅列に過ぎず,結局何も表していない。記号のようなものだ。

萱間真美 (2013). 質的研究のピットフォール:陥らないために/抜け出るために 医学書院 pp.37

「させられた」研究

指導者は,話の流れを整理したり,飛躍しているところを論理的に組み立て治す手助けをしたり,話を聞いた印象や感想を伝えることはできる。だが,最終的には,テーマは研究する人の口から,その人なりの表現をもって表現され,それが読む人に伝わるような形に書かれない限りは決まらない。指導者が,あまりの決まらなさに業を煮やして,勝手に研究テーマを決めたら,悲劇はそこから始まる。他人から「させられた」ことに対して,人は驚くほど受動的で,被害者意識を最後までもつ。指導者が勝手に決めたとしたら,その研究テーマは指導者のテーマであって,研究する人のものには,永遠にならない。

萱間真美 (2013). 質的研究のピットフォール:陥らないために/抜け出るために 医学書院 pp.25-26

謝辞について

謝辞。論文指導教員のほかに,誰かが口頭の助言とか,稀覯本の貸与とか,そのほかの援助をもって君を助けてくれたとしたら,論文の終わりとか冒頭において感謝の辞を挿しはさむのは良い習慣だ。それはまた,君があちこちの人びとに相談して,一生懸命にやっていることを示すのにも役立つ。指導教員に感謝するのは悪趣味だ。君を助けてくれたとしても,それは当然の義務を果たしただけなのだから。
 君の指導教員が憎悪し,忌み嫌い,侮蔑しているような研究者に対して,君が受けた恩義を表明したり,感謝したりする羽目になるかもしれない。すわ,学界の重大事件だ。だが,それは君のせいなのだ。君が指導教員を信頼していて,しかも彼が君にあの人物はまぬけだといったとすれば,君はその人物に相談すべきではなかった。または,君の指導教員が開放的な人であって,自分の学生が自分と意見を異にする典拠に訴えることをも容認するとしても,おそらく,この事実を論文審査の際に節度ある話題にすることはあるまい。あるいはまた,君の指導教員がむら気で,羨ましがり屋で,独断的な悪党であったとすれば,君はそういう気質の人物を指導教員にすべきではなかったのだ。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.220-221

全部書きつけたまえ

脳裏に浮かぶことを全部,だが初稿の間に限り,書きつけたまえ。後で気づくことだろう——君が誇張に引きづられてしまい,君のテーマの中心からそれたことを。そのときには,括弧部分や脱線箇所を切り捨てて,それらを注とか付録の中へ入れたまえ。論文というものは,君が知悉していることを証明するためではなく,当初に君が練り上げた仮説を証明するためのものなのだ。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.179

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