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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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正しくすることに意識を集中する

 これが練習の効果を最大限に高めるコツだ。ボディビルや長距離走など,トレーニングの大部分が単純に何かを繰り返す作業のように思えるスポーツでも,一つひとつの動きを正しくやることに意識を集中すると上達が加速する。長距離走選手の研究では,アマチュア選手は走ることの辛さや疲労感から逃れるために楽しいことを考えたり空想にふけったりする傾向があるのに対し,トップクラスの長距離選手は自らの身体に意識を集中させ,最適なペースをつかみ,レースの間それを維持するのに必要な調整をしていく。ボディビルあるいは重量挙げで,今の能力では限界というウエイトを挙げるときには入念に準備をして,完全に集中しなければならない。どんな活動でも能力の限界に挑戦するときには,100%の集中力と努力が必要だ。そしてもちろん,筋力や持久力がそれほど必要とされない知的活動や楽器演奏,芸術活動などは,そもそも集中せずに練習してもまったく意味がない。



アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.207-208


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フィードバックや修正があるか

 限界的練習の観点に立てば,何が問題かは明らかだ。講義やミニコースなどに参加しても,フィードバックを得たり,新しいことに挑戦してミスを犯し,それを修正することで徐々に新たな技能を身につけていく機会はまったくと言ってよいほどない。それではアマチュアのテニスプレーヤーがテニス雑誌を読んだりときどきユーチューブの動画を見てうまくなろうとするのと変わらない。それで何かを学んだ気になるかもしれないが,腕が上がることはほとんどない。しかもネット上のインタラクティブな継続医療教育では,医師や看護師が日々の診療現場で直面するような状況を再現するのはきわめて難しい。



アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.187


知れば知るほど

 あるテーマについて知れば知るほど心的イメージは詳しくなり,新たな情報を吸収するのも容易になる。「1. e4 e5 2. Nf3 Nc6 3. Bb5 a6……」といったチェスの棋譜はふつう人にはちんぷんかんぷんだが,チェスのエキスパートが見れば試合全体の流れを追い,理解することができる。同じように音楽のエキスパートであれば,新しい曲の楽譜を見ただけで弾かなくてもそれがどんな調べになるかわかる。そして「限界的練習」や学習心理学という領域全般についてすでに知識のある読者なら,他の読者より楽に本書の情報を吸収できるはずだ。いずれにせよ本書を読み,議論されているトピックについて考えることであなたの中に新たな心的イメージが生まれ,今後そのテーマについて呼んだり学んだりするのが容易になるはずだ。



アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.107-108


心的イメージ

 練習しているのが主に身体的な技能であっても,適切な心的イメージを作り上げることはその重要な構成要素となる。新しい技を習得しようとしている飛び込み選手を考えてみよう。練習の大部分は,その技の瞬間ごとのあるべき姿,またそれ以上に重要なこととして,適切な身体の位置関係や動きがどんな感覚のものであるかという明確な心的イメージを形成することに費やされる。もちろん限界的練習は身体そのものの変化にもつながる。たとえば飛び込み選手なら足や腹筋,背中,肩などが発達する。だが身体の動きを生み出し,正確にコントロールするのに必要な心的イメージがなければ,どれだけ身体が変わっても意味がない。



アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.98



限界的練習

 そしてここで指摘したいのが,従来型の学習方法と,目的のある練習,あるいは限界的練習の大きな違いだ。従来型の学習方法はホメオスタシスに抗うことを意図していない。意識的かどうかは別として,従来型の方法は学習は生まれつきの才能を引き出すことであり,コンフォート・ゾーンからそれほど踏み出さなくても特定の技術や能力を身につけることは可能だという前提に立っている。こうした見方に立てば,練習は所与の才能を引き出すためのものであり,それ以上にできることはない,ということになる。


 一方,限界的練習の場合,目標は才能を引き出すことだけではなく,才能を創り出すこと,それまでできなかったことをできるようにすることである。それにはホメオスタシスに抗い,自分のコンフォート・ゾーンの外に踏み出し,脳や身体に適応を強いることが必要だ。その一歩を踏み出せば,学習はもはや遺伝的宿命を実現する手段ではなくなる。自らの運命を自らの力で切り拓き,才能を思い通りに創っていく手段となる。



アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.85


居心地の良い場所から出る

 ここで目的のある練習の特徴を簡潔にまとめてみよう。まず自分のコンフォート・ゾーンから出ること。それに集中力,明確な目標,それを達成するための計画,上達の具合をモニタリングする方法も必要だ。それからやる気を維持する方法も考えておこう。


 何かにおいて上達したい場合,これを実践すればすばらしいスタートを切れるのは間違いない。とはいえ,それはあくあでもスタートに過ぎない。



アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.54


壁を乗り越える方法

 自らのコンフォート・ゾーンから飛び出すというのは,それまでできなかったことに挑戦するという意味だ。新しい挑戦で比較的簡単に結果が出ることもあり,その場合は努力を続けるだろう。しかしまったく歯が立たない。いつかできるようになるとも思えないこともあるだろう。そうした壁を乗り越える方法を見つけることが,実は目的のある練習の重要なポイントの一つなのだ。



アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋


意識的な努力が必要

 だが,それは誤りだ。一般的に,何かが「許容できる」パフォーマンスレベルに達し,自然にできるようになってしまうと,そこからさらに何年「練習」を続けても向上につながらないことが研究によって示されている。むしろ20年の経験がある医者,教師,ドライバーは,5年しか経験がない人よりやや技能が劣っている可能性が高い。というのも,自然にできるようになってしまった能力は,改善に向けた意識的な努力をしないと徐々に劣化していくためだ。



アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.42


成績のインフレ

 アメリカの大学生がA以外の成績をあまり取らないのは,アメリカの大学が「成績のインフレ」(Grade Inflation)という問題を抱えているからだ。四年制の大学では42%の成績がAである。1960年代にくらべて成績の中でAの割合は3倍にも増えた。成績のインフレはトップ大学で特にひどく,例えばイェール大学では62%の成績がAかA-であるし,ハーバードの成績平均はA-である。


 成績のインフレが深刻化したのは最近のことであるが,始まったのはベトナム戦争の頃にさかのぼるといわれている。大学生は徴兵を猶予されたので多くの若者が大学に進学したが,成績が悪くて退学になった者はすぐにベトナム行きとなる恐れがあった。それに同情した大学教員が学生を助けるために成績の底上げをしたことが今に至っているというわけである。


 だから成績のインフレのきっかけは教員自身の親切心だが,それに拍車をかけているのが授業料の値上がりと共に大学が学生を顧客と扱いだしたことだ。お客様は当然高い支払いに見合う「商品」を要求する。それが「いい成績」というわけだ。私立大学の平均の成績が州立大学より少し高いのは,私立のほうが授業料が高いので,見返りに対する期待も大きいからだと考えられる。対照的に授業料の安い二年制のコミュニティ・カレッジでの成績のインフレはそれほど酷くはない。お金のインフレと違い成績は上限があるのでインフレが起こると一番上のAに成績が集中してしまう。



アキ・ロバーツ 竹内 洋 (2017). アメリカ大学の裏側:「世界最高水準」は危機にあるのか? 朝日新聞出版 pp.193-194


利害関係や社会的文脈を理解せよ

 日本の大学でもホリスティック入試に似たAO入試や自己推薦入試などが導入されている。AO入試はその理念とは裏腹に階級の再生産を促し,日本の社会をアメリカ並みの格差社会にすることに拍車をかけるかもしれない。それにAO入試の審査の不透明さは世間の大学への不信感を増してしまう恐れもある。というのも,アメリカでの大学に対しての不満はホリスティック入試に関するものが多いからである。日本はアメリカのシステムを導入することが多いが,「学力だけでなく人物を評価する」などの理念のみならず,理念の裏側にひそむさまざまな利害関係や社会的文脈も理解しなければならない。



アキ・ロバーツ 竹内 洋 (2017). アメリカ大学の裏側:「世界最高水準」は危機にあるのか? 朝日新聞出版 pp.160


レガシー入学生

 親や親戚が卒業生である者は「レガシー」(Legacy)と呼ばれる。有名人の中にもレガシーは多い。ドナルド・トランプは,あまり教養の感じられない暴言からすると少し意外だが,アイビー・リーグのひとつのペンシルバニア大学出身である。彼は3回の結婚で子供が沢山いるが,長女のイヴァンカ・トランプを含めて何人かは彼と同じ大学出身なのでレガシーである。
 大統領を二人も出したブッシュ家は代々イェール大学に進学する者が多いので,ブッシュ大統領は父子ともにレガシーである。
 レガシー学生のすべてが入学を保証されているわけではないが,彼らの合格率は一般学生に比べると驚くほど高い。例えばハーバードではレガシーの合格率は一般志願者の5倍の30%にもなり,プリンストンでも一般合格率の7%から33%にも跳ね上がる。スタンフォードではレガシーの合格率は15%と低いがそれでも一般の合格率の約3倍である。レガシー優先入学は私立だけでなく,州立の名門大学でも行われている。
アキ・ロバーツ 竹内 洋 (2017). アメリカ大学の裏側:「世界最高水準」は危機にあるのか? 朝日新聞出版 pp.153

ボーモルのコスト病

 大学の授業料高騰の原因を説明するのに経済学者のウィリアム・ボーモルとウィリアム・ボーエンによる「ボーモルのコスト病」(Baumol’s Cost Disease)という理論がある。教育など,人と人との関わりが重要で専門知識の必要な職務は,製造業のように機械やオートメーションなどのテクノロジーで補えないから,生産性の割には人件費が他の職種に比べて高くなるという論理である。しかし大学はテクノロジーのかわりに非常勤講師の安い労働力で教育の生産性を保ちつつ,人件費総額が増えないようにしているのである。


 増えたのは教育に直接関係しない大学職員にかかる費用である。まず言えるのは,大学の運営に関わる管理職の増加が著しい。ここ35年間での管理職数の増加率は教員数の増加率の10倍にもなる。学長,プロボスト,学部長,学科長などは昔からある役職だが,近年,職務が細分化したことが原因である。



アキ・ロバーツ 竹内 洋 (2017). アメリカ大学の裏側:「世界最高水準」は危機にあるのか? 朝日新聞出版 pp.111


競争の激しさと屈折

 アメリカ社会は競争が激しいので,すべての人を蹴落とさないと成功できないというプレッシャーが常にある。しかしそれではただの”悪い人”になってしまい,自己嫌悪に苛まれることになる。だから絶対に自分の脅威にならない人には思いやりをかけるというわけだ。テニュア付教授はむしろTAの過労働などを気遣うが,アシスタント・プロフェッサーの,特に優秀な者に対しては酷使してもかまわないという極端な考えに陥ることもある。このような屈折した行為は,どこの社会にもみられるものとはいえ,競争社会の圧力とキリスト教的博愛倫理の板挟みになったアメリカ人にもっともあらわれやすいものである。しかし逆に考えると,優しく扱われているうちはまだ一人前と思われていないということでもある。



アキ・ロバーツ 竹内 洋 (2017). アメリカ大学の裏側:「世界最高水準」は危機にあるのか? 朝日新聞出版 pp.90


デッドウッド

 テニュアの制度がうまく機能するにはすべての大学教授が勤勉であるという前提がないと成り立たないが,終身雇用が保証されると向上心がなくなって怠けてしまうのも人間の常である。特に授業コマ数の少ない研究大学では研究に時間を割かなければ,半ば退職人生の優雅な生活が可能になる。世間の人が大学教授はストレスが少ないと思いこんでいるのはこのような教授だけが目につきやすくなるからだ。


 研究実績がテニュア取得後に止まってしまうと,プロフェッサーへの昇格はもちろん無理だから退職までアソシエイト・プロフェッサーのままということになってしまう。永久にプロフェッサーになる器ではないという意味が込められて「パーマネント・アソシエイト・プロフェッサー」とか「枯れ枝(デッドウッド)」と呼ばれる。もちろん陰口でだが。



アキ・ロバーツ 竹内 洋 (2017). アメリカ大学の裏側:「世界最高水準」は危機にあるのか? 朝日新聞出版 pp.85


大学の配偶者雇用制度

 別々の大学に就職して就寝しなくなったら不仲であるという思い込みがあるので,単身赴任は奇異の目でみられる。だからほとんどの場合,カップルのどちらかがテニュア教授になるという夢を諦めるしかない。このため,公募で受かった人の配偶者も一緒に雇う「配偶者雇用」を実施している大学もある。この場合,一緒についてくる配偶者は「ご相伴(にあずかる)配偶者」(Trailing Spouse)や「二番手雇用」と呼ばれる。アメリカらしく正式に結婚していないカップルにも適用され,同性愛者の結婚が法律で認められていなかった時代には,ゲイやレズビアンのカップルにも適用されていた。このため「パートナー雇用」と呼ばれることもある。


 大学によっては正式に配偶者雇用の手順が定まっているところもあるが,ほとんどの場合,個別の対応をする。まず公募で受かったほうが大学に打診し,配偶者の履歴書や業績一覧を提出するが,配偶者雇用が上手くいくかどうかには,いろいろな要因が絡んでくる。まず大学側が配偶者雇用を推奨していることと,もう一人雇えるだけの財政の余裕があることが条件になる。これらがクリアできると次に配偶者の業績や能力が吟味される。大学や学科によって違うが,正規の公募の最終審査に残るレベルが最低限の基準になることが多い。



アキ・ロバーツ 竹内 洋 (2017). アメリカ大学の裏側:「世界最高水準」は危機にあるのか? 朝日新聞出版 pp.70-71


非常勤講師の増加

 アメリカ大学教員協会(AAUP)のレポートによると,1975年から近年にかけて安い労働力である非常勤講師の数は4倍も増えた。テニュア付とテニュア・トラックの教授の数も大学の増設に従い多少増えてはいるが,非常勤講師の増加率とはくらべものにならない。1975年にはテニュア付かテニュア・トラックの教授の割合は大学教員の45%だったが,近年では25%以下に減っている。それに対して,非常勤講師の割合が40%にもなってしまった。2009年にはアメリカで最も多くの学生が在籍する州立の四年制大学での非常勤講師の割合は64%にも達している。



アキ・ロバーツ 竹内 洋 (2017). アメリカ大学の裏側:「世界最高水準」は危機にあるのか? 朝日新聞出版 pp.64-65


テニュア制度の必要性

 ひとつは高学歴のわりに大学教授の給料が安いことが理由だ。どの国でも高等教育機関が上手く機能するには大学に最も優秀な「ブライテスト・オブ・ザ・ブライト」(Brightest of the Bright)が残らなければならない。テニュアで終身雇用を約束するのは優秀な人材が高級に釣られて企業などに流れるのを防ぎ,大学に惹き付けておくための誘引なのである。


 しかしテニュア制度が作られた一番の目的は,アカデミック・フリーダム,すなわち学問の自由を守るためである。テニュアを持っている教授はすぐさま結果を出さなくても解雇される心配がないので,何年もかかる研究にじっくり取り組むことができる。物議をかもしかねない研究を気がねなくすることもできる。例えば地球温暖化は人為的なものであるという研究結果は,第45代大統領となったドナルド・トランプのような保守派や一部の企業にとっては排気ガス規制などになりかねないので嫌がられる。私の専門の犯罪学では銃と犯罪の関係はよく研究されるトピックであるが,銃の所持が犯罪を増やすという研究結果も,銃を奨励している保守派には面白くない。


 逆にリベラル派は社会行動が遺伝的な性質に影響されると仮定する研究を嫌う傾向にある。例えば父が犯罪者だとその子も犯罪を犯しやすいのは育った環境ではなく凶暴な遺伝子を受け継いだためとするような研究である。世の中で常識と思われていることを覆す研究結果も世間から大ブーイングを受けることが多い。


 テニュア制度がなければ,このような研究をした時に,政府や世論からの圧力で解雇となる可能性もある。しかしテニュアは,教授をそのような心配から解放し,研究に没頭することを可能にする。結果的に社会全体の繁栄に不可欠とされる知識や科学の発展を促すことになる。テニュアは研究だけでなく大学での教育も活性化できる。テニュアがあれば学生からの評価を気にせずに難問に取り組んだり,ユニークな授業方法を試したりできる。センシティブな社会問題だからと遠慮することなく,授業で議論することもできる。



アキ・ロバーツ 竹内 洋 (2017). アメリカ大学の裏側:「世界最高水準」は危機にあるのか? 朝日新聞出版 pp.58-59


教育の場にリハビリを

 イジメをする側の心理を肯定する気は絶対にないし,これがいじめの主因であると断定するのも大きな間違いだが,身体能力でもコミュニケーションスキルでも,発達がアンバランスな子どもが集団の中から排斥されがちというのは,認めざるを得ない事実だ。そんな子ども時代を引きずって成人後も社会にうまくなじめないという例もまた,それこそ掃いて捨てるほどあるだろう。


 だが前述したように,先天的な障害でなくとも,子どもの発達は環境要因によって大きくバラツキができるものなのだ。ならばこそ,不登校児童に,保健室通学児童に,虐待やネグレクト環境下で発達の遅れてしまった子どもに,リハビリスタッフの専門性はとてつもないポテンシャルを秘めているように思えてならない。



鈴木大介 (2016). 脳が壊れた 新潮社 pp.78


教師役

 教育における「権威」が,上からの押しつけだとか,学習者の自発性を損ねるなどの理由で忌み嫌われ,教育の世界から排除されねばならないもののように扱われるようになって久しいですが,それが知識の公共性という性質を忘れ,知識を教えることへの公的責任の放棄を意味することにどうして気づかないのでしょう。そのときの権威の主体は,国家でも共同体でもありません。そういう抽象的なエージェントではなく,生徒にとっての教師,子どもにとっての親,教わる人に対する教える人が権威の主体です。そのときの親,教師役はすでにオフィシャルな存在なのです。



安藤寿康 (2016). 日本人の9割が知らない遺伝の真実 SBクリエイティブ pp.194-195


学校と自動車学校

 現在の日本では小学校から高校まで,基本的にすべて学年制で運営されていますが,能力には大きな遺伝的差異があるのですから,これほどナンセンスな制度もないといっていいほどです。それがまかり通っているのは,行動遺伝学の知見を許容できていないからでしょう。教育の目的の1つは知識を習得させることにあるはずですが,残念ながら我が国の学校教育制度は,そのような習得主義に立っていません。だから入学や卒業が形式的,儀式的なものになり,卒業できれば,あるいは入学できればそれで目的は達したことになっています。しかしひとたび習得主義や知的能力に大きな個人差があるのはみなさんもご存知でしょう。まったく能力の違う人たちに,同じ内容を教えたところで知識が定着するはずがありません。


 例えば,これが自動車学校だったら,どうでしょう?知識や技能を学んでいない生徒を,形式的に進級,卒用させたら交通事故の件数は間違いなく跳ね上がります。1つひとつの知識をちゃんと覚えたか,技能が身についているかを生徒ごとに確かめ,できていない生徒がいたらできるまで指導する。知識を教えるとはそういうことです。


 いまの学校で教えている知識は,自動車の運転と同じくらい,いやそれよりも重要ではないのでしょうか?



安藤寿康 (2016). 日本人の9割が知らない遺伝の真実 SBクリエイティブ pp.189-190


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