I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

誰に「役に立つ」のか

ここで重要なのは,そもそも「役に立つ」とは,単に国家や産業界のためだけに「役に立つ」ことだとは限らないことです。国民国家や近代的企業よりもはるかに古い歴史を持つ大学は,国や産業に奉仕するために生まれた機関ではありません。その一方で,大学はその成立当初から自己目的的に,学問そのものを目的とする機関であったわけでもないのです。大学が,何かのために「役に立つ」ことは,この機関の成立の要件の1つでした。当初,それは神のために「役に立つ」(神学)ことや,人々の健康のために「役に立つ」(医学)ことであったでしょう。しかし,もう少し一般化すれば,大学は,人類や地球社会の普遍的な価値のために奉仕する知の制度として発達してきたのです。

吉見俊哉 (2016). 「文系学部廃止」の衝撃 集英社 pp.67

大学は国家に奉仕すべきか

この主張は,何重にも間違っています。なぜならまず,国の税金はそもそも国民に由来するもので,税金への義務ということならば,国民への説明責任になります。つまり,国立大学は,それぞれどのような方針に基づいて学生を選抜し,教育し,社会に送り出しているのかを国民に対して説明する責任を負っている——これが,そもそもの税金の拠出者である国民に対して国立大学が背負っている義務になります。どう考えても,「税金によって賄われているのだから,国家に奉仕すべきだ」という話にはなりません。
 しかも,ここでの問題はそれだけではありません。というのも,私が今,あえて「説明責任」という言葉を使ったように,国立大学は,国民からの税金によって賄われているとしても,国民の願望や要請の実現のために奉仕する組織ではないのです。たとえば,多くの日本国民が,日本人学者にノーベル賞を取ってほしいと願望している。だから国立大学が,1人でも多く日本人がノーベル賞が得られるようにその大学の研究体制を組み替えるとなったら,これは本末転倒も甚だしいことになります。大学にとって,たとえばノーベル賞は結果であって目的ではあり得ません。大学は,オリンピック選手養成機関のような組織とは根本的に異なるのです。様々な世界的な賞を得,名声を博するような人が大学から出てくるとしても,そうしたことを目的に大学があるのでは絶対にありません。
 同様のことは,私立大学にも当てはまります。私立大学にとって,学生からの授業収入は大学予算の重要な部分を占めますが,だからといって私立大学が授業料を払っている学生やその保護者の願望や要請だけを聞いて教育し,成績をつけていたら,その大学の教育研究はだんだん劣化していくでしょう。もちろん,いずれの場合でも学生や保護者への説明責任が大学にはあるのですが,説明責任を負うことと奉仕することは違います。
 つまり,大学は一般企業や商店とそこが根本的に異なるのであって,大学の目的,価値は国に従順な学生を育てることでも,学生を,その父母の期待をそのまま具現したような若者に仕立てあげることでもありません。大学は,保護者や国民に対して学生たちを立派に育てる義務を負っていますが,その「立派さ」の基準は,保護者や一般の国民が通念として考えているものと一致するとは限らないし,通念に従うべきものでもないのです。

吉見俊哉 (2016). 「文系学部廃止」の衝撃 集英社 pp.65-66

競争的資金の有利不利

このように法人化後,国立大学の基盤となる予算の重心が,運営交付金から競争的資金に移っていったことが,文系の弱体化と非常に関係があります。つまり,競争的資金の獲得には,文系よりも理系のほうが次の3つの面ではるかに適しているのです。
 第1は,一般に理系の研究は文系よりも期待される成果を見せやすく,しかも比較的短期間で結果を出しやすいことです。理系の研究の多くは,「こういう計画でこれだけの成果を挙げます。この期間でこのレベルの目標を達成します」ということを明確に提示することが可能です。他方,文系の研究ではそうした明確な目標や成果の提示が困難な場合が多く,成果よりも学問的意義の主張に終始してしまうことが少なくありません。第2に,理系の研究予算は,多くの場合,文系よりもずっと大規模です。同じ件数の研究予算でも,理系と文系では大学における「経済効果」に大きな差が生じます。第3に,概して理系はチームワーク,文系は個人作業であり,競争的資金の獲得のようにチームワークが要求される作業では,理系の人たちのほうが文系よりも優秀さを発揮します。

吉見俊哉 (2016). 「文系学部廃止」の衝撃 集英社 pp.45

一貫した文系軽視

日本の大学政策における文系軽視は,最近に始まったことではありません。むしろ戦後一貫して,日本政府は理工系振興に力を注いできましたから,遅くとも高度経済成長期までに,国立大学は理系中心の組織になっていました。そして今日,旧帝大と呼ばれる大規模国立大学の教員の約七割が理系であるのに対し,法学部,経済学部,文学部といった狭い意味での文系教員は約一割にすぎません。国立大学教員のほぼ四人に三人が理系で,国立大学の教育学・教員養成系を除いた文系の教員比率はたった10分の1程度にすぎないのです。つまり,「文系学部廃止」が云々されるずっと以前から,日本の国立大学では理系が圧倒的有意を占め,実質的に国立理工医科大学となっていたとも言えましょう。

吉見俊哉 (2016). 「文系学部廃止」の衝撃 集英社 pp.28

儲かる・儲からない

しかし第三に,より根本的な問題があります。遅くとも2004年の国立大学法人化の前後から進められてきた産業競争力重視の大学政策を背景に,「儲かる理系」と「儲からない文系」という構図が当たり前のように成立し,大学も経済成長に教育で貢献しなくてはいけないという前提を皆が受け入れてきた点です。文系学部で学んだことは就職に有利ではないしお金にならないから役に立たないのだという「常識」が形成され,それを皆はっきりとは言わないまでも潜在的に信じ込んでしまっている状況が,広く国民一般に成立してしまった。実はこれが最大の問題です。

吉見俊哉 (2016). 「文系学部廃止」の衝撃 集英社 pp.27

環境効果と競争効果

ジャクソンは自らの研究データをもう一度詳しく精査した。そして,エリート校に行った子供のパフォーマンスに影響を及ぼす主な要因が2つあることに気づいた。1つ目は「環境効果」だ。エリート校には,優れた教師と組織的なカリキュラム,毎年のように学校の設備を増強する学校経営者がいる。2つ目は「競争効果」だ。トップクラスの生徒に囲まれていることで,互いに切磋琢磨しようとする作用だ。
 女子生徒の場合,この2つの要因が学習と成績に良い効果をもたらす。しかし,男子生徒の場合,2つの要因が対立し,互いの良さを消し合ってしまう。環境効果は,パフォーマンスを向上させる。だが競争効果によって,成績が良くない男子生徒は落ちこぼれの危機にさらされてしまうのだ。「大きな池の小さな魚であることは,男子には良くない影響をもたらす」とジャクソンは述べている。
 「結論として,女の子はできるだけ良い学校に行かせ,できるだけ優秀な子に囲まれるようにするのが望ましい。男の子は,できるだけ優秀な教師がいる学校に行かせるべきだが,競争が厳しすぎる環境に置くべきではない」ジャクソンはこうまとめている。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.144-145

真の実力とは

普段は極めて頭の良い心配症型の子供たちは,一発勝負の試験環境でテストされるという理由だけで,志望する学校に入れないのである。この子供たちには,問題を解く力があったはずだ。試験がこれほど競争的なものではなかったら,正解を導くことができただろう。唯一の問題は,これらの子供は,生まれつきの遺伝子の型によって,試験で力を発揮しにくいということだった。「私はプレッシャーがもたらす効果を否定はしない。実際に,プレッシャーによってメリットを得る人もいる」とチャンは述べている。「ただし台湾のこの試験のプレッシャーは,あまりにも強い」
 私たちの社会は,これほど強いプレッシャーを与えずに,子供の学力を評価する他の方法を見いだすべきではないのだろうか?

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.108

ホームアドバンテージ

学校行事を催すかどうかを投票で決める場合,当該の学校の校舎で投票をすると,賛成票の割合が高まる。その場にいるだけで,学校に対してノーと言いにくくなるのである。同じく,大学生同士が議論をするとき,寮の自室を使った学生の方が,相手を言い負かしやすくなる。
 こうした研究結果から,近年では,ホームアドバンテージは人間が進化の過程で生得的に獲得した縄張り意識——自らが所有する空間を支配したいという強い欲求——に根ざすものであるという見解が主流になっている。縄張り意識が活性化すると,侵入者に果敢に立ち向かおうとすることで,競争心が高まる。縄張りを脅かす存在を感知したとき,人は自信と意欲を高め,攻撃的になる。最適な方法で状況をコントロールしているという,自己効力感も高まる。ホームアドバンテージを神経科学の観点から解明しようとする研究も進んでいる。現時点の研究成果は,ホームでの勝利によって,脳の報酬系が,強力かつ独特の方法で活性化されることを示唆している。人はホームでの勝利を想像することで興奮し,実際に達成することで大きな満足感を得るのである。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.74-75

競争の程度

教育改革の議論ではよく,少人数制には,1クラスあたりの生徒数を減らすことで,教師とのコミュニケーションが促されるというメリットがあると主張される。だがガルシアは,少人数のクラスで生徒の成績が上がるのは,他の生徒とのライバル関係が濃密になり,多くの競争が起きやすいためや,自分の能力を測る基準がより身近に感じられるためではないかと考察している。実際には,教師は大きな要因ではないのではないか,と。
 ノーマン・トリプレットは1898年に,誰とも競争しないより,1対1で競争した方が,全般的にパフォーマンスが向上することを発見した。
 そしてガルシアとトーは,競争相手が多すぎても,逆効果——すなわち,努力レベルの低下——が生じることを見いだしたのだ。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.56-57

適応・不適応競争力

競争力は「適応競争力」と「不適応競争力」に区別する必要がある。適応競争力を持つ人は,忍耐力と決意を持って問題に立ち向かうが,いかなるときもルールを尊重することを忘れない。たとえ負けたとしても,価値ある努力をしたことに満足する。また,あらゆる点でベストである必要はないと自覚し,自らが訓練をしている領域でベストになることを目指して努力する。自分の仕事においては完璧主義者であるかもしれないが,テニスやシャフルボードが下手であっても気にしない。さらに,成長には長い時間が必要だと知っているために,喜びを先送りできる。この健全な競争力の真髄は,現時点の地位やランクを過度に気にせず,優れた存在になることを求めて絶えず努力することにある。人々に感銘を与える,偉大で英雄的なパフォーマンスを導くのは,適応競争力である。
 一方,競争力という言葉に悪い印象を与えているのは,さまざまな形の不適応競争力だ。この競争能力を持つ人には,不安感や歪んだ衝動などの特徴がある。敗北も勝負のうちだと受け入れられず,周りが競争していないときでさえ競争しようとする。何事も自分が一番でなくては気がすまず,競争が終わった後も,他者と自分を比較するのをやめられない。笛が吹かれても,止まろうとしない。相手を挑発し,望んでいない競争に引きずり込む。勝てないときには不正な手段を使おうとする。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.24-25

王道

完全に私の独断と偏見に基づいての話だが,「王道」を歩んできた人たちの多くに共通する特性をまとめると以下の4つになる。これらは彼らの強さであり,同時に弱点でもある。

 ・「答え」を見つけるのが得意
 ・「そういうもんだ」と自分を納得させられる
 ・何でも「いちばん」を目指す
 ・謙虚

おおたとしまさ (2016). ルポ 塾歴社会:日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 幻冬舎 pp.164

できる子できない子

こう言っては身も蓋もないが,できる子は,鉄緑会に通おうが,インターネットで映像授業を受講しようが,山に籠もって1人で問題集を解こうが,できる。できない子は鉄緑会に行ってもできない。そのことをさらに強調してしまう結果になりかねない。
 平等を追い求めるほど,「前提」の違いが露呈するのである。いかんともしがたいこの「前提」には,遺伝のほか,どんな家庭文化や学校文化に属しているかが強く影響していると教育学の世界では言われている。

おおたとしまさ (2016). ルポ 塾歴社会:日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 幻冬舎 pp.153

国民的競争教育

中卒,高卒,大卒と,通行手形のランクが上がれば世界も広がる。当然人々は1つでも上のランクの通行手形を手に入れようとする。親は子に,できるだけ上等な通行手形を持たせて送り出したいと願う。そこに競争が生まれる。
 同世代全員が同じレールの上を行くのである。たった1歩でも人よりも先に行きたいと誰かが早歩きを始めれば,まわりの歩幅も大きくなる。受験競争の始まりだ。気づけばみんなが全力疾走をしていた。
 途中で気分を悪くする者もいる。怪我をしてしまう者も出る。それでも競争は止まらない。何でもありの受験狂騒曲である。
 皮肉である。全国津々浦々の子供たちに平等な教育を行き渡らせることを実現した結果,国民的競争教育が始まってしまったのだ。

おおたとしまさ (2016). ルポ 塾歴社会:日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 幻冬舎 pp.143

何を測るか

しかし考えてみてほしい。塾や家庭教師の力を借りず,独力で受験勉強ができること自体,才能である。問題集の解説を読めばたいていのことは理解できる学力が備わっていたからこそできた作戦である。山に篭もれば誰もが京大理学部に合格できるわけではない。
 逆に,都会の塾の教室でひと夏を過ごしたとしたら,三木さんの場合,志望校に合格できていたかどうかはわからない。それは明らかに三木さんのスタイルではないからだ。早々にスランプに陥っていたかもしれない。
 某大手塾グループの広報担当の50代の男性は次のように指摘する。「昔は,どんな参考書や問題集を使って,どんな風に志望校対策をするのかを自分で考えたもの。どう段取りを組むのかというところまでを含めて受験勉強だった。結果的に総合的な人間力を試すことになっていた。コツコツやるタイプもいる。先行逃げ切りタイプもいる。最終コーナーを回ってからラストスパートで勝負をするタイプもいる。入試の結果には,単なる知識量や学力だけでなく,作戦力や実行力,そして執念までもが反映されていた。しかし今,子供たちは大人に与えられたものをやるだけになっている。それが中学受験ならまだわかる。しかし大学受験までもがそうなってきている。入試で測れるものが,『疑いのなさ』や『処理能力』やせいぜい『忍耐力』くらいになっている」

おおたとしまさ (2016). ルポ 塾歴社会:日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 幻冬舎 pp.139-140

参考材料

前提として,首都圏の中高一貫校は1990年代の大学進学実績を争う横並びの競争を乗り越えて,2000年代以降は受験・進学指導とは異なる側面で学校の個性を競う時代に入っている。つまり,大学進学実績はもはや一貫校を選択するうえでの絶対的な決め手ではなく,あくまで学校選択の参考材料の1つに過ぎないと認識されるようになった。

おおたとしまさ (2016). ルポ 塾歴社会:日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 幻冬舎 pp.129

入試問題

ここで中学受験に関するよくある誤解を解いておきたい。中学受験をよく知らない人たちの間には,中学受験は無味乾燥な知識の詰め込みであって,そんなことをしても何の意味もないという思い込みがあるらしい。しかしそれは違う。
 自分が私立中学校の校長であると想像してみてほしい。機械的に知識ばかりを詰め込んだ頭でっかちな生徒をわざわざ集めたいと思うだろうか。知識量よりも,思考力や好奇心やポテンシャルを持っている生徒を集めたいと思うはずだ。しかも学校の教育理念に合う生徒を見極めたい。そのために各校は毎年趣向を凝らした入試問題を作るのである。

おおたとしまさ (2016). ルポ 塾歴社会:日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 幻冬舎 pp.55-56

正解じゃないストレス

世の中のほとんどの問題には「正解」なんてものはない。しかし,人よりも早く「正解」にたどり着くことに長けていて,そこに自負すらある人たちにとっては,「正解」が見つからない状態に居続けること自体がものすごくストレスに感じられるのかもしれない。だから手っ取り早く「正解」を得ようとしたがる。でもそもそもそんなものはないから,「正解らしきもの」をねつ造する。あるいは誰かが掲げた「正解らしきもの」に飛びつくことで,安心して思考停止に陥る。

おおたとしまさ (2016). ルポ 塾歴社会:日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 幻冬舎 pp.47

塾依存

小学生のうちは,目標の学校に入るためにどれだけの学力が必要で,そのためにどれだけの努力をしなければいけないのかなど,子供本人がわかるはずもない。塾の指導に右向け右になることはやむを得ない。しかし,それが強烈な成功体験として刻まれ,中学・高校生になっても塾に頼り切りになってしまうと,主体的な学習習慣を身につける機会が奪われてしまうのかもしれない。
 ある有名中高一貫校の教員は,「最近は塾依存のようになっている生徒あるいは保護者が多い」と嘆く。また別の学校の教員は,「ときどきサプリメントを飲むように,塾を上手に利用してくれるのなら問題はありません。でもサプリメントに頼り切りになってしまうようでは心配です」と漏らす。

おおたとしまさ (2016). ルポ 塾歴社会:日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 幻冬舎 pp.46

学歴よりも塾歴

有名進学校の実績の裏には少なからず鉄緑会の影響がある。最難関大学受験のことだけを考えるのなら,開成にするのか,筑駒にするのかということよりも,鉄緑会に入るのか入らないのかが,重要なのかもしれないのだ。
 つまり,「学歴」よりも「塾歴」。この国では塾が受験エリートを育てているのだ。
 そして鉄緑会に通う最難関中高一貫校の生徒の大半がサピックス出身者であるというのもこれまた事実だ。あまたある公立小学校から多様な中高一貫校へ,そして東大をはじめとする最難関大学へと,「学歴」においては多様な「道」が存在するように見えるが,「塾歴」に目を向ければ,多様性は極めて乏しい。

おおたとしまさ (2016). ルポ 塾歴社会:日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 幻冬舎 pp.26-27

ズレはどこに

かつて高卒就職していた層まで大学へ進学するようになったため,大学は変質していきました。90年代以降に新設された大学のほとんどが,偏差値50以下となります。そう,大学は学力面では下方にウィングを伸ばしました。
 その受け皿となる「膨れた大学相応の雇用」を考えなければいけないのに,現在の大卒就職論議は,ほとんどが経団連を中心とした,最上層部の採用慣行の注文となっている。ここに大きなズレが生まれているのです。こうした超大手が新卒一括採用を崩して通年採用にしても,既卒三年新卒扱いにしても,採用数自体が非常に少ないのだから,大きく膨れた大学生を受け止めることなどできないでしょう。
 同様に,大学生に職業教育を施し,即戦力にすべきという議論にも,疑問を禁じえません。そうして即戦力になったとしても,やはり超大手の採用は少なく,彼を受け止めきれない。だから,その受け皿の多くは中小となります(たしかに教育的コストが厳しい中小企業には嬉しい施策ではありますが)。
 明らかにズレているのです。

海老原嗣生 (2013). 日本で働くのは本当に損なのか:日本型キャリアVS欧米型キャリア PHP研究所 pp.128-129

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