忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「その他心理学」の記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

あたりまえだと

 人が類型化を好む理由については数多くの学説があるが,わたしは共通する要因をひとつ発見した。他人も自分と同じような選択肢で考えていると思い込むのだ。他人の「利害」は,自分の「利害」とはかけ離れているのがふつうなのだが。クウェートの外交官に言わせれば,「駐車券で自分が得をするために,アメリカの制度を利用している」わけではない。「できが悪く不必要で,不適切な法律は自分の判断で無視する」という当たり前の行為をしているにすぎない。

タイラー・コーエン 高遠裕子(訳) (2009). インセンティブ:自分と世界をうまく動かす 日経BP社 pp.31-32
PR

他者の排斥

 多少思考力のある人間ならば,他者の排斥によって自分を確立しようとしたとき,どうしても,「他者も自分を排斥しようとしているのでは」と思いついてしまうだろう。悪口を言う人ほど,「きっとみんなは自分の悪口を言っている」と怯える。子供のときにはそこまで想像が巡らなかったかもしれないが,大人になれば自然にそれくらいは想像してしまうのだ。してしまうから,それによって「自分」が不安定になる。
 これは,手法が致命的欠陥を持っている,というほかない。この方法では,自分を確立することはできないだろう。極度に自分に自信(あるいは幻想)があって,自分は神だとでも思わないかぎり無理である。常に他者の目を気にして,しだいに窮地に追い込まれる。酒に逃避するなど,別の逃げ道を見つける以外になくなる。ようするに,最後は考えないようにするしかない。考えない人間というのは,はたして人間か,と疑われる存在に行き着くだろう。

森博嗣 (2011). 自分探しと楽しさについて 集英社 pp.98

欲求不満の解消

 アイドルの少女に憧れて,あんなふうに自分もなりたい,と思いついても,誰もがアイドルになれるわけではないだろう。宇宙飛行士になりたいと思っても,もう遅いという年齢の人はいるはずだ。「自分」の可能性がいかに限定されているか,ということはもう嫌というほど思い知っているのが「大人」である。しかし,だからといって,こういうときに「あいつはいいよな,恵まれていて」といくら妬んでも,なんの足しにもならない。
 人によっては,その不可能な目標を「小さく低く表現する」ことで自分の欲求不満を解消しようとする。「アイドルなんて◯◯なだけだ」というような悪口を言い,それで自分はそんなものに興味はないよ,という態度を取る。これは傍から観察していると,勝手に憧れ,勝手に諦め,勝手に妬んでいるわけだから,意味不明というより非常に滑稽な行為なのだが,本人にしてみれば自己防衛の一手段であり,意味はある。愚痴をこぼすことでストレス解消している人も同じだ。それが,その人の「自分」だし,「楽しみ」なのだから,それで良いと思う。他者に迷惑がかからない範囲ならば,問題はない。ときどき,その愚痴をみんなが聞いてくれないからと立腹し,破滅的行為に及ぶ例外的な人がいるけれど,そういう精神はそもそも例外的なレベルであって,その原因の一つを取り除いても,また別の原因で破滅へ向かう可能性が高いだろう。事件が起こるのを遅らせることはできても,根絶することは難しい。

森博嗣 (2011). 自分探しと楽しさについて 集英社 pp.74-75

幽霊とカンニング

 誰かがあの世から見ていると思うだけで,正しい行いをしようとする気になることもある。こんな例がある。コンピュータを使った試験を受けていた学生たちは,その気になればカンニングできることに気付いた。コンピュータが“誤って”時々正解を表示するのだ。実は,学生たちが表示される正解をうまいこと利用するか,それとも正直に試験を受けるか,無性に確かめたくなった実験者たちが,そうなるようにわざとプログラムしておいたのである。一部の学生たちに暗示を与えるため,アシスタントが何気なく,この試験場には以前ここで死んだ学生が取り憑いているそうだという話をした。結果,幽霊話を聞かされた学生のほうがカンニングは少なかった。私たちの罪悪感が正直さのお目付役になっていることに,まず間違いはない。罪の意識の一部は,ルールを破ったことがばれたら社会から非難されることになると信じる気持ちから生まれる。死んだ学生が試験場に取り憑いているかもしれないと信じた学生たちは,幽霊相手だろうとばれるのが怖くてカンニングを手控えたのだ。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.342-343
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

確証バイアスのせい

 見つめられている時に私たちの内に喚起される情動は,他人の視線をエネルギーの伝達として感知できるという直感的な認識をいともたやすく増強する(エネルギーが伝わるのでなければ,彼女に見つめられて,こんなふうに感じるはずはあるまい?)。そこで,他人に囲まれていて,突然落ち着かない気分になる,という状況について考えてみよう。他人の視線をエネルギーとして感知するというこの素朴な理論,落ち着かない気分を感じて,やはりそうだったと証明された場合のことはひとつ残らずすぐに思い出せるのに,間違っていた場合はいつも都合よく忘れてしまう。理論というものは得てしてそうなのだが,この理論にも,私たちがまず真実だと思ったことを裏付ける証拠を探そうとするバイアスが作用しているのだ。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.338
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

パターン検出能力のせい

 一応紹介しておくと,見えない視線を感知する能力の存在を示す有力な証拠というのを報告している研究もある。それらの研究で用いられている典型的な被注視感測定方法は,目隠しした被験者の後ろに観察者が立って,被験者をじっと見つめるか,眼を閉じているというものである。中には,被験者と観察者を別々の部屋に入れて,カメラを介して行った実験もある(ラスのエネルギー場という説明がますます怪しくなりそうな実験だ)。注視と非注視を交互に行い,実験を何度も繰り返して,正答数を統計的平均50パーセントと比較する。この50パーセントという値は,被注視感が存在しない場合に予想される値である。最も大規模な研究は,子どもたちを対象として1万8000回に及ぶ実験を行っていて,極めて有意な結果が得られたと報告している。この研究では確かに何かが検出された。被注視感の存在を証明するには,それで十分ではないか?
 言わせてもらえば,これらの研究から浮かび上がってくる最も興味深い発見のひとつは,見えない視線を感知する能力ではなく,脳が備えている驚くべきパターン検出能力である。有意な被注視感が認められたと報告している研究の大半では,注視と非注視の順序が本当にランダムにはなっていない。つまり,目隠しされた被験者たちがこのランダムではない順序の検出のしかたを学習していたというところが事実のようだ。1章で紹介した,キーボードで“1”と“0”のキーを打つ例を覚えているだろうか?人間は,自分では意識していなくても,交互のパターンを検出するようにできている。1回の試験ごとに正統をフィードバックされていてば,順序のパターンを検出することもできる。そのため,試験の成績を毎回知らせるのをやめると,検出効果が失われて,成績は偶然の範囲内に戻るのである。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.334-335
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

視線感知

 見られているという感覚は,誰もが体験したことのある,ありふれたスーパーセンスの一例だ。実を言えば,あまりによくあるため,見えない視線を感知するのは人間が普通に備えている能力だと思われていたりする。人並み以上に分別があるはずの教育を受けた大人でも,そんな能力が本当にあるなら,超自然現象だということに気付いてさえいないことが多い。だからこそ,発達期に自然発生し,やがて常識と受け止められるようになる超自然現象信奉の一例として,この見えないものにみられているという感覚を詳しく検討してみる価値がある。これは大人が子どもに教えるような通念ではないのである。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.329
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

心臓は汚染されるか

 私も最近,健康な学生たちを対象として,この種の考えについて調べてみた。20人の顔写真を用意して,外見的な魅力と知性,それに,自分が心不全で死にかけている場合のドナー候補としての好ましさを評定させたのである。まず,これだけの選考基準でドナー候補たちの顔写真をランク付けさせた。次いで,写真の半数は殺人犯で,残りはボランティアとして活動している人々であることを明かしてから,改めて,魅力,知性,ドナーとしての好ましさを評価し直させた。はたして,殺人犯のランクはすべての評価項目で低下したが,もろに影響があった評価項目はドナー候補としての好ましさだった。学生たちは殺人犯の邪悪さを,筋組織でできたただのポンプにすぎない心臓に蓄積されて伝染しうる,実体のある属性と考えたようだ。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.278
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

共感呪術の信奉

 そうした化粧品を使用する根拠はほぼ例外なく,共感呪術の信奉にある。胎盤や用水など,生命力と関連のある原料から作られている製品がごろごろしている。中国の悪名高いカプセル入り漢方薬タイ・バオ(Tai Bao)は中絶されたヒト胎児を原料にしているそうだが,市販されているカプセル入り漢方薬の大半にも粉末にした人間の胎盤が使われているらしい。原料が人間,動物のいずれに由来しているにせよ,これらの若返りの薬の宣伝文句は,軟膏を塗るか,カプセルを飲めば,老化を止められる,遅らせられる,あるいは,若返ることさえできるとうたっている。実を言えば,こうした製品に,皮膚から吸収できる有効成分を含有しているものはほとんどない。それなら直接体内に取り込めばよいと考えるわけだが,そうした養分はどれもこれも,天然の胃酸によって分解されてしまう。実のところ,ホメオパシーのレメディ同様,多くの化粧品には有効成分と言えるものは何も含まれていないので,規制当局を煩わせる手間も省けているのだ。それでもなお,たいていの人は若さのエッセンスを吸収できると信じて疑わない。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.262-263
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

本質を貶める

 人々を“ゴミ”や“害虫”呼ばわりすることは,その人間性を否定するばかりでなく,彼らを本質的に異なる者,汚れた者として扱う口実を他の者たちにも与えることになる。ツチ族の子どもが人間であることをやめて,ゴキブリになったのでもなければ,どうして隣人であるフツ族がツチ族の子どもをナタで惨殺するなどということがあり得よう?私たちが他者を受け入れようと,遠ざけようと,本質主義は私たちの行為に物理的な理由をつけて正当化する。社会的な動機による集団のための行為であるにせよ,行為者自身,自分のしていることは正しいと感じているのだ。この惨状はどこから生まれてくるのか?私たちはそれをどのようにして他者と結びつけているのだろう?
 答えは子どもたちの内で育つ本質主義と,汚染は拡散するという観念の芽生えにあると思う。そうした考えがやがて,本質を備えているはずの生き物,それも特に他の人間に対する私たちの反応のしかたを方向付けていくことは明白だ。本質を伝播可能なものと捉えれば,自分は孤立した存在ではなく,超自然的なつながりを信じることによって互いに結びついていると思える部族の一員だと考えられる。他人を,自分とは本質的に異なる存在となる属性を備えた人々と見なすようになる。こういう考え方から見るに,本質的な属性の中には,特に伝播しやすいものがあるようだ。私たちが他人に認める本質的な属性には,若さやエネルギー,美しさ,気質,強さがある。性的嗜好さえも,本質的な属性だ。しかも,これらの属性は,他の属性より伝播しやすいと考えがちだ。ここで言う他の属性は,たとえば髪の色やチェスの腕前,政治的信念であるが,どれもかなり不安定で,時とともに変化する可能性があるため,本質的ではない属性とみなされることが多い。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

何だか気持ちが悪い

 世間一般の平均的な人は,哲学や遺伝学の講座とは無縁だが,それでも,種間交雑が行われるようになるかもしれないと聞けば愕然とする。これは本質主義のためである。本質主義こそ,私たちが生物界を多様な集団に分類するうえで基盤としている考え方であるからだ。私たちは,同じカテゴリーに属するものは,その集団への帰属を定義する目に見えない属性を共有していると,直感的に考える。たとえば,犬はすべて,犬をイヌ科の動物ならしめる“犬らしさ”という本質を備えているし,猫は皆,犬とは異なる,猫をネコの仲間の一員とならしめる“ネコらしさ”という本質を有していると思っている。魚の遺伝子をマウスやジャガイモに組み込んだ科学者の話を耳にすると,眉をひそめる。とにかく,まっとうなこととは思えない。自然ではないからだ。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.231
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

世界を分類する

 生来,世界を理解しようとする私たちは,存在すると信じるありとあらゆるカテゴリーに世界を分類する。自然界に構造を探し,自然物をさまざまの集団にまとめる。そうすることで,ある集団の構成員は,別の集団のそれと比較すると,大部分の特徴を同じくしていると認識するのである。ところが,自然界の分類を進めていくうちに,どのカテゴリーにもしっくり納まらない構成員がいることに気付く。不浄な動物と奇形を持つ人間は自然物の秩序を犯すものだ。そして,その秩序は,私たちが発達期にある子どものうちに,直感的生物学の一環として築き上げるものなのである。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.220
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

本質主義

 古代ギリシャの哲学者のように,子どもたちもまた,生き物は自らを独自の生き物ならしめる特別な何かを内に宿していると推測している。生き物とは何かを定義する本質が存在し,物に生命を与える生気エネルギーが存在し,すべてが力によって結ばれていると思っている。それぞれに異なってはいるが相関しているこれらの考え方を,哲学では“本質主義”,“生気論”,そして,“ホーリズム(全体論)”と呼ぶ。ひとつひとつの考え方に絞ってみれば,いずれも私たちが科学によって生物について知り得ているところに極めて近い。どれでもよいから現代生物学の教科書をめくってみれば,こうした信念が実際,科学的に妥当なものだと分かる。たとえば,DNAはアイデンティティと独自性を生み出す生物学的メカニズムであるが,これは本質主義の核心にほかならない。あらゆる生細胞内ではグレブス回路(訳注:クエン酸回路のこと)と呼ばれる化学反応が起きていて,これがかなりの量のエネルギーを算出する。これこそ,細胞の生命を維持する重要な生命力である。[ホーリズム,すなわち]共生の理論は,生物系の相互関連性に関する研究である。生物系のつながりについては,進化論,共生生物学,さらに新しいところでは,ジェームズ・ラヴロックの生態学“ガイア”理論が取り上げている。人は——ついでに言うなら微生物も——皆,独りでは生きられない,すべてを複合系の不可欠な要素として理解しなければならない,という理論である。たいていの人はこうしたさまざまな発見や理論を知らずにいるが,DNAやクレブス回路,共生が科学の主流となるはるか以前から,人間はそれらの存在をいつの間にか直感によって,本質主義,生気論,ホーリズムとして受け止めていたのだ。しかし,そうした直感的な推論が,スーパーセンスの根幹にもなる。なぜなら,私たちは,科学的に証明されていることを超越した,本質的で,生命にかかわる,相互につながりを持った属性が世界で作用していると推測するからである。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.216-217
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

手品に感心するのは

 うまい手品を嫌いな人はいない。なぜか?誰も魔法を信じていないからだ。物が空中で消えてなくなると私たちが本気で信じていたら,奇術師が造り出す錯覚に仰天してなどいられない。マジックがうまくいくのは,私たちが世界について信じていることの裏をかくからである。マジックを観ると,私たちはびっくりして目を見張り,とまどいながらも拍手喝采して,もう一度観たいと思う。赤ちゃんたちにしても,ある程度は同じだ。一斉に拍手を贈ってアンコールと叫ぶことはできなくても,奇術師のトリックが生み出す不思議な結果を普段よりも長く凝視する。このあり得ない結果を凝視している時間を測って,考えられる結果を見ている時間と比較するだけで事足りるのだ。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.151
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

予防接種にはならない

 最新の研究と言えば,2007年にアメリカの一流大学21校の学者1646人を対象として行われた調査で,その報告によると,面接調査した物理学者,化学者および生物学者のうち,神を信じていないと回答した者の割合は10人に4人にすぎなかったそうだ。言い換えれば,大半の科学者は,幾分なりとも態度を決めかねているか,信じているということになる。この学者たちが客観的で確かな証拠に基づいた主張を要求する,実に“厳格”な科学畑の人々であることを考えると,この結果は注目に値すると思える。これはいったい,何を意味するのだろうか?簡単に言ってしまえば,優れた科学教育を施しても,信仰を捨てさせるのは不可能ということだ。一般大衆の知的水準を全米科学アカデミーや王立協会の会員レベルまで高めれば信心を捨てさせられるなど,本気で思ってはいまい?科学教育は必要不可欠であるし,すべての子どもたちに役立つはずだが,宗教ウイルスの感染を防ぐ予防接種になってくれると勘違いしてはならないということである。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.117
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

嫌悪対象の形成

 この説に一理あることは,私自身の体験からも言える。私は幼年時代によく釣りをしたのだが,餌に使うウジ虫はどちらかというと苦手だった。モゾモゾとうごめく小さな体をつまみ上げて釣り針に刺す時のうっと吐き気がこみ上げてくる感覚は,今も忘れられない。気持の良いものではなかったが,それでもできないことはなかった。数年後,このウジ虫で大変な目に遭うことになる。10歳になっていた私は,同じ年頃の少年たちがよくやるように,古い廃屋に入り込んで宝探しをするのに凝っていた。ある廃屋で,暗い部屋から部屋へと忍び歩いていた時のことである。屋内には地震の後のように物が散乱していたので,がらくたや家具の残骸,の隙間に足の踏み場を探しながらそろそろと進んでいた。真っ暗な奥の部屋に入ると,かすかなざわめきというか,ブーンというような音が耳に飛び込んできたが,音の出所は分からない。そこで,小さなふわふわのクッションのように見える物の方へと足を踏み出した。実はそれが,死んだ猫の膨れあがった死体だったのだ。体重をかけてしまった足の下で,死体はライス・プディングを詰め込んだ風船のようにポンとはじけた。何が起きたのか理解できずにいるうちに,腐臭がパンチのように鼻先で炸裂して,喉に塊がこみ上げ,吐きそうになった。腐肉の悪臭が地球上でもっとも不快なもののひとつであることは誰もが認めるところだ。死体の肉をあさる獣やハエはいざ知らず,人間には生まれたときから刷り込まれている反応である。破れ窓から差し込んでいる一条の光を足にかざした時,私の目は,ウジが塊になってうごめいているスニーカーの惨状にくぎ付けになった。絶叫しながら日の光の中に転げ出て,結局は裸足で家に帰った。その日以来,私はウジ虫恐怖症である。ウジ虫を見かけるたびに,抑えがたい強烈な吐き気に襲われる。視聴者に一言の断りもなく,身をくねらせるウジ虫のショットを映画やドキュメンタリーに挿入して喜んでいるような映画監督には憎悪さえ覚える。ウジ虫たちが目指す究極の生き物であるハエについては,これを抹殺することに無上の喜びを感じる。カルマも仏教もくそ食らえだ。生まれ変わってハエになるくらいなら,叩きつぶされるほうがマシだと思っている。もうひとつ,間違っても私には,デザートにライス・プディングを出さないでほしい。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.102-103
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

クモ恐怖症

 恐怖症は,潜在的な脅威の源の実態からするとまったく大げさすぎる,不合理な恐怖と思い込みである。たとえば,イギリスには毒グモは生息していないのに,イギリス人が恐怖症の対象として真っ先に挙げるのが毒グモだ。大勢の奥様がた同様,キムもクモを家から追い出す役目を私に仰せつける。問答無用である。私たち夫婦には,やはり田舎暮らしをしている友人がいるのだが,彼女の場合,夫が不在の時は,わざわざ遠くの害虫駆除業者に金を払ってクモ退治に来てもらうそうだ。2005年,ロンドン動物学会が成人1000人を対象として調査を行ったところ,10人に8人がクモに対するいわれなき恐怖,クモ恐怖症を抱えていると回答した。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.100
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

迷信を信じる事で

 迷信的な儀式を陰で操っている思い込みは超自然現象信奉かもしれないが,ひとつ,興味深い点がある。迷信的儀式の効果で,不確実性に起因するストレスが確かに減少するのだ。験担ぎの儀式はコントロール感を生む。まあ,そこまではいかないにしろ,実際にコントロールできていなくても,コントロールできると信じる気持ちをもたらす。コントロールの錯覚は,危害に対する免疫を生み出す実に強力なメカニズムだ。とりわけ,危害が予測不能である場合の効果のほどは絶大である。私たちはランダムに考えるのが苦手なうえに,前触れもなくひどい目に遭うのを嫌う。早く済んで欲しい,できるならすぐにでも片付けてしまいたいと,ひたすら願う。私は少年時代をスコットランドで過ごしたのだが,校庭でケンカをして“ムチ打ち”の罰を受けることになり,校長室の外に座って待っていたことがあるのを覚えている。思えば,外国訛りのせいで,浮いた存在になっていたのだろう。あの年頃になるともうブギーマンなど怖がらないので,体罰こそ最良の抑止力と考えられていたのだ。ムチは手のひらを叩くように特別設計された,野蛮な革ベルトだった——今では禁止されている習慣である。しかし,耐え難かったのは,ムチで打たれる痛みではなく,むしろ待つことと無力感だった。自分の置かれた状況をコントロールできなかったからである。電気ショックを使う痛覚閾値,つまり痛みに耐えうる限界に関する研究では,いつでもこの処罰をやめてもらえると思っている者は,それができないと思っている者に比べて,はるかに強い電気ショックに耐えられることが分かっている。何かをすること,あるいは,何かをできると信じることで,不快なことが耐えやすくなる。行動を封じられること自体が心理的苦痛なのである。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.51-52
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

スポーツ選手の験担ぎ

 スポーツ選手の験担ぎは有名だ。験担ぎの始まりは,たいてい,誰でも持っているような何でもない習慣なのだが,それが重大な結果(試合に勝つのもそのひとつだ)と結びつくと,人生を乗っ取ってしまいかねない。手の込んだ験担ぎをすることでは誰にも負けないというか,とにかくバカ正直なまでに公然と験担ぎをしていたのは,一流テニス・プレイヤーのエレナ・ドキッチだろう。第1に,彼女はコートの白いラインを踏まなかった(ジョン・マッケンローと同じだ)。審判の左側に座りたがった。ファースト・サーブの前には5回,セカンド・サーブの前には2回,ボールをついた。相手のサーブを待つ間に,自分の右手にふっと息を吹きかけた。ボール・ボーイ,ボール・ガールは,彼女にボールを渡す時は,アンダースローで投げなければならなかった。ドローシートは一度に一通り目を通したら二度と見ないと決めていた。極めつけは,スポーツ雑学コレクターにお勧めのネタ。彼女はトーナメントの間中,同じウェアを着続けた。臭っ!

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.47-48
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

原因はいっぱいある

 超自然現象の信奉者に言わせれば,超自然現象の例はいくらでもあるし,納得できるものばかりなのに,まるで取り合おうとしないのは現実から目を背ける行為だ,ということになる。しかし,超自然現象の例は,本当にそれほどたくさんあるのだろうか?最大の問題のひとつは,私たちが摩訶不思議な事柄の発生確率の推定をとにかく苦手にしていることにある。飛行機墜落事故による死亡といった実にまれな事象の確率は,とかく過大に評価する。その一方で,実際にはよくある事象の確率は過小評価しがちだ。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.30
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]