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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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駅弁大学

戦後,全国各地に雨後の筍のようにできた新制大学を指して,「駅弁大学」という言い方があった。急行が停まり,弁当を売っているぐらいの駅のある地方には必ず大学が存在する,といった事態をやや揶揄するような表現である。これは大宅壮一の造語であり,大宅発の流行語にして他には,テレビによる「一億総白痴化」や,大阪出身のネットワークを指す「阪僑」などが有名。

竹内和芳 (2014). 「就活」の社会史—大学は出たけれど…— 祥伝社 pp. 78-79
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いつも同じ

現在,「学長の推薦状」などは通常必要とされないし(ただし,ゼミ担当教員などの推薦状は,時として要求される),学業成績表の類いも提出はさせられるが,成績そのものは参考にされる程度であろう。しかし,大学での学業成績ではないにしても,ウェブテストなどによる学力考査での「粗選び」は,今日の就職活動のプロセスにおいて一般的なものとなっている。体育会系学生の就職における相対的な強さの一方で,最低限の学力の担保も求められる点などは,昭和恐慌期も平成不況期も変わるところがないのである。

竹内和芳 (2014). 「就活」の社会史—大学は出たけれど…— 祥伝社 pp. 53

大学は出たけれど

大卒者を迎え入れようにも,その空き枠はない,経済の先行きが不透明な状況で,幹部候補生ばかりにいられても,どうにも使い勝手が悪いし,人件費もばかにならない…。それが,1920年代の全般的な情勢であった。そうした時代を象徴するサイレント・ムービーが,小津安二郎監督の「大学は出たけれど」(1929年)である。このタイトルは当時の流行語となり,その後も今日に至るまで,不況(就職難)のたびごとに「大学は出たけれど」はマスコミに重宝されるフレーズとなっている。
 1970年代頃から,「大学は出たけれど」定職に就かない(就けない)若者たち—「遊民」や「プー(タロー)」,後に「フリーター」「ニート」,さらには「新卒無業」や「非正規雇用」「プレカリアート」などと呼ばれる(もしくは称する)—が問題視され,ここ数年では「大学は出たけれど」奨学金が返還できない事態の広がりが取りざたされている。

竹内和芳 (2014). 「就活」の社会史—大学は出たけれど…— 祥伝社 pp. 38-39

スーツの色

この記事のラストは,「ほかの人に差をつけようとユニークな格好ででかけたという面接武勇伝をよく耳にしますが,個性とはその人の人柄や発想力や知的レベルなど,内面からきらりとでてくるもの。服装や見かけで奇をてらうと,しくじる可能性が大」と締めくくられている。この結論自体は,今日でも通用する正論であろう。
 だが,紫やピンクのスーツ,からし色のブレザー,プリント柄のワンピース,ポロシャツなどでの就職活動は,いまの常識からすればじゅうぶん「奇をてらう」行為だし,「面接武勇伝」どころか立派な暴挙である。「白い金ボタンのダブルのジャケットに,ボックスプリーツのスカート」姿への「ダークな色が多い中で「白」が明るい印象に<博報堂・中氏>」といったポジティブなコメントには,そのあまりの時代の隔たりゆえに,ただただ呆然としてしまう。
 もちろん,雇用機会均等法以前の話なので,女子新入社員の位置づけも,今とは若干異なっていたのであろう。しかし,平成の時代に入っても,1990年代前半だと,さすがにダブルのスーツはまずいが,明るいグレーやベージュなどはまだありうる選択肢だった。だが,失われた10年や就職氷河期などとささやかれる中で,「紺→濃紺→黒」と,世の中の暗さを象徴するかのように,この20年間で就活生の色合いは,どんどんモノトーンとなっていったのである。

竹内和芳 (2014). 「就活」の社会史—大学は出たけれど…— 祥伝社 pp. 10-11

差異と多様性

大学に本当に必要なのは「差異」と「多様性」である。自分とは異なる価値観や世界観,過去や遠い地域の文明や文化,人間の知性の奥深さや広がりを学ぶことによって,私たちは自分たちがいまどういう世界の中に生きているのかをよりよく知ることができる。そして,よりよく知るとは,つまりは人間としてよりよく生きるということでもある。このような差異と多様性に開かれた自由な知をこれからも大学の中で守っていかなくてはならない。

室井 尚 (2015). 文系学部解体 KADOKAWA pp. 203

顔色をうかがう

運営交付金の配分も,各大学の定員数も,学部や大学院の設置や改組も最初から既定の路線通りすべて文科省が統制しているというのが現実で,各大学の自主性とか自立性とかを主張できる可能性はほとんど残されていないのだ。なぜなら6年ごとに作られる中期目標・中期計画も文科大臣名で最終的には文科省が決めているからだ。つまり,国立大学は元々自由に競争するための手足を完全に縛られている中で,運営交付金や競争的資金を獲得するために文科省の顔色を窺いながら生き残りを図らなくてはならないのである。

室井 尚 (2015). 文系学部解体 KADOKAWA pp. 83-84

お金の集中

国立大学の場合,競争原理はほとんど関係ない。文科省は良い改革案やプランを出す大学を支援するといっているが,それは文科省の求める施策に適合したプランに対してだけであって,実際には旧帝国大学をはじめとして特定の大学に集中的にお金が流れている。

室井 尚 (2015). 文系学部解体 KADOKAWA pp. 82-83

改革と転落

要するに91年の大学設置基準の大綱化以降,日本の国立大学および,やはり私学助成金の減額を恐れて文科省の指導の下に似たような「改革」を行ってきた私立大学は,どんどん頽落の道を転がり落ちていっているのである。そのことは大学の内部にいる者たちにははっきりと見えているのだが,残念ながら大学の外の人たちからはまったく見えないようなのである。外側から見れば,まだまだ国立大学はひだまりの中で特権を謳歌している,改革努力の足りない遅れた組織なのだ。そして,惰眠をむさぼる大学と大学人を覚醒させるためには,国家が強力にコントロールしていかなくてはならないと本気で思っているのである。

室井 尚 (2015). 文系学部解体 KADOKAWA pp. 75-76

自主的?

たとえば,平成28年度からは運営交付金の重点支援の枠組みであるところの,地域のニーズに応える人材育成・研究を推進するとされる「地域貢献型」,分野ごとの優れた教育研究拠点を目指す「特定分野型」,世界のトップレベルの大学と伍して卓越した教育研究を推進する「世界水準型」の3つの類型のどれかでなければ,運営交付金を3割も減らされるということが告知されている。各大学は自分たちの大学がこの3類型のどれであるかということを自ら受け入れて,その目標に沿った「改革」を「学長のガバナンス」を通して推進しなくては生き残れないのだ。
 こうした状況のどこに「自主的な大学改革」の余地が残されているだろうか?国によってはんじがらめに縛られ,経営陣にも常に国の監視が向けられ,文部科学大臣の名前で公表されている中期目標・中期計画をやらなければ運営交付金を減らされると脅かされる中で,そして実際に毎年1%ずつ,年によってはさらに運営交付金が減額されている中で,学長や執行部が自主的にできることなどほとんどないのである。また,トップダウンで学長が強権的な大学支配を行ったりすれば,その学長を応援して支えている教職員たちの反乱が起きることは目に見えている。
 つまり,学長という立場は大学の構成員と文部科学省の板挟みになってしまい,結局は両方の根回しをすることくらいしかできないのである。

室井 尚 (2015). 文系学部解体 KADOKAWA pp. 71-72

混乱の極み

国立大学法人化以降の大学の人事システムは変化が激しすぎて混乱を極めていると言っていい。終身雇用制の教授,准教授,講師は,公務員ではなくなったとはいえ実質的にはそれまでとほとんど変わらない形に縛りつけられている。いわゆる「見なし公務員」である。給与水準も公務員と同じく人事院勧告に準拠しなければならない。
 2011年に震災復興のために国家公務員の給与が平均7.8%引き下げになったときにも,もはや公務員ではないのだからと傍観していたら,国から厳しく給与引き下げを迫られ,従わなければ次年度から交付金を減らすと脅かされた。結局は年収が低い若い教職員は可哀想だからと,私たちのように年齢が上の者から10%程度の削減が行われ,大変苦しい思いをした。

室井 尚 (2015). 文系学部解体 KADOKAWA pp. 63-64

新課程

元々は一県に一大学,必ず教員養成系の大学・学部を置くという原則の下に地方の新制大学が作られていたのだが,遠山プランのときにはむしろ教員養成系はそんなに必要がないとされ,新課程だけが残されようとしたのである。この問題は奥が深い。
 その間,新課程は30年近くもの間,それぞれの大学で独自の役割を果たして,成長をし続けてきた。受験生たちからの安定したニーズも生み出してきたし,すでにたくさんの卒業生も生み出してきた。
 それを今回の「通達」では,何の歴史的検討も,将来への洞察もなく,一転して教員養成系だけを残し,新課程を全国一律に廃止するというのである。いかにも乱暴な議論である。たったの1年でこの乱暴な方針がまとめられ,直ちに各大学に押し付けられたのだ。そして,それが文系学部の文理融合学部への統合という,これもまたよくわからない議論へと結び付けられているのだから,いくら「文系軽視ではない」と力説したところで,「社会の役に立たない文系の縮小・廃止」と受け取られるのも当たり前のことなのではないだろうか?

室井 尚 (2015). 文系学部解体 KADOKAWA pp. 43-44

経験でしか語れない

人はだれでも自分の経験を通してしか物事を測ることができない。中学校や高等学校は自分が出たころとそんなに変わっていないと思い込んでいるし,大学もまた自分が大学生活を送ったころから変わっていないだろうと信じこんでいる。
 その大学生活の思い出といえば,遊びやアルバイトに明け暮れ,適当に単位をかき集めただけの記憶しかなかったり,あるいは実験室でずっと先輩の大学院生の共同研究を手伝っていたり,部活やサークルの活動にかまけていたり,就活を終えて卒業旅行を楽しんだりと人によってそれぞれ違うだろうが,いずれにしてもそのころの大学と現在の大学は基本的にはそんなに違っていないだろうと思っている人が多い。だから,一般の人は大学,あるいは国立大学のことについてほとんど知らないし,またそんなに大学の変化には関心を抱いていない。

室井 尚 (2015). 文系学部解体 KADOKAWA pp. 4

微妙な二重性

ですから,大学教授間に成り立つのは,独立した主体相互の平等な関係で,両者に命令や指示,あるいは「お仕えする」関係は不可能ということになります。しかし,それでは現実の組織としての大学は成り立ちません。大学が組織として運営されるには,入試,カリキュラム設計,成績評価といった教育上の実務はもとより,研究プロジェクトの遂行,そして大学運営そのものにかかわる多くの実務や事業が不可欠ですし,それらの実施には一般企業と同じように責任者の下での指揮命令が不可欠です。そのため,大学教師は「教授」「准教授」といった独立の立場と共に,学部長や学科長,委員長,室長,室員等々といった組織運営上の職務を兼ねることになります。そして,これらの職務上の立場で大学教師がすることは,企業組織の実務と本質的な差はないのです。事業の成果はもちろん求められるし,効率性や利益も必要で,トップダウン式の意思決定が必須です。
 産業界の人々が見誤りがちなのは,大学のダイナミズムを支えるのがこの微妙な二重性にあることです。もしも,大学を後者の企業的な原理だけで動くものにしてしまったら,大学の根底をなす教授たちの創造性は失われ,そのような大学は徐々に活力を失っていきます。どうやっても,企業のようには大学は動かないのです。

吉見俊哉 (2016). 「文系学部廃止」の衝撃 集英社 pp.137-138

文系の知とは

価値の尺度が劇的に変化する現代,前提としていたはずの目的が,一瞬でひっくり返ってしまうことは珍しくありません。そうしたなかで,いかに新たな価値の軸をつくり出していくことができるか。あるいは新しい価値が生まれてきたとき,どう評価していくのか。それを考えるには,目的遂行的な知だけでは駄目です。価値の軸を多元的に捉える視座を持った知でないといけない。そしてこれが,主として文系の知なのだと思います。
 なぜならば,新しい価値の軸を生んでいくためには,現存の価値の軸,つまり皆が自明だと思っているものを疑い,反省し,批判を行い,違う価値の軸の可能性を見つける必要があるからです。経済成長や新成長戦略といった自明化している目的と価値を疑い,そういった自明性から飛び出す視点がなければ,新しい創造性は出てきません。ここには文系的な知が絶対に必要ですから,理系的な知は役に立ち,文系的なそれは役に立たないけれども価値があるという議論は間違っていると,私は思います。主に理系的な知は短く役に立つことが多く,文系的な知はむしろ長く役に立つことが多いのです。

吉見俊哉 (2016). 「文系学部廃止」の衝撃 集英社 pp.75

誰に「役に立つ」のか

ここで重要なのは,そもそも「役に立つ」とは,単に国家や産業界のためだけに「役に立つ」ことだとは限らないことです。国民国家や近代的企業よりもはるかに古い歴史を持つ大学は,国や産業に奉仕するために生まれた機関ではありません。その一方で,大学はその成立当初から自己目的的に,学問そのものを目的とする機関であったわけでもないのです。大学が,何かのために「役に立つ」ことは,この機関の成立の要件の1つでした。当初,それは神のために「役に立つ」(神学)ことや,人々の健康のために「役に立つ」(医学)ことであったでしょう。しかし,もう少し一般化すれば,大学は,人類や地球社会の普遍的な価値のために奉仕する知の制度として発達してきたのです。

吉見俊哉 (2016). 「文系学部廃止」の衝撃 集英社 pp.67

大学は国家に奉仕すべきか

この主張は,何重にも間違っています。なぜならまず,国の税金はそもそも国民に由来するもので,税金への義務ということならば,国民への説明責任になります。つまり,国立大学は,それぞれどのような方針に基づいて学生を選抜し,教育し,社会に送り出しているのかを国民に対して説明する責任を負っている——これが,そもそもの税金の拠出者である国民に対して国立大学が背負っている義務になります。どう考えても,「税金によって賄われているのだから,国家に奉仕すべきだ」という話にはなりません。
 しかも,ここでの問題はそれだけではありません。というのも,私が今,あえて「説明責任」という言葉を使ったように,国立大学は,国民からの税金によって賄われているとしても,国民の願望や要請の実現のために奉仕する組織ではないのです。たとえば,多くの日本国民が,日本人学者にノーベル賞を取ってほしいと願望している。だから国立大学が,1人でも多く日本人がノーベル賞が得られるようにその大学の研究体制を組み替えるとなったら,これは本末転倒も甚だしいことになります。大学にとって,たとえばノーベル賞は結果であって目的ではあり得ません。大学は,オリンピック選手養成機関のような組織とは根本的に異なるのです。様々な世界的な賞を得,名声を博するような人が大学から出てくるとしても,そうしたことを目的に大学があるのでは絶対にありません。
 同様のことは,私立大学にも当てはまります。私立大学にとって,学生からの授業収入は大学予算の重要な部分を占めますが,だからといって私立大学が授業料を払っている学生やその保護者の願望や要請だけを聞いて教育し,成績をつけていたら,その大学の教育研究はだんだん劣化していくでしょう。もちろん,いずれの場合でも学生や保護者への説明責任が大学にはあるのですが,説明責任を負うことと奉仕することは違います。
 つまり,大学は一般企業や商店とそこが根本的に異なるのであって,大学の目的,価値は国に従順な学生を育てることでも,学生を,その父母の期待をそのまま具現したような若者に仕立てあげることでもありません。大学は,保護者や国民に対して学生たちを立派に育てる義務を負っていますが,その「立派さ」の基準は,保護者や一般の国民が通念として考えているものと一致するとは限らないし,通念に従うべきものでもないのです。

吉見俊哉 (2016). 「文系学部廃止」の衝撃 集英社 pp.65-66

競争的資金の有利不利

このように法人化後,国立大学の基盤となる予算の重心が,運営交付金から競争的資金に移っていったことが,文系の弱体化と非常に関係があります。つまり,競争的資金の獲得には,文系よりも理系のほうが次の3つの面ではるかに適しているのです。
 第1は,一般に理系の研究は文系よりも期待される成果を見せやすく,しかも比較的短期間で結果を出しやすいことです。理系の研究の多くは,「こういう計画でこれだけの成果を挙げます。この期間でこのレベルの目標を達成します」ということを明確に提示することが可能です。他方,文系の研究ではそうした明確な目標や成果の提示が困難な場合が多く,成果よりも学問的意義の主張に終始してしまうことが少なくありません。第2に,理系の研究予算は,多くの場合,文系よりもずっと大規模です。同じ件数の研究予算でも,理系と文系では大学における「経済効果」に大きな差が生じます。第3に,概して理系はチームワーク,文系は個人作業であり,競争的資金の獲得のようにチームワークが要求される作業では,理系の人たちのほうが文系よりも優秀さを発揮します。

吉見俊哉 (2016). 「文系学部廃止」の衝撃 集英社 pp.45

一貫した文系軽視

日本の大学政策における文系軽視は,最近に始まったことではありません。むしろ戦後一貫して,日本政府は理工系振興に力を注いできましたから,遅くとも高度経済成長期までに,国立大学は理系中心の組織になっていました。そして今日,旧帝大と呼ばれる大規模国立大学の教員の約七割が理系であるのに対し,法学部,経済学部,文学部といった狭い意味での文系教員は約一割にすぎません。国立大学教員のほぼ四人に三人が理系で,国立大学の教育学・教員養成系を除いた文系の教員比率はたった10分の1程度にすぎないのです。つまり,「文系学部廃止」が云々されるずっと以前から,日本の国立大学では理系が圧倒的有意を占め,実質的に国立理工医科大学となっていたとも言えましょう。

吉見俊哉 (2016). 「文系学部廃止」の衝撃 集英社 pp.28

儲かる・儲からない

しかし第三に,より根本的な問題があります。遅くとも2004年の国立大学法人化の前後から進められてきた産業競争力重視の大学政策を背景に,「儲かる理系」と「儲からない文系」という構図が当たり前のように成立し,大学も経済成長に教育で貢献しなくてはいけないという前提を皆が受け入れてきた点です。文系学部で学んだことは就職に有利ではないしお金にならないから役に立たないのだという「常識」が形成され,それを皆はっきりとは言わないまでも潜在的に信じ込んでしまっている状況が,広く国民一般に成立してしまった。実はこれが最大の問題です。

吉見俊哉 (2016). 「文系学部廃止」の衝撃 集英社 pp.27

環境効果と競争効果

ジャクソンは自らの研究データをもう一度詳しく精査した。そして,エリート校に行った子供のパフォーマンスに影響を及ぼす主な要因が2つあることに気づいた。1つ目は「環境効果」だ。エリート校には,優れた教師と組織的なカリキュラム,毎年のように学校の設備を増強する学校経営者がいる。2つ目は「競争効果」だ。トップクラスの生徒に囲まれていることで,互いに切磋琢磨しようとする作用だ。
 女子生徒の場合,この2つの要因が学習と成績に良い効果をもたらす。しかし,男子生徒の場合,2つの要因が対立し,互いの良さを消し合ってしまう。環境効果は,パフォーマンスを向上させる。だが競争効果によって,成績が良くない男子生徒は落ちこぼれの危機にさらされてしまうのだ。「大きな池の小さな魚であることは,男子には良くない影響をもたらす」とジャクソンは述べている。
 「結論として,女の子はできるだけ良い学校に行かせ,できるだけ優秀な子に囲まれるようにするのが望ましい。男の子は,できるだけ優秀な教師がいる学校に行かせるべきだが,競争が厳しすぎる環境に置くべきではない」ジャクソンはこうまとめている。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.144-145

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