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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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第一工学部と第二工学部

ちなみに,東大工学部(のちに第一工学部に呼称変更)は,「土木工学科」「機械工学科」「船舶工学科」「航空工学科(機体専修,原動機専修)」「造兵学科」「電気工学科」「建築工学科」「応用化学科」「火薬学科」「鉱山及び冶金学科(鉱山専修,冶金専修)」で,第二工学部と同じ10学科である。
 第二工学部には火薬学科および鉱山専修がなく,代わりに航空工学科が2学科に分かれて10学科となった。したがって,第一工学部と第二工学部の学科構成はまったく同じわけではなかった。
 第二工学部の定員は各学科40人とするが,機械工学科のみ60人とし,合計420人を入学予定数とする。既存の東大工学部の定員が378人(1942年4月時点)だから,第二工学部はそれよりも42人多い計算になる。これは日本で最大の学生を収容する工学部が誕生することを意味した。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.35-36
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工学部の推進

そもそも,「重要産業五ヶ年計画要綱」は,30年以上あとに発生する決戦戦争を念頭に生産力の拡充を目指していた。そのためには,少なくとも平時が10年は必要である。ところが,その前提が崩れ,日中戦争という当面の課題に対して,国家の資源を活用せざるを得なくなる。
 このような動きのなか,「満州国産業開発五ヶ年計画」および「重要産業五ヶ年計画要綱」は換骨奪胎される。平次の生産力拡充という統制経済の理念は棚上げとなり,非常時における党制手段として利用されることになる。これは工学技術者の養成も同様だった。というのも,以後国が推進する施策が,基本理念や細部の内容こそ異なるものの,宮崎らのプランと同様の方向に沿って進められるからである。
 そのひとつに,1939年の名古屋帝国大学の新設がある。同校は,名古屋医科大学を前身とする内地では7番目の帝国大学であり,設立時に機械,応用科学,電気,航空,金属の5学科からなる理工学部を設けた。名称こそ理工学部ながら,学科構成は明らかに工学部そのものだ。というのも,のちに名古屋帝国大学理工学部は,理学部と工学部に分離されるが,工学部の学科は理工学部当時のままだからだ。
 また,名古屋帝大が成立した同1939年には,藤原工業大学予科の創設がなる。同校は王子製紙社長で「製紙王」と呼ばれた藤原銀次郎が,同社社長引退を機に私財を投げ打って設立した大学である。機械工学,電気工学,応用科学の3科でスタートした。そして,1942年に学部となり,1943年に藤原工業大学は藤原の母校である慶應義塾大学に寄付の合意がなされて,その翌年に慶應義塾大学工学部となった。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.29-30

時間の無駄

学校名に関してですが,特定の大学から大量に採用している会社ですと,そのコミュニティでその大学の話ができるかどうか,共通の知り合いがいるかどうかの話となります。つまり仲間内での話題についていけるか否かという,コミュニケーションの問題となってきます。たとえば,社会や役所のコミュニティで出身大学によって「ちょっと仲間外れにされて,疎外感を味わったらイヤだな」とか,そういうたぐいのことです。私は外資系企業に勤務したことがありますが,海外に行ってもこうしたことはありますし,大学名の入ったTシャツを着て平気で出社してくる米国人なんかの方が愛校心や仲間意識は強いかもしれません。
 しかし,社内でも社外でも上に行けば行くほど別にみんな大学名なんて気にならなくなってきて,仕事の実力や個人の人望,さらには「いくら稼いだ」ということが重要になってきます。したがって,「出世できないのは学歴のせいだ」と思ったり,「◯◯ができないのは学歴のせいだ」などと思ったりするのは,時間のムダです。

塩野 誠 (2013). 20代のための「キャリア」と「仕事」入門 講談社 pp.36-37

勝ち組と負け組

最近の子供たちは,有名になることに何より憧れているようである。野球やサッカーの選手になりたいとか,パイロットになりたいとかいうのではなく,何であれ有名になりたいのだ。なんという奇妙な夢だろうか。
 科学をやりたい,というのではなく,ノーベル賞の田中さんみたいに有名になりたいというのだから。
 そんな不思議な憧れが生まれるのも,人間を勝ち組と負け組とに分けているからである。私の職業に近いところで最近目につくのが,小説家になりたい人の増加である。これは非常に不思議な現象である。
 なぜなら,近年本があまり読まれなくなり,つまりあまり売れなくて,出版社は軒並み青息吐息なのである。もちろん,小説も売れず,そう読まれていないわけだ。
 そのように読まれていない小説を,書きたいと思う人が増えているのはどういうことか。
 新人賞などへの応募作品数(つまり応募者)がやけに増加しているのだそうだ。
 そして,そういう賞の募集情報を一冊にまとめた,公募のガイドのような雑誌が出ていて,そこそこ売れているらしい。そんな情報で雑誌が成り立つということ自体,かつては考えられなかったのだが。
 要するに,小説家になりたい,と希望する人の数が増えているのだ。そして,これはそういう賞を設けている出版社の編集者からきいた話だが,近頃の新人賞応募者の多くが,ろくに小説を読んでいないのだそうだ。
 信じられないような話である。普通には,作家になりたい,小説を書きたい,という願望を持つのは,小説が好きで大いに読みあさった,という人間である。私の師の半村良先生が言っていた言葉を使うなら,「作家は読者のなれのはて」なのだ。
 なのに,ろくに小説を読んだこともなくて,ただ小説家という職業に憧れる人間が出てきたのである。
 おそらく,小説家になって一作当てれば,有名人になれて,お金もたんまり入ってくる,と考えているのだろう。

清水義範 (2003). 行儀よくしろ。 筑摩書房 pp.174-176

イライラする

学校の成績がよくていい大学に入れる,ということだけが誇りの持てる人生かどうかの基準であるならば,ほとんどの子供にはその道が閉ざされていて,どう自分に自信を持っていいのかわからないだろう。小学校でも2,3年生ともなれば,自分が成績優秀な人間かどうかはわかってくるもので,どうもそっちではダメだなと思ったら,それから十年ばかり,その子はムカムカして生きるしかないではないか。
 だから若者は苦悩し,なんとか自分が輝いていられる人生を捜そうとしているのだ。スポーツで抜きん出る,というのは自信の持てることだ。音楽の才能があって人々を楽しませることができても人気者になる。しかし,そういう方面に才能があって輝いた人生を手に入れられる子はほんの一握りである。ほとんどの,学業でもパッとせず,かと言ってスポートや音楽にもそう才能のない子は,何に誇りを持って輝いて生きていけるというのか。大多数のそういう子は,ものすごく面白くなくてイライラしている。
 親子の愛情でもこれは救えない。だって,彼らに人生の価値は成績優秀しかない,ということを言うのが親なのだから。親は自分にものすごくそれを期待していて,自分はその期待に応えられない,というのが彼らの苦しみなのである。
 親はどうして我が子にそんな期待をするのだろう。お前は私の子であるだけで最高だよと,なぜ言ってやれないのか。
 その答は,親も自分の人生がそう輝いていなくて面白くなくて,我が子にそのやり直しを期待してしまうからかもしれない。
 つまり,こう言ってもいいかもしれないのだ。子供たちがイライラしているのは,その親も自分の人生に満足できず,イライラしているからである。それが,ちゃんと教育されてしまっているのだ。

清水義範 (2003). 行儀よくしろ。 筑摩書房 pp.167-168

誘導するテレビ

ついでだからもうひとつ指摘しておくと,成人式がことさら荒れるのもテレビのせいである。去年荒れた成人式会場へ,テレビ・クルーを送り込んでさあ何が起こるのでしょうと,期待まる見えで撮影するんだもの。やって目立ちたい,という奴が出てくるに決まっているではないか。テレビ用語で言うところの,仕込みだとか,やらせだとは言わないが,そのように誘導しているのは確かである。テレビというのはそのようにして,この国の文化をリードしているのだ。

清水義範 (2003). 行儀よくしろ。 筑摩書房 pp.92

教育環境

家族が本を読むか,家に本があるか,利用しやすい図書館があるか,なんてことは,そこに住む子供の教育環境なのである。図書館があるとして,どんな本が揃っているのか,なんてことも。
 学術書があまりなくて,ベストセラー本ばかり揃えている図書館というのでは,少し偏っているなあ,と思う。ベストセラーだと,同じ本を何十冊も購入している図書館は,ほとんど無料の貸本屋ではないか。
 この話はさらに広げていくことができる。その街にどんな本屋があるのか,ということも,社会の教育環境である。マンガと雑誌だけの書店しかない,というのは残念なことである。あと,文庫本と,ベストセラー本だけを少し,なんていう書店も,街にそれしかないのだとしたら寂しい。

清水義範 (2003). 行儀よくしろ。 筑摩書房 pp.78

何もかも

私がここで言いたがっていることは,学校教育に何もかも求めるのはやめましょう,ということだ。近頃の子供がどんどん悪くなっていくのは学校教育が間違っているからだ,なんてことを言う人が多いのだが,学校はそこまでのことを分担している機関ではないと思う。
 だから,学校の先生にパーフェクトを求めるのも無茶である。勉強もうまく教えてくれて,子供の悩みは解決してくれて,西にいじめがあれば行ってやめさせ,東に学級崩壊があればよくないことだと諭し,なるべく教え子をいい上級学校に入れ,愛される優秀な日本人を育成する,サウイフモノで先生はあってもらわなきゃ困る,なんて求めるのは酷である。
 あの人たち,そこまでの給料はもらっていないし,そんなすごい存在になるような指導も受けていません。期待しすぎても,失望を感じるばかりでしょう。

清水義範 (2003). 行儀よくしろ。 筑摩書房 pp.56

先生の水準

もちろん,先生の中にはとびきり優秀な人もいるだろう。教え方がうまく,子供たちが楽しく喜んで勉強をし,子供の心のトラブルまで癒やしてくれて,みんな明るく元気に育つ,というようないい先生だ。ごくまれにはそういう立派な先生もいる。そういう人には,いい先生だなあ,と感心し,尊敬する。
 しかし,先生の水準をそこに求めるのは無茶である。ほとんどの先生は,そこまで優秀ではない。それが当然で,それは苦情を言う筋合いのことではない。
 だって,高校時代の成績がパッとしなかった私ですら入学できたような大学に,入れた人たちにすぎないのだから,先生って。決して軽んじる気持はないが,教育大学というところに入学して,普通に卒業できればそれで資格ありなのだ。都道府県の教員採用試験を受けなければならないが,それに堕ちる人はほとんどいない。
 大学で,教育学や,児童心理学や,各教科の指導法を学んでいるから,それでまあ,小・中学生に教えることは一応できるのだ。分数の割り算も,鎌倉幕府のことも,水の浮力のこともちゃんと授業できるんだからそれでいいのだ。
 もちろん,一応教えられるだけで,その人がその学問に秀でているわけではない。

清水義範 (2003). 行儀よくしろ。 筑摩書房 pp.53-54

それ以上のものではない

結局のところ,学校で教育してくれるのは学業なのである。それと,結果的に教育されてしまうのが,集団の中でどう人間関係を築いていけば生きやすいか,という社会性だ。学校という場に多くの子供を集めて集団教育をしていることによって,確かに社会性は身につく。
 だが,それ以外の教育は学校ではしてくれない。
 なのに多くの人々は,学校がすべての教育をしてくれることを求めがちなのだ。
 「今の子供はいじめの限度を知らず,徹底的にいたぶりつくすからこわいんだ」
 「学校でどういう教育をしているんだ」
 「近頃は,子供が罪悪感なしに,ゲーム感覚で万引きをするんだってね」
 「教師の指導がなってないんだよ。教師の質が落ちちゃってて」
 「自分さえよきゃいい,なんて考える子が増えてるよ」
 「学校の校長はちゃんと反省してるのか」
 というようなことを言い出しかねないぐらいに,学校教育に過剰な期待をしている。
 学校って,そんなに素晴らしいところじゃないですよ,と私は言いたい。あれは,一通り勉強を教えてくれるところで,それ以上のものじゃありません。あなたの子供をいい成績にしてくれて,高学歴の輝ける人生を与えてくれるところなんかじゃないです。全員に同じ授業をしているんだから当然です。
 学校での教育にあまりにも大きな期待をしてしまう人というのは,実は,それ以外での教育を軽視しているのだと,私は思う。それって問題だぞ,というのが私の意見だ。

清水義範 (2003). 行儀よくしろ。 筑摩書房 pp.50-51

知力の一部

で,コンピュータのことは別にしても,今の子供たちというのは昔の子供にはなかった様々の能力を持っているなあと,つくづく思う。
 まず,美的センス,音楽力。
 それから,ユーモアを解する力。大人の事情を見抜く能力。そして自己表現力。
 そういうものが,昔の純真で瞳のキレイだった子供よりかなり高度になっているのだ(今の子供が,昔に比べて悪くなっているところもある。それについては本書の中でおいおいに述べていくが,よくなっている点を並べている)。
 そんなの,ませているだけだよ,と思うかもしれないが,ませているというのも立派な能力である。ませていて,洗練されているのだ。それも絶対に,知力の構成要素なのである。

清水義範 (2003). 行儀よくしろ。 筑摩書房 pp.39

問いの転換

言うまでもないことだが,話を狭く学力だけに限って,それが高いのと,低いのとではどちらがいいか,という問い方をすれば答は明白である。それは高いほうがいいに決まっている。テストをやって,100点を取るのと,80点取るのとではどっちがいいでしょうと言っているのと同じだ。それは100点を取るほうがいいのであり,それが可能かな,ということを調べるためにテストってものがあるのだ。
 しかし,問い方を変えれば答はシンプルではなくなる。テストで100点を取る子と,80点しか取れない子では,どちらがいい子だろうか,と考えてみるのだ。
 それだと,いちがいには答えられない,という答になるはずである。
 どちらがいい子か,という総合評価ならば,テストの結果だけでとてもではないがあれこれ言えるはずがないのである。
 それどころか,100点を取る子と,80点を取る子では,どちらが頭がいいだろうか,という問いにしてみても,そう簡単には答えられない。そのテストにおいては,100点取った子のほうが成績がよかった,というのは事実だが,頭がいいかどうかはそれとは別のことなのである。

清水義範 (2003). 行儀よくしろ。 筑摩書房 pp.32-33

ザマミロ感

若者たちがバカになっていく,という話は日本の未来にかかわる大問題だが,なんとなく大人の,ザマミロ感をくすぐるのだ。困ったことですなあ,と言いながら,実はちょっと気味がよかったりする。つまりそれは,彼らは我々より劣る,という痛快感につながるのだ。
 少なくとも,マスコミはそんな興味を下心に隠し持って,学力低下の問題をことさらに取りあげた。実は学力低下の確固たる根拠なんてあまりないのに,危機感を煽りたてるために,あやふやなデータの断片を探し出してきて,ほら成績が下がっている,という報道をしたのである。

清水義範 (2003). 行儀よくしろ。 筑摩書房 pp.23

何が伝わるのか

ここで述べておきたいのは,「御社に入りたい!」と叫ぶ熱意は大したアピール材料にならないならない,ということだ。
 熱意とはその会社のことをよく知っている,研究しているという姿,過程で伝わるものだ。似たような企業をたくさん比較すれば,どうしてこの会社はこうなんだろうと疑問がわく。それを調べたり,聞いたりすることで,情報が増える。
 店舗や商品・サービスを実際に見ることができるなら,見てみればいい。社員にもたくさん会ってみればいい。その情報の多さ,「研究の熱心さ」が熱意として伝わるのだ。志望した理由や,入社して取り組んでみたい仕事を質問すれば,その熱意はすぐに伝わる。「へぇ,そんなことまで知っているの?」「よく知っているね」「競合はそんなふうなの?なるほどね」と,その企業の社員ですら知らない情報も入手して,自分なりに分析している学生に私も選考で会ったことがある。そういう人に会えば「この人は本当に当社に興味があるんだなぁ」と思うはずである。これが,まさに「熱意」というものだ。

太田芳徳 (2013). リクルートを辞めたから話せる,本当の「就活」の話:無名大学から大手企業へ PHP研究所 pp.110

マナー講座の重視

「面接でどう答えたらいいとか,エントリーシートの書き方だとか,もっと試験そのものに踏み込んだことを教えてほしかった」
 ある学生は私にそのように不満を述べた。大学のキャリアセンターでは,採否に関わる重要なことよりも,なぜかマナー講座のほうが重視されているのである。
 マナーなんて入社後,新人教育期間に軽く教えれば済む話だ。それよりも,この学生はどういったことをしてきたのか,何ができるのか,といったことを企業は知りたがっているのだ。マナーを教える時間やお金があるならば,それをもっと別なものに充てるか,企業側にアピールすべきことはなんなのか,そのためには何をしておくのが重要かを教えるべきである。

太田芳徳 (2013). リクルートを辞めたから話せる,本当の「就活」の話:無名大学から大手企業へ PHP研究所 pp.86

就職ではなく就社

日本で「就社ではなく就職」の考え方が広まり始めたのは,雑誌の就職特集や求人広告等で「仕事のやりがい」が大きくクローズアップされるようになってからだ。確かにお金以上のやりがいを得て働く人は輝いて見える。
 でも働いたこともない人が,「仕事のやりがい」というものを果たしていきなり理解できるだろうか。単なるあこがれでなく,「どうしてもやりたい仕事」を見つけられるだろうか。
 入社後も異動をしながら知識・技術を磨いていくという現実を見据えるならば,「その会社の風土・文化に自分が合うかどうか」といった「就社」を優先させるべきである。
 「ここの会社は体育会系でビシバシ鍛えられる」だとか,「ここの会社は社員の自由度が高い」といった,会社ごとの社風が必ずある。そういう観点で自分に合う会社を見つければ,たとえ将来,人事異動で違う部署に移っても,パフォーマンスを発揮することができるだろう。
 私がいう「就社」は,学生たちの間にあるブランド優先主義とは異なり,外から見たイメージや,なんとなくのあこがれて企業選びをするのではなく,「自分はその雰囲気に合いそうか」「自分は馴染めそうか」ということに主眼を置いている。
 学生にはとにかくいろいろな会社をたくさん見させたほうがいい。自分に合う会社を見つけるという意味で,先の格言は一巡りして「就職ではなく就社」が正しいのである。

太田芳徳 (2013). リクルートを辞めたから話せる,本当の「就活」の話:無名大学から大手企業へ PHP研究所 pp.80-81

キャリアセンターで…

「私は上昇志向の強さは,誰にも負けません。2年前は,部活の大会で2回戦敗退でしたが,皆で練習を頑張って,昨年は3回戦まで進めました」
 この話は悪くはないが,「上昇志向が強い」とは言い難い事例を用いてしまっている。むしろ地道に練習を重ねることが得意,というべきではないだろうか。採用選考の場でこう学生に話されたら「上昇志向が弱いなー」という印象にならざるを得ない。また「人と接するのが得意です」と言いながら,がちがちに緊張している学生も散見される。どう見ても人と接するのが苦手そうだ。
 両ケースとも,「それ,事実と矛盾していませんか?」と聞くと,「キャリアセンターでそう言え,と言われました」と答えていた。
 繰り返すが,問われていることは「仕事に向かうスタイルの得意・不得意」であり,その根拠となるエピソードのレベルと,論理的に矛盾していないか,である。

太田芳徳 (2013). リクルートを辞めたから話せる,本当の「就活」の話:無名大学から大手企業へ PHP研究所 pp.77

自己分析の危険性

しかし実は,いきなり自己分析から始めるのは,とても危険なことである。
 働いたこともない学生が,「自分はこういう人間だ」「こういう人間だから楽しくこの仕事に取り組める」と決めつけてしまうと,その人の就職活動はそれより先に進めなくなってしまう。なぜなら,自分勝手な「定義された自分」のフレームにすべて嵌まる企業・仕事というのは,ほとんど存在しないからだ。全く存在しない,といってもいいかもしれない。

太田芳徳 (2013). リクルートを辞めたから話せる,本当の「就活」の話:無名大学から大手企業へ PHP研究所 pp.72

じっくり考えること

だからこれを学生側から見れば,「自分にわざわざアプローチしてきてくれる企業」がもしあるならば,それは自分がその企業にとても欲しがられているということだ。業界大手ではないかもしれない,一見自分の専攻とは関係ないかもしれない,とても小さな規模かもしれないが。
 わざわざ企業がコストと時間をかけ,声をかけてきているのだ。わざわざ大学まで,地方まで来てくれているのだ。そういう会社に入れば,無理してギリギリ入社できる会社よりも,期待され活躍できる可能性が高いのだ。なんとなくのイメージでそういう企業からのアプローチを無視するのではなく,目の前で手を差し伸べてくれる企業にも,目を向けてみるべきである。
 多くの成長企業の役員,経営陣が,まだその会社が無名の頃に入社して,会社を成長させてきたという話を聞く。今,世間でよいイメージの会社を選ぶのか,これから20年後に成長している会社を選ぶのか,そこはじっくり考えるべきだ。

太田芳徳 (2013). リクルートを辞めたから話せる,本当の「就活」の話:無名大学から大手企業へ PHP研究所 pp.46-47

就職活動生のイタさ

企業が行う採用活動は,当たり前だが慈善活動や,教育を施す場ではない。また通常のサービスを提供する場でもない。だから全員に平等に何もかもが与えられる場ではない。だから全員に平等に何もかもが与えられる場ではない。説明会に申し込んでも,大学名で選別され参加できないこともある。面接の時にはニコニコ笑って話してくれても,理由も教えられずばっさり不採用になることもある。今までの教育の場であれば,機会は平等に与えられた。忘れ物事務局が準備してくれ,申し込みを忘れれば,学校が声をかけてくれ,欠席が続くと叱ってくれたりした。
 しかし就職活動は「社会の一部」であり,社会の当たり前のルールがいきなり予告もなくて起用されるのである。これを知らずにいると,とんでもないことになる。大学生が希少な存在であり,企業に余裕のある昔とは違う。ここについてもはっきりと学生に現実を教える人がいない。
 企業の人事担当者と話をしていると,ここ最近の就職活動の「イタさ」が話題になることが多い。これは昔からある「最近の若者は」という話ではない。明らかに自分の言葉ではない概念語を,しかも用法を間違って使いながら,壊れたテープレコーダーの再生ボタンを押したように,訳のわからないことを一方的に話し続ける学生のことを指している。ことに大学での就職支援が取り上げられるようになってから顕著だ。
 しかしこの「イタさ」を企業が学生や大学に伝えることはない。義務もなければ,伝えたところで無用な誤解や批判を受けるであろうし,きちんと理解されるように説明するとなると,膨大な時間とコストをかけなければならないからだ。

太田芳徳 (2013). リクルートを辞めたから話せる,本当の「就活」の話:無名大学から大手企業へ PHP研究所 pp.6-7

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