I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「青年心理学」の記事一覧

思春期の自己中心性

 彼らがもっぱら自分に関心を向け,自分の考えや感情や体験が個性的で,自分が現実よりはるかに重要だと思いこむのはごくふつうのことだ。つねに想像上の観客の前で演技をしているようなもので,思春期には他者の(とくに自分にたいする)考えを推測する傾向が強くなり,その自己中心性ゆえに自分が本当だと思うことが現実だと思いこむ。
 青春期の自己中心性と演繹的推理は揮発性の混合物をつくり出し,全能感と誇大感の匂いの漂う二種類の幻想的な考えを生む。ひとつは,他者には危険でも自分はその危険を免れているという無敵神話,もうひとつは,自分が個性的で神秘的ですらあるという幻想の個人神話だ。

サンディ・ホチキス 江口泰子(訳) (2009). 結局,自分のことしか考えない人たち:自己愛人間とどうつきあえばいいのか 草思社 pp.119
(Hotchkiss, S. (2002). Why is it always about you? New York: Free Press.)

スター願望

 自身にはすでに高い能力が備わっていて,自分が望むものは得られるはずだ,という強い確信。そして,そこで成果を出していけるはずだ,という強烈な自信。「スター願望」とでも形容すべきこの思い込み。自らの努力なしに,すでに賞賛されることが予定されているかのようだ。
 しかし,スター願望は,往々にして打ち砕かれる。自身の希望が叶う確率は低く,また,希望が叶ったとしても,自信のイメージしているものとの乖離は大きい。
 こういう人は昔にもいた。程度の差はあっても,こうした「ワガママ」をいう人はいた。そして,自信の希望が脆くも崩れ去ったり,希望通りであっても想定していたイメージではなかったり,つまり現実に直面し,リアリティ・ショックを受けながらも,それを受け入れ,現実に適応していった。
 ところが。今の新人・若手は,適応できないのだ。現実が受け入れられない。
 目の前にある仕事にきちんと向き合えない。本気になって取り組めない。必然的に,成果は上がらない。その時に,彼らが決まっていうセリフがある。
 「ここじゃなかったら,もっといい仕事ができるはずです!!」
 悪いのは自分ではない。悪いのは意に染まぬ仕事につけた会社である,自信の適性や能力が分かっていない上司や先輩である……彼らの頭の中にあるのは,こういう思考回路だ。そう,明確な他罰意識に支配されているのだ。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.29-30

考えを改めるのは困難

 一般に,こう言われるかもしれない。青年たちの社会的な遊びに関して,子供時代の遊びの本性について,かつて抱いたことのある偏見と類似した偏見は,そう容易に克服できるものではない,と。われわれはこのような行動を,無関係で,不必要で不合理なものとみなし,純粋の退行的で神経症的な意味をもつものとみなしてしまう。過去において子どもたち同士の自発的なゲームの研究より一人遊びの研究の方が好まれたために,前者が無視されてしまったのと同じように,今や,青年の徒党を組んだ行動による相互的な「結びつき」は,個々の青年に対するわれわれの関心のために適切に評価され損ってしまっている。それぞれの前社会 presociety における子どもたちや青年たちは,お互いに認め合った猶予期間を提供し合い,内外の危険(おとなの世界から向けられる危険を含む)に対する自由な実態を共同して支持しあっている。特定の青年の新たに獲得された能力が幼児的な葛藤にまき込まれるかどうかは,彼が属する徒党,仲間の中で自分に利用できる概念や参加への移行を,社会が一般にどんなふうに導くか,その形式的なやり方の如何によって,かなりの程度左右される。そしてこれらのすべては,個人と社会との間の暗黙の相互的契約にその基礎をおかねばらならい。

エリク・H・エリクソン 小此木啓吾(訳編) (1982). 「自我同一性」アイデンティティとライフサイクル 誠信書房 p.155
(Erikson, E.H. (1959).Identity and the Life Cycle. New York: International Universities Press.)

両親同伴

 また大学の入学式や卒業式における両親同伴は,今や普通の光景になりつつある。有名大学になると,自学の講堂などで収容しきれないため,やむを得ず学外のホールや会館などの大規模収容施設を借りて行うケースもある。こうした状況が,大都市圏の有名大学で年々増えている。ついこの4月にも,私の知人が「娘の晴れ姿を大学で見たいと思っていたのに,入学式を大学から離れたコンサートホールでやったので,ちょっと残念だった」と苦笑いしていたことを思い出す。でもその父親はこうも言っていた。「娘の大学にはもう何ども足を運んでいるので,見たことがないわけじゃないし,今後もまた出かける機会もあるだろうから」。
 今日はこれが普通の感覚に近いのかもしれない。

中村昭典 (2009). 親子就活:親の悩み,子どものホンネ アスキー・メディアワークス pp.156-157

愛情の過剰摂取

 親が出しゃばれば子どもが引っ込む——これが世の中の道理だと思うのだが,どうなんだろうか。親の心子知らず,とは昔から言われることだが,最近はそんなことに構わず,親がどんどん積極的になっている。今の親世代といえば,とにかく親の干渉から逃れたくて,進学・就職・結婚といった節目で,親からの自立(独立?)を画策した世代のはずだ。その世代が,自分たちの子どもの世話を必死に焼き続けているというのは,どうも合点がいかない感じがする。
 親が子のことを心配するのは当然である。しかし,何かにつけて愛情を注ぐと,受ける側はそれが当然になってしまう。愛情の過剰摂取は,自分で努力する気持ちを弱体化させる危険をはらんでいる。

中村昭典 (2009). 親子就活:親の悩み,子どものホンネ アスキー・メディアワークス p.148-149

早く大人になろうとしているのだ

 若い人にときどき見られる傾向として,「俺,それ駄目」「私,それだけは許せない」というような「嫌悪の主張」がある。もともと子供ほど好奇心があって,いろいろな対象に目を向ける素直な感性を持っているはずなのに,何故,若者はこういう言動をとりやすいのだろうか?僕が思いついたのは,「若者は,年寄りの真似をすることで,早く大人になろう,大人として認めてもらおうとしている」という理屈である。年寄りほど,難しい顔で「つまらないからやめておきなさい」と言いたがる。子供から見ると,大人というのは,「それは駄目」「それは危ない」という否定指向のシンボルなのだ。だから,若者は自分にとって危険なものを早く見極めそれができたと主張することで,「豊かな経験」的なものをアピールしようとしている。自分も一人前の大人であることを無意識に主張している姿なのだ。

森博嗣 (2009). 自由をつくる 自在に生きる 集英社 p.167

思春期の夢

 夢精は思春期によく起きる。性体験がなく,とくにエロティックな夢を見ていないときでも,夢精をすることがある。ラバージによると,レム睡眠のたびにペニスは自動的に勃起するので,その刺激で射精するのだろうという。もっとも,多くの場合,夢精は性的な夢を見ているときに起きる。レム睡眠中にペニスが勃起したとき,その感覚情報が脳に伝わり,脳はそれを説明するためにエロティックな筋書きをつくるのだろうと,ラバージは説明する。つまり,生理的な反応のほうが先で,脳はそれに合わせた夢を紡ぎだしているというのだ。明晰夢の場合は,その情報の流れが逆になる。夢を見ている人が意識的にセックスをもちこむため,エロティックな内容のほうが先になるのだ。通常なら脳から信号が性器に伝わって射精が起きるが,レム睡眠中は運動神経系の指令がほとんどブロックされているため,それが伝わらず射精にはいたらない。

アンドレア・ロック 伊藤和子(訳) (2009). 脳は眠らない:夢を生み出す脳のしくみ ランダムハウス講談社 pp.244-245

平凡であることに気づけ

 だから,僕が若者に言えるのは,「今の自分は何者でもないし,平凡な人間なのだ」とまずは気がつくことが重要だということだ。本来の意味の可能性はむしろ,そう気づいたところから始まる。映画専門学校を出れば映画監督になれるかもしれないといった漠然とした幻想ではなく,本当に自分がやりたいことを見据え,そのために今自分がやるべきことは何かを見定めることから,やり直すべきなのだ。


押井 守 (2008). 凡人として生きるということ 幻冬舎 p.26

共存すること

 こうした状況の中で,クラスで本当に「こいつは信頼できるな」とか,「この子といると楽しいな」という気の合う仲間とか親友というものと出会えるということがあれば,それはじつは,すごくラッキーなことなのです。そういう友だちを作ったりで会えたりすることは当然なのではなくて,「とてもラッキーなこと」だと思っていたほうが良いことは多いような気がします。
 そういう偶然の関係の集合体の中では,当然のことですが,気の合わない人間,あまり自分が好ましいと思わない人間とも出会います。そんな時に,そういう人たちとも「並存」「共存」できることが大切なのです。
 そのためには,「気に入らない相手とも,お互い傷つけあわない形で,ともに時間と空間をとりあえず共有できる作法」を身につける以外にないのです。大人は意識的に「傷つけあわず共存することがまず大事なんだよ」と子どもたちに教えるべきです。そこを子どもたちに教育していかないと,先生方のこれからのクラス運営はますます難しくなると思います。「みんな仲良く」という理念も確かに必要かもしれませんが,「気の合わない人と並存する」作法を教えることこそ,今の現実に即して新たに求められている教育だということです。

菅野 仁 (2008). 友だち幻想 人と人の<つながり>を考える 筑摩書房 pp.69-70.


優しい関係」の維持

 現代の若者たちは,自己肯定感が脆弱なために,身近な人間からつねに承認を得ることなくして,不安定な自己を支えきれないと感じている。しかし,「優しい関係」の下では,周囲の反応をわずかでも読みまちがってしまうと,その関係自体が容易に破綻の危機にさらされる。その結果,他者からの承認を失って,自己肯定感の基盤も揺らいでしまう。だから彼らは,この「優しい関係」の維持に躍起とならざるをえない。きわめて高度で繊細な気配りが求められるこのような場の圧力が,彼らの感じる人間関係のキツさの源泉となっている。その意味で,「自分の地獄」とは,ひきこもりの青年たちだけの問題ではない。現代の若者たちに共有された一般的な問題なのである。

土井隆義 (2008). 友だち地獄 「空気を読む」世代のサバイバル 筑摩書房 pp.99-100.

「優しい関係」の規範

 そもそも,意図せずして「優しい関係」の規範に抵触してしまうのは,それだけ互いのコミュニケーションへ没入できていないことの証拠でもある。したがって,そのこと自体が,「優しい関係」の維持にとって大きな脅威とみなされる。「優しい関係」は,強迫神経症のように過同調を互いに煽り合った結果として成立しているので,コミュニケーションへ没入していない人間が一人でもいると,その関係がじつは砂上の楼閣にすぎないことを白日の下に晒してしまう。王様が裸であることに皆が気づいているが,それを指摘するようなシラけた態度を誰も示してはならない。「優しい関係」を無傷に保つためには,皆が一様にコミュニケーションへ没入していなければならないのである。
 このような意味において,昨今のいじめ問題は,誰もがコミュニケーションへ没入せざるをえない今日の人間関係のネガティブな投影でもある。昨今のマスメディアでは,コミュニケーション能力の未熟さから若者達の人間関係が希薄化し,いじめをはじめとする諸問題の背景になっているとよく批判される。しかし,このように見てくると,実態はやや異なっていることが分かる。彼らは,複雑化した今日の人間関係をスムーズに営んでいくために,彼らなりのコミュニケーション能力を駆使して絶妙な対人距離をそこに作り出している。現代の若者たちは,互いに傷つく危険を避けるためにコミュニケーションへ没入しあい,その過同調にも似た相互協力によって,人間関係をいわば儀礼的に希薄な状態に保っているのである。

土井隆義 (2008). 友だち地獄 「空気を読む」世代のサバイバル 筑摩書房 pp.46-47.

疾風怒濤

Hall(1904)の「疾風怒涛」概念:青年期は相互に矛盾する傾向のあいだを揺れ動き続ける時期であるため,若者は情動と人間関係の両面にわたって動揺を経験していると説いた。

これまでの研究から結論として示されたのは,たしかに少数の若者はストレスに満ち混乱した青年期を体験するかもしれないが,青年の多くは比較的よく適応している,ということである。青年の多くは,家族から疎外されたりせず,重大な精神病理的な障害も持たず,両親とのコミュニケーションが完全に途絶えてしまうということもなく,深刻なアイデンティティの危機を経験することもないということを研究は示したのである。

このような証拠に基づいて言えば,スタンレー・ホールが青年期は疾風怒涛の時代だとした考え方は,誤解を与えるものだと結論づけられるだろう。深刻な動揺は少数の若者によって経験されているに過ぎないからである。

J.コールマン & L.ヘンドリー 白井利明ほか訳 (2003). 青年期の本質 ミネルヴァ書房


若者の心の健康

心の健康とは,単に精神的に病気ではないという状態以上のものと考えるべきである(Wilson,1995)。このことは若者の場合にはとくに重要で,若者は心の健康の状態がそもそも幸福感によって決まり,しかも幸福感は医学的ないし認知的な要因が原因であるというよりは,対人関係がうまくいっているかとか社会的環境とかいったものでもたらされることが多い。

J.コールマン & L.ヘンドリー 白井利明ほか訳 (2003). 青年期の本質 ミネルヴァ書房


青年期の反社会的行為

Silbereisen et al.(1986)は,いわゆる「反社会的」と呼ばれているたくさんの行為は,実際のところ目的があり自己調整的であり,そして青年期の発達の諸側面に対処するためのものだと言っている。それらの行為は,少なくとも短い期間は,発達にとって建設的な役割を果たすことができる。それらの行動は象徴的(すなわち,たいていは成熟した自己イメージをつくりたくて,あるいは魅力や社交性を身につける手段だと思ってなされる)とも言えるが,若者にリスクをもたらしうる。大人と同じように,10代の若者がある行動をとるのは,通常,そうすることによって,たとえば誰かを喜ばせたり,友達から受け入れられたりといった何らかの望ましい結果が得られると信じているからである。そういうことをする時,若者は,その行動が自分たちにとってもしかすると危険かもしれないという事実を無視したり,軽視することがある。

J.コールマン & L.ヘンドリー 白井利明ほか訳 2003 青年期の本質 ミネルヴァ書房


親のモニタリング

これまでの研究では,親がモニタリングを怠ると,年ごろの子どもは犯罪や薬物使用,学業不振,避妊をしないセックスなど,さまざまなリスク行動に結びついていくことが一貫して明らかにされている。

Stattin & Kerr(1999)は,自らの実証的な研究に基づいて,それらは,親のモニタリングよりもむしろ若者の自己開示のいかんこそが問題行動に結びつく重要な変数であると提言する。つまり,それまでは親のモニタリングは,いつ何時でも年ごろの子どもの居場所を親が把握していたかどうかによって評価されてきた。しかしながら,Sttatinらは,10代が自分のしていることを開示する場合にのみ親が10代の行方を知っていることを示した。モニタリングと監督は青年の活動に関する多くの情報を得ようとして親が率先して行うものではなく,むしろ若者から親へと向かって流れるコミュニケーションによる機能なのである。



J.コールマン & L.ヘンドリー 白井利明ほか訳 (2003). 青年期の本質 ミネルヴァ書房


青年期の自己中心性

Elkind(1967)は,他者の思考を考慮することができる能力が青年期の自己中心性の基礎になると考えた。そもそも他者が考えていることと自分自身の関心とを区別することはきわめて難しい。だから若者は,自分がある考えや問題に取りつかれると,他者もそのことに関心をもっているに違いないと考えてしまうのだ。

Elkindは,具体例として,青年の容姿をあげる。概して,10代は自分が他者の目にどう見えるかを非常に気にし,他者も自分と同じくらい容姿に関心をもっていると思い込む。Elkindはこれを「想像上の観客」という概念に結びつけた。自己中心性のため,青年は現実の社会状況であれ想像上の状況であれ,他者の反応を常に予期している。しかしながら,これらの反応は,他者も自分のことを自分自身と同じくらい批判や称賛をもって見ているという前提のうえに立っている。このように,10代はたえず想像上の観客を構成し,それに向けて反応している。そしてこのことが,青年の行動の多くを説明するのである。たとえば若者の自意識とか,プライバシー願望や,服装への関心や,鏡の前で長い時間を過ごすことなどは,すべてこの「想像上の観客」という概念に関連しているのである。

青年期の自己中心性のもうひとつの重要な側面は,Elkindが「個人的寓話」と呼ぶところのものであり,たとえば感情の過剰分化がある。おそらく青年は自分が多くの人にとって非常に重要な存在だと信じているため,自分の関心や感情は非常に特殊で独自なものだと思い込むようになる。自分の個人的な惨めさや苦しみが独自なものだという信念は,もちろん文学においてはおなじみのテーマであり,Elkindはこれは若者が個人的寓話を作り上げる基礎になっていると考えた。つまり,個人的寓話は個人の自分自身についての物語であり,万能感や不死といった幻想を伴って作られる神話なのである。それは本当の話ではないが,意義のある目的のために役立つものであり,いくつかの有名な青年の日記に典型的に現れている。この種の材料を見ると,ひとは青年期の経験が普遍的な意義をもつという信念に至るが,個人的寓話が作り出されるのもこの信念からである。

Elkindは,想像上の観客と個人的寓話という青年期の自己中心性の基礎をなす2つの側面は,青年期の認知的行動を説明するのに役立つものであり,問題を抱えた青年の治療においても助けとなるという。


J.コールマン & L.ヘンドリー 白井利明ほか訳 2003 青年期の本質 ミネルヴァ書房


移行とターニングポイント

移行とターニング・ポイントという概念を結合するうえで必要な前提は,移行期が比較的普遍的な発達的挑戦によって特徴づけられるということである。すなわち」,ほとんどの人は移行期を通過していくが,この移行期では生物学的,心理学的,社会的な変化への順応の新たな様式が必要になるということである。したがって,定義からすると,移行期の文脈で起こるターニング・ポイントは,個人あるいは個人から形成する集団にとってはとくに顕著なものになるかもしれない。これらのターニング・ポイントは,往々にして行動面での変化を生じさせたり,移行期の文脈以外で生じるターニング・ポイントに比べて,より大きくて長続きする変化となるかもしれない。(Graber & Brooks-Gunn, 1966

J.コールマン & L.ヘンドリー 白井利明ほか訳 (2003). 青年期の本質 ミネルヴァ書房

思春期の自己中心性

親や高校の先生には明らかなことであるが,思春期の若者は他者からどのように見られているかに強い関心をもっており,あらゆる視線が自分に注がれている,実際に他者から見られていると完全に信じている(Elkind, 1967)。そして,「名誉挽回は無理だ」とか「いっそ死んだ方がましだ」といった非合理な考えに至ることが多い。実際,多発する思春期の自殺は,面子を失ったという思い込みが生み出す屈辱感が引き金となる(Shaffer, 1974, 1988)。自殺する可能性のある人が,面子を失ったと現実以上に思い込んでしまっている,言い換えれば,他者は自分の欠点に気がついており,よく覚えており,評価していると考え過ぎてしまっているのだとしたら,それだけスポットライト効果の研究は自殺という現代における危急な問題について語るべき重要な事柄を含んでいることになる(Garland & Zigler, 1993)。

T.ギロビッチ,J.クルーガー,& K.ザビツキー (2001). 日常生活の中の自己中心性と対人的問題 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 72-105.

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