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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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知識の共通性

 草創期の大学が中世都市という母胎から生まれたものであるならば,学生と教師の協同組合として出発した大学がヨーロッパ全土に胚胎していった最大の存在は,中世的な意味での「自由な知識人」だった。この「自由」は,移動の自由と思考の自由という二重の意味での自由であった。まず,移動の自由についてみるならば,大学教育の全ヨーロッパ的画一性・共通性が,教師や学生の大学から大学への自由な移動を保証していた。どの地方の大学でも,使用言語はすべてラテン語,カリキュラムにも共通性が高かったから,学生も教師も異なる大学に移っても,それまで学んだことや身につけた教授法を生かしていくことができた。もっとも,大学と自由な知識人のどちらがどちらに先行するかを特定するのは不可能である。両者は鶏と卵の関係で,都市から都市へと移動する知識人たちこそが,大学を可能にしてもいた。
吉見俊哉 (2011). 大学とは何か 岩波書店 pp. 36-37

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ユニバーシティとカレッジ

 さて,「ユニバーシティ」が,もとは学生の組合を指す言葉であったのに対し,「カレッジ(コレギウム)」は教師の組合を指す言葉として出発したようだ。教師たちは,団体化した学生に対して自分たちの権利を守るために,自らも団体化を進めた。学生たちの「組合=ユニバーシティ」の最大の担保が聴講料であったとするなら,教師たちの「組合=カレッジ」の最大の担保は学位授与権であった。こればかりは知識を糧とする教師の職能と切り離され得ず,すでに中世の大学でも,教師団は「博士(ドクトル)」「修士(マギステル)」「バカラリウス」といった学位を授与していた。学位としては最も低い「バカラリウス」は,教授補佐の免許のようなもので,助手資格に相当する。「ドクトル」と「マギステル」についていうなら,初期には両者は学位の階層というよりも,もともと「ドクトル」は法学が中心であったボローニャ大学の学位,「マギステル」は神学や自由学芸を中心とするパリ大学の学位を意味していたらしい。法学ドクトルは法律家の,学芸マギステルは自由学芸教師の専門資格を保証していた。
吉見俊哉 (2011). 大学とは何か 岩波書店 pp. 30-31

海外の大学概念の移植

 近代日本の大学は,こうして欧米各地に広がった大学概念を移植することにより誕生したものである。明治政府は,まるで品目ごとに流行最先端のブランド品を買い込む慣れない消費者のように,医学と理学はドイツ,法学はフランス,工学はスコットランド,農学はアメリカ,文学はイングランドといった仕方で当時は最先端と考えられていた国から外国人教師を招き,またそこに留学生を送り,近代日本の学知の基礎を築いた。文字通りそれは「移植」だったのだが,この移植された知が,森有礼の構想により天皇のまなざしの下で結びつき,「帝国大学」という,中世の大学ともフンボルト型大学とも異なる近代日本的な類型を生み出していく。
吉見俊哉 (2011). 大学とは何か 岩波書店 pp. 15

教育を支えてきたのは家計

 国から最低の財政的支援しかなされず,かといって米国のような寄付税制の仕組みも育たないなか,日本で戦後長らくそれなりの教育の質の維持と大学の拡大が続いてきたのは,多くの日本人が,国家が支援しない分を家計で負担し,それによって教育を下支えしてきたからである。「寺子屋精神が日本の知能を支えてきた」と言えば聞こえはいいが,1つ1つの家計が支えてきたのは「わが子の学歴獲得」で,公共的な学びの価値ではない。その結果,この国で異様なまでに発展したのは塾産業とマンモス私立大学だった。
吉見俊哉 (2011). 大学とは何か 岩波書店 pp. 4-5

若者を引きつける言葉

 「夢のある企業」「活躍できる企業」「グローバル企業」……言葉はさまざまだが,こうした言葉は若者を惹きつけてやまない。むしろ,若者がこうした言葉に胸が踊らず,何の興味をも持たないとしたら,それはそれで深刻な問題だともいえるかもしれない。たとえ「疑わしい」企業であったとしても,「クリエイティブさ」や「成長の見込み」といった殺し文句は,自分を納得させる材料にもなる。



今野晴貴 (2015). ブラック企業2:「虐待型管理」の真相 文藝春秋 pp. 125


信頼関係を逆手に取る

 就職活動をする学生は「今年中に決めなければならない」という強いプレッシャーの中におかれている。それは,高校生も大学生も変わるところがない。一方,日本社会では昔から契約書が作成されないなどある種の「信頼関係」で会社選びはなりたってきた。そうした中で,「信頼」を逆手に取る企業が現れてしまったのだ。「信頼」をベースにして労働市場が成り立ってしまっているために,若者には会社を比べて選んだり,よい条件を求めて交渉することなど全くできない。
 契約書の中身があいまいでよくわからなくても,あとから意味がよくわからない説明をされたとしても,「どうしていいかわからない」というのがほとんどの若者の実感のはずだ。こうしたことから「わからないで入った」若者が後を絶たない。
今野晴貴 (2015). ブラック企業2:「虐待型管理」の真相 文藝春秋 pp. 75

ワノフスキー

 ワノフスキーはレーニンらと行動をともにしていたロシアの革命家です。運動から離脱して1919年,日本に亡命,大正時代から戦中期まで早稲田大学文学部でロシア語やロシア文学を教えていました。古事記神話を異様な情熱をもって研究し,日本の神話のいちばん深い所には火山の記憶があるという構想によって書かれた作品が『火山と太陽』です。神道関係者など一部で評判になったようですが,その後長い間,注目されることはありませんでした。
蒲池明弘 (2017). 火山で読み解く古事記の謎 文藝春秋 pp. 35

3年に一度のサバティカル

 プリンストンで驚いたのは,3年に一度の頻度でサバティカルが取れる制度が機能していることだった。3年教えれば1学期間は有給のサバティカルをとる権利が生じ,無給でよければ1年間の権利を手にできる。研究費を確保すれば3年ごとに研究に専念する時間を確保できるわけだ。若手の場合はそれ以上の頻度で優遇される場合もあるという。何冊も本を出している教授がいるのは,まさにサバティカルが頻繁にとれるという制度のおかげなのかもしれない。



佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 165


入試業務の有無

 日本と米国の教員たちの研究環境を比べるうえで,入試業務の有無は大きな違いである。私は東大の教員になってはじめて,センター試験の監督が大学教員によって担われていることを知った。気の毒なことに,定年を控えた大先生も駆り出されることが多い。朝8時に試験会場に集合し,秒単位で時計を合わせ,監督リボンを胸につけて,お茶をすする。1月末の大学校舎はどこも寒い。「どうか怪しい動きをする受験生がいませんように」「機材などが正常に作動しますように」と祈りつつ教室に向かう。


 そこから丸1日もしくは2日間,もくもくと監督業務をこなし,「答案が足りない」などトラブルで足止めにならないことだけを祈って解散の声を待つ。


 監督業務は大学教授でないとできない仕事ではないし,入試にある種の威厳が必要であるとしても,受験生の大部分は監督が教員であることを知りもしない。出題や採点の担当になればもっと拘束される。


 入試以外でも,たとえば留学生や訪問研究員を海外から受け入れる際など,大学教員にはさまざまな業務がある。図書館にどのような雑誌を入れるとか,どの雑誌を購読中止にするか。各種の競争資金への応募書類の作成,学会投稿論文の査読,学生の論文審査や推薦状の作成など,案外バカにならない作業が累積して研究にあてるべき時間を奪っていく。



佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 156-157


教育よりも研究

 学部教育を重視するプリンストンは,まだよいほうかもしれない。2005年に実施された米国トップ校における学部生の満足度調査では,ハーバードが何と27位の低位にあることが判明した。その大きな理由が,教員が直接学部生を教える機会が少なく,授業のほとんどが大学院生や博士研究員(特にポストドクターと呼ばれる1~2年間の契約研究員)に「外注」されているから,というものであった。教育よりも研究を重視するというのは,トップ校にみられる一般的な傾向である。


 もちろん,教員と学生の距離は学部の規模にも大きく影響されるだろう。学生に人気のない学部・専攻では,規模の小ささゆえに教員との距離も近づくに違いない。だが,私がプリンストンで所屬する公共政策学部では,学生から「教員が会ってくれない」「論文にコメントをもらえない」といった不満がよく聞かれた。経済学部や公共政策学部の教員は,大学以外の仕事,たとえば政府機関の委員やコンサルタントを務める機会が多い。その分,学生と接触する機会も減るということなのだろう。



佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 111-112


二層目の学生たち

 私の経験からいうと,あからさまに成績へのこだわりを露出し,教員に働きかけようとするのは,最優秀グループの学生ではない。成績至上主義に染まってしまうのは,その下に位置する二層目の学生たちだ。そもそも,A(優)をとる方法を教員に聞かなくてはいけないという時点で,自分で考えることを放棄してしまっている。こういった学生たちは自分の学力にある種のコンプレックスを感じているのだろう。



佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 104


できる学生,できない学生

 米国トップ校で「できる」学生は,どこか余裕があって,高性能のポルシェが時速40キロくらいでゆっくり走っているような感じだ。好奇心が強く,鋭い問いを繰り出して,与えられた課題であっても自分の問題として引き受ける馬力がある。一方,「できない」学生は,全体としてエネルギー量が少なく,プリセプトでもほとんど発言しない。課題も,どうにかこなしてはくるものの,基本的な作文能力を欠いている,あるいは課題の意味を十分につかみ取っていない場合が多い。


 東大は学力のみで選考されるため,基礎学力の面では粒がそろっている。私の教えてみた実感からしても,東大生の場合,勉強へのやる気はかなりムラがあるが,基礎学力という点で底堅い印象があるし,与えられた課題をこなす際に減点が少ないという印象である。



佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 88


人と違うことに価値を置くのに似てくる

 受験競争が激化すれば,大学側も異才をとる余裕がなくなり,オールラウンドな学生の割合が増える。勉強もでき,スポーツもでき,リーダーシップがあって,誰からも好かれるような温厚な人物。受験生も,必要なチェック項目に漏れがないように,全力でオールラウンドを目指す。「自分も人と同じ」という空気を作ることで社会を安定させてきた日本とは異なり,米国では「人とは違う」ことを重要な価値として推し進めてきた。そんな米国にあって「みんな似ている」というのは,米国のエリート教育にとって皮肉であるだけでなく,致命的ではないかとさえ思う。外見では実に多様な人を集めることに成功してきた米国のエリート大学生の頭の中は,外見ほど多様ではないという印象を私はもつようになってきている。



佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 68-69


親の所得

 2017年1月17日のニューヨーク・タイムズ紙が報じたところによれば,プリンストンの場合,所得階層で最も多いのが18万6000ドル(約2046万円)で,しかも,72%が所得上位20%の出身者である。東大も上位2割程度は年収1250万円以上の富裕層の出身であるが,プリンストンの状況に比べれば圧倒的に「庶民的」な大学になっていることがわかる。



佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 64


成績で差がつかないから

 9割以上の受験生が不合格になる米国トップ校の受験争いでは,テストや内申点の点数ではほとんど差がつかない。そこで決め手になるのがエッセイと推薦状である。エッセイで強調しなくてはいけないのが「卓越性」である。特に教室の外でどのような卓越を表現してきたか,すなわち社会貢献という側面での卓越はトップ校が「人格(character)」という評価軸で求める一大要件である。



佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 45


合格の総ざらい

 まず米国トップ校への入学は決してたやすくはない。米国トップ項の入学審査で高校時代の好成績が求められるのは,応募者に対する合格者の比率が極端に低いからである。ハーバードの場合,2017年の合格率は5.2%,プリンストンは6.1%であった。プリンストンの場合,3万通を超える応募に対して,合格通知を手にできるのは,わずか1800人。出願者の95%は不合格になるのである。しかも,合格者の中で実際に入学するのは7割程度である。残りの3割は,他の有力大学に逃げていく。


 逃げる理由は,親の意見や希望する分野の充実度など,いろいろある。私の友人の息子は,スタンフォードやハーバードなど,出願したすべての一流大学に合格した。だがジャーナリズムへの就職を希望していた彼は,学生新運が充実しているという理由で,イェールを選んだ。同じ「トップ校」の中にこうした選択肢があるのは米国の強みであるが,他方では一部の優秀な学生が複数の大学の合格枠を総ざらいしているという現実もある。



佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 31


学力のみ

 米国トップ校に入るには,運動や芸術も含めて,あれこれまんべんなくできなくてはならないが,東大は受験科目のみ突破できるだけの学力をもっていれば合格できる。その分,面白く,片寄った学生が多く入っているというのが私の印象だ。自分の興味ある世界については,なりふり構わずとことん追究する変人タイプである。



佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 28


成績が良いのは前提

 ハーバードを含む米国トップ校に合格するためには,高校時代の成績が卓越していなくてはならない。たとえば2017年にハーバード大学に合格した新入生の場合,A(優)に4点,B(良)に3点,C(可)に2点と加算して計算される高校時代の成績の平均点(GPA)が4点を超えている。後で触れるAP科目(Advanced Placement Course: 大学への単位として認められるレベルの特進生用科目)など,難度の高い科目を好成績で修了した場合には,通常のAよりさらに加点されるようになっているからだ。つまり,オールA以上が「平均」なのである。


 このようにトップ校に合格するには高校時代の成績がまんべんなく優秀でなくてはならない。よほど田舎の小規模校で,特別な才能に恵まれていない限り,教科書を一度も開かずにオールAをとることは至難の業であろう。



佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 26-27


自分で成長する力

 とはいえ,この本でも直接お話ししておきたいことがあります。それは,子どもは本来,みずから正しい方向に伸びていく力があるということです。自己成就力といってもよいでしょう。子どもが間違った行動に出ている場合は,この力が一時的に発揮できないように覆いがかぶさっているような状況です。そのような状況で,子どもの手をとり「こっちにおいで」と引っ張るような教育はやめましょう。一時的に行動の修正ができても,子どもは何も変わりません。子どもみずからが考え,正しい方向に歩む力が出るように働きかけをします。


 そのためには,子どもの話をよく聞くという傾聴や,子どもの正しい動きのかけらが出るのを辛抱強く待ってそれを認めていく姿勢が大切です。それに,子どもとよく話をして先生も子どもも納得できる決定をすることも大切になります。自律的自尊感情が欠如し,攻撃的になったり依存・消極的になっても,小学生はまだまだ軌道修正する力があり,学校の先生はその手助けをしたいものです。



山崎勝之 (2017). 自尊感情革命:なぜ,学校や社会は「自尊感情」がそんなに好きなのか? 福村出版 pp. 134


金儲けか社会貢献か

 ここで意地の悪い言い方をしよう。神童は頭のよさを金儲けに使えるようにするため,ビジネススクールで経営に関する知識,技術,ネットワークを身につける。成功者は億万長者の道を歩む。頭のよさは個人が幸福を追究するための利益獲得に向けられる。豪邸に住み,リゾート地にいくつも別荘を持ち,夜な夜な美女と遊び回る。ビジネススクールはそれに手を貸すことになる。そもそもMBAはそういうものだと言ってしまえばそれまでだが,大学の役割を考えると腑に落ちない。大学には人材育成によって社会を発展させなければならないという責務がある。個人の利益追求ばかりを教えていいのだろうか。頭のよさをすこしでも社会貢献に向けさせるような教育をすることこそ,大学の役割であり,それでこそきわめて高い公共性を持ち得ると,わたしは思う。



小林哲夫 (2017). 神童は大人になってどうなったのか 太田出版 pp. 295-296


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