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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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人間中心に

 もちろん,これはみな人間から見た知能の尺度だ。私たちはどうしてもほかの動物の脳を人間中心に考えてしまう。しかし鳥にも人間の知力のおよばない世界があり,それをただ本能や生得の能力で片づけることはできない。


 鳥は遠くから近づいてくる嵐をどのような知能によって知るのだろう?何千キロも離れた,行ったこともない場所へのコースをどう見つけるのか?ほかの動物の複雑な鳴き声をいかにして正確に真似るのだろう?約100~1000平方キロ近くの土地に数千粒の種を隠しておき,どのようにして半年先までその場所を覚えているのだろう(鳥が私たちの知能検査に合格しないように,私もこの種の知能検査には見事に不合格になるだろう)?



ジェニファー・アッカーマン 鍛原多惠子(訳) (2018). 鳥!驚異の知能:道具をつくり,心を読み,確立を理解する 講談社 pp. 19-20


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現在バイアス

 1年後に1万円をもらうか,1年と1週間後に1万100円をもらうか,という選択なら,多くの人は1年と1週間後にお金をもらうことを選ぶ。しかし,今日1万円もらうか,1週間後に1万100円をもらうか,という選択なら今日の1万円を選ぶ。どちらも同じ1週間あたり1パーセントという高金利であるにもかかわらず,今のことになると忍耐力が低下するのだ。健康を考えてダイエットや禁煙を来週からするという計画を立てることはできても,来週になると,その計画を先延ばししてしまうというのも現在バイアスの例である。



大竹文雄 (2017). 競争社会の歩き方 中央公論新社 pp. 187


きょうだいと競争

 迷路の問題を135人の高校生に,計算問題(2桁の数字の足し算)を232人の大学生に解いてもらって,競争的報酬制度を選択する程度が,性別や兄弟姉妹の構成で異なるかを検証した。まず,性別については,男性の方が女性よりも競争的な報酬制度を選ぶ傾向が高いことが明らかにされた。これは,多くの先進国で共通に観察されることだ。


 興味深いのは,兄弟姉妹の構成の影響である。高校生のサンプルでも大学生のサンプルでも,姉をもった男性は,他の男性よりも競争的報酬を好まないことが明らかになった。また,高校生のサンプルでは,弟をもった女性は,競争的報酬を他の女性より好む傾向が見られた。さらに,大学生のサンプルでは,姉をもった女性が他の女性よりも競争的報酬を好むという傾向が観察された。



大竹文雄 (2017). 競争社会の歩き方 中央公論新社 pp. 149


反競争主義と競争の激化

 つまり,「学力差を生まれながらの素質の違いとは見なさず,生得的能力においては決定的ともいえる差異がないという能力観,平等観を基礎としている」のだ。「このように能力=素質決定論を否定する能力=平等主義は,結果として努力主義を広め,『生まれ』によらずにだれにも教育において成功できるチャンスが与えられていることを強調した。……だれでも,努力すれば,教育を通じて成功を得られる。だからこそ,だれにでも同じ教育を与えるように求める。その結果,より多くの人びとが同じ教育の土俵の上で競争を繰り広げることになった。教育における競争を否定する一方で,皮肉にも,能力主義教育を批判する議論が,教育における競争に人びとを先導する役割を果たしたのだ」と,苅谷は,平等主義で反競争的な教育が,逆に,教育における競争を激化させたという皮肉な結果をもたらしたと指摘している。



大竹文雄 (2017). 競争社会の歩き方 中央公論新社 pp. 144


高齢者と金融リスク

 高齢者は,金融資産選択においてあまりリスクをとらない。そう言われると当然だと思う人が多いだろう。若い頃なら,ある程度リスクのある資産を保有していても,長期間の資産保有を考えれば,資産価格の変動はならされる。ところが,資産の保有期間が短い高齢者がリスクの高い金融資産を保有すると,資産価格変動の影響を大きく受ける。そういう意味では,高齢化が進むと,人々の保有資産は安全資産に偏り,リスクのある投資に対する資金が供給されにくくなる可能性がある。金融資産の選択において,リスクをとる程度が高齢者ほど低くなることを示した研究がある。その研究によれば,高齢者が金融リスクをとらなくなるのは,年齢が高くなって余命が短くなることではなくて,記憶力や数的能力などの認知能力が衰えてくるためだという。



大竹文雄 (2017). 競争社会の歩き方 中央公論新社 pp. 111-112


損が嫌い

 コインを投げて表が出たら2万円,裏が出たら何ももらえないというギャンブルか,確実に1万円もらうという選択肢があれば,多くの人は確実に1万円もらう方を選ぶ。しかし,最初に2万円もらっておいて,コインの裏が出たら2万円を返却し,表が出たら返却しなくてもよい,というギャンブルか,確実に1万円支払うという選択であれば,多くの人はコイン投げに挑戦する。2万円をもらう前から考えれば,最初の選択問題と後の選択問題は全く同じであるにもかかわらず,2万円をもらった状態が参照点になってしまうと,損失を確定することを嫌ってギャンブルしてしまうのだ。


 損を嫌うということは,危険なことをしてでも,努力して参照点にしがみつきたいという行動を私たちに起こさせる。これが行動経済学で損失回避として知られていることである。



大竹文雄 (2017). 競争社会の歩き方 中央公論新社 pp. 102


リスクテイクの個人差

 リスクをとる態度は,人によって大きく違う。非常に安全志向の人と,とてもリスクが大きなことにチャレンジする人がいるのは事実だ。事業に失敗するリスクを負って起業する人もいれば,失業のリスクが少ない公務員になる人もいる。スカイダイビングのような危険なスポーツを楽しむ人もいれば,そうでない人もいる。リスクを嫌う人は宇宙飛行士になりたいとは思わないだろう。資産のすべてを定期預金にしている人もいれば,多くを株式に投資している人もいる。こうした差には,生まれつきの性格の違いも影響しているかもしれない。



大竹文雄 (2017). 競争社会の歩き方 中央公論新社 pp. 88


リスクに対する認識

 私たちのリスクに対する認識は,そもそも「合理的」なものではない。めったに発生しないリスクを過大に認識し,ほぼ確実に発生するリスクを過小に認識するという特性があることは,行動経済学でプロスペクト理論としてよく知られている。だからこそ,滅多に当たらない上に平均的にも損をすることがわかっている「宝くじ」を買う人が多い。本人は当たると思っているという意味で,リスク(落選確率)を過小に,当選確実を過大に認識しているのである。



大竹文雄 (2017). 競争社会の歩き方 中央公論新社 pp. 85


怒りと意思決定

 感情が私たちの意思決定に与える影響についての多くの研究結果をまとめたアメリカ国立衛生研究所(NIH)のフェラーらの論文に基づいて,怒りと意思決定の関係を紹介してみよう。怒ってしまうと,私たちは,不確実なことでもより確実に生じるように感じ,周囲のことを自分で統制できるように感じるという。未知の危険や恐ろしい危険をあまり感じなくなり,その結果,リスクのあるものでも受け入れるようになるのだ。また,問題の責任が他人にあるように感じる傾向があるともいう。


 対照的なのは,恐怖の感情であり,不確実性を大きく感じ,自分で統制している感覚が減少する。そのため,リスクに対して回避的な行動をとりやすくなる。一方で,直感的な意思決定よりも論理的意思決定を用いる傾向が強くなるという。


 関連した感情として,悲しみを感じると,自分で統制できる感覚を減らすうえ,利益志向的になり短絡的視野をもつようになる。また,他人を信頼しなくなり他者との協力も減ってしまうという。



大竹文雄 (2017). 競争社会の歩き方 中央公論新社 pp. 68


public companyの意味

この議論を読んで,私が思い出したのは,アメリカ英語でpublic companyというのは上場企業,すなわち株式が公開されている株式会社のことをいうということである。よく大学生が,public companyを間違って公共企業と訳すことがある。確かに,イギリス英語では国有企業のことをいうようだが,国有企業も上場企業も,誰か特定の個人だけがもっているものではない,という点で英米の人にとってはある程度共通した認識なのだろう。しかし,日本語だと国有というのは,国という別の主体がもっているのであって,自分たちのものではない,という感じがする。



大竹文雄 (2017). 競争社会の歩き方 中央公論新社 pp. 48


勝者の呪い

 もっとも高い値段をつけた人が買っているのだから,転売しようとすれば,必ずそれより低い値段しかつかないはずだ。これが,オークションでいう「勝者の呪い」である。「勝者の呪い」というのは,オークションで落札できる人は,その品物の価値を過大に評価した人だから,必ず損をするというものだ。もちろん,オークションで手に入れた品物を転売する気がなければ「勝者の呪い」は発生しない。他人よりも高い私的価値を自分がもっていたとしても,それは自分が損をすることにならない。ところが,転売して儲けるとか,その品物を使って儲けようという場合には,損失を被るという意味で「勝者の呪い」にかかってしまう。プロ野球選手がどの球団とも選手契約できるフリーエージェントになった場合,複数の球団のなかで一番高い年俸や移籍金をオファーしたところが選手を獲得する。しかし,しばしばその選手の活躍は期待はずれということになりがちだ。



大竹文雄 (2017). 競争社会の歩き方 中央公論新社 pp. 38-39


民主主義

 こうなると,多数決原理によって運営される民主主義は,個人意識,社会意識,階層意識の微妙なバランスのうえにある。それぞれがあくことない要求をひっこめ,お互いに妥協することが肝要である。個人意識はフィクションとしての自由,平等に満足する。社会意識は,全員一致の強制にまですすまないで,多数決の線に停止する。階層意識は,少数良識派の権利をあるていどみとめさせることで安心する。民主主義の機能が完全に麻痺するのは,このようなバランスがくずれたときである。いずれにせよ,伝統思想との妥協がなければ,民主主義は幻影のままで,ついにヨーロッパに定着できなかったであろうことは,たしかである。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 167


自己主張が原動力

 したがって,欧米諸国における個人意識のすさまじさには,ただただ,あきれはてるほかはない。「教育をうけない権利」,「予防接種を拒否する権利」,「強盗を殺す権利」など,どれをとってみても,そうである。日本では,しばしば,自由と放縦はちがうとか,自由には責任をともなうとかいわれるが,自由がはじめにでてきたのは,もともと,そんななまやさしい,きれいごとの議論からではない。あくことのない自己主張がほんとうに原動力なのである。


 考えてみれば,これだけの解放へのエネルギーが,ながいあいだ,生きるために止むをえないとはい,伝統的な階層意識や社会意識によくおさえつけられてきたものである。ヨーロッパの近代は,伝統思想の動揺しはじめたのをきっかけに,つもる恨みが一気に奔流したような感じで出発している。血なまぐさい革命さわぎが何回もおこるのは,あたりまえであろう。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 160-161


先祖崇拝=水田

 日本にも,ヨーロッパの村落共同体に似たものはあった。しかし,そこでは,個々の農家の独立性ははるかに高い。水田の場合は,地力を落とさないためには,休耕どころか,逆に,毎年連作する方が望ましい。そうしないと,雑草が繁茂して,水田はたちまち荒廃する。だから,水田の安定度は高く,はやくから個別占取の対象であった。比較的高い穀物生産力水準が維持できたのは,第一次的には,むかしから耕作を欠かさずにきた「ご先祖さま」の努力のおかげである。村落共同体は,水利灌漑,共同林野の利用など,いわば第二次的関係において,個別的な農民経営に介入するにすぎない。日本で家族意識や祖先崇拝が根づよく温存されたのは,一つには,そのせいではなかろうか。


 これに対して,もともと耕地の不安定なヨーロッパでは,日本とちがって,「これこそ先祖伝来の田畑」といった観念は,なかなかでてこない。そこでは,毎年穀物生産のつづけられることをだれかに感謝しなければならないとすれば,その相手は死んでしまった過去の祖先ではない。現在すぐ近くに居住し,たえず接触している村の仲間であった。「死んだ祖先」より「生きている村の仲間」の方がはるかにだいじであった。だから,ヨーロッパ人は,なかなか,日本人の「祖先との一体感」や「祖先崇拝」を理解できない。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 127-128


労働組合の形態

 たとえば,労働組合のあり方がそうである。現在では,労働組合の組織率自体は,日本と欧米諸国のあいだに大差はない。けれども,組合の形態や構成はずいぶんちがう。日本の労働組合は,ほとんどすべて,企業もしくは会社単位に結成される企業別組合である。特定の企業なり会社なりの従業員であることが組合加入の要件で,なにかの都合から企業や会社を退職すれば,同時に組合員ではなくなる。従業員イコール組合員である。


 このようなものは,欧米の概念からすれば,いわゆる「御用組合」で,ほんとうの労働組合ではない。欧米諸国の労働組合は,原則として,同職の労働者や同じ産業に所属するものの横断組織で,ある組合員がどの企業のどの会社の従業員であるかは,さしあたり問題でない。反対に,同じ企業,同じ会社につとめていても,職種がちがえば,別の組合に属している例はいくつもある。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 104


身分と学校の区別

 日本で義務教育といえば,金持の子も貧乏人の子も,同じ小学校に通うことだと理解されやすい。やがては上級学校にすすんで社会の指導者になる人物も,初等教育の段階では,かならず貧しい家の子と机をならべることを強制された。明治時代からそうである。


 ヨーロッパでは,とてもこのようにはいかない。上級学校(大学)にすすむ上層階級の子弟とそうでないものとは,はじめから別扱いであった。日本の高等学校にあたるパブリック・スクール(イギリス),リセ(フランス),ギムナジウム(ドイツ)などが小学校課程をもち,上層階級の子弟はそこに収容された。だから,ヨーロッパの義務教育では,もともと,これらの連中は勘定にはいっていない。義務教育とは,本来,ほっておけば文盲のまま一生を終わりかねない下層階級のために,無償の初等教育機関をつくってやり,そこに就学を強制することであった。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 101


断絶と連続

 こうなると,日本とヨーロッパの支配階級のあり方がちがうのは,根源的には,強烈な断絶論理があるかないかである。断絶論理のない日本では,支配・被支配関係はあまりはっきりしない。支配者とも被支配者ともつかないものが大量に存在し,そのような連中までが支配階級に格付けされる。いいかえれば,支配階級と非支配階級は,なだらかな曲線によって相互に移行するのである。


 これに対して,動物,非ヨーロッパ人,ユダヤ人を順次疎外していくヨーロッパの強烈な断然論理が,さいごに「ほんとうの人間」として残すのは,ごく少数の支配階級だけである。支配者と被支配者ははっきりした一線によって劃され,どちらともつかないあいまいな存在はない。支配階級はあくまで孤高の特権階級で,必要もないのに,ほかの連中をよせつけたりはしない。


 このことは,支配者の理想像を比較すれば,いちだんとあきらかになる。過去の日本で名君とたたえられた人物は,ほとんど例外なしに,質素な生活の実践者である。倹約であることを支配者の資質にかかげる政治論も多い。実際にはぜいたくのかぎりをつくした支配者も大勢いるが,そのような人物はけっして理想化されたりはしなかった。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 91-92


逆方向

 日本でも,もちろん,結婚にかんする親等制限はあった。しかし,伝統的にかなりゆるやかで,過去にさかのぼるほどそうである。神話時代には兄弟・姉妹の結婚の例があるし,鎌倉時代まで,異父母の兄弟・姉妹の結婚は可能であった。江戸時代になって,ようやく,「オジと姪」,「オバと甥」の結婚が禁止され,また養親子,婚姻関係も血縁関係に準じて扱われるようになった。


 これに対して,ヨーロッパの親等制限は,単にきびしいだけでなく,歴史的にみると,ちょうど日本の逆である。古い時代になるほどうるさくなる。9世紀から12世紀のころまでは,日本民法のやり方で計算すれば,14親等の間柄まで結婚できなかった。13世紀になって,やっと禁止範囲が8親等以内に縮小した。現在のカトリック教会法ではそれがさらにゆるやかになり,直系全部と6親等内の傍系血族,4親等内の傍系姻族だけが禁止の対象である(カトリック教会の親等計算方法は特殊なので,一般的な形で正確に日本民法にあわせることはできない。以上の親等数は,すべて概数である)。それでも,このゆるくなった現在さえ,日本よりはきつい。たとえば,従兄弟・従姉妹同志は,原則として結婚できないことになっている。


 現在のことはさておき,過去の14親等あるいは8親等という制限は,一口にいえばなんでもないようでも,実際はたいへんなことである。社会移動がすくなく,かぎられた地域から配偶者をえらばなければならない時代のことで,うっかりしていれば,たちまち制限にひっかかる。なにも知らないで結婚したところ,あとでその結婚が無効だとわかるような場合もおこりかねない。また,離婚したいと思って,相手の近親関係を綿密にしらべなおしたところ,首尾よく親等制限にかかった,という悪意ある場合も十分に予想できる。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 75-76


残酷の意味

 このような相違は,「残酷」という言葉の意味・内容が,日本人とヨーロッパ人とではまるでちがうからである。動物愛護というと,日本人は,ともすれば,動物を人間と同じように扱い,動物を絶対に殺さないことだ,と考えやすい。なかには菜食主義を動物愛護の極致だと主張したりする人もたくさんある。


 欧米諸国の動物愛護運動は,そうではない。そこでは動物を殺すこと自体はけっして残酷ではない。残酷なのは不必要な苦痛をあたえることである。たとえば,「国際動物愛護協会」(ISPA)の設立趣意書には,つぎのような一節がある。


 老齢,疾病,無能その他で役にたたなくなった家畜を遺棄してはならない。獣医のてきとうな治療にまかせるべきである。そして,休息の場を与えるか,それができなければ安楽死さすべきである。


 事実,ヨーロッパ人なら,飼犬などの面倒をみきれなくなると,あっさりと殺してしまう。しかし,日本人はちがう。殺すのは残酷だと考え,だれかが拾ってくれるのをあてにして,生かしたまま捨てる。その結果は野犬の増加である。ヨーロッパ人にはこれがわからないという。かれらにとって,飼犬を野犬にするぐらい残酷なことはないのである。ちなみに,欧米諸国の動物愛護団体は,動物を安楽死さすための獣医をかかえているのがふつうである。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 55-56


主従はない

 日本は無畜農業,ヨーロッパは有畜農業とする比較のやり方も,かならずしも実情を十分に説明するものではない。こうしたとらえ方は,日本人の立場では,ともすれば,穀物生産を農業の主体と考え,それが無畜であるか有畜であるかを論じることになりやすい。ところが,ヨーロッパでは。家畜飼育と穀物栽培のどちらが主で,どちらが従であるか,そう簡単には決められない。主食と副食の区別がないのと同じように,両者はむしろ対等関係にある。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 43-44


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