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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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論文内の情報提供

むしろいうなれば,論文はたまたま論文指導教員とか(審査委員会の)ほかのメンバーだけに向けられている仕事であるとはいえ,実際には,ほかの多くの人びと—その学問には直接精通していない研究者たちからさえも,読まれたり,参照されたりすることを前提にしている仕事なのだ。
 それだから,哲学の論文では,哲学がいったい何であるのかを説明し始めることはもちろん必要ないであろうし,また火山学の論文では,火山がいったい何であるのかを説明する必要はない。だが,これほど明白なレヴェルに到達していなければ,即刻,読者に必要な情報をすべて提供するのがよいに決まっているだろう。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.172-173
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初稿と最終稿

序説の最初の草稿と最終稿とはどの点で異なるのであろうか?それは君が最終稿では最初の草稿におけるよりもはるかに期待薄になっており,またより慎重になっているであろうという点である。最終序説の目標は読者をその論文に分け入るのを助けることにあろう。ただし,君が与えようともしないことを読者に期待させても無駄だ。
 よい序説の目標は,読者がその序説に満足し,すべてを把握し,もはや残りを読まないようにすることである。これは逆説的ではあるが,往々にして,印刷された本でのよい序説は,書評家に適切な見解を提供し,そして,その本について著者の望んでいたとおりのことを書評家に語らせるものである。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.136

本を用いること

しかしながら,本だけで,あるいは本に関してだけ,論文というものは作成できると決まっているのであろうか?すでに見てきたとおり,たとえば,迷路におけるつがいの鼠の行動を数カ月間観察したりして,野外調査を記録するような,実験に基づく論文というものもある。けれども,こういう型の論文については的確な助言を授けうる自信がない。それというのも,この場合には,方法は学問の種類によって決まるし,また,こういう研究者たちと接触があるから,本書のごときものを必要としないからだ。ただ私が知っている唯一のことは,すでに述べたとおり,こういう種類の論文でも,実験は先行の科学的文献に関しての議論の中に組み込まなければならないという点だ。したがって,この場合でもやはり,書物が話題にのぼることになる。
 社会学の論文でも,学位志願者が現実の状況と長期間,接して過ごさなければならないとすれば,同じことが生ずるだろう。この場合にも,せめて,同類の研究がすでに為されていないかどうかを知るためにも,書物が必要となるだろう。
 また最後に,書物についてあれこれ論ずるだけで作成されている論文もある。文学,哲学,科学史,教会法,形式論理学の論文は一般にそういうものである。イタリアの大学でも,殊に人文科学系の学部では大半がそうなっている。そのほか,北米の学生が文化人類学を研究する場合には,戸外にインディオたちがいるし,あるいは,コンゴで調査を行うための資金も見つかるものだが,それに反して,一般にイタリアの学生はフランツ・ボーアズの思想について論文を書くだけに甘んじているのが普通だ。もちろん,民俗学の立派な論文はいろいろあるし,わが国の現実を研究することによって練り上げれば,ますます立派なものとなるが,しかしこの場合でも,せめて,先行のフォークロア目録や資料的情報を調査するためにも,図書館の仕事が必ず加わってくるものだ。
 いずれにしろ,いわば,本書は自明な理由から,本に関しての,かつもっぱら本を用いての,大多数の論文を問題にしている。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.128-129

剽窃とは

対立的な兆候に神経質な態度をとる必要はないし,誰かが自分の論文のそれに近いテーマについて云々するたびごとに剽窃されたと思い込む必要もない。仮に,たとえば,ダーウィン進化論とラマルク説(用不用説)との関係について論文を書いたとする。その場合,批評文献を追跡していくと,他の人びとがそのテーマについてすでにいかに論じているかということや,すべての研究者が共有の考えがいかにたくさんあるかということに気づくであろう。だから,少し経ってから,指導教員や,その助手や,あるいは同僚が同一テーマに専念しても,才能を騙し取られたと邪推するには及ばない。
 学問的仕事の剽窃と見なされるべきものとしてはむしろ,所定の実験を行わなければ得られないような実験データーの使用。君の仕事以前には転写されたためしのない珍しい写本の筆写を横取りすること。君より以前には誰も収集したことのない統計データー——この典拠が挙げられていない場合にのみ,剽窃といえるのである(それというのも,論文はひとたび公にされるや,誰もがそれを引用する権利を持つからだ)——を活用すること。以前には翻訳されたことがないか,もしくは別の仕方で翻訳されるかしたテクストを,君が苦労して翻訳したのに,それを勝手に利用すること。こういう類のものである。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.56

不確実要素

けれども,次のようないくつかの欠点があるかも知れない。

 1.教員が自分のテーマにかかりきりになっていて,そのため,その方面に何らの関心もない学位志願者に無理強いする。かくして,学生はせっせと資料集めをして,他人にそれを解釈してもらうために働く助手と化す。彼の論文は平凡な結果に終わるだろうから,後で教員が決定的研究を仕上げる際,この収集した資料のうちいくつか断片を利用しても,その学生の名を引用することはなかろう。彼が教員に明確なアイデアをもたらしたわけではないのだから。
 2.教員がいかさまで,学生たちに作業させ,学位を与えておきながら,彼らの仕事をまるで自分のものであるかのように無遠慮にも活用する。場合によっては,ほとんど善意によるいかさまのこともある。つまり,教員が情熱をこめて論文指導に当たり,多くのアイデアを示唆してやり,そしていくらか経つと,自分が示唆してやったアイデアと,学生が持ち出したアイデアとがもはや見分けられない。同じくまた,あるテーマについて激しいグループ・ディスカッションをやった後では,どれが自分の起点アイデアで,どれが他人の刺激によって獲得したものなのか,もはや想い出せなくなるものだ。

 こういう欠点をどうやって回避するか?学生がある教員に接近するような場合には,すでに友人たちからその教員の噂を聞いているだろうし,以前の学位取得者たちとも接触もあったであろうし,その教員の清廉さについて見当をつけてしまっていることであろう。その教員の論著をいろいろ読んでいて,その教員が自分の協力者たちの仕事をよく引用するか否かをも承知していることだろう。残余のことに関しては,評判や信用という不確定な要素が左右するものである。


ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.55-56

厳しさが

むしろ,教員によっては,あまりに陳腐な領域に関して論文を書かないように勧告することがある。ところが,大衆大学の現況から,今では多数の教員は,厳しさを和らげてしまい,大変ものわかりがよくなっている嫌いがある。
 しかしながら,教員が息の長い研究をおこなっていて,そのためにたくさんのデーターを必要としており,そして学位志願者を作業グループの一員に使おうとしているといった,特殊な場合がある。つまり教員は一定数の年月の間,数々の論文を特別な方向に振り向けることになる。仮にその教員がある時期の産業の状況に関心を持つ経済学者であるとする。この場合,教員は個々具体的な方面に関する論文をいろいろと書かせて,自分の問題の完全な枠組みを打ち立てようと志すであろう。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.54

テーマの示唆

テーマを示唆するに当たり,教員は2つの異なった基準に従うことができる。熟知しているテーマ,弟子を容易に指導してやれるようなテーマを指示するか,それとも,十分には知らないテーマ,もっと知りたいと思っているテーマを指示するか,のいずれかである。
 はっきりさせておきたいことは,見かけとは異なって,この後者の基準の方が正当かつおおらかだという点である。教員はこういう論文を指導することにより,自らも固有の視界を拡大せざるを得なくなるだろうと思っている。それというのも,学位志願者の仕事を十分に判断し,彼の作業中に助けてやろうと欲すれば,当然,何か新しい事柄に従事しなければならないであろうからだ。通常,教員がこの後者の道を選ぶ場合には,学位志願者を信頼しているからであり,一般には,彼に対して,そのテーマが教員本人にとっても斬新で,これの掘り下げに興味を持っていることをはっきりと語るものである。


ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.54

6ヵ月の論文

だが,6ヵ月の論文でも立派なものだって,確かにありうるのである。6ヵ月の論文の必要条件は次の3つである。
 1)テーマが限定されていること。
 2)ギリシャ人にまで遡る文献を探す必要がないように,テーマはできれば現代のものであること。または,ごく僅かしか書かれたことのない,周辺的なテーマであること。
 3)あらゆる種類の資料が,限られた地域でも自由に利用でき,たやすく調べられるものであること。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.26

3年以上かかるのは

3年以上でも,6ヵ月以下でもない,とことの始めにいっておく。3年以上でないわけは,仮に3年間研究してもテーマを絞ることができず,必要な資料収集もままならぬとなれば,それは次の3点を意味しうるにすぎないからだ。すなわち,
 1)選んだ論題が間違っていて,自分の力を超えたものだった。
 2)いつまでも言い足りないという不満が残るような類のもので,その論題の研究には引き続き20年も要するもの。しかし,有能な学生なら,限定(たとえささやかなものにしろ)を設けることができ,この限定内で何か決定的なものを産み出すことができなければならない。
 3)論文ノイローゼにかかった場合。それをうっちゃったり,やり直したり,実行不能と悟って,錯乱状態に陥ったり,論文を卑劣な振舞いの逃げ口上に持ち出したりする。これでは,学位取得はとても覚つかないだろう。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.23

違法な助言

彼らの要求がこういうものであるとしたら,もしも嘆かわしい経済的問題を解決するために学位を取得せざるを得ないという,逆説的なさだめの犠牲になっているとしたら,彼らはまず次の2つのことをなすべきであろう。すなわち,
 (1)誰か他人に論文を作成してもらうために,相当額を投資する。(2)他の大学で数年前にすでに作成された論文をコピーする(たとえ外国語によるものであれ,すでに印刷された著作をコピーするのはよくない。なぜかといえば,教員がほとんど情報に通じていないにしても,それの存在していることをもう知っているに違いないからだ。けれども,カターニャで作成された論文をミラノでコピーすれば,うまくやりおおせるであろう。もちろん,論文の指導教員がミラノで教える以前にカターニャで教鞭をとったことがないかどうかを知る必要がある。したがって,論文をコピーするためにも,研究という知的作業が前提となるのである)。
 自明のとおり,今しがた与えた2つの助言は違法である。たとえてみれば,「負傷して救急病院にかけつけたのに,医者が診察しようとしなければ,医者の喉にナイフを突きつけろ」というようなものかもしれない。いずれの場合とも,絶望的好意である。筆者が逆説的な助言を行ったのも,本書の意図が,現存の社会構造やさだめのゆゆしい諸問題の解決にあるわけではないことを念押しするためなのだ。
 それだから,本書が相手にしているのは(金満家でもなく,また世界中を旅行した後で学位を取得するために10年の年月を自由にできないにしても)日々研究に何時間かを割けるだけの余裕があり,かつ,ある種の知的満足をもたらし,学位取得後も役立つような論文を準備したいと思っている人たちなのである。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.7-8

寄せ集め式論文

寄せ集め式論文で学生が発揮することといえば,現存の“文献”,つまり,当のテーマについて発表された著作類の大部分を批判的に精査したこととか,それらを明瞭に説明することができたこととか,さまざまな観点を関連づけることによって,聡明な全景(パノラマ)を—こういう個別問題について深く研究したことのない,当該分野の専門家にとっても,情報の観点からはそれが有益な場合だってあるかもしれないから—提供しようとしたこととか,せいぜい以上のような諸点の実証が関の山だ。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.5

「どのような避妊法を使っていますか」

数年たつと,一時期は燃えさかっていた私の理論化学への情熱は冷めはじめた。その原因のひとつは,就職の見通しが当初思っていたほどよくなかったことだ。化学の中でも,実験系の専門分野は理論系よりも早く卒業しやすいため,同世代の大学院生たちで就職活動をはじめている女性たちもいたが,採用のときにひどく差別的な扱いを受けたという話が次々と聞こえてきた。たとえば,面接で「どのような避妊法を使っていますか」と聞かれることもあったそうだ。当時,1970年代前半は,まだまだ男女同権とは程遠い状況だったのだ。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.69

男尊女卑

当時,私は化学の研究を仕事にしたいと思っていた。そうなると,大学教授くらいしか思いつく職業がなかった。私のこの希望は,生物学好きの父にとっては,まだやや不本意のようだった。でも,化学は“本物の科学”だからと納得してくれた。大学教授になるためには,最低でも大学院に進学しなければならなかったが,デヴィッドがまだ博士論文を書き終えていなかったため,私はMITのあるケンブリッジを離れたくなかった。なので,私はハーバードの大学院に出願書類を出したが,友人たちには「やめた方がいい,気でも触れたか」と言われてしまった。言うまでもなく,ハーバードの化学研究科は世界的に見てもトップクラスの研究機関だ。しかし,世界的に見ても男尊女卑の風潮が強いことでも有名なのだ(かなりあとになってから知ったことだが,同様の研究機関としては自殺率も非常に高いらしい。私は無事に生き延びたが,あのすごいプレッシャーとストレスを考えると,納得できる)。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.66

MIT

今でもそうだが,当時のMITは非常に競争の激しい大学だった。MITの授業は,尋常でない量の課題が出ることで有名だ。これらの課題をこなそうとすることは,放水している消防用ホースから水を飲もうとするのと同じだという人もいるほどである。それに加え,非常にオタク的な文化の学校なので,それについていけないととても孤独でみじめな思いをする。社交能力の低い女子だと,なおさらのことである。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.63-64

そんなに急には変えられない

もともと教育制度は,一朝一夕に変えられるものではない。たとえば安部首相が言及する学制改革にしても,明治の初めの学制発布は政府の強権発動が可能だったからだし,戦後の改革は占領軍の命令があったから一気にできた。各学校に生徒,学生が在籍している状態のままで簡単に行えるものではなく,時間をかけて移行させていかなければならない。
 臨教審で提言された学校週5日制の場合,86年の第二次答申で週5日制への移行の検討が求められ,87年に文部省の教育課程審議会が漸次的な導入の方向での検討を提言した。92年に月1日の実施となり,95年に月2回,完全実施は02年からである。段階的導入を開始してから10年。最初の提言からは16年もの時間が経過している。
 子どもが土曜・日曜に家庭や地域で過ごす生活は,それを取り巻く大人たちの間にもすっかり定着している。地域で子どもたちが活動できる場も増え,少年野球,サッカークラブをはじめとする各種スポーツ教室,合掌,美術などの芸術団体でさまざまなことに挑む姿が当たり前になった。廃れかけていた地域のお祭りや郷土芸能も,子どもたちの参加で息を吹き返している。宗教関係者からは,週末に神社,お寺,教会などで厳かな宗教的雰囲気に触れる子どもが増えたと聞く。
 これを「来年から元の6日制に戻す」などという思いつきレベルの提案がいかに乱暴かがわかるだろう。16年かけて議論し段階的に実施して定着させたものを,何の新しい議論もなく単純に元に戻すのでは,およそまともな教育政策とはいえない。

寺脇 研 (2013). 文部科学省:「三流官庁」の知られざる素顔 中央公論新社 pp.266-267

教育委員会制度

教育委員会制度が,地方教育行政における政治的中立性を守るための装置であることは広く知られている。首長が直接教育行政を担当するシステムでは,政治家首長が変わるたびに大規模な方針転換が行われかねない。また,首長が最初の任期4年で成果を出すことにとらわれると,目先の短期的効果ばかりを追ってしまう。
 そこで,別途公選による教育委員が構成する教育委員会に権限を委ね,政治に影響されない形で中長期的な視点から教育行政を展開することにしたのである。教育は,すぐには成果が出ない。中長期的な見通しが必要だ。この役割は,委員の選任が公選制から首長による任命になっても変わらず発揮されている。教育委員の任期は首長と同じく4年であり任命時期がひとりひとり別であるため,新しく当選した首長が教育委員を総入れ替えするわけにはいかず,当面は前任者の任命した委員を引き続き抱えねばならない仕組みになっている。首長の独走には歯止めがかかる。
 昨今流行の教育委員会廃止論は,一部の教育委員会が職務怠慢とあげつらわれても仕方ないようなていたらくであるという見えやすくわかりやすい理由に基づいている。だから,つい世論も引きずられてしまう。廃止論者は,政治的中立性の確保と中長期的視点という教育委員会の根本的な役割を忘れているかのようだ。いや,言い出しているのは当の首長なのだから,それがわかっていながら確信犯で自分の思うがままに教育行政を操りたいのかもしれない。

寺脇 研 (2013). 文部科学省:「三流官庁」の知られざる素顔 中央公論新社 pp.240-241

通産省の狙い

彼らが狙いをつけたのは国立大学だった。研究費提供などで国立大学の研究機能を通産省の影響下に置き,その研究成果を経済的に利用して新しい成長戦略を描くのが目的である。それには国立大学を文部省から引き離す法人化が不可欠であり,橋本政権の行革路線に乗じてさまざまな画策がなされた。
 しかし,学習産業やスポーツ産業,文化産業とは違い国立大学は文部行政の本丸である。文部省も黙ってはいない。そこで揺さぶりをかけるために仕掛けられたのが「学力低下」騒動だった。『分数ができない大学生』(東洋経済新報社)なるセンセーショナルな本を出版した学者たちを,通産省と関係の深い研究所に集めて研究費を渡し,文部省の政策は信用できないとのキャンペーンを張らせたのである。
 その甲斐あってか,国立大学は国立大学法人という形で04年に法人化する。だが彼らの誤算は,国立大学の保守性だった。文部省に批判的な教官でさえ,通産省に対してはもっと激しい警戒感を持っていた。経済界に奉仕するような提案にうかうか乗るような気配はほとんど現れず,国立大学巻き込み計画は,あえなく頓挫する。

寺脇 研 (2013). 文部科学省:「三流官庁」の知られざる素顔 中央公論新社 pp.108-109

文部省の命令?

大学の場合もそうだ。90年代初頭に従来のような専門教育から独立した形の教養教育の見直しが進んだとき,文部省の命令で教養部を廃止させられたと信じている国立大学教官がどれほど多かったか。わたしが当時の文部省担当者に直接問い質したところでは,文部省から命令など出されていない。学内の議論をまとめる際に,これまた「錦の御旗」として使われたのだろうと想像できる。

寺脇 研 (2013). 文部科学省:「三流官庁」の知られざる素顔 中央公論新社 pp.72

文科省のせい?

ここまで各学校段階と文部科学省の表の関係ばかりを述べてきたが,一方で現場からの感情的な不信感や嫌悪感があることも頭に置いておかねばなるまい。日教組や進歩派大学教官と対立が激しかった頃からの「反文部省」感情が,過去と比較して薄れたとはいえ「反文部科学省」感情として現在も残っているのは否めない。
 現実に学校現場や大学から嫌われる政策を実行した部分は,あえて嫌われる役割を演じなければならなかったわけで,それはそれとして仕方がないだろう。見過ごせないのは,実態もないのに「悪者」視されている部分である。
 文部科学省→都道府県教育委員会→市町村教育委員会→公立小中学校,文部科学省→都道府県教育委員会→公立高校,あるいは文部科学省→国立大学という指導,助言系統の中で,上意下達の空気を背景に,「文部科学省がこう言っているから……」との説明が方便として使われ,言ってもいないことを文部科学省のせいにされてしまっている場合が少なくない。

寺脇 研 (2013). 文部科学省:「三流官庁」の知られざる素顔 中央公論新社 pp.70-71

国立大学法人化

しかし,04年の国立大学法人化はすべてを変えてしまった。各大学は独立した経営権限を持つようになる。学長が自ら任命する理事からなる理事会を率い,全権を掌握する運営形態になった。国立大学の学長は,私学でいえば学校法人の理事長と大学の学長の権力を両方持つことになったのだ。文部科学省が国立大学全体を総合的に考慮して運営していくことはできなくなり,各大学のゆくえは学長の判断に委ねられることになったのである。
 国立大学事務局幹部への文部科学省ノンキャリアの転任も,別機関への転籍ということになり,機械的に判断すると「天下り」呼ばわりされかねない。大学からの要望を受けて初めて,文部科学省から大学への転籍が可能になる。学長が必ずしも文部科学省への親近感を持っているとは限らない。中には本省からの受け入れを拒んだり制限したりする大学も現れた。本省人事が国立大学人事を動かすことはできなくなっている。あらゆる人事が,学長の同意なくしては成立しない。受け入れ数も,受け入れ期間も,誰を受け入れるかも学長次第である。「天下り」呼ばわりのせいもあって,受け入れは大幅に縮小された。
 そのために,文部科学省ノンキャリアの人事コースが大幅に乱れ,先行きの見えないものになってしまっている。一定の年齢になっても大学の課長や部長になれないという事態が生じてきた。急遽他のさまざまな人事コースが模索されているものの,従来の国立大学のように気心が知れ一体感を持って交流できる先は見つかるはずもない。これはノンキャリアを不安にさせ,士気を低下させる。

寺脇 研 (2013). 文部科学省:「三流官庁」の知られざる素顔 中央公論新社 pp.67-68

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