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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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寺子屋の数

周知のように,庶民については,「寺子屋」や「手習い所」という名の「学び舎」がいたるところにあった。そこでは日常生活に欠かせない実用的な読み書き,ソロバン,算術などを子どもたちに教えていた。江戸の町だけでも1500軒をこえていた,といわれる。この数のすごさを理解するために,現代の数字を出してみよう。
 平成25年に東京都教育委員会が所管する公立の小学校の総数は,区部,市部,郡部,島嶼部までを全部あわせると,1299校になる。この学校数と寺子屋の1500軒を比べると,その結論は明快で,江戸末期の庶民の学ぶ意欲,強い姿勢を実感することができるだろう。

梶田正巳 (2015). 日本人と雑草:勤勉性を育む心理と文化 新曜社 pp.12
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でも使いたい「so」

大学生の英作文では,「《so〜that...》=「〜する[である]ほど……する[である]」」という形に出会うこともなければ,感嘆的に使う「〜so...!」という形に出会うこともありません。よく見るのは,たとえば,「私の家の非常に近いところに,コーヒーショップがあります」のつもりで書かれた,

 There is a coffee shop which is so close to my house.

のような文ばかりです。そして,こうした文のsoを削除して,

 There is a coffee shop (which is) very close to my house.

のように書き直し,soをやめてveryを使うように注意しても,どういうわけか,次回の英作文には,同じ“副詞のso”が登場します。また,文体の品質を向上させるために,veryばかりではなくたまにはextremelyやexceedingly,particularly,especiallyなど使えばどうかと勧めてもあまり効果がありません。

マーク・ピーターセン (2014). 日本人の英語はなぜ間違うのか 集英社インターナショナル pp.106

不思議な「so」

不思議なことに,いくら授業で「因果関係を表す“so”」の不思議な使い方について注意しても,多くの学生は,学期末までその不正確な使い方をやめようとはしません。これは中学の英語教科書のせいばかりにはしていられないでしょう。たとえば,この問題で毎回英文を直されてきたある学生が,学期の最後に提出する英作文で,自分が所属するサッカークラブの活動について,こんな文を書いてきました。

 We had won for four years. So we must have won in the tournament. (私たちは4年間勝っていました。だから,当然なことに,そのトーナメントで勝ったはずです)

この学生に,意味不明であるこの英文で何を伝えようとしているのか訊いてみると,「私たちは,おのトーナメントで過去4年も続けて優勝してきたから,今回も優勝しなければなりませんでした」と述べたかったそうです。日本語でも論理的におかしいと思い,さらに追及してみた結果,「そのトーナメントで過去4年も続けて優勝してきて,今回も優勝したいという気持ちが強かった」という話になりました。そこで,上記の文を,

 We had won the tournament for the past dour years, and we really wanted to win it this time too.

のように訂正しました。

マーク・ピーターセン (2014). 日本人の英語はなぜ間違うのか 集英社インターナショナル pp.101-102

そう教わったから

大学生がとかく

 On Sunday, I have dinner with my family in Ibaraki.

のように,意味不明な英文を書いてしまう理由は2つあるように思われます。1つは現在形の機能を十分に理解していないということです。具体的に言えば「動作動詞の現在形は,くり返してすることや,習慣的にすることを示す」という基本的文法を理解していないため,“I have dinner with my family”が「私は習慣的に家族と一緒に夕食をとっている」ということを表していることに気がつかないのです。
 もう1つの理由は,“On Sunday, ... .”のSundayは「ある1つの日曜日」を意味することを理解していないところにあります。もし「ある1つの日曜日」の話ではなく,たとえば「日曜日は,私は普段遅くまで寝ている」というような話であれば,

 On Sundays, I usually sleep late.

と,複数形のSundaysで表現されるのです。
 しかし,そう書こうとしない大学生を責めるわけではいかないようです。というのも,早々と中学1年生のときから,まるで「曜日を表す英単語には複数形がない」かのように教わっている可能性が高いからです。

マーク・ピーターセン (2014). 日本人の英語はなぜ間違うのか 集英社インターナショナル pp.44-45

学習の基礎

ここでようやく,新教育の中心的思想の意義を検討する準備ができた。学校が学習の基礎に置くべきなのは,社会の要請でも教育ある人間の理想像でもなく,発達していく子どもの要求や興味だ——この考えはなにも,子どもの本性は教育課程に否定的限界を課すものであり,その限界を越えようとしても無駄だと言っているわけではない。それは極端にすぎる。この考え方は子どもの本性が教育手順の積極的な道案内になること,つまり子どもは自然かつ自発的に教育課程に生命を吹き込む要求や衝動を創り出す,ということを意味しているのである。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.321-322

優秀さ=変わり者

こうした職業教育重視の傾向は,知性よりも人格——または人間性——を重視する傾向や,個性や才能よりも画一性や使いやすさを好む傾向と結びついている。「われわれはまず優秀さを重視していた」とある風変わりな社会の歴史に言及しながら社長がこう述べた。「いまや人格という使い古されたことばがたいへん重要になった。ファイ・ベータ・カッパの会員だろうが,タウ・ベータ・ファイの会員だろうが関係ない。われわれがほしいのは,幅広く豊かな才能のある人びとを操作できる,幅広く豊かな才能のある人物なのだ」。人事担当者は,「どんな進歩的な雇用者でも個人主義者を白眼視し,こうした考えが研修生の心のなかに染みこむのを嫌う」と述べ,研修中の社員も,「私は人間理解のためにいつでも優秀さを犠牲にしようと思います」と答える。ホワイト氏は,「天才との闘い」と題する章でつぎのように述べる——産業科学の分野ですら,こうした慣例が広まっている。企業の科学者たちは応用的知識に専念するように束縛されている。科学者を採用するために作られたある有名な化学会社のドキュメンタリーフィルムには,3人の研究員が実験室で協議している場面に「ここには天才はいない。平均的なアメリカ人が一丸となって働いている」というナレーションをかぶせてある。企業の科学者の創造性は大学の研究者とくらべてあまりにも低い。そして優秀性という表現は,たいてい奇人,風変わり,内向的,変人といったことばと結びつけられている。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.232-233

ビジネススクール

アメリカの高等教育に職業教育的性格が強まったことは,学部と大学院をもつビジネススクールの創設によって示されている。これらの最初のものは1881年に創設されたペンシルヴァニア大学のウォートン・スクールで,二番目はその18年後にシカゴ大学に創設された。その後1900年から1914年にかけて,こうした学校がつぎつぎに創られた。初期のビジネススクールは専門的な研究者の敵意と,実業家が依然としていだく猜疑心の板挟みになっていた。後者は,たとえビジネススクールで得られたものであっても,学問的訓練の実用性に対する疑いを捨てていなかった。アメリカにおける教育機関一般の例にもれず,ビジネススクールも教員と学生の質,そしてカリキュラムに一般教養をふくむ割合の点で急速に多様化していった。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.231

「教育を実用的に」

彼らの意見がほぼ一致していたのは,教育をもっと「実用的」にすべきだということ,および高等教育——少なくとも昔の古典的大学がそう見なしていたもの——はビジネスには無益だということの二点である。実業界は,高等教育レベルで職業・商業教育をおこなわせるため長いあいだキャンペーンを張り,おおむね目的を達した。彼らは,教養教育の場としての高校にはまったく低い評価しかあたえなかったのだ。高い教育を受ける連中は連邦議会議員になる準備をしているだけだから,自分は公立学校の教育しか受けていない人々のほうをとると言ったマサチューセッツのある羊毛工場主は,代数の知識で工場の運営はできないという理由で教養ある労働者の採用を拒否した。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.227

精神と学識の対立

「勉強もせずに!」これこそ,大覚醒の中心問題のひとつに迫るものだとチョーンシーは断言する。彼によれば「前の時代」の過ち,つまり「聖書以外の書物は要らない」と言った異端派や素人説教師の過ちがくり返されつつあるのだ。「彼らは説教には学問は要らないといった。そして彼らのなかには,学識に頼る牧師より,「精神」の上で上手に説教できる者もいると言ってのけた。あたかも「精神」と学識が対立するかのように」。これが復興論者の根本的過ちだとチョーンシーは考えていた。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.61-62

広い教養

ハーヴァードの卒業生の第一世代が,狭い神学教育しか受けていなかったと考えるのは誤りである。たしかに,ハーヴァードをはじめとする植民地大学の発端は神学校にすぎなかったと広く考えられてきた——そしてピューリタンの祖父たちが「学識のない牧師たち」の増加に不安を表明していたことは,この考えを裏づけているようにみえる。しかし実際には,ハーヴァードの創立者が訓練を受けたオックスフォードやケンブリッジ大学は,長期にわたる徹底した人文科学の伝統をもっていた。植民地時代の教育の創始者たちの目には,聖職者にふさわしい基本教育とその他の教養人に適した基本教育とは,なんら異なるものではなかったのである。ハーヴァードが神学校だったとみる考えは,近代の専門主義や教派間の競争の産物であり,大学の世俗化への脅威が生んだ反動にすぎない。そうした考えは創始者たちの視界の外にあった。彼らは他の職業につく学識者よりも,牧師の学識者を必要と感じてはいたが,牧師たちに対しては,他の世俗の指導者や実務家と机を並べておなじ教養課程に学ぶことを期待したのである。結果は彼らの望みどおりになった。ハーヴァードでは最初の二世代のうち,牧師になったのは卒業生の約半分だけで,残りの者は世俗の職についている。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.53

教育と型はめ

進化心理学の創始者の一人,ロバート・トリヴァーズは,教えることと型にはめることを区別している。前者は子供のためになり,後者は親のためになるものだ。遊び場やデパートの試着室を一瞥すればたいてい,子どもをせっついたり脅したりして,高圧的に指図している親の姿が目に入る。家庭では母親が,自分が休憩をとるために赤ん坊のスーザンを毎日3時に昼寝するよう「型にはめ」ようとするかもしれない。あるいは父親が息子のチャーリーを,役立たずのラルフおじさんのようなサックス奏者でなく,自分と同じ眼科医になるよう「型にはめ」ようとするかもしれない。
 孤独な子どもは,この手の圧力に立ち向かって自分の利益を守る能力が人並み以下の場合がある。孤独に感じていると多数派の意見を入れる傾向が強まり,せっせと他人の真似をし,あまり粘り強さを見せなくなる。また,人生のどんなときにもそうであるように,孤独なときにも愛情を必要とするが,この欲求が強すぎて,意に反するようなことまでしてしまう場合もある。

ジョン・T・カシオッポ&ウィリアム・パトリック 柴田裕之(訳) (2010). 孤独の科学:人はなぜ寂しくなるのか 河出書房新社 pp.237

魅力と罰

ベテランの女性教師も魅力的でない子どもにより厳しい罰を与える。ある研究で教師たちは,こどもが学校で階段から落ちたときの調書を手渡され,事件直後に階段の一番上にいた生徒のなかでうすら笑いをうかべていた子の過失責任を評価するようもとめられた。調書には疑いのある子どもの写真が添えられた。容疑をかけられた子どもが魅力的でない場合は,魅力的な場合よりも,事件の責任を問われやすかった。男の子の場合魅力の程度は,その子が悪事をはたらいたと教師が信じるかどうかについては小の効果しかなかったが,その子がいたずらをしたのはまちがいないと考えた教師がくだす罰のきびしさについては中程度の効果をおよぼし,魅力的でない男の子にはきびしい罰があたえられた。興味深いことに,女の子にくだされる罰については,魅力は意味のある効果をもたなかった。教師が全員女性だったことから,やはり,異性にたいしては容貌の効果が強いことがわかった。

レズリー・A・ゼブロウィッツ 羽田節子・中尾ゆかり(訳) (1999). 顔を読む:顔学への招待 大修館書店 pp.251-252

レポートとストーリーの違い

レポートとストーリーの違いをはっきりさせておこう。レポートとは,何よりも事実を伝えることであり,作意や解釈が紛れこんでいてはならない。レゴとWHスミスについての記事がレポートだとすれば,はずれているとかさまよっているといった表現には問題がある。他方,ストーリーは人々が自分の生活や経験の意味を理解するための手段だ。よいストーリーの条件は,事実に忠実であることではない。それよりも,ものごとが納得いくように説明されていることが重要なのである。レゴとWHスミスのニュース記事は,ストーリーとしてなら立派に役割を果たしている。わずか数パラグラフの記事で,何が問題になっているかがわかり(売上と利益が落ちこんだ),原因がもっともらしく説明され(進むべき方向を見誤った),教訓も得られる(道をはずれず,基軸産業に集中するべし)。明快な結論で締めくくられている。後にもやもやも残らず,読者は気持ちよく読み終えられる。
 ストーリーがいけないのではない。ストーリーだとわかって読むならかまわない。ところが油断ならないことに,科学の仮面を被ったストーリーが知らぬ間にはびこっている。いかにも科学です,という顔をしているが,そこには真の科学の厳密さもない。エセ科学なのだ。

フィル・ローゼンツワイグ 桃井緑美子(訳) (2008). なぜビジネス書は間違うのか:ハロー効果という妄想 日経BP社 pp.38-39

活動を次々と与える

単に児童・生徒が楽しんで活動するだけの体験・実技系授業は数多い。担当教員はよかれと思って作り込み,何ら反省することもなく,また新たな活動を考える。生徒にとっては楽しい時間だから,その教員の人気は高まる。
 そういう状況を目の当たりにしたとき,教育の本質的な意味をわかっている教師は,苦々しい思いを押し殺しながら,「人気取りの授業をしていてはダメだ」と指摘する。すると,活動主義の教員は,自分が一生懸命作り上げた授業,ひいては自分の情熱を否定されたとして指摘した教師との間に溝を作る。このまま数年を経ると,意固地で変化できない教員が完成する。
 何のための体験・活動なのかを精査し,活動が終わった後に振り返りを行い,次の段階や別の分野に応用していくことを考えなければ,教育機関の使命を果たしたとは言えまい。毎回の体験・活動の効果を最大化し,生徒に有意義な時間を過ごさせることが求められるのだ。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.231-232

想像力の欠如

かつて見た,国語の論理的思考力を高めるというプリントに驚愕したことがある。ベテランの教員が作成したものだが,名前・クラス・番号を書く以外の場所は,指示文が数行あるだけで,残りはただ空欄が並んでいるだけなのである。
 そのプリントの作成者は超有名国立大学の卒業者で,進学校でしか教鞭をとったことがない人物だった。だから,「このプリントでも学びのモチベーションを落とさない人々と生きてきたんだなあ」と思わざるを得なかった。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.137

現状無視

プロの教師であれば,下手な説明・解説が,生徒の人生の選択を左右してしまうという危機意識を持って,シンプルでわかりやすく話せるよう努めなくてはならない。
 また,下手な説明しかできない教員を生徒はすぐ見限る。それは塾講師という比較対象が存在することや,お笑い芸人やテレビの司会者の話し方を常日頃,見聞きしているためである。そんな現状を受け入れられないロートル教員は,こぞって「学問は違う」とか「学校は違う」「生徒は教員の話を聞くのが当然」と嘯く。
 これらの音声は私の耳に,不快なノイズとしてしか聞こえてこない。経営学の観点に立てば,マーケティングの完全無視を宣言したに等しい。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.106

練習しなさい

私はよく新人教員に向かって「ちゃんと家で練習をしてから授業に臨め」と言うが,大概,次のような答えが返ってくる。
 「練習?授業をするのに練習するんですか?」
 私は「プロ野球の選手でも,Jリーガーでも練習して試合に臨むだろう。授業もそれと同じだよ。せめて授業の導入部分でもいいから,練習するもんだ」と続ける。
 このやりとりを,相手を変えながら何度繰り返しただろう。
 私は,練習をせずに教壇に立ったことはない。練習なしに授業に臨むなどという傲慢さを捨てるぐらいの謙虚さは持ち合わせているし,そもそも,練習なしに自分の説明力が生徒の満足度に達することは考えられない。生徒指導として,どうしても生徒を叱責しなければならないときなどは,“叱る練習”すら行う。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.103

今の生徒に

私は,はっきりと言い切りたい。教育に遅効性などないし,仮にそのような現象があったとしても,それを教員側が言い出すのは倫理違反だと。
 生徒たちはかけがえのない,「今」を生きている。その「今」から「未来」を切り拓いていく人生設計をさせるのが教師である。来るともわからない,いつの日かの気付きに期待して「今」を構築することなど,ただの逃げ口上に過ぎない。
 もっと生徒心理に寄って書けば,学生時代にまともな交流をしなかった・できなかった教員の言った言葉や指導内容を,卒業後に思い出すことなどない。教員の名前すら忘れてしまうことが当たり前なのに,教員が行った,茫洋として効果尺度も見えない教育実践を振り返る生徒がどれだけいるだろうか。
 さらに,次の時代を創っていく若い世代に対して,学生時代という過去を振り返らせようとすること自体がおこがましい。社会人になってから自らの至らなさに気付くことは多いが,そうだとすると,高校卒業後たった10年以内に,中学・高校時代の“教え”を振り返れと言っていることになる。そんな後ろ向きな若者を育成したいのだろうか。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.87

生徒に求める理想像

教員が生徒に求める理想像は,大きく3つに分けられる。
 1つは,人格・思想焦点型理想像である。「優しい人になってほしい」「他社と協調できる人間になってほしい」「何事にも諦めない心を身に付けてほしい」「質実剛健の精神」といったものである。
 もう1つは,経済的価値向上・知識技能獲得焦点型理想像である。
 「卒業後,自律的な経済活動が行える人間になってほしい」「誰にも負けない何かを身に付けてほしい」「日本社会の発展に寄与する人材になってほしい」「グローバル人材になってほしい」「読み書き算盤ができるようになってほしい」というものである。
 最後は,学問的魅力焦点型理想像である。
 「英語を好きになってほしい」「数学の美しさを知ってほしい」「芸術的に豊かな感受性を身に付けてほしい」というものである。
 この3つは,完全に分けて語れるものではない。それぞれの間に,「リーダーになれる人になってほしい」とか「他人に勇気を与えることのできる存在になってほしい」「良妻賢母」といったものが位置し,グラデーションのようになっている。
 しかし残念ながら,このような教育理念をきちんと持っている教員は多くない。
 「あなたは教員として,どのような生徒を育てたいですか?」と聞かれれば,元“優等生”教員たちは模範解答をするだろう。しかし,その言葉に熟慮はなく,多くの場合,言葉の意味についても考えられていない。当然,彼らが実践している教育活動にも繋がっていないし,行動に表れてくるはずもない。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.64-65

「当たり前」?

教員たちは,自らの経験から「教員が生徒にする話とはこういうものだ」と勝手に理解している。本来,比較対象となる質の高い講演会をこまめに聞きに行くほどの勉強家は,多く見積もっても2割程度しかいない。多くは“多忙”を言い訳にして,自己を肯定している。だから,自分の話し方を反省することはないし,残念さに気づくこともない。
 加えて「生徒は教員の話を聞くのが当たり前」と考える者が少なくないことも挙げられる。こういう思考回路からは,話法の向上や内容の精選に取り組むどころか,生徒が話を聞くときの心理にすら目を向けない姿勢が生み出される。そして“教員の話を聞かない”“居眠りをしている”生徒などが指導の対象となり,叱られることになる。
 確かに倫理や道徳観の指導も担わされている現状があるので,生徒に舐められたら業務に支障が出るという教員側の論理はわからなくはない。しかし,このタイプの残念な教員は,「生徒は教員の話を聞くのが当たり前」というスタンスでは教育サービス業が成立しなくなったことに気付けていない。また,そんなスタンスで人間同士のコミュニケーションが成立するはずがないことも理解できていないのである。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.44-45

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