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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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警戒感

ただ,国立大学だった時代でも,「同じ釜の飯」といっても,教職員の中でも教官と技官や事務官とではかなり意味合いが違った。教官の場合,そもそも大学の自治という意識が強いので,文部省はその自治を侵したり圧迫したりするとことという警戒感が,特に文系学部には濃厚に漂っていた。また,大学には教官,技官,事務官の序列で階級があると言われるほどで,教官は一般的に気位が高く,学内で技官や事務官を見下す傾向があった。わたしの父も,わたしが文部省に入るまではそうした言動がしょっちゅうだった。

寺脇 研 (2013). 文部科学省:「三流官庁」の知られざる素顔 中央公論新社 pp.59
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お上の認可

しかし一般論としては,文部科学省という組織やそこで働く職員に好意を持っている私学の職員や教員は,まずいない。彼らは,文部科学省にお世話になっている意識もなければ,自分たちの「総本山」という意識もない。いや,それは当然だ。文部科学省のほうも,実際に一般論として私学の世話をしているわけではなく,「総本山」などという大それた意識も持ってはいない。設置認可や,学校法人が適正な活動をしているかどうかの調査など,どちらかといえば「お上の認可」とか監視と受け取られても仕方ないようなことをしているのだから,仲間意識や協働意識の方向へ行くはずもない。

寺脇 研 (2013). 文部科学省:「三流官庁」の知られざる素顔 中央公論新社 pp.55-56

私学助成

経営の上で経常的経費に対し私立学校振興助成法に基づく国からの私学助成が行なわれてはいるが,法律制定時に経費の2分の1までを補助できると規定し,それが目標とされたにもかかわらず,度重なる予算縮減で現在は10%台と,はるかに及ばぬ水準となっている。これでは,私学が文部科学省に親近感を持つわけにはいくまい。しかもこの助成業務は文部科学省が直接行うのではなく,特殊法人である日本私立学校振興・共済事業団によるため,私学関係者の意識はそちらへ向いてしまう。

寺脇 研 (2013). 文部科学省:「三流官庁」の知られざる素顔 中央公論新社 pp.54

私大との交流

文部科学省と大学との関係は,小中高等学校とはかなり違ったものになる。まず,大学・短大の中で学校数,学生数ともに7割以上と最も大きな部分を占める私学とは,ほとんど日常的接点がない。個人的な知り合いででもなければ,私立大学の理事長,理事といった経営陣にも,学長以下の教授陣にも,会う場面は乏しい。

寺脇 研 (2013). 文部科学省:「三流官庁」の知られざる素顔 中央公論新社 pp.53

ロボコン

それまでは着実に事業を継続するのが仕事の本流だったから,業務の検討は何かというと「前例は?」から始まった。いわゆる「前例主義」である。それが政策官庁を自認するならば,前例のない新しいものにも挑まなければならない。裏返せば過去の例に囚われず自由な発想ができるということだ。88年に第1回大会が開かれた全国高等専門学校ロボットコンテスト(高専ロボコン)は,そのはしりと言っていい。ロボコンはNHKテレビの人気番組として定着し,長澤まさみ主演の映画『ロボコン』(03年,古厩智之監督)にもなった。
 お堅い高等教育行政からロボコンのアイデアが出たように,従来の枠を超えた新しい取り組みが次々と現れる。文化,スポーツの振興に民間資金を導入した90年創設の芸術文化振興基金,スポーツ振興基金,01年発売開始のサッカーくじ(toto)などが「ヒット商品」に挙げられよう。

寺脇 研 (2013). 文部科学省:「三流官庁」の知られざる素顔 中央公論新社 pp.35

教育内容の減少

小中学校では,教えこむ量を拡大し続けた結果の「詰め込み」授業についていけない「落ちこぼれ」の子どもが急増していることを受け,80年度小学校,81年度中学校で実施された新学習指導要領では,初めて教育内容の量を減らし,「よとりある充実した学校生活」をめざすこととした。ところが,「落ちこぼれ」こそ減少したものの,80年代の中学校は荒れに荒れ,校内暴力,いじめ自殺などの深刻な問題が噴き出すことになる。

寺脇 研 (2013). 文部科学省:「三流官庁」の知られざる素顔 中央公論新社 pp.29

大学拡充が裏目

70年代半ばから80年代は,戦後の文部省が単に量的拡大を図る事業メンテナンス官庁からふたたび政策官庁をめざす時期だったと言っていい。先に動きを見せたのは高等教育サイドだった。60年代後半に燃え上がった大学紛争の教訓を生かし,「開かれた大学」「柔軟な教育研究組織」「新しい大学の仕組み」を基本理念とする新構想大学として筑波大学(東京教育大学を73年に改組)を開設する。76年にはそれまでの各種学校のうち専門性の高いものを「専修学校」として位置づけた。さらに79年には放送大学構想を打ち出す。
 また,高等教育の整備を計画的に行うために「高等教育計画」を策定する。76年には,76年度から80年度までの高等教育整備の青写真である「昭和50年代前期高等教育計画」が発表された。量的拡大だけでなく質的充実をも意識した高等教育政策の立案が試みられたのである。当時の省内,特に大学局(現・高等教育局)の空気には,これで政策官庁をめざすんだ,との意気込み,気負いが感じられた。
 しかし皮肉なことに,「高等教育計画」が出たその年,それまで右肩上がりで伸びていた大学進学率が頭打ちになる。85年に進学率50%になることを前提に計画は立てられていたにもかかわらず,その年から38%前後で止まり続け,上昇に転ずるのはなんと,分母である18歳人口が急減期に入る90年代になってからであった。上昇するはずの分は,大学でなく専修学校にほうに流れた。

寺脇 研 (2013). 文部科学省:「三流官庁」の知られざる素顔 中央公論新社 pp.27-28

毎日書こう

たとえば大学教授にとっては,終身在職権を得ることが大きなハードルでもあり区切りでもある。ほとんどの大学で,それは独創的で質の高い研究を発表しているかどうかで判断される。ボブ・ボイスという研究者が,まだキャリアの浅い若い教授たちが執筆するときのやり方を調べ,その後,どのようにキャリアを積むかを追跡した。特に上司もいない,他人からスケジュールを強制されない,他人に指示されることがない仕事なので,当然ながら若い教授たちの仕事の進め方はさまざまに違っていた。資料をじゅうぶん集めてから,1日中,あるいは眠る時間を惜しみ,集中して1週間か2週間で一気に論文を書くタイプも入れば,毎日こつこつ1ページか2ページ書き進めていくタイプもいた。その中間のタイプもいた。数年後,その教授たちがどうなったか追跡調査をしたところ,彼らの命運ははっきり分かれていた。1日1ページ派は順調で,だいたい終身在職権を手に入れていた。一方,一気に書き上げる派はそこまで順調ではなく,研究者としてのキャリアを終わらせた人も多かった。この結果から考えると,若い作家や出世を目指す教授たちへは,毎日書くことをお勧めする。自己コントロール能力を発揮して毎日の習慣にしてしまえば,長い目で見たとき,無理をせずに多くの仕事ができるようになる。

ロイ・バウマイスター&ジョン・ティアニー 渡会圭子(訳) (2013). WILLPOWER 意志力の科学 インターシフト pp.202-203
(Baumeister, R. F., & Tierney, J. (2011). Willpower: Rediscovering the Greatest Human Strength. London: Penguin Books.)

どういう人材

さて,研究者,特に大学教員は怠けようと思えばどれだけでも怠けられますから,勉強をするな,と言っても,論文を読むなと言っても陰に隠れて猛勉強したり暇を見つけては文献を読んだりするような人材を登用するべきです。自分に尽くしてくれる人材を後継に据えたくなる気持ちは抑えて,日本と世界の学術をリードしている人物を抜擢すべきなのです。自分に似た研究分野で自分と同じように研究するデコイ(複製)のような後継者を残したいという誘惑にはけっして負けないようにせねばなりません。

沖 大幹 (2014). 東大教授 新潮社 pp.180

発想の定番

とはいえ,新しいアイデアを発送する定番もいくつかあります。例えば
 ●既存の研究同士を結びつける
 ●前提を疑う
 ●他分野の理論や経験則から類推する
 といったところでしょうか。既存の研究成果や方法,知識をいくつか結び付けて新しい研究にするのは古典ともいえる定石です。シャルトルのベルナールが「巨人の肩の上に立つ」と言ったとされるように,研究という行為そのものが先達の業績を利用して築き上げるものですから,どの巨人の肩(研究成果)とどの巨人の肩(研究成果)の上に両足で立つ(結びつける)と,より高みを目指せるのか,という風に考えるのが基本なのです。また,類推を働かせるためにも,様々な法則や定理,手法などを数多く知っていて,必要に応じてそれらを的確に組み合わせて使える智慧が有用です。

沖 大幹 (2014). 東大教授 新潮社 pp.73

勉強と研究

さて,勉強と研究とは何が違うのでしょうか。
 先人達によって考案され,十分吟味しつくされた定説を体系立てて学ぶのが勉強です。真面目に勉強していると,あたかも世の基本原理はすべてわかってしまっていて,後はその応用に過ぎない,などと早合点してしまう聡明な生徒さんもたくさんいるでしょう。しかし,そうではなくて,わかっている知識をわかるように教えるのが教育なのです。
 これに対し,研究では,答えがあるかどうかわからない課題に取り組むことになります。やれば答えが出るとわかっている課題の解決は作業であって研究ではありません。
 そもそも,とくべき課題が何であるかをまず見定める必要があり,たいていの場合,課題を決める時点で研究成果が面白いかどうかの大半が決まります。さらに自分自身の能力や研究環境の限界などを考慮しつつ,大きな課題を取り扱いやすく解けそうな小問題に分解し,ひとつひとつ段階を踏んで取り組んでいくのが研究の真髄です。

沖 大幹 (2014). 東大教授 新潮社 pp.59-60

近親交配

自校出身者を教員として採用するのはインブリーディング(近親交配)と揶揄され,アメリカでは制度的に厳しく制限されているという話も聞きます。確かに,目覚しい業績をあげている一流のアメリカ人の研究者で,いつまでもテニュアポジションについていない知り合いが複数います。テニュアポジションとは任期の定めなく身分が保証された教員職で,そうでない場合には常に研究費を確保して自分の職と給与を維持せねばならないのです。聞いてみると,今いる大学の出身なのでテニュアトラック(テニュアポジションにふさわしいかどうかの施行期間)に挑戦させてもらえなかった,とのことでした。

沖 大幹 (2014). 東大教授 新潮社 pp.49-50

裁量労働

国立大学法人の教員は基本的に裁量労働です。裁量労働というのは,実際に職場にいた時間にかかわらず,あらかじめ決められた時間だけ毎週働いているとみなす,という制度です。デザイナーやコピーライター等,高い創造性が求められ,勤務時間管理はなじまないけれど会社から給与を受け取っている,といった職種が当初は想定されていましたが,現在では大学の教授研究業務も適用職種に入っています。国立大学が法人化される以前,国立大学の教員が全員公務員だった頃にも残業に伴う超過勤務手当はつかず,その代り就業時間内の副業も認められていたのですが,法人化に伴って公務員ではなくなり,裁量労働制に移行し,勤務時間管理の束縛から晴れて公式に自由になったのです。従って,講義や重要な学内会議をさぼったりしない限りは,朝何時に職場へ行っても構いませんし,特段の用事がない日は自宅勤務でも誰にも文句は言われません。
 そんな勤務時間の管理だと,誰も真面目に仕事をしないのではないか,と思われるかもしれませんが,みんな学術研究で一旗揚げたくて東大教授になったのです。教育研究をするな,と仮に組織上の上司から言われたとしても,こっそり隠れて教育研究に励むような人しか結果として採用されていないはずなのです。もちろん,教育研究で頑張り続けようとする気力が挫けてしまうことも時としてあります。それでも,高いプライドが維持されている間は馬鹿にされないように頑張るのです。

沖 大幹 (2014). 東大教授 新潮社 pp.36-37

留学体験の意義

外国語でも教育を受けられるごく少数のエリートが大学で西洋の学問を吸収していた文明開化の後,輸入した学問を翻訳して比較的多数の学生に日本語で流布伝達する教育の時代が長く続きました。しかし,昨今の様に東大の研究が国際的に通用するレベルになればその成果は当然英語で発信されますし,研究で参照する文献資料も英語が圧倒的に多くなっています。留学生が増えると研究室での議論も英語で交わされるようになるため,教育でもそのまま英語を使う方が自然だ,という時代が再び訪れつつあります。
 一方で,海外に行かないと先端的な研究ができない,という内外格差もほぼなくなりました。東大の教員が海外渡航するのは,集中して研究に没頭したり本や論文を執筆したりするサバティカル(日常業務から解放された数ヶ月から1年程度の自由な期間)的な時間の確保がいまや主な理由です。国外に在留する大学生の数がOECD諸国の中ではアメリカについで日本は低い,という実体が内向きだと批判されていますが,勉強のためにわざわざ国外へ行く必要はないからだとも考えられます。日本で学べない教育を受けるための留学というよりは,留学体験自体に現在では意義があるのでしょう。

沖 大幹 (2014). 東大教授 新潮社 pp.26

文章の混ぜ物

アークムの例は,科学においても料理においても他人の著書の剽窃が蔓延していることを示している。18世紀の最も有名な料理書を書いたハンナ・グラースは,他人の著書から263のレシピを盗んだが,彼女に対する評価は,料理歴史家のあいだでは今も高い。アークムはそれほど運がよくはなかった。他人の考えを自分の考えに挿入するというのは一種の混ぜ物工作である。アークムは食品の混ぜ物を憎みはしたが,自分自身,文章の混ぜ物工作をしたのだ。おそらくそれゆえに,彼は混ぜ物をする者の心理が非常によくわかったのだろう。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.62

正反対の親

ときおり,こういうのとは正反対の親にぬつかることもある。彼らは,自分の子どもになんの興味も示さない。こういう親は,子どもべったりの親よりも,ずっとたちが悪い。

ロアルド・ダール 宮下嶺夫(訳) (2005). マチルダは小さな大天才 評論社 pp.12

世間の常

世の中の母親や父親には,ひとつ,おかしなところがある。
 自分たちの子どもが,まったくどうしようもなく不愉快な子だったとしても,それでも彼らは,その子を,とてもいい子だと思っているのだ。
 親によっては,もっとひどいのがいる。子どもかわいさのあまり,自分の子が天才だと思いこんでしまうのだ。
 そう,こんなことは,それほどこまったことじゃない。これが世間の常というものだ。ただ,親たちが,そのどうしようもない子がどんなに優秀か,とくとくとして話しはじめると,もういけない。聞かされるほうは,こうさけばざるをえない。「金だらいをもってきてくれ!吐き気がするよーっ!」と。

ロアルド・ダール 宮下嶺夫(訳) (2005). マチルダは小さな大天才 評論社 pp.9-10

どこのグループに所属するか

二週間ほど前の授業で,「創作ダンスはグループで練習して発表してもらうので,とにかくクラスで三つの班を作ってください,はいはじめ」と先生が手を叩いたとき,一瞬で空気が張り詰め,全女子が頭をフル回転させたのがわかった。三つの班ってことは六人ずつ,私のグループは四人だから,あとふたりどっかから引っ張ってくるとして,と,梨紗が考えているのが丸わかりだ。くだらないかもしれないけど,女子にとってグループは世界だ。目立つグループに入れば,目立つ男子と仲良くなれるし,様々な場面でみじめな思いをしなくてすむ。だって,目立たないグループの創作ダンスなんて,見ている方までもみじめな思いになる。どこのグループに属しているかで,自分の立ち位置が決まるのだ。

朝井リョウ (2012). 桐島、部活やめるってよ 集英社 No.1541 (Kindle)

目立たない人は全部だめ

目立つ人は目立つ人と仲良くなり,目立たない人は目立たない人と仲良くなる。目立つ人は同じ制服姿でもかっこよく着られるし,髪の毛だって凝っていいし,染めていいし,大きな声で話していいし笑っていいし行事で騒いでいい。目立たない人は,全部だめだ。この判断だけは誰も間違わない。どれだけテストで間違いを連発するような馬鹿でも,この選択は誤らない。

朝井リョウ (2012). 桐島、部活やめるってよ 集英社 No.868 (Kindle)

意見の一致

高校って,生徒がランク付けされる。なぜか,それは全員の意見が一致する。英語とか国語ではわけわかんない答えを連発するヤツでも,ランク付けだけは間違わない。大きく分けると目立つ人と目立たない人。運動部と文化部。

朝井リョウ (2012). 桐島、部活やめるってよ 集英社 No.857 (Kindle)

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