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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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日本の大学入試

日本の大学・学部ほど,多様で回数が多く,教職員の負担が大きい入試制度を採用しているのは,OECD(経済協力開発機構)加盟国ではほとんどないようだ。その点でも,今や多様化・複雑化する日本の大学入試は「ガラパゴス化」しているとも評価でき,その重みは現場の大学教員の肩にズッシリとのしかかっているのである。
 とりわけ,最近の私学受験については,国公立大学と比べても,20年前と比べても,入試方法がともかく多様化している。かつては附属高校入試とその私学(の学部)が指定する「指定高校推薦入試」くらいしか種類がなかったのが,現在では,それらに加えて,社会人入試,帰国女子入試,AO(Admissions Office アドミッション[ズ]・オフィス)入試,などなど,各大学・学部で特色ある多様な学生リクルートメントにもとづくアドミッション・ポリシーを展開している。これに日本語母語話者ではない受験者を対象とした留学生入試などを入れると,大雑把な入試方法でも9種類を超える。


櫻田大造 (2013). 大学入試 担当教員のぶっちゃけ話 中央公論新社 pp.20-21
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大きな池の小魚か小さな池の大魚か

大きな池の小魚か,小さな池の大魚か——その選択肢を考えるヒントとして,もうひとつ例をあげよう。あなたは大学関係者で,大学院卒の優秀な研究者を採用することになった。そのとき一流大学院卒と条件を限定するか,それとも大学院のランクに関係なく,トップの成績だった人間を選ぶか。
 たいていの大学は前者だ。当校は一流大学院の卒業生しか採用しませんと胸を張る大学さえある。しかしここまで読んできた人ならば,さすがに疑問を抱くだろう。小さな池の大きな魚は,大きな池の小さな魚よりそんなに下なのかと。
 大きな池と小さな池を比較できる簡単な方法がある。ジョン・コンリーとアリ・シナ・オンデルは,経済学の博士課程修了者を対象に調査を行なった。経済学の世界には,研究者なら誰もが読む権威ある学術誌がいくつかある。こうした専門誌は独創性のある優れた論文しか受け入れないので,その掲載回数が評価のものさしになる。コンリーとオンデルが調べたところ,並の大学の優等生のほうが,一流大学の並みの学生よりも掲載回数は多いことがわかった。
 ハーバードやMITの卒業生を採用してはいけない?これにはさすがに誰もが首をかしげるだろう。だが分析結果を見ると反論の余地はない。

マルコム・グラッドウェル 藤井留美(訳) (2014). 逆転!強敵や逆境に勝てる秘密 講談社 pp.85-86

20人か40人か

クラスの人数の謎も,これで手がかりが見えてくる。逆U字型曲線の「どこに位置するか」が問題なのだ。たとえばイスラエルでは,小学校のクラスは昔から38〜39人と大人数だ。これは12世紀の偉大なラビにちなんだ「マイモニデスの法則」(クラスの人数は40人を超えてはならない)に従っているためだ。生徒数が40人に達したらクラスを分割して20人ずつの2クラスにする。38人のクラスと20人のクラスをホクスビー式に比較したところ,20人のほうが成績が優秀であることがわかった。これは当然だろう。38人もいると教師ひとりの手に余るからだ。つまりイスラエルは,逆U字型曲線の左端に位置していることになる。

マルコム・グラッドウェル 藤井留美(訳) (2014). 逆転!強敵や逆境に勝てる秘密 講談社 pp.57

富も人をだめにする

さて,ここからが本題だ。彼には愛してやまない子どもがいる。自分の子ども時代より多くのものをわが子に与えたい——それは親の本能だろう。だがそれは大いなる矛盾でもある。彼がこれほどまでに成功したのは,お金の価値や働く意味,自分で道を切り開く喜びと充実感を,苦労しながら学んできたおかげだ。けれども彼の子どもたちに,同じように学べというのは酷な話だ。ハリウッドの億万長者の子どもは,近所の落ち葉を掃除なんてしない。明かりを消し忘れたからといって,怖い顔をした父親に電気料金の請求書を突きつけられることもない。バスケットボールの試合を見るときも,柱で隠れてしまうような安い席には座らない。
 「裕福な家庭での子育ては,世間が思っている以上に難しい」と彼は言う。「貧すれば鈍すというが,富も人をだめにする。野心を失い,誇りを失い,自分は価値ある人間だという感覚まで失われる。貧乏でも金持ちでも,極端なのはだめだ。真ん中あたりがいちばんうまくいくのだろう」。

マルコム・グラッドウェル 藤井留美(訳) (2014). 逆転!強敵や逆境に勝てる秘密 講談社 pp.50-51

1クラスの人数

ベビーブームのころ,シェポーバレーの1クラスの人数は25人だった。いまは15人だ。ふつうに考えれば,25人より15人のほうが教師の目が届くし,教師の目が届いたほうが学習の質もあがる。結果として生徒の学力は,混みあっていた時代より高くなる——はずだ。
 それが正しいかどうかを確かめる明快な方法があった。コネティカット州には,シェポーバレーと同じような学校がたくさんある。もともと小さい町が多いので,出生率や地価の変動の影響を受けやすい。ある学年の生徒数ゼロという年があったかと思うと,翌年は教室が満杯になることもある。一例として,コネティカット州のあるミドルスクールで,5年生の人数を年ごとに追うとこうなっている。

 1993年 18人
 1994年 11人
 1995年 17人
 1996年 14人
 1997年 13人
 1998年 16人
 1999年 15人
 2000年 21人
 2001年 23人
 2002年 10人
 2003年 18人
 2004年 21人
 2005年 18人

 2001年に23人だった5年生が,翌年はたった10人になってしまった。もちろん学校の状況に変化はない。校長以下教師の顔ぶれはいっしょだし,校舎も使う教科書も同じだ。町の人口に大きな変動はなく,経済状況も変化なし。ちがうのは5年生の数だけだ。したがって2002年度の5年生の成績が2001年度より明らかに向上していたら,クラスの規模が関係していたと言えるだろう。
 これがいわゆる「自然実験」だ。科学者は自らの仮説を立証するために実験を組み立てるが,あえてそうしなくても,仮説の真偽をたしかめられる社会状況が出現することがある。ではコネティカット州ではどうだろう?経済学者のキャロライン・ホクスビーは,コネティカット州内のすべての小学校を対象に,少人数クラスとそうでないクラスの生徒の成績を比較した。結果は——差はなし。ホクスビーは書いている。「政策の変更後,統計的に有意な差がでなかった例はたくさんある。今回の研究でも,差はゼロに近い予測だったが,結果は完全にゼロ。つまりちがいはまったくなかったのである」。

マルコム・グラッドウェル 藤井留美(訳) (2014). 逆転!強敵や逆境に勝てる秘密 講談社 pp.44-46
(引用者注:日本の教室人数のほぼ半分であることに注意。30人以上など想定外)

アドミッション・オフィス

日本の大学教官が最も緊張する雑務は,入学試験というスーパー雑務である。2日にわたるセンター試験と,それに続く学科入試で,日本の大学はアメリカの大学に毎年1週間分の後れを取っているはずだ。
 アメリカの大学では,博士号をもつスタッフを擁するアドミッション・オフィスが,書類選考で学生を選抜し,ヒラ教授ごときが首を突っ込む機会はないし,その必要もない。日本では,いい学生を集めるうえで,入試は必須な業務だということになっている。ところがアメリカの有力大学は,全国共通資格試験(SAT)と書類選考,そして最終面接だけで,十分いい学生を集めている。
 一定レベル以上の学力をもつ学生を集めさえすれば,入学後の教育によって,大学の質を維持することは十分可能だ,というヒラノ助教授の主張の正しさは,アメリカの有力大学によって証明済みである。

今野 浩 (2012). 工学部ヒラノ教授と4人の秘書たち 技術評論社 pp.51

講座制

明治以来,日本の国立大学はドイツをお手本として,「講座制」を採用してきた。大学の基本単位は,教授を中心とする「講座」で,いくつかの講座からなる「学科」,いくつかの学科からなる「学部」,そしていくつかの学部からなるのが「大学」,という構造である。
 講座制の大学では,教授は誰の干渉も受けずに,研究・教育活動を行うことができる。しかしその一方で,大学は社会の要請を無視した独善的な組織に堕する危険性をはらんでいる。
 また,人事や予算などすべての権限を握る教授と,それ以外のメンバー,特に教授に生殺与奪の権限を握られた助手の間には,様々なトラブルが発生していた。60年代に日本中で吹き荒れたキャンパス騒動は,医学部の(無給)助手の待遇改善運動がきっかけで起きたものである。講座制の矛盾は日本中に満ち満ちていた。

今野 浩 (2012). 工学部ヒラノ教授と4人の秘書たち 技術評論社 pp.45

天才の弟子

問題を発掘して,たちどころに自分で解いてしまうと言われた,20世紀最高の(応用)数学者ジョン・フォン・ノイマンが,すぐれた弟子を育てたという話は聞かない。なんでもすぐに分かってしまう天才の下では,すぐれた弟子は育ちにくいのである。

今野 浩 (2012). 工学部ヒラノ教授と4人の秘書たち 技術評論社 pp.21

研究スタイル

すぐに役立つことは,概してすぐに古くなってしまうものである。また研究者が大成するためには,好・不調の波を乗り越えて,粘り強く問題に取組むことが重要である。そして,その時の支えになるのが,優れた研究者から盗み取った“研究スタイル”なのである。

今野 浩 (2012). 工学部ヒラノ教授と4人の秘書たち 技術評論社 pp.21

子供時代の逆境による予測

回答を一覧にまとめたときにアンダとフェリッティがまず驚かされたのは,おおむね恵まれているこの層のなかにも子供時代のつらい思い出を持つ人が多いことだった。回答者の4分の1以上がアルコール依存症患者やドラッグ常習者のいる家庭で育ったと答えていた。子供のころに叩かれた,と答えた人数もほぼ同じ割合だった。アンダとフェリッティはこのデータを使ってそれぞれの子供時代の逆境(ACE)を数値化した。ひとつのカテゴリーにつき1点を加算していく。その結果,3分の2の人々に1点以上がつき,8人にひとりは4点以上がついた。
 ふたりがさらに驚いたのは,カイザー社が集めた該当登録者の膨大な医療履歴をACEの数値と比較したときだった。子供時代の逆境と成人してからのネガティブな結果のあいだには非常に深い相関関係があり「唖然とした」と,のちにアンダは書いている。さらに,この二者の関係は目をみはるほど直接的なものだった。ACEの数値が高ければ高いほど,成人後も常習行為から慢性疾患にいたるまでほぼすべての項目でより悪い結果が出ていた。アンダとフェリッティはデータから次々に棒グラフをつくったが,どれもおおよそおなじかたちになった。グラフの底辺,つまりX軸にはACEの数字をふり,Y軸には肥満,鬱,性行為開始年齢,喫煙歴などの項目をあてた。どの表でも一貫して,棒グラフは左(ACEの数値ゼロ)から右(とくに7以上)にいくにつれて確実に伸びた。ACEの数値が4以上の人々は子供時代に逆境がなかった人々にくらべて喫煙率は2倍,がんの診断を受けた率は2倍,心臓病は2倍,肝臓病も2倍,肺気腫や慢性気管支炎を患っている率は4倍だった。いくつかの表ではグラフの伸びがことに顕著だった。ACEの数値が6を超える成人は,ゼロの人々にくらべて自殺を試みたことのある割合が30倍にのぼった。そしてACEの数値が5を超える男性は,ゼロの男性にくらべて46倍という確率でドラッグを注射したことがあった。

ポール・タフ 高山真由美(訳) (2013). 成功する子 失敗する子:何が「その後の人生」を決めるのか 英治出版 pp.40-41

脳科学的説明

たとえば脳科学的説明なし条件だと,
「(前略)この人間の特性は,他者の知識を利用しながら他者の視点に立つことができないという人間の認知のメカニズムで説明できる」
 という解説文を読んでもらった。
 一方で,これが脳科学的説明あり条件になると,
 「(前略)fMRIが示すところによると,この人間の特性は前頭前野を活性化させず,他者の知識を利用しながら他者の視点に立つことができない,という人間の認知のメカニズムによって説明できる」
 といった解説文を読んでもらった。これらの文を含む学術的な解説記事を被験者の一般の学生さんに評定させたのである。特記しておくべきこととしては,脳科学の説明は論理構造になんら付与しない,完全なる蛇足であったことである。論理学的には,脳科学的説明によって,その文章の論理性はまったく同じであり,脳科学の部分は意味的に無関係な加筆だったということである。それにも関わらず,脳科学的な加筆があると,被験者は説明の妥当性を過剰に高く見積もったのである。
 脳科学の説明があるほうが,説得された感じが強まるのだ。あなたも経験がないだろうか?テレビで育脳とか脳が活性化するというキーワードを耳にすると,なんとなく,なるほどなあ,そういうものなのだなぁとふと思ってしまったことがないだろうか?それがまさに,脳科学的説明の利点であり,危ない点なのだ。

妹尾武治 (2014). ココロと脳はどこまでわかったか?脳がシビれる心理学 実業之日本社 pp.186-187

研究と教育

もう1点,教職について昔からふと思うことに,研究者として優れている先生は教育もうまいということがある。これは私以外の多くの研究者もそう思っているようである。教育だけうまい先生というものはあまりいないものであり,教育がうまい先生というのは,まず間違いなく研究もしっかりやっているものなのである。そういうわけで,教育と研究にはこの論文が指摘するような,相関関係ないしはなにがしかの因果関係をもっていることは充分に想像できる。若手研究者,ポスドクは積極的に授業,非常勤講師などをやると良いかもしれない。

妹尾武治 (2014). ココロと脳はどこまでわかったか?脳がシビれる心理学 実業之日本社 pp.106

優秀じゃなかったんだね

東大法学部とは(少なくとも当時は)人事に関しても特別のところである。最も優秀な学生は,教授が目をつけていて,大学院には進まずに,学部卒から直接助手に抜擢される。そして,2,3年で助手論文を書くのだが,それは本人にとって生涯で最良の論文であることが多く,学界を震撼させるほどのものであることさえ少なくない。だが,形式的に彼は博士号どころか修士号さえ持っていない。ただの法学士だけである。助手論文が評価されるとポストの空きがあれば20代後半にしてそのまま東大助教授に昇進するか,そうでなくとも旧帝国大学の助教授に就任する。そして,30代前半ですでに教授に昇進するのだ。この昇進の速さは驚異的である。文学部の場合,だいたい40歳で助教授,50歳で教授といったところであろう。語学においては,50代の後半でやっと教授になることも少なくない。
 東大法学部には優秀な人材が多いから,他の領域(例えば官僚や法曹界)に流れてしまうのを避けるため,こうした破格な昇進を約束すると聞いたことがある。確かに,私の学生時代,教官たちはこうした制度を潜り抜けて東大法学部に在職していたのであるから,ほとんど博士の称号を持っていなかった。だが,数人の博士号所有者があった。助手に抜擢されなかった者は,「仕方なく」大学院に進み,博士号を得てから「地方回り」をして戻ってくる。私が学生のころよくこんな噂をしていた。
 「○○教授は博士号を持っているよ,そんなに優秀じゃなかったんだね」

中島義道 (2014). 東大助手物語 新潮社 pp.53-54

大学院指導

合格者には,5段階ある。(1)博士論文審査資格者。(2)博士論文は(主査として)審査できないが,博士課程の講義は担当できる者。(3)博士課程の講義は担当できないが,修士論文は(主査として)審査できる者。(4)修士論文の審査は(主査として)できないが,修士課程の講義を担当できる者。(5)修士課程の講義も担当できない者。そして,(1)を「マル合教官」と呼び,教授名に◎の印をつける。
 この結果は,そのまま公表されはしないが,やがて博士課程の講義,そして博士論文の審査が始まる2年後には,いや,外部から博士課程を受験する者もいるので,受験要綱を公表する1年後には,学生も他の教員たちも,具体的に誰が博士論文を審査できるのか,さらにそれぞれの講義担当教官の名前を見て,誰が博士課程の講義担当に不合格になったのか,わかるのである。
 こうして,幾重もの偶然によって合否は決まるのであるが,不合格になった教員への風当たりは強く,「できれば,他の学科に移ってほしい」とか,「辞めてもらいたい」という声さえ聞こえてくるのであった。

中島義道 (2014). 東大助手物語 新潮社 pp.49-50

TOSS

TOSSは教育技術の法則化運動(Teacher’s Organization of Skill Sharing)の略で教育研究家・向山洋一氏が主催する団体である。TOSSの特徴は教育内容のマニュアル化で小学校・中学校・高等学校などの教師が多数参加してその授業例を用いている。
 しかし,その教材には「江戸しぐさ」の他にも,独自の「脳科学」に基づく家庭教育である「親学」,水に声をかけて凍らせると,言葉の美醜によって結晶の美醜が変わるという「水からの伝言」,意識の持ちようでホルモン分泌を操作し健康を増進するという「脳内革命」,特定の微生物を組み合わせることであらゆる汚染に対応できるというEM(有用微生物群),70年代の古代史ブームで注目されたが考古学的にはすでに否定されている縄文人南米渡来説など,科学的には怪しいものが目白押しである。
 授業例では,それらについて子供たちは否定的情報を与えられず,教師が示す「証拠」に基づいて「自分で考え」,あらかじめ定められた結論にいたるという体験をくりかえすことで教育効果を上げることが示されている。
 この団体の機関紙には,安倍首相をはじめとする自民党政治家のインタビューがしばしば掲載されており,TOSSのイベントではそれらの政治家の応援メッセージも寄せられている。

原田 実 (2014). 江戸しぐさの正体:教育をむしばむ偽りの伝統 星海社 pp.152-153

軍事演習的発想

なぜ,「江戸しぐさ」では同時に進むことにこだわるのだろうか。
 私には,これらのしぐさの背景には,狭い通路で相手に道を譲る,あるいは相手から譲られることを受け入れるだけの余裕がない状況があるように思われる。
 明治39年(1906)に出された『各個教練歩哨及斥候勤務教授法』(海軍砲術練習所編)という海軍兵士訓練用の教本には,「横歩」という項目がある。それは,「右(左)足を運ぶ時,膝を屈することなくまた左(右)踵を打つごとく行進せしむ」訓練だという。つまりは蟹のような横歩きである。
 海軍では,艦船の狭い通路を複数の兵士が動く必要から,体を横にしてすれちがう訓練は必須だった。太平洋戦争開戦前夜の世相において,軍港の街・横浜の小学校で軍事演習まがいの授業があったとしてもおかしくはない。「蟹歩き」の起源が海軍の教練内容にある可能性は高い。
 さらにいえば,狭い通路で同時にすりぬけたがる「江戸しぐさ」そのものが,海軍演習的な発想の延長線上にあるとみてよさそうである。

原田 実 (2014). 江戸しぐさの正体:教育をむしばむ偽りの伝統 星海社 pp.46-47

母の愛は危険

おそらく,南カリフォルニア生まれの心理学者でアメリカ心理学会会長だったジョン・B・ワトソンほど,そのことを強調した者はいないだろう。現在では,ワトソンは愛情という害悪の撲滅運動を先導した科学者として知られている。「子どもを可愛がりたいという誘惑にかられたら,母の愛は危険な道具であることを思い出しなさい」とワトソンは警告した。子どもを抱きしめたり愛撫したりしすぎると,その幼年期は不幸になり,悪夢の青春時代を迎えることになるだろう——あまりにひどく歪んで育つと,結婚生活に適応できない大人になるかもしれない。驚くほど短期間でそうなりかねないのだ,とワトソンは警告した。「間違った扱い方をしたせいで,いったん子どもの性格が損なわれてしまったら,そのダメージから回復できる保証がどこにあるというのか?そのようなことがたった数日で起こってしまうのだ」

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.58

両親からの分離促進

それ以前のアメリカでは,両親はたいてい小さな子どもと同じ部屋や,同じベッドで寝ていたのだが,ホルトは陣頭に立って,子どもを別室で寝かせる改革運動を推し進めた。赤ちゃんを親の寝室で寝かせてはなりません。良い育児に必要なのは,よい衛生環境と清潔な手,ごくわずかな触れ合い,そして空気と太陽です——あなたがた両親から離れた空間が必要なのです。それはすなわち,愛情あふれる身体的接触もご法度ということだった。ホルトは問いかけた。子どもにキスをするほど悪いことがあるでしょうか?両親たるものが,唇という悪名高き感染源で赤ちゃんに触れることを本当に望んだりするでしょうか?
 親たちはそのような接触禁止に疑問を抱いただろうが,ホルト一派は抱かなかった。1888年に刊行された『妻のためのハンドブック』(赤ちゃんをうまく扱うためのヒント集)の中で,医師のアーサー・アルブットも,母親との接触によって感染症が持ち込まれるおそれがあると警告し,本当に赤ちゃんを愛しているなら注意深く距離を保つべきだと述べている。子どもは「死ぬためではなく,生きるために生まれてきた」のだから,触れる前には必ず手を洗い,過剰な接触で「甘やかして」はならない。そうすれば,「それ」——その本では,赤ちゃんは常に「それ」と呼ばれている——は成長し,「社会に役立つように」なるだろう。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.54

強い人

受刑者に「『強い人』とはどんな人でしょうか」と質問すると,たいてい「我慢できる人」「自分の信念を貫ける人」「最後まで粘り強くやり遂げる人」といった答えが返ってきます。しかし,「我慢できること」は大切ですが,それだけだと爆発してしまいます。「自分の信念を貫けること」も大切ですが,別の見方をすると,他者の意見を聞こうとしない頑固な性格とも言えます。「最後まで粘り強くやり遂げる」はりっぱなことではありますが,人の援助を求めないで何事も自分1人で抱え込んでしまう危うさがあります。一般的には肯定される価値観も,角度を変えてみると,問題となる側面があるものです。要するに,絶対的に正しい価値観や絶対的に誤った価値観など存在しないということです。物事は見方を変えれば,長所にも短所にもなるということです。

岡本茂樹 (2013). 反省させると犯罪者になります 新潮社 pp.207

価値観から不快感へ

いじめが起きる原因を一言で言い表すことはできませんが,いじめが起きる背景には,私たちの心の中に正しいと思って刷り込まれている価値観があることを見逃してはいけません。すなわち,先に述べた「我慢できること」「1人で頑張ること」「弱音を吐かないこと」「人に迷惑をかけないこと」といった価値観が「いじめ」を引き起こす原因にもなっているのです。
 具体的に言うと,「我慢できること」という価値観を強く刷り込まれた者は,「我慢できない人」を見ると,その人の我慢できない態度が許せなくなります。「1人で頑張ること」が大切だと叩き込まれた者は,「1人で頑張れず途中であきらめてしまう人」や「他人にすぐに助けを求める人」を目にするとイライラします。「弱音を吐いてはいけない」と言われた者は,すぐに泣きごとを言う人を許せなくなります。「人に迷惑をかけないこと」が当たり前と思っている人は,「人に迷惑をかけられる人(=人に甘えられる人)」を見ると,腹が立ってくるのです。相手に対して抱く不快感は,自分の心のなかに植え付けられた価値観が原因となっているのです。

岡本茂樹 (2013). 反省させると犯罪者になります 新潮社 pp.158

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