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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「その他心理学」の記事一覧

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マズローから言うと

 さて,これを仕事に当てはめてみよう。
1 生理的欲求——普通に生活できるだけの報酬が約束されている
2 安全の欲求——3K(危険,汚い,キツい)ワークではない
3 親和(所属愛)の欲求——身分の保証があり安定している
4 自我(自尊)の欲求——世間体のいい職種である
5 自己実現の欲求——自分の能力や才能を発揮できる創造的な仕事である
 マズローの理論に従えば,「自己実現できる仕事」とは,1から4までが満たされた上で手に入るという,大層贅沢なものになる。
 いったいどれだけの人が,そんな仕事に就けているだろうか。おそらく労働者全体の1割にも満たないのではないかと思われる。3までクリアしていれば御の字で,1の条件を満たす仕事にありつくだけで精一杯,それすらままならない人も最近は少なくないだろう。
 ところが,アーティストという仕事だけは違うのだ。他の何よりも優先されるのは,5の自己実現の欲求である。
 つまり「アーティストになりたい」と思う人は,普通の人が順番に辿るとされる欲求の段階をすっとばして,いきなり5の「自己実現の欲求」に至っているわけである。マズロー博士もびっくりの欲求の飛び級。
 アーティストは,「食い扶持を稼ぐための仕事」をしている人とは違う。学歴も資格も経験も関係ない。毎日会社に行ってタイムカードを押す必要もない。上司におべんちゃら言う必要もない。営業先で頭を下げる必要もない。自分に合わない部署で苦労する必要もない。残業もない。いや「好きなこと」をやっているのだから残業大歓迎。
 自分と同じようなレベルの他人と競いながらあくせく働き,永遠に満たされないであろう5の欲求不満に悩むより,アーティストになって「自分流」に生きたほうが,よほど自尊心を満足させられそうに思えてくる。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.223-224
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知らないことで

 全知の欠如によって保証される限界は,否定的にばかり見るべきではない。誤りや不首尾は学習する過程においては大きな役割を演じている。不首尾にぶつかったときは,その状況を全体として再評価し,立てた仮定を再検討する。この点について,人工知能が人間のすることをどの程度真似できるか,まだまだ不明である。進化の途上のある段階で,人間は想像力という機能を発達させるようになった。それによって人間は,可能なこととともに不可能なことについても学習できるようになった。それによって,世界のことを理解するという能力は,格段に領域が拡大し,速度も上がった。なかでも見逃せないのが,ありえない事物を考えられるという点である。実は,たいていの人々が,ありえないことであっても,それがありうると思うだけでなく,現実のものだと信じて日々の暮らしを送っている。たいていの人は,ありえないことよりもありうることに関心がある(この姿勢はプラグマチズムと呼ばれることもある)。しかし一部の人々は,ありえないことの方に関心を向ける。だからといってそういう人々がただの観念論者であり空想家だということではない。空想による文学や芸術というのはすべからく,言語的・視覚的にありえないことによって立てられる課題に発しているのである。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.32
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

経験=編集

 人間の経験は,現実すべてについての記述を何らかの形で編集するものである(「我々はあまりにたくさんの現実には耐えられない」)。我々の感覚は,提示されている情報の量を切りつめる。目はきわめて狭い範囲の振動数の光を感じ取り,耳が感じる音の音圧と振動数はある範囲のものに限られる。我々の五感にかかる世界についての情報を何から何まですべて集めていたら,感覚器官はつぶれてしまうだろう。遺伝子の資源は乏しいので,捕食者から逃げる,あるいは食物となるものを捕らえるための情報を取ってくる量が少ない器官は犠牲にして,必要な情報を収集する器官に偏って集中することになるだろう。環境についての完全な情報というものは実物大の地図をもつようなものである。地図が役に立つとすれば,実地の中からもっとも重要な側面を簡約し,要約して封じ込めていなければならない。情報を短く圧縮しなければならないのである。脳はそうした短縮を行えるものでなければならない。またこのような簡約が,ある幅の時間や空間にわたって可能になるためには,環境の側も,それなりに単純でそれなりの秩序を示すものでなければならない。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.20-21
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

先延ばし

 人には休むことも必要だし,私はそのことに文句を言っているわけではない。それにしても物事を先へ先へと送る性向は,私たちの認知「デザイン」における根本的な欠陥を浮き彫りにしている。すなわち,目的を設定する装置(オフライン)と果たすべき目的を選ぶ装置(現在はオンライン)のあいだにギャップがあるのだ。
 後回しにしたくなる仕事は,一般に2つの条件を満たしている。それが私たちにとっても楽しくないこと,今すぐする必要がないことである。少しでも機会があれば,私たちは嫌なことを先延ばしにし,楽しいことをする。その結果,いつかは払うことになる代償については考えないことが多い。要するに,先延ばしとは将来を度外視する悪癖(現在より将来を軽んじる傾向)であり,快楽をお手軽だが当てにならない羅針盤として使うことである。
 私たちは集中力を欠き,無精を決め込み,ごまかす。人間であることは,自制心を求める生涯をかけた戦いなのだ。なぜか?進化は私たちに理にかなった目的を設定する知性を与えてくれはしたが,それを完遂する意思を授けてはくれなかったからだ。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.216-217

日常の経験は…

 「日常の経験」について私たちの常識からは考えられないようなことが,科学的な研究によって次々と明らかにされている。もし日常的な経験から推測できるとの理由から,記憶や知覚,判断,トラウマ,そのほかの人間の諸相に関する新たな研究成果が,法廷でまったく認められないとすれば,次に紹介する事例のような事態が起こりかねない。数年前に,バスから転落したある女性に対して,後にダウン症の子どもが生まれたのは転落が原因であるとして損害賠償を認めたケースがあった。ダウン症は染色体の異常が原因であり,この染色体異常は外的な怪我や衝撃では生じることはないだろう。このケースでは相反する専門家証言が提出されたのだが,「おそらく転落が原因でダウン症になったに違いない」という「日常の経験」にもとづいた陪審員の推論だけでも,このおかしな評決を導き出すのに十分だったかもしれない。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.211-212
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

一般常識と研究結果

 父親・教師事件や補強証拠のない多くの性犯罪の申し立ての核心にあるのは,子どもの頃の記憶についての科学だ。子どもの頃の記憶に関する科学的な研究は,心理学の研究領域のなかでも比較的新しい。研究の発展を促したきっかけに,このような事件が関わっているのは明らかだ。これまで本書で説明してきたように事件が相次いで起こり,そうした事件のなかには,すでに知られていた記憶に関する科学的研究で明らかになった事実と矛盾するように思われる記憶の働きが関わるものがあったからだ。子どもの頃の記憶について今日私たちが知っている知見の多くは,注意深く計画され,統計学的に妥当な実験から得られている。このような実験を計画し,得られた実験結果を解釈するためには,心理学の専門的な研究能力が必要とされる。そのため,研究結果が「一般常識」に反するものもあるが,このような場合,一般常識と研究結果のどちらが真実に近いかといえば,それは研究結果のほうだということができる。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.207
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

思い出せない虐待

 マクナリーが抑圧された記憶に関心を持ったのは,子どもの頃に性的虐待を受けPTSDを発症したサバイバーと,発症しなかったサバイバーを比較した研究を行ったことがきっかけだった。子どもの頃に性的虐待の被害にあったことのある人を募集するために,地元紙に広告をうった。応募してくれた人との面接を開始したところ,そのうちの一部の人について驚くべき発見をした。

 私が精神医学的な面接を行った時のことでした。虐待がどのようなものだったかを把握し,症状について尋ねるために,広告を見て応募してくれた人に対して,虐待の加害者は誰だったのか,虐待を受けたときどんなことがあったのか,いつ虐待を受けたのか,その他いろいろなことを尋ねました。そのたびに,応募者は「わかりません」と答えるのでした。私は少し驚きました。「広告を読み間違えたのだろうか?」と私は思いました。それで,「どうして虐待された記憶がないのに,子どもの頃に虐待された経験のある成人サバイバーの募集広告に応募したのですか?」と尋ねたのです。すると彼らは,「ええと,私は食べ過ぎたり,吐いてしまったりするんです」とか「気分が変わりやすいのですが,その理由がわからないのです」,「養父といると特に理由もないのに緊張してしまうんです」,「わけのわからない悪夢を見ます」,「性的な問題を抱えているんです。虐待のほかにどんな原因が考えられるというのですか?」,「性的虐待を受けたはずなのですが,思い出せないのです」などと答えるのでした。

 これに驚いたマクナリーは,同僚のスーザン・クランシーとともに,子どもの頃に虐待被害にあったと主張しているが記憶はない人々を研究することにした。彼らの研究は根拠の怪しい噂や迷信の代わりに,実証的なデータを提供するものであり,人々が自分の過去の出来事を強く信じ込むためにあらゆる種類の理由づけを行うこと,そしてその理由の多くは実際にはその出来事を体験したかどうかとは何ら関係がないことを示すものだった。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.154-155
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

根拠と人気

 マクナリーは次のように指摘している。「裏切られたトラウマ理論に反する証拠があり,また理論と一致する証拠は乏しい。それにも関わらず,近親姦サバイバーの多くが虐待被害について何も思い出せないのだ,と思い込んでいる心理療法家たちの間では,この理論が相変わらず人気を博している。実証的な根拠と人気の間にこれほど大きなずれがあるケースは,ほかに類を見ない」

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.147-148
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

意見の相違

 心理療法家によれば,瞑想によって生後6ヵ月の記憶を思い出せることもあるという。一方で実験心理学者によれば,2歳半以前の出来事を思い出すことは難しいという。
 このように,心理療法家と実験心理学者の見解は根本的に相容れない。これは別に驚くべきことではないだろう。そもそも科学者たちは常に論争し,そのなかから真実を見つけてきたではないか。けれど,一方の見解が,もう一方の見解よりも信頼できるものであることを示す手がかりがある。心理療法家の見解はあまりに単純で,具体的でなく,逸話的で,裏づけとなる証拠がなく,明らかに特殊な方法でデータを収集している。それに対して,本章で説明するように,実験心理学者の見解は慎重で,より詳細であり,数カ月にわたる綿密な実験や統計的分析にもとづいており,慎重な論じ方をしている。
 記憶を研究する際に問題となるのは,記憶は誰にとっても身近なものであるために,私たちは記憶について自分なりの考えを持っているということだ。だから,記憶を科学的に研究していく場合には,心理療法家のように検証されていない個人的な印象を述べるといった方法でなく,実証的な根拠にもとづいて考える必要がある。
 また,記憶は研究者にとって,客観的に扱うことが難しい対象である。自分なりの考えと一致しない見解を受け入れることが難しいからである。だからこそ,記憶を研究する者は徹底的な懐疑主義者になるべきなのだ。これに対して,心理療法家はそうである必要はない。もし,助けを求めて心理療法家のもとにやってきた患者の話を疑うようであれば,患者は逃げ出してしまうだろう。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.30-31
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

ポジティブ・シンキング

 セミナーを行うことで得られる効果は,自己啓発本などと同じで“ポジティブ・シンキング”である。本を読むよりも,強烈な体験を経て刷り込ませた方が,より強いポジティブ・シンキングが身につくというのは想像に難くない。一時期,企業の多くが自己啓発セミナーを取り入れていたのは,一種の通過儀礼と言っていいだろう。
 バンジージャンプは,元々バヌアツで通過儀礼の儀式として行われていたものだった。バンジージャンプのように,あえて荒っぽいことを課して,社会へ迎え入れるための儀式が通過儀礼だ。自己啓発セミナーは,人格を改造し,若者たちが元々持っていた甘えた部分をなくし,どこにでも躊躇なく飛び込んでいける営業マンを育てるためには最適な通過儀礼だったのだ。
 しかし,現在では自己啓発セミナーを利用する企業はほとんどなくなった。それは,自己啓発セミナーの反社会的な部分に対しての批判の声が高まったからだ。自己啓発セミナーが批判の対象へと変わっていったのは1990年頃。セミナーへの潜入記が刊行され,テレビなどのマスメディアでもその実態が伝えられるようになると,セミナーの手法がマインドコントロールや人格改造そのものであるとして問題視されるようになる。

速水健朗 (2008). 自分探しが止まらない ソフトバンク クリエイティブ pp.58-59

見るより聴くことが多い

 1965年までにルイは正直でまともだと感じた8000通の手紙を集積した。その結果もっとも興味深い点は,人は幽霊を見るより聴くことが多いという,ごく単純な事実が浮かびあがってきたことである。
 <足音>,<死んだ母が呼ぶ声>,<戸が開き閉まる音>,<トントンというノック音やラップ音>。もし幽霊が幻覚であるなら,見えるよりも聴こえることが多く,この点に関してもルイは手紙を送ってくる人々に「あなただけではありませんから」と確信を持って答えることができた。

ステイシー・ホーン ナカイサヤカ(訳) 石川幹人(監修) (2011). 超常現象を科学にした男:J.B.ラインの挑戦 紀伊國屋書店 pp.146

4つの研究領域

 ラインは研究所の目標を定め,以下,4つの主な研究領域を明らかにした。

 テレパシー —— 他人の心から情報を得る
 透視 —— 物体のような心以外のものから情報を得る
 予知 —— 未来を見る
 PK(念力) —— 心で物体を動かす

 人々の興味を集め,研究所に基金を提供してもらえるように,心霊現象などの奇妙な出来事を探求することも明らかにした。ただし「控えめに」である。「私は幽霊屋敷の研究家として有名になるのだけはごめんです」とラインはボルトンへの手紙に書いている。
 しかし幽霊やポルターガイスト,悪魔憑きを静かにさせておくことはできなかった。

ステイシー・ホーン ナカイサヤカ(訳) 石川幹人(監修) (2011). 超常現象を科学にした男:J.B.ラインの挑戦 紀伊國屋書店 pp.69-70

預言者

 選択をするということは,すなわち将来と向き合うことだ。1時間後,1年後,あるいはもっと先の世界をかい間見て,目にしたものをもとに判断を下す。その意味で,わたしたちはみな,素人の預言者だと言える。もっとも,わたしたちがよりどころとするのは,火星や金星,北斗七星などより,ずっと地球に近い要因が多いのだが。プロの預言者もやることは変わらないが,スケールがずっと大きく,やり方も巧妙だ。かれらは常識に心理学的洞察と演劇の要素を組み合わせて,未来を「見せる」ことの達人なのだ。奇妙なことに,かれらはとらえどころがないようでいて,実は物質的なようにも見える。かれらのテクニックを見破ることはできないが,手で触り,目で見て確認できる道具を多用することで,予言が科学的根拠をもとにしているという幻想を作り出しているのだ。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.317
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

選択

 訓練を積めば,多すぎる選択に振り回されることなく,選択が約束するものを有利に活かせるはずだ。選択のデータ処理上の要求と,そうでない要求の両方に対応する方法を身につけるには,まず2つのことが必要なようだ。第1に,選択に対する考えを改めること。選択が無条件の善ではないことを,肝に銘じよう。また認知能力や許容量の制約上,複雑な選択を十分に検討できないことをわきまえ,つねに最良の選択肢を探し当てられないからと言って,自分を責めないこと。第2に,専門知識を増やして,認知能力や許容量の限界を押し広げ,選択から最小限の労力で最大限の効果を引き出すことだ。
 しかし専門知識を培うことは,それなりの代償を伴う。外国語を習得するとか,好きな食べ物を見つけるといったことは,不断の生活の中でえきるが,分野によってはかなりの訓練と労力を要するものも多い。その上,チェスの盤面の記憶実験で見たように,専門知識は一定分野にしか通用しない。懸命に努力して専門知識を習得しても,関係のある分野では思ったほど活用できず,関係のない分野にいたってはまったく役に立たないということもままある。万事に精通するのは時間的にも不可能だし,たとえ精通したとしても,労力が報われるとは限らない。自分の人生において,最も汎用性が高く,重要な選択にかかわる分野,大いに楽しみながら学習と選択ができる分野に集中したほうがいい。
 では自分が精通していない分野で,賢明な選択をするにはどうするか?もちろん,精通している人の助けを借りるのだ。とは言え,具体的にどうするかという話になると,実行するのは難しい。選択肢を提供する側にとっては,経験の浅い人に適切な支援を与えつつ,経験者に敬遠されないようにするのは至難の業だ。他方,選択する側にとって難しいのは,選択肢群のどんな特性に注目すれば,より良い選択ができるのか,あるいは混乱するだけなのかを,見極めることだ。
 わたしたちは,自分の好みは自分が一番知っているのだから,最後は自分で選ぶしかない,と思い込んでいる。たとえばレストランのメニューやビデオを選ぶときのように,人によって好みが大きく分かれる場合はたしかにそうだろう。だが総じて言えば,好みは人によってそれほど変わらないことが多い。たとえば退職投資なら,最高のリターンを実現するという目標は,万人に共通する。難しいのは,どうやってその目標を達成するかだ。こんなとき一番手っ取り早いのは,専門家の助言に従うことだ。ただし選択者の側に,専門家が自分の利益を最優先してくれるという信頼があることが,大前提となる。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.251-252
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

選択の肯定性

 わたしたちには自分で選択したいという欲求があるため,選択肢がある状態を,心地よく感じる。「選択」という言葉は,いつでも肯定的な意味合いを帯びている。逆に,「選択の余地がほとんどなかった」というのは,選択肢が少ししかない窮地に立たされた不運を弁解,説明する言い方だ。選択の余地があるのが良いことなら,選択肢が多ければ多いほど良いはずだという連想が働く。幅広い選択肢には,たしかに良い面がある。だがそれでもわたしたちは混乱し,圧倒されて,お手上げ状態になるのだ。「もうわからない!選択肢が多すぎる!だれか助けてくれる人はいないの?」。挫折に負けずに,選択肢の氾濫のマイナス面をプラスに変えていく方法はあるだろうか?ありあまるほどの選択肢を前にしたとき,わたしたちの中では何が起こるのだろう?そしてその結果,どんな問題が生じるのだろう?

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.220
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

首尾一貫性のジレンマ

 首尾一貫した自分でありたいという欲求は,自分の人生をどう生きるべきかを考えるとき,ジレンマを生むことがある。一方でわたしたちは,一貫性のない行動は取りたくないし,一貫性のない人だと思われたくもない。「あなたのことがわからなくなった」と言われるとき,その言葉には,はっきりと否定的な意味合いが込められている。他人が認め,好感を寄せるようになった自我像にそぐわない行動を取れば,よくわからない人,信用できない人と思われてしまう。だがその一方で,現実世界は絶え間なく変化しているため,整合性にこだわりすぎると融通がきかなくなり,世間からずれていってしまう。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.124
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

ショーは続く

 夫婦をそもそも引き寄せたのが恋愛であっても,取り決めであっても,所帯を持ち,子どもを育て,互いにいたわり合うという日々の習慣的行為は,変わらないように思われる。それにもちろんどちらの結婚でも,幸せだと言う人もいれば,そうでない人もいる。どちらの集団も,同じような言葉を使って,自分の感情や経験を表現するかもしれない。だが人が幸せをどのように定義し,どのような基準で結婚の成功を判断するかは,親や文化から受け継いだスクリプトによって決まる。取り決め婚の場合,結婚の成功が主に義務の達成度で測られるのに対し,恋愛結婚では,2人の感情的な結びつきの強さと持続期間が,主な基準になる。このことが意識されていようがいまいが,夫婦がどのように感じ,その結果どのような行動を取るかは,理想的な結婚生活のあり方についてかれらが持っている前提に影響されるのだ。結婚の成功にまつわる1つひとつの語りに,「こうあるべき」という共通認識と,その達成度を測る独自の基準がつきまとう。そしてこうした語りは最終的に,結婚に至る道をしつらえるだけでなく,1月,1年,あるいは50年も続くかもしれない結婚生活の完全な台本を用意してくれるのだ。もちろん即興でやる人もいれば,台本を半分破り捨ててしまう人だっている。だが何が起ころうと,ショーは続けなければならないし,続いていくのだ。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.71-72
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

選択のとき

 自分のことを少し振り返ってほしい。何か選択をするとき,あなたが真っ先に考えるのは,自分が何を求めているのか,何があれば自分は幸せになるのか,ということだろうか?それとも,自分だけでなく周りの人たちにとっても,何がベストかを考えるだろうか?この一見単純な問題が,国の内外を問わず,すべての文化や個人の大きな違いの中心に潜んでいる。もちろん他人のことをまったく顧みないほど自己中心的な人はまずいないし,自分の必要や欲求にまったく頓着しないほど無私無欲な人もいない。だがこうした極端な例を除いても,それでもまだ大きな違いが存在する。わたしたちがこの両極間のどこに位置するかは,文化的背景と,わたしたちが与えられている選択の仕方に関するスクリプト,つまり一連の行動プログラムによって決まるのだ。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.54-55
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

ホワイトホール研究

 ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジのマイケル・マーモット教授が,数十年にわたって指揮している研究プロジェクト,ホワイトホール研究は,選択の自由度に対する認識が,健康に大きな影響をおよぼすことを,強力に実証する。この研究では1967年以来,イギリスの20歳から64歳の公務員男性1万人あまりを追跡調査して,さまざまな職業階層に属する公務員の健康状態を比較している。この結果,「モーレツ上司が心臓発作を起こして45歳でポックリ逝く」といった型にはまったイメージと,まったく正反対の結果が出たのである。収入の高い仕事ほどプレッシャーが大きいにもかかわらず,冠状動脈性心臓病で死亡する確率は,最も低い職業階層の公務員(ドアマンなど)が,最も高い階層の公務員の3倍も高かったのだ。
 これは1つには,低位層の公務員が高位層に比べて,喫煙率や肥満率が高く,定期的に運動する習慣がなかったせいでもある。だが喫煙,肥満,運動習慣の違いを考慮に入れても,最下層の公務員が心臓病で死ぬ確率は,まだ最上層の2倍も高かった。最も地位が高い人は収入も高く,自分の生活を思い通りにコントロールしやすいからという見方もできるが,それだけでは低位層の公務員の方が健康状態が悪いことを説明できない。社会的な基準からすれば裕福な部類に入る,2番目に高い階層の公務員(医師,弁護士,その他の専門職など)でさえ,上司に比べれば,健康リスクが著しく高かったのだ。
 そこで分かったことだが,そのような結果をもたらした主な理由は,職業階層の高さと仕事に対する自己決定権の度合いが,直接的に相関していたことにあった。上役はもちろん収入が高かったが,それより大事なことに,自分自身や部下の仕事の采配を握っていた。企業の最高経営責任者にとって,会社の利益責任を負うことは,たしかに大きなストレスになるが,それよりもその部下の,何枚あるかわからないメモをページ順に並べるといった仕事の方が,ずっとストレスが高かったのだ。仕事上の裁量の度合いが小さければ小さいほど,勤務時間中の血圧は高かった。さらに言えば,在宅中の血圧と,仕事に対する自己決定権の度合いとの間に,関係は認められなかった。つまりこのことは,勤務時間中の血圧の急上昇を引き起こした原因が,自分で仕事の内容を決められないことにあることを,はっきり示していた。仕事に対する裁量権がほとんどない人たちは,背中のコリや腰痛を訴えることが多かったほか,一般に病欠が多く,精神疾患率が高かった。これらは飼育動物によく見られる常同症の人間版であり,その結果,かれらの生活の質は著しく低下したのだ。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.33-34
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

選択

 わたしたちが「選択」と呼んでいるものは,自分自身や,自分の置かれた環境を,自分の力で変える能力のことだ。選択するためには,まず「自分の力で変えられる」という認識を持たなくてはならない。例の実験のラットが,披露が募るなか,これといって逃れる方法もないのに泳ぎ続けたのは,必死の努力を通じて手に入れた(と信じていた)自由を,前に味わったからこそだ。これに対して,自分の置かれた状況を自分でコントロールする能力を完全に奪われたイヌは,自分の無力さを思い知った。後にコントロールを取り戻しても,イヌの態度が変わらなかったのは,コントロールが取り戻されたことを認識できなかったからだ。その結果,イヌたちは事実上,無力なままだった。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.23-24
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

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